学位論文要旨



No 116025
著者(漢字)
著者(英字) Garcia,M Emilio
著者(カナ) ガルシア,モンティエル エミリオ
標題(和) 銀座復元
標題(洋) Reconstructing Ginza
報告番号 116025
報告番号 甲16025
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4862号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 加藤,道夫
内容要旨 要旨を表示する

 初めに / 序

 本論文では、銀座の象徴的な意味という現象に対して、どのように象徴として銀座ができたか、その象徴的な意味がどの程度まで分析出来るか、について論じる。期間は、関東大震災から戦争の初めまでである。「銀座を復元する」の意味は、空間的な復興のなかで「象徴を築く」ということである。本論文は銀座を網羅的に扱うのではなく、三つの基本となる話題を通して論じる。その話題とは、(1)数寄屋橋と銀座四丁目交差点、(2)銀座のプライド、(3)銀ブラ・モガと政治権力的な象徴としての銀座とその関係である。

 東京復興期の銀座についての一般の資料には、銀座は「東京の中心」「日本の中心」として、また、銀座四丁目交差点は「銀座の中心」「東京の中心」として、よく描かれている。それに、数寄屋橋コンプレッスも銀座に属している空間として銀座四丁目交差点と一緒に一番描写されたノードであった。その二つのノードのしるされた空間的な意味と象徴的な意味とは何か、という疑問に対して本論では一定の解答を提示する。プライドも、銀座についての資料と記録には、暗黙にであれ明白にであれ、よく書かれている概念である。明治10年代から昭和初期ごろまで、ただ60年間ぐらいのなかで、強い「銀座のプライド」ができて、そのプライドの「糸口」をどの程度までよめるか。そして、銀ブラ、モガ、モボ は 昭和初期の銀座のシンボルになったが、消費のシンボルもなった。銀ブラ、モガ、モボの描写によって銀座は盛り場とともに「夢のホーム」をよむことが出来る。その「夢のホーム」を近代めシンボルとともに権力のシンボルもよめるか。この三つの話題はお互いに補足する。このように、本論文の提案は銀座の象徴的な意味は、いろいろのレベルで交流「negotiation」であって、合法的「legitimate」空間として、ただ 第一モダン繁華街、盛り場、空間だけではなく、それとともに権力の象徴にもなったということである。 昭和初期の「leisure」の空間としての銀座と政治権力、またナショナリズム、とその関係という話題は、銀座に関する資料ではあまりない。本論文の話題の分析には、基本的に、陣内秀信と吉見俊哉の「text」としての東京の空間という方法を用いた。,藤森照信、初田亨、野口孝一の作品も大切な資料であった。そして銀座においての一般向けに出版された本も併せて分析した。

 第一章では東京復興後の銀座の地形の変貌示す。具体的に、境界と地名に関して、修復された、新しく建設された橋と、銀座区域の町の変化を指摘する。橋の場合は、いくつかの資料にある銀座の橋のデータをまとめた。両方のテーマは地形と地名のレベルで、銀座の島であること「insularity」という「根性」と銀座区域の「unit」という「気質」を見せるので、次の章と関係がある。

 第二章では、数寄屋橋コンプレッスと銀座四丁目交差点を分析する。数寄屋橋コンプレッスの場合は、近代的空間の文脈のなかで江戸の伝統的な様相との関係とランドマーク建物の特色と象徴的な機能を検討する。水を中心とした数寄屋橋コンプレッスは空間・建築的に近代のさまざまな傾向をあらわしている。日劇と邦楽座の曲線のファーサドはラジアルパタンの影響を受けて、朝日新聞ビルは表現主義の代表建物になって、そして、泰明小学校一数寄屋橋公園コンプレッスは東京復興の代表となった。その空間的な特色は「scenic beauty」ランドスケープになった。しかし、そのうえに、銀座のために、各様相は独自の象徴的な意味がある。朝日新聞は明治の銀座の「新聞街」という機能のリンクであって、銀座の空間、”銀座てきなるもの”を出現するのにメディアの大切な役割のシンボルであった。朝日新聞と同様に泰明小学校もインテリの銀座のシンボル(島崎藤村、北村透谷)であって、教育の機能施設なので、数寄屋橋の「leisure」空間にほかの特性をくわえた。日劇と邦楽座は新しい有楽町娯楽センターに属したが、ヴィスアールてきに 日劇と邦楽座は銀座の心理的空間になって、関東大震災まで 娯楽のリーダー浅草のイメージに対してモダン娯楽センターの代表建物として、娯楽と銀座での消費のリンクの意味があった。このように、数寄屋橋コンプレッスは、銀座の客と消費者になった丸の内の中級サラリーマンのための「橋」と、山の手と下町の銀座の差異をけっきょく消した「橋」といえるのではないだろうか。

 「水の空間」「境界の空間」の数寄屋橋に対して、銀座四丁目交差点は「陸地の空間」「中心の空間」であった。数寄屋橋と同様に交通のための大切なノードであったが、「scenic beauty」のランドスケープではなかった。服部時計店の建物は銀座の象徴的な建物だが、銀座の「セイコウ」の象徴もある。”銀座の角”とよばれた交差点は数寄屋橋コンプレッスより「消費」と関係があった。基本的に、その消費は近代機能だけではなく、大衆文化に関する機能であった:デパート、カフェ、ビールホール。デパートの家族に関する消費に対して、カフェ(カフェライオン)は新しい女給を「創造」してエロスの消費のシンボルであった。カフェは銀座で生まれて、銀座の「機能」であった。しかし、三越は江戸の日本橋で生まれたので、銀座四丁目交差点に江戸の商売中心の空間の意味を入れたと思われる。この場合は前近代の強力な会社と近代象徴的な空間の交流であった。服部時計店(と服部時計台)の象徴的な意味には、交差点の近代消費も含まれた。このように数寄屋橋コンプレッスと銀座四丁目交差点の象徴的な意味の出演では、空間と建築的な特色 と近代機能と消費との交流だと思われる。

 第三章では、銀座区域のいくつかの対象とおして銀座のプライドを分析する。関東大震災直後に銀座区域の各町の代表は全体の銀座の区域は「銀座」また、「大銀座」という地名をつけるようとした。その意見の理由として、銀座=中心、銀座=unity、銀座=帝都のプライド、銀座=帝都の第一経済的な空間、銀座=外国のための日本のイメージ、などの説明があった。その説明とおして銀座の中心、裏通り、西洋の「解読」の過程、機能、「懐かしい」という話題を分析する。この分析のなかでの基本的なポイントは、「銀座」という地名をつける目的は銀座のunityを見せるより、商売の成功のために「銀座」という地名の象徴的な意味を得るという目的だった。このために銀座の意味を昇華された。普通に銀座のプライドを”本物を売る”という表現で示す。明治の銀座街は一般の繁華街より専門店街であった。専門店街という意味は外国、西洋から輸入された「文化品」であった。しかし、文化品という意味は、高級であった。もっとも近代的な空間に文化品を見せるので銀座街は「公共空間での博覧会」になって、「夢のホーム」もなった。さらに、西洋は明治官僚(薩長土肥)の象徴になったので、誕生の時から銀座区域は政治権力に合法的「legitimated」空間である。しかし、その合法的空間は近代銀座通りだけではなく、裏通り、金春町芸者区域(弟二等煉瓦地)もあった。明治官僚は新橋花町(”親柳橋”)を支えだけではなく、新橋花町の客にもなった。明治官僚は、近代的な雰囲気をもつ銀座に前近代的な娯楽をもってくることを拒絶しなかった。(日本橋柳橋一新橋花町)ということで、銀座のプライドの起源は政治権力に合法とされた空間と直接な関係があると思われる。

 第四章では二つのテーマを分析する:銀ブラとモガと政治権力のシンボルとしての銀座。銀ブラとflaneurを比較して、復興のころの「夢のホーム」として銀座を分析する。銀ブラとモガは、カフェ、デパート、表通り、ショーウインドーの「舞台」と違って、銀座を消費することの「俳優」であった。銀座ブラにおいて、ブラブラすることではなく、インテリと関係がある銀ブラもいたから、銀座は、記事、記憶 などを書いてから、銀座の俳優とともに銀座を「つくる」人々であった。モガは、同時に、ショーウインドーを見て、ショーウインドーのファションを着た。だが、モガはモダンガールの全体の意味と違って、beautyを見せる女たちとして選ばれた。Beautyをつくる空間は銀座であったからモガも銀座を「つくる」俳優としての役割を担った。銀ブラとモガは、銀座の「aseptic」イメージを見せたので「他の空間」として銀座を昇華したが、銀ブラとモガの概念を宣伝することは、微妙な人々の行為の統制と戦略な分類であったとおわれる。この統制も「夢の銀座」を「非公開、infbrmal」の政治であったと思われる。戦争の時この「夢の銀座」は「国の銀座」になって、軍隊のためのパレードの空間になって、「舞台」を戦争の宣伝で飾った。一般の資料と記憶、昭和初期の銀座を、盛り場、銀ブラ、モボ、モガ、懐かしい銀座として紹介したから、銀座は娯楽の政治と関係がない空間のようにみえる。戦争の時の銀座を紹介するときもただ「戦争」とだけ紹介して、銀座はナショナリズムという概念と関係がないようにみえる。しかし、グラフィック資料を見ると、確かに、戦争の時に、直接に銀座は政府の舞台になって、銀座の機能がかわった。『銀座と戦争』という本では銀座は近代生活、情報、経済、などの中心であって、写真家がそこに集まったので戦争を見せるのに銀座は最も適した場所であったということが述べている。また、それだけだけではなく、銀座は政府と東京の象徴的な空間でもあったから、銀座通りの空間的な可能性もつかって、そこで 政府は訓練、パレードを「見せて」、ショーウインドーで戦争の情報を「ディスプレー」した。つまり銀座の明治時代から政府に合法的「legitimated」された空間の特色は、戦争の時、直接に見えたと思われる。その文脈のなかで「銀座のいき」という表現も、昭和初期の九鬼周造の『いきの構造』の本質主義の理論と間接の関係の可能性を、第四章は理解して見る。

結論

 象徴としての銀座空間は交流「negotiation」である。空間的な独特に近代機能、商売、消費を含めて、象徴がつくられた。そして、繁華街、盛り場として、銀座は「夢のホーム」になって、同時に、「社会的な統合」と「社会的な幸福」の象徴にもなった。それゆえその空間を守るのに「非公開政治」で 銀座は統制された。しかし、それととともに政治権力の象徴としての銀座は、「合法的」空間になった。銀座のプライドの意味はそこにもあると思われる.

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、大正12年の関東大震災で壊滅的な打撃を受けた銀座が、その後第二次世界大戦までの間、いかにして東京、あるいは日本の中心的繁華街として成長を遂げたかを、当時の資料を駆使しながら明らかにしたものである。本論は単に銀座の都市史をクロノロジカルに追跡するのでなく、その背景となる銀座の空間・社会・都市民衆・政治権力に広く目配りし、最終的に銀座の近代史を見事に描き出した。

 第1章では、銀座の地形・空間に着目し、銀座が「島」としての特異な性格を帯びるプロセスを震災後の橋の架橋と町名の変化から明らかにしている。

 第2章では、銀座四丁目交差点と数寄屋橋という銀座地域のなかでもとりわけ重要な2つのノード(Node)を取り上げる。「水の空間」「境界の空間」の数寄屋橋に対して、銀座四丁目交差点は「陸地の空間」「中心の空間」であった。数寄屋橋は新聞社や日劇、邦楽座、泰明小学校が集中するひとつのコンプレックスであって、銀座の象徴的な意味合いを醸成していた。メディア・娯楽・インテリゲンチャーの街という銀座の複合的なイメージはこの数寄屋橋コンプレックスから生み出されたものとする。また後者はそれと対照的に、消費・大衆文化のイメージを紡ぐ特異点としてきわだってゆく。

 第3章では、銀座区域のいくつかの対象を通して銀座の「プライド」が抽出される。当時、銀座地域の各町は「銀座」あるいは「大銀座」という地名をつけることに意欲を見せるが、その目的は銀座の統一性を見せるというよりも、ビジネスの成功のために「銀座」という地名の象徴的な意味を得ることが目的だった、とする。またこの分析のなかで、銀座は誕生当時から明治政府によって合法化された(legitimated)空間であったことを示している。この指摘はきわめて斬新で、本質をついている。つまり近代化の光の部分が相乗的に銀座地域に降り注いだということになる。このことは銀座の「プライド」が単なる地域の住民だけから形成されたのでなく、さまざまな要素が相互に働いていたことをよく示している。

 第4章では、以上の3章の分析を受けて、銀座の人々や風俗に目を向ける。銀ブラとモガと政治権力のシンボルとしての銀座。銀ブラとflaneurを比較して、復興のころの「夢のホーム」として銀座。銀ブラとモガは、カフェ、デパート、表通り、ショーウインドーの「舞台」と違って、銀座を消費することの「俳優」であった。また銀ブラとモガの概念を宣伝することは、微妙な人々の行為の統制と戦略な「分類」であったと指摘する。この統制も「夢の銀座」を「非公開、informal」の政治がその背景にあった。戦争の時この「夢の銀座」は「国の銀座」になって、軍隊のためのパレードの空間になって、「舞台」を戦争の宣伝で飾ることになるのである。

 以上の4章からなる分析を通じて最終的な結論として、筆者は象徴としての銀座空間の特質を「交流(negotiation)という概念でまとめることができるとする。「島」状の空間的特異点を下敷きとして、近代機能、ビジネス、消費などがさまざまに「交流するなかで、銀座のプライド・象徴が形成された。そして、繁華街、盛り場として、銀座は「夢のホーム」になって、同時に、「社会的な統合」と「社会的な幸福」の象徴にもなった。それゆえその空間を守るのに「非公開政治」で銀座は統制された。しかし、それととともに政治権力の象徴としての銀座は、「合法的」空間になった。銀座のプライドの意味はそこに存するという。

 このように、本論は古地図・行政資料はもとより、当時の雑誌・新聞記事・銀座の一般向けの書物など、実に広い範囲の資料を駆使して、銀座の都市社会史を実証的に、しかもいきいきと描き出した労作であって、近代都市史の分野における既往の銀座研究に対して著者独自の新たな銀座像を構築することに成功した。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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