学位論文要旨



No 116088
著者(漢字) 天清,宗山
著者(英字)
著者(カナ) アマスガ,ヒロタカ
標題(和) 塩素吸着したシリコン表面の光誘起エッチング
標題(洋)
報告番号 116088
報告番号 甲16088
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4925号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 助教授 高橋,敏男
 東京大学 助教授 長谷川,幸雄
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、塩素を吸着したシリコン表面に強度・波長を制御した紫外光を照射することにより誘起される非熱的なエッチング現象の原子過程を明らかにするための実験的研究に関するものである。

 近年シリコンデバイスプロセスの発展にともない、“ナノレベルでの表面状態の制御”に対する要請が強まっている。“電子励起による原子移動”現象、中でも“DIET(Desorption Induced by Electron Transition)”は非熱的反応過程として工学的にも学術的にも興味深い研究対象である。DIETの応用としては、例えば「ステップエッジ等の優先的エッチングによる完全表面の実現」が考えられる。このような究極の表面制御を達成するためには、脱離機構の原子レベルでの理解が必要である。

電子励起脱離反応のメカニズムを明らかにするためには脱離サイト、励起過程、緩和過程、そして脱離種の情報が重要になる。シリコン−塩素系のばあい、3〜5eVの光子エネルギーでは表面近傍の価電子バンドからSi-Clの結合準位へ電子遷移が起こり、初期励起光に波長選択性が期待されるので、この波長域での光エッチング現象の原子的機構を、エッチング速度の励起光波長依存性、強度依存性、偏光依存性、キネティクス等を測定することにより知見を得るべく実験を行った。試料にはSi(111)面を用い、照射光はNd:YAGパルスレーザで励起された色素レーザとOPOレーザの第2高調波光を用いた。それぞれ5ns,3nsのパルス幅を持ち、繰り返し周波数は10Hzである。脱離の検出には、まず簡便な方法として予備的にAESとQMSを用いた。AESは原理的に脱離分子を同定できないこと、またプローブ電子線照射によるCl脱離(ESD:Electron Stimulated Desorptionによる)が起こってしまう問題がある。いっぽう、用いたQMSはカウンティング方式でないため検出能が低く、またフラグメントを起こすことにより一意的に脱離分子を同定することが難しい欠点がある。そこで、脱離分子を同定し高い測定感度で実験することがが可能なMPI-TOF(MultiPhoton Ionization and Time of Flight)装置を新たに立ち上げた。これは、多光子吸収により特定の分子を共鳴的にイオン化し、当該イオンを飛行時間測定により質量分析を行う方法である。

 実験に用いた強度領域では最初脱離は観測されず、繰り返しフラッシングに伴い希薄塩素雰囲気下の熱エッチングによってmicro facetが形成すると初めてエッチングが起こることが分かった。

 照射光波長依存性を測定したところ、予備実験・本実験ともに290nm,245nm付近に二つのピーク(それぞれα、βと名付ける)が存在することを見いだした(図1)。両ピークともに低照射強度(100mJ/cm2pulse)においてはエッチング速度が強度に比例することから、非熱的なエッチング現象であると結論できる(図2)。

 QMS、MPIともにSiCl+として検出される脱離分子は、MPIのイオン化波長依存性からSiCl2であることが分かった。またSiCl2脱離のキネティクスを調べるため、脱離収量の延べ照射量に対する依存性を測定したが、α、β両ピークともに簡単な一次反応で解析出来ないことがわかった。本実験においては、光照射前の初期状態を表面のSi原子に対して一つの塩素が吸着している状態として実験を行っている。この場合、SiCl2脱離の原子過程は、塩素原子拡散・脱離サイトへの捕獲によるSiCl2生成過程とSiCl2脱離過程とが考えられるが、この実験結果は、光によって促進される原子過程がSiCl2脱離ではないことを示している

 これらの実験結果のもとづき、初期励起過程と脱離に到る原子過程を考察した。

 αピークに関しては、Siバルク結晶のE2吸収ピークとピーク位置が一致し、また励起スペクトルを再現するためには、光生成キャリアの拡散長Λが〜1nmと極めて短くなる必要があることから、“表面近傍で励起されたホットキャリア(ホール)が表面のSi-Siバックボンドに(共鳴的に)捕獲される”というモデルが考えられる。

 いっぽう、βピークに関しては、初期励起がシリコン基板吸収か表面分子種の直接励起か、偏光依存性の測定結果からは明確な結論が出ていない。しかし、ピーク波長から推定すると、初期励起は価電子バンドから表面バンドへの励起が関与すると推定され、また、Cl-Si(111)7*7表面に吸着される塩素原子がSTM探針からの電子注入によって拡散が誘起される現象とその機構に照らし合わせると、“価電子帯頂上からSi-Siバックボンド由来の反結合表面バンドに励起された電子が表面のSi-Cl反結合軌道に共鳴的に遷移、捕獲され、結合を不安定化→塩素原子の拡散→Si-Cl2の形成→Si-Cl2の脱離に到る”というモデルが考えられる。このモデルの妥当性は、STMなどを用いて、塩素原子の表面拡散がこの波長の光照射によって促進されるか否か調べることにによって明らかにされるであろう。

 本研究で紫外域に見いだされた光誘起エッチングの2つの励起ピークに対応する初期電子励起は、いずれも表面バンドへのキャリア励起を引き起こしていると考えられ、その意味では、当初期待していた表面の特定サイトを直接励起して選択的にエッチングできる可能性は、この系では低い。しかし、最終的な特定脱離サイトへキャリアが局在しやすいようなバンド励起を、初期励起で制御できる可能性は残っており、今後の研究の課題である。

図1 エッチング速度の照射光波長依存性。3つの測定方法によるエッチング速度はピークが判別できるようにノーマライズしてある。MPI測定での照射強度は他の測定に較べ一桁低い。

図2 エッチング速度の照射光強度依存性。100mJ/cm2pulseよりも小さな強度領域ではエッチング速度は強度に比例していることがわかる。

審査要旨 要旨を表示する

 結晶成長の制御は材料の高機能化にとって非常に重要な課題である。結晶成長の出発点は所望の構造をもった表面を準備することである。電子デバイスでは、それ以前のプロセスで作成した素子構造を維持するため、表面プロセッシングを低温で行いたい場合が多い。ハロゲンによるシリコンのドライエッチングに普通使われるフッ素は常温でもエッチングを起こすほど反応性が高いが、逆に制御性はあまりよくない。そこでフッ素を反応性の少し低い塩素や臭素に替える試みもあるが、エッチング速度は小さい。しかし幸いなことに、シリコン−塩素系表面は光誘起エッチングを起こすことが知られており、これを用いた低温高速エッチングプロセスが検討されている。本研究は、この光誘起エッチングをさらに積極的に利用して、表面の特定サイトを選択的に光励起することにより、たとえば「ステップエッジ等の優先的エッチングによる完全表面の実現」などが達成できるかどうかその可能性を探るための基礎研究として、塩素を吸着したシリコン表面について紫外域の光を波長を系統的に変えて照射し、光誘起エッチングの波長依存性とそのとき放出される脱離分子種を同定し、電子励起からエッチングに至るまでの微視的過程を明らかにしようとしたものである。

 本論文は七章より成る。

 第一章は序論である。本研究におけるキーワード「電子励起原子移動現象」、「光励起表面脱離」、「塩素吸着シリコン表面」について概説し、本研究の工学的、学術的な意義を示す。その後、本研究の具体的目的を述べ、本論文の構成を説明する。

 第二章は本研究の背景として、序論で述べた3項目の内容についてさらに詳しく紹介している。まず光が誘起する表面脱離現象について、これまで提案されている代表的なメカニズムを分類し、説明を加えている。特に、従来光誘起エッチングの機構として考えられていたモデル−基板励起によって生成した正孔が表面へドリフトし表面吸着子の結合電子を奪い脱離を引き起こす一を紹介するいっぽう、表面吸着子の直接励起によっても原子脱離が起こる実例を紹介している。

 次に本研究の対象である塩素吸着シリコン表面について、清浄表面、塩素吸着面の原子構造・電子構造に関してこれまで知られている事実を整理している。次に、シリコン−塩素系の光エッチング研究について、これまでは光子エネルギーが1・5eVの間の散発的な波長で実験が行われているにすぎず、現象に基板のバンド間光吸収が関わっている可能性が指摘されている程度であること現状を述べている。さらに、TPD(Temperature Programmed Desorption)を用いて温度とともに塩素吸着状態がどう変化するかについて調べた研究に触れ、本研究における出発表面を準備するための指針としている。また、初期電子励起からどのような原子過程を経てエッチングに至るかについて論ずる際に参考になる電子励起による塩素拡散現象についても言及している。

 第三章は実験計画と題し・第二章で説明した背景に基づき、第一章で述べた目的を達成するための実験的アプローチについて検討している。

 光誘起エッチングの機構を明らかにするためには、「いかなる表面を舞台に」、「いかなる初期電子励起過程を経て」・「いかなる分子が脱離するか」を知ることが基本的に重要である。本研究では、シリコンの光エッチングが定常状態では(111)面で進行することから、(111)面に塩素を飽和吸着したのち450℃でプレアニールすることによってSi-Clのみが表面吸着子として残った表面を実験の始状態に選んでいる。初期電子励起を起こす光のエネルギー範囲としては、3・5e Vの紫外域の光を用いる。このエネルギー範囲では、表面Si-CI吸着子の軌道が直接関与した電子遷移が起こる可能性があり、また基板励起に関してもシリコンのバンド間遷移による光吸収が最も強くなる。具体的には235nm・300nmの範囲でエッチング速度の波長依存性を測定することとした。光誘起原子反応が脱離過程で起こるのか塩素の拡散過程で起こるのかを明らかにするため、次の2点すなわち、脱離分子の並進運動エネルギーが電子励起効果に特有な非熱的特徴を示すかどうかと、脱離分子種を同定することによりSi-Clしかない初期表面から拡散が促進されなければ生成しないSiCl2〜4のような高塩化分子が脱離してくるのかどうか、を調べることとした。

 また脱離分子を同定するための実験法として共鳴多光子イオン化(Resonance-Enhanced MultiPhoton Ionizatio=REMPI)法とMPI-TOF(多光子イオン化一飛行時間質量分析)法について、その原理を述べている。

 第四章では具体的な実験方法が説明されている。実験に用いたMPI-TOF装置、光誘起エッチング用励起光源、イオン化用光源、測定条件、実験手順を記している。特に本研究のためにに立ち上げたMPI-TOF測定装置については、TOF質量スペクトルの較正法、SiCl分子、SiCl2分子のREMPIスペクトルの測定結果など詳細な説明を行っている。

 第五章は実験結果である。まず光誘起エッチングが平坦な表面では起こりにくく、μm程度のサイズの溝を持つ荒れた表面で初めて顕著なエッチングが起こることを述べている。次にエッチング速度の波長依存性の測定結果として、これまで知られていた紫外光の光誘起エッチングが、実は2つの異なる波長290nm、245nmでピーク(それぞれαピーク、βピークと呼称)を示すことを初めて明らかにしている。α、β2つのピーク波長におけるエッチング速度は低照射強度(<120mJ/cm2pulse)ではいずれも照射強度に比例すること、αピーク波長のエッチング速度は高照射強度(>120mJ/cm2pulse)では照射強度に対して非線形に増加することを示している。また、脱離分子の並進運動エネルギーは電子励起効果を反映した分布を示す。さらにREMPI-TOF測定で検出されるSiCl+イオンのイオン化スペクトルはSiCl分子であれば示すべきREMPIスペクトルを示さないことから、脱離分子はSiClではなく、SiC2-4の高塩化分子であることを明らかにしている。

 第六章では、第三章の実験計画で提起された問題点に対して、本研究で得られた実験データをこれまでの研究結果一特に同じ吸着系においてSTM探針からのトンネル電流注入によって塩素原子拡散が起こることを示した実験一と対比させ、考察を行っている。

 2つのピーク波長のいずれにおいても、エッチング速度が照射強度に比例する低照射強度では光エッチングは電子励起効果によるものと結論できる。αピーク波長は基板シリコンのバンド間励起スペクトルのピーク波長に近いが、エッチングの励起スペクトルはシリコンの光学定数スペクトルから期待されるものよりはるかにピーク幅が狭く、初期励起は基板励起ではなく、表面近傍の光吸収に起因すると結論せざるをえないと主張している。

 またREMPI-TOF測定の結果、αピーク波長における脱離分子はSiClではないことが示された。Si-Cl吸着子から高塩化分子が脱離するためには塩素の移動が必要であることから、光照射によって塩素原子の表面“拡散”が促進されていることを結論している。いっぽうαピーク波長における脱離分子の並進運動エネルギーは非熱的効果を示唆する大きな値を示す。これらの事実から、光照射は塩素“拡散”と脱離の両方を促進している。しかし、この2つの原子過程が独立に起こるとすると、エッチング速度が照射強度に比例する事実と矛盾する。従って、塩素“拡散”と脱離は1つのプロセスとして連続して光照射によって誘起されると結論した。

 表面が荒れるとエッチング速度が増大する事実から、エッチングはステップエッジで優先的に起こっていると考え、初期励起からエッチングに至る全プロセスに対して、次のようなモデルを提案している。すなわち、初期励起はα波長β波長ともにSiアドアトムバックボンド由来の表面S3バンドからSi-C1反結合性軌道由来のσ*バンドへの表面バンド間励起である。しかし、α波長ではバンド間励起はM点付近で起こり、S3バンドに作られた正孔が本質的役割を果たし、いっぽうβ波長ではバンド間励起はΓ点付近で起こり孤立Si-Cl反結合性軌道と共鳴した電子が本質的役割を果たす。いずれもSi-Clの結合不安定化を引き起こし、ステップエッジ付近に吸着した塩素の隣接サイトへの“拡散”を誘起する。“拡散”した塩素は“拡散”先にあったSi-Cl吸着子と反応してSi-Cl2が作られ、バックボンドに正孔ができるα波長励起ではそのままSiCl2分子の脱離が起こる。

 第七章では結論が述べられている。塩素吸着シリコン表面の紫外光誘起エッチング現象において、290nm、245nmの紫外域にエッチング速度の増大を示す二つの励起ピークが存在することを初めて示し、脱離分子を同定することにより、αピーク波長のエッチングは表面バンドを介在した電子励起を初期励起とし、電子励起に伴いステップエッジにある塩素が隣接塩素吸着サイトへ“拡散”し、生成した不安定SiCl2が脱離するとのモデルを提案した。

 以上を要するに、本研究は塩素を吸着したシリコン表面の光誘起エッチングについて、紫外光域においてこれまで考えられていた基板励起ではなく表面励起によって現象が起こることを初めて明らかにし、また電子励起が誘起するものが脱離過程そのものよりも塩素の表面拡散であることを示す実験結果を得たものである。この研究は、半導体における光誘起表面反応一般について学術的知見を深めたばかりでなく、光励起を用いた表面制御に対して原理的指針を与えるものとして工学的にも大きく寄与していると評価できる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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