学位論文要旨



No 116031
著者(漢字) 厳,爽
著者(英字)
著者(カナ) ヤン,シャン
標題(和) 「なじみ」の過程における痴呆性高齢者の構築環境に関する研究
標題(洋)
報告番号 116031
報告番号 甲16031
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4868号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 教授 大野,秀敏
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 岸田,省吾
 東京大学 助教授 曲淵,英邦
内容要旨 要旨を表示する

 痴呆性高齢者の有病率は65〜69歳で1.5%、それ以上では5歳ごとにほぼ倍増し、85歳以上になると25%を超えると推計されている。高齢化の進行に伴う後期高齢者人口の増加は、痴呆性高齢者の増加を意味しており、ますます痴呆性高齢者の介護の問題が大きくなってくると推測される。

 80年代後半より、家庭的な生活空間の中で、8-10人の痴呆性高齢者が継続的なグループを保ち、ケアを受けながら、できるだけ自立的な生活をするためのグループホームがケアの形態の一つとして北欧から導入された。1999年3月から2000年7月の間で、痴呆性高齢者グループホームの数は41施設から605施設となり、利用定員は329名から6000名となった。また、痴呆性高齢者の三分の一が介護を受けているとされる特別養護老人ホームなど従来の施設においても、介護単位の小規模化など、痴呆性高齢者のための介護が試みられるようになってきている。しかし、従来の介護のまま、空間のみが小規模化されるに止まっているなど、問題点も多く存在している。このように、痴呆性高齢者の介護の場はさまざまに展開を見せようとしている一方で、その介護の質も間われられなければいけない時期にもなっている。

 痴呆性高齢者の介護の問題が徐々に重視されてきた中で、建築計画分野においても痴呆性高齢者の住環境に関する研究が増えてきた。その多くが、介護者の視点からいかに介護がしやすいように施設計画を行うかというものであった。また、看護・介護学の分野においても痴呆性高齢者に関わる研究は多いものの、医学、看護・介護学的な視点からの研究が多い。

 しかし、痴呆性高齢者を取り巻く環境は空間、介護などすべての彼らに関わる環境要素を含めた環境であり、空間と介護を総合的に捉え、相互に理解する必要がある。また、痴呆性高齢者の生活は、われわれが日常生活のなかで経験することができない世界で、想像も出来ない世界である。したがって、痴呆性高齢者の立場から、彼らの生活を克明に記述する調査を通して、空間と介護の双方を含めた総合的な視点での研究が必要となる。

 このような背景の中、本論文では長期にわたる観察調査を軸にして、痴呆性高齢者の暮らしの場の変化に伴う生活の様子を明らかにすることで、痴呆性高齢者が新しい環境になじんでいく過程の様態を明らかにする。そして、生活の拠点を移動する際の痴呆性高齢者と環境要素との関わりを総合的に捉えることにより、痴呆性高齢者の構築環境のあり方を探ることを目的とする。

 第1章では、特別養護老人ホームに併設するグループホームの開設時における、痴呆性高齢者の環境移行に関する事例考察である。自宅や特別養護老人ホームからグループホームへ環境移行した前後の生活を考察し、グループホームが持つ環境要素を考察した。

 第2章と第3章では、空間的に痴呆性高齢者に配慮して計画されたグループホームにおいて、開設時からの3年間にわたる観察調査に基づいている。第2章では入居直後から、新しい環境になじんでいく過程を、主に空間的な環境要素と運営的な環境要素との関わりの中で考察した。

 第3章では、痴呆性高齢者のなじみの過程における生活の様態や、痴呆度の変化が生活の構成に与える影響などを、個別的、及び集団的な視点から総合的に考察した。また、痴呆性高齢者が「共に住む」ことがもたらす意味を考察し、痴呆性高齢者のための構築環境における空間計画の提言を試みた。

 第4章では、異なる空間構成をもつ三つのグループホームにおける比較考察である。入居者の生活構成、及び職員との関係から、共用空間の規模と構成の影響を考察した。

 第5章では、痴呆性高齢者のための小規模ユニット介護が実施された2つの特別養護老人ホームにおける比較考察から、特別養護老人ホームにおける痴呆性高齢者の介護のあり方を考察した。

 以上の調査を通して、環境移行後のグループホームでの新しい生活環境を再構築していく前提となる要素を解明した。施設からの入居者にとっては施設で失った生活意欲を取り戻し、生活を構築していく意識を回復させること、また、自宅からの入居者にとっては、痴呆症状の発症によって一端中断された昔からの日常生活を再び継続させるようにすることが、グループホームの最初の役割となる。

 また、時系列にみたグループホームでの痴呆性高齢者の痴呆の程度の変化が明らかになった。グループホームに入居した直後は痴呆の程度が改善され、その後は安定期を経て、重度化する。痴呆の程度の進行により、自立度も共に低下し、ターミナル期へ向かうケースと、自立度が維持され、落ち着いた生活が継続される両ケースがみられた。

 痴呆の程度によって、空間認識の手かがりと利用の様態が異なることも明らかになった。居室の認識と利用については、自宅から持ち込んだ私物によるしつらえはが重要な手掛かりとなっている。共用空間での滞在も、痴呆の程度によって求めるかたちが異なり、共用空間のなかでの選択される場所が異なることがわかった。

 「なじみ」の過程については、入居者が空間においての独自の生活拠点を形成することで、生活のリズムを定着させていく過程であることが示された。痴呆性高齢者になじみやすい建築空間が、新しい環境へのなじみを誘発する要因となっているといえる。また、物理的な環境要素が運営的環境要素や社会的な環境要素にも大きな影響を与えていることも明らかになった。

 また「なじみ」の過程では、職員の関わりが空間の認識や入居者間の人間関係の形成に、大きな役割を果たしていることも明らかになった。環境へのなじみが形成されてくると、職員の過剰な関わりは、職員主導の生活構成を強いることにもなり、入居者の自ら形成した生活リズムに少なからぬ影響を与えることもある。グループホームは小規模であるがゆえに、ケアのあり方(職員人数、勤務体制、業務内容)は、常に入居者の「なじみ」の度合いを考慮したなかで考えられていくべきものであるといえる。

 入居者の「なじみ」の過程は、ホームの「新参者」から「古参者」となる過程であるとも捉えられる。そして、「共にすむ」こととは、グループホームの主体となり、日常生活に正統的に周辺参加し、他の入居者や職員とともに生活を「する側」になることである。このようなサイクルの中にいることにより、痴呆性高齢者にとって一人ではできないことができるようになり、「共に住む」ことが大きな役割を果たすようになる。

 以上の考察から「なじみ」の構造もモデル化された。痴呆性高齢者の「なじみ」は外部の環境要素の支えと、自らが持つ環境への適応力が、痴呆の発症、不適切な環境など外部からの環境圧力とのバランスを保っていくことであると考えられる。なお、入居者個人の持つコンピテンス(competence)の相違によって、それぞれが落ち着くなじみレベルは異なり、なじみの度合いには個人差がある。

 特別養護老人ホームの痴呆性高齢者における考察結果からは、大規模施設においても痴呆性高齢者の介護が10人程度の小規模な単位で行われることが有効的であることを示した。その際には、従来の施設介護とは異なる介護が求められることから、介護側の意識の改革はもちろん、専属の職員の設置、独自の日常生活プログラムの設定、さらには入居者自ら食事の支度・手伝いすることを可能にする運営方式などの新しさが求められる。また、既存多床室の特養でも、施設側の工夫や職員の介護次第で、痴呆性高齢者が穏やかに生活できる可能性があることが示唆された。

 最後に、建築計画学的な視点から、痴呆性高齢者のため構築環境のありかたを提言し結語とする。

(1)空間を計画する際には、痴呆の程度によって求める空間が異なることを配慮して計画すべきである。中度から重度の痴呆の高齢者は、空間の認識能力が弱くなっており、これらの入居者の居室は、共用空間から直接アクセスすることができ、居室にいながらも共用空間の様子をうかがうことが出来る位置にあることが望ましい。

(2)グループホームにおけるなじみの様態は、空間構成の相違よって異なる。また、入居者と職員の関わり方は食堂とキッチンの配置に左右されることがわかり、空間を計画する際には十分に配慮する必要がある。

(3)大規模施設の小規模介護ユニットを含めて、痴呆性高齢者のための施設においては、Semi-public領域はもっとも利用される領域であることが示された。一方、Semi-private領域も、さまざまな生活行為を誘発し、入居者間の人間関係を生み出す要因として大きな役割を果たしている。従って、Private領域とPublic領域の中間領域としてのSemi-public空間とSemi-private領域を充実させることが、高齢者施設の計画にあたって重要な課題となると考えられる。また、Semi-private領域とSemi-public領域の配置関係も十分に配慮すべきであると思われる。

(4)高齢者施設のように運営方針や介護行為が、入居者の生活に直接影響を与えるような施設では、設計側の設計意図が、十分に職員にも理解される中で空間が利用されるようにすることが重要であると思われる。これにより空間が一つのケア環境として機能し、入居者の生活の質の向上に大きく貢献することができよう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は長期間の観察調査を通して痴呆性高齢者の暮らしの場の変化に伴う生活の様子を分析・考察することによって、痴呆性高齢者が新しい環境になじんでいく過程の様態を明らかにし、生活拠点を移動する際の痴呆性高齢者と環境要素との関わりを捉えて、その構築環境のあり方を探ることを目的としている。

本論文は序論と結論の他、5章によって構成されている。

 序論では、研究の背景、目的・位置づけ・構成・調査概要を述べている。

 第1章では、特別養護老人ホ一ム(NH)に併設するグループホーム(GH)開設時の痴呆性高齢者の環境移行事例を通して、移行前後の生活を比較し、GHが持つ環境要素を考察している。

第2章と第3章では、空間的に痴呆性高齢者を配慮して設計されたGHにおいて、開設時からの3年半にわたる観察調査の分析と考察を行っている。まず第2章では主に空間的・運営的環境要素との関係の中で入居直後から新しい環境になじむ過程を考察している。次の第3章では、痴呆性高齢者のなじみの過程における生活の様態や痴呆度の変化が生活構成に与える影響などを個別的・集団的視点から総合的に考察している。また痴呆性高齢者が「共に住む」ことがもたらす意味を考察し、空間計画の提言を試みている。

第4章では、異なる空間構成をもつ三つのGHにおける比較考察を行い、入居者の生活構成と職員との関係から、共用空間の規模と構成への影響を考察している。

第5章では、痴呆性高齢者のための小規模ユニット介護を実施している2つのNHの比較考察から、NHにおける痴呆性高齢者の介護のあり方を考察している。

 結論では、全体の総括を行い、再構築生活の特性「なじみ」の構造モデルを提示している。

 以上の調査分析・考察を通して、施設からの入居者にとっては施設で失った生活再構築の意識を回復させること、自宅からの入居者にとっては痴呆症状の発症により一端中断された昔からの日常生活を再び継続させることがGHの最初の役割となることを示している。また時系列にみたGHでの入居者の痴呆度の変化における2つのケースを明らかにしている。入居直後には痴呆度が改善され、その後安定期を経て、重度化するケースが多いが、痴呆度の進行に伴い自立度も低下しターミナル期へ向かうケースと、自立度が維持され落ち着いた生活が継続されるケースである。さらに痴呆度により空間認識の手かがりと利用様態が異なること、すなわち居室の認識と利用においては自宅からの持込み私物によるしつらえが重要な手掛かりとなり、共用空間での滞在においては痴呆度によりそこのなかで選択される場所が異なることを明かにしている。また「なじみ」の過程とは、入居者が空間において独自の生活拠点を形成することであり、生活のリズムを定着させていく過程であることを示している。物理的環境要素が運営的・社会的環境要素にも大きな影響を与えていること、「なじみ」の過程では、職員の関わりが空間認識や入居者間の人間関係形成に大きな役割を果たすことを明らかにしている。一方、環境へのなじみが形成されてくると職員の過剰な関与は、かえって職員主導の生活構成を強いる結果となり、入居者が自ら形成した生活リズムに少なからぬ影響を与える懸念を指摘している。GHは小規模であるがゆえに入居者に大きな影響を与える職員人数、勤務体制、業務内容といったケアの計画では「なじみ」度合いを常に考慮べきことを強調している。入居者の「なじみ」過程は「新参者」から「古参者」となる過程であり「共にすむ」こととは、GHの主体となり日常生活に参加し他の入居者や職員とともに生活「する側」になることを意味すると述べている。そしてこのようなサイクルの中にいることにより、痴呆性高齢者は一人では不可能なことが可能になり「共に住む」ことが大きな役割を果たすと主張している。「なじみ」構造をモデル化すると、痴呆性高齢者の「なじみ」は個人の持つコンピテンス(competence)の相違により、落ち着くなじみのレベルは異なるが、外部環境要素の支えと自己の環境適応力との間にバランスを保っていくことであると指摘している。

 大規模施設NHにおいても、痴呆性高齢者の介護が10人程度の小規模な単位で行われることが有効であるが、その際には従来の施設介護とは異なる介護が必要なことから、介護側の意識の改革、専属職員の配置、独自の日常生活プログラムの設定、そして入居者自ら食事の支度・手伝いを可能にする運営方式などのが求められる。また、多床室主体の特養でも、施設側の工夫や職員の介護次第で痴呆性高齢者が穏やかに生活できる可能性があることを示唆している。

 建築計画的視点からは、次のような痴呆性高齢者の構築環境のありかたを提言している。(1)痴呆度により求める空間が異なることの配慮。中度・重度の痴呆高齢者は、空間認識能力が弱いため居室には共用空間から直接アクセス可能で、居室にいながらも共用空間の様子をうかがえる配置が望ましい。(2)GHでのなじみの様態は、空間構成の相違よって異なること。入居者と職員の関わり方を左右する食堂と調理場の配置に考慮する必要がある。(3)大規模施設を含めて、痴呆性高齢者はSemi-public領域をもっとも利用するが、一方でSemi-private領域もさまざまな生活行為を誘発し入居者間の人間関係を生み出す大きな役割を果す。従って、Private領域とPublic領域の中間領域としてのSemi-public・Semi-private領域の充実が重要課題となる。(4)運営方針や介護行為が、入居者の生活に直接影響を与えるような高齢者施設では、設計意図が十分に職員にも理解されることが重要で、これにより空間が一つのケア環境として機能し、入居者の生活の質の向上に大きく貢献する。

 以上のように、本論文は、後期高齢者人口の増加に伴って問題視されている痴呆性高齢者介護環境をグループホームと特別養護老人ホームでの長期間にわたる詳細調査に基づいて、痴呆性高齢者の環境移行に伴う諸問題を明かにし、今後のケア環境の在り方について基本的な知見を示し、建築計画学の発展に大きな寄与をしたものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位論文として合格と認められる。

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