学位論文要旨



No 116089
著者(漢字) 今井,康彦
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,ヤスヒコ
標題(和) ブラッグ角90°におけるX線動力学的回折の研究とその応用
標題(洋)
報告番号 116089
報告番号 甲16089
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4926号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 渡部,俊太郎
 東京大学 助教授 三尾,典克
 東京大学 助教授 高橋,敏男
 東京大学 助教授 百生,敦
内容要旨 要旨を表示する

 近年の第3世代放射光施設では、従来に比べ電子(陽電子)ビームのエミッタンスが小さくなるとともに、放射光の発散角も小さくなり、強度や輝度が格段に向上してきている。このようなコヒーレンスの高い第3世代放射光X線を用いることにより、近い将来における硬X線領域でのFabry-Perot型干渉計(FP干渉計)が期待されている。硬X線領域におけるFP干渉計が利用できるようになると、これを用いた高分解能の分光や、高精度の格子定数測定、各種の干渉実験への応用などが考えられる。更に、現在研究が進められている自由電子レーザーと同様の原理で、アンジュレーターと反射ミラーを組み合わせた方法によるX線のレーザー発振も考えられる。

 X線領域においてFP干渉計を構成するには、可視光の場合に用いられるミラーの代わりに、結晶などによるブラッグ角90°の回折を用いる必要がある。ブラッグ角90°の回折は、回折における特異点にあたり、完全に近い結晶による動力学的回折では、次のような特徴が知られている。

 ●回折の角度幅が数100 arcsecと通常の回折の1000倍程度に広くなる。

 ●回折に関わるX線のエネルギーバンド幅が数meVと非常に狭くなる。

この特徴的な回折現象は1972年にKohra,Matsushitaにより初めて動力学的回折理論による説明がなされ、主に理論の面から研究されてきた。しかし近年では、放射光の利用環境が充実してきたため、理論だけでなく実験の面からも、研究の対象として注目されてきている。また応用として、X線定在波法による表面構造解析や、90°近傍のブラッグ角をとる回折を用いた高エネルギー分解能の分光などに用いられている。

 硬X線領域でのFP干渉計は1979年にA.Steyerlらによって提案されたが、未だ実現には至っていない。干渉計の開発が困難で、干渉が未だ観測されていない原因はいくつか考えられる。本研究ではこれらを明らかするとともに、硬X線領域におけるFP干渉計実現のための第1歩として、ブラッグ角90°におけるX線動力学的回折の特徴を理論および実験の両面から詳しく調べ、応用の可能性を探ることを目的としている。

 X線のモザイク結晶による回折は、X線が結晶中で1回だけ散乱を受けるとして扱った運動学的回折理論によって説明される。一方、完全性の高い結晶による回折の場合には、X線が結晶中で複数回の散乱をうけるため、多重散乱を考慮した動力学的回折理論を用いる必要がある。動力学的回折理論には幾つかの流儀があり、Laue流とDarwin流の理論の2つに大別される。

 Laue流の理論では、結晶を周期的な誘電率の場とみなし、Maxwellの波動方程式を解くことにより、結晶中に存在する波動場を求めている。一般にLaue流の動力学的回折理論では、k空間における等エネルギー面(分散面)を考える際に、分散面の線形近似を行う。ところが、ブラッグ角が90°の近傍では、この線形近似が破綻するため、通常とは異なる特別な取扱が必要となる。ブラッグ角が90°の近傍における動力学的回折を扱うことが出来るように工夫された理論は、k空間座標を元にした解析的な方法であるKohra,Matsushitaの理論をはじめとしていくつか示されている。また、k空間における幾何学的な手法をとる理論も報告されている。

 一方、Darwin流の理論では、まず結晶を周期的な原子層の堆積とみなし、1原子層によるX線電場の振幅透過率と振幅反射率を基に、原子層間における電場振幅の関係を漸化式として求める。次に、この漸化式を境界条件のもとで解くことにより、透過波と回折波を導き出すという方法をとる。Darwin流の理論はLaue流の理論に比べ、物理的な猫像が単純で直観的にも分かりやすく、結晶表面に平行な1種類の格子面による回折(2波回折)に関する限り十分な一般性を持っている。また、ブラッグ角が90°近傍という条件下でも特別な取扱を必要としない。また、結晶表面と平行でない格子面による回折(非対称反射)や、回折に関わる格子面が2つあり、回折波が全て同一平面内にあるcoplanerな3波の多波回折を扱うことができるように拡張された理論も示されている。最近では、結晶の表面構造解析の分野において、Darwin流の理論の有効性が再評価されている。本研究における理論計算には、Darwin流の理論を用いている。

 X線のブラッグ角90°における回折波を観測するには、いくつかの条件とX線光学の高度な実験技術が必要となる。第1に、ブラッグ角を90°と固定するため、格子面間隔もしくは波長のいずれか一方を決めると、他方が一意に決まってしまう。これは、光源としてX線管からの特性X線を用いる場合、回折格子面をうまく選ぶ必要があるということを示している。しかし、光源として連続スペクトルである放射光X線を用いる場合には、得られる波長域の中で自由な格子面の選択が可能となる。

 第2に、ブラッグ角90°における回折の透過波を観測するためには、高分解能のモノクロメータが必要となる。何故なら、ブラッグ角90°の回折に関わるX線のエネルギー幅ΔEは非常に小さいため、これと同程度に分光したX線を用いなければ、回折に与らない透過X線がノイズとなりS/Nが低下するためである。更に、モノクロメータに要求されるエネルギー分解能がΔE/E〜10-7と非常に高いため、モノクロメータ自身のエネルギー分解能の評価も必要である。これにはエネルギーバンド幅が更に狭い核共鳴散乱(10-8〜10-6eV)を利用する以外に良い方法はない。ここで核共鳴散乱の波長は核種と共鳴準位によって決まっており、核共鳴散乱を利用した実験では、それぞれ高分解能のモクロメータが開発されている。このモノクロメータをブラッグ角90°の回折の実験に利用できれば、モノクロメータのエネルギー分可能の評価も可能となる。また、高分解能のモノクロメータがビームラインに常設されている場合には、時間の限られた放射光利用実験を有効に進めることができる。

 第3に、対称性のよい結晶によるブラッグ角90°の回折では、低次の格子面による回折を除いて、複数の格子面が回折条件を満たしてしまい、同時反射が避けられない。低次の格子面によるブラッグ角90°では用いる波長が3.8Å以上と長くなり、空気中での実験には適当でない。また、同時反射面が多くなると、ブラッグ角90°の回折の強度が小さくなり、また解析も複雑になるため、なるべく同時反射面が少ない格子面を選択することが望ましい。

 以上のことから、核共鳴散乱の内もっとも広く用いられている57Feからの核共鳴散乱線(λ=0.86023Å)用のモノクロメータを利用することが最適であると考えた。回折格子面としては、現在入手できる完全性の高いシリコン単結晶のSi(991)および、水晶(06610)を用いることにした。Si(991)によるブラッグ角90°の回折では、同時反射面が4つと、低次の格子面を除けば、同時反射面の数が少ない格子面の1つである。また、Si(991)による回折でブラッグ角が90°となる波長は57Feからの核共鳴散乱用のモノクロメータを調整することで出力可能である。水晶(06610)では、結晶の温度を80℃程度に上げることにより、57Feからの核共鳴散乱線を用いてブラッグ角90°の回折をおこすことができる。57Feからの核共鳴散乱のエネルギーバンド幅は非常に狭い(自然幅Γ=4.7*10-9eV)ため、核共鳴散乱の成分(時間遅れ成分)だけを測定することにより、ブラッグ角90°の回折のintrinsicなエネルギースペクトルの測定が可能となる。以下に実験結果について簡単に述べていく。

 はじめに、薄いシリコン結晶の平板Si(991)を用いて、ブラッグ角90°における回折の反射波と透過波について、そのエネルギー依存性、角度依存性を調べる実験を行った。これまでは、厚い結晶からの反射波を使った実験のみで、透過波を使った実験は報告されていない。将来のFP干渉計への応用を考えると、透過方向の回折波の特性についても調べる必要であると考えた。実験は、KEK PF BL15Cにて行った。226μmの厚さの試料について測定した結果を図1に示す。回折の角度幅と、反射率、透過率の絶対値とも理論とよく一致することが確認された。反射率の測定結果の中心に見られる急なディップは同時反射の影響であると考えられる。

 次に、X線干渉計による位相変化に敏感な測定システムを用いて、ブラッグ角90° における透過方向の回折波の位相変化を測定した。この測定システムは、LLL型X線干渉計内の片方のパスに回折を起こす試料を配置することにより、回折透過波の位相変化を直接測定することができる。光学系を図2に示す。FP干渉計への応用を考えた場合、干渉に大きく関わるのは位相であるため、回折波の位相変化特性を調べることは大きな意味がある。実験はSi(991)単平板を試料として、KEKPF-AR NE3およびSPring-8BLOgXUにおいて行った。透過波の位相変化について、測定結果と2波近似による理論計算結果を図3に示す。ブラッグ角90°からのずれが±〜50arcsec以下の領域では同時反射の影響のため理論と一致していないが、その外の領域では理論とほぼ一致するという結果が得られた。これは、ブラッグ角が90°±数arcsecとういう条件では同時反射が透過波の位相に与える影響を無視できず、同時反射を考慮した厳密な取り扱いが必要であることを示している。本研究では同時反射を考慮した理論の構築を試みている。更に、同時反射を用いた位相問題の解決に、ブラッグ角90°の回折を応用できないか、という検討も行った。

 更に、57Feからの核共鳴散乱線を用いて、80℃程度において温度を精密に制御した水晶(06610)によるブラッグ角90°の回折波のエネルギースペクトルの測定を行った。試料は恒温炉の中に配置し、炉の温度はPCによりPID制御し、相対精度は1mK以下を確認している。温度を上げると、結晶の格子面間隔が広がり、相対的に波長が短く、すなわちエネルギーが高くなることに相当する(10mK〜1.26meV)。結晶の温度を変化させることにより測定したエネルギースペクトルを図4に示す。Gaussianフィットによる半値幅は2.6meVとなり、2波近似の理論から得られる半値幅3.6meVより狭いという結果が得られた。2波での理論より良いエネルギー分解能が得られたということは、同時反射と回り込み(Umweganregung)反射の影響と考えられる。

 本研究では、これらの実験を通してブラッグ角90°の回折に関する実験技術を構築し、実験結果へ理論的考察を加え、将来のFP干渉計実現へ向けた下地を築いたといえる。将来の展望としては、結晶表面への積層技術を用いたサンドイッチ構造の一体型FP干渉計や、可干渉距離の長い核共鳴散乱線を用いた一体型のMichelson干渉計などが考えられる。更に、超高精度の角度制御技術を用いた、分離型のFP干渉計も考えられる。

図1: 反射率および透過率のロッキングカーブの測定値と理論値.

図2: 水晶(0 6 6 10)のブラッグ角90°の回折波のエネルギースペクトル測定結果.

図3: 位相変化の角度依存性.

図4: 水晶(06610)のブラッグ角90°の回折のエネルギースペクトル.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「ブラッグ角90°におけるX線動力学的回折の研究とその応用」と題し、X線領域でのファブリー・ペロー型干渉計(FP干渉計)の実現に向けた基礎的な研究についてまとめたものである。X線領域でのFP干渉計が実現されると、超高分解能の分光により、時間的コヒーレンスの長いX線を各種の位相光学実験に供することが可能となる。X線領域でのFP干渉計には、光学におけるFP干渉計のミラーの代わりに、ブラッグ角90°の動力学的回折を用いる必要があり、本研究では、このブラッグ角90°の動力学的回折の様々な特徴を理論および実験により明らかにしている。さらに、実際にFP干渉計を試作し、干渉の観測に必要な機器および実験技術を開発し、干渉の観測を試みる実験を行っている。また、ブラッグ角90°における回折は、回折に関わるX線のエネルギー幅が非常に狭いという特徴があり、高分解能のモノクロメータとしての利用も期待されている。本研究ではブラッグ角90°近傍における回折のモノクロメータとしての可能性についても議論している。

 第1章は序論であり、本研究の背景と目的について述べられている。X線領域でのFP干渉計は1979年にSteyerlらによって提案されているが、今日に至るまで実現されていない。本研究の目的は、X線領域でのFP干渉計の実現のための第1歩として、ブラッグ角90°における回折の特徴を理論および実験の両面から詳しく調べ、応用の可能性を探ることにあると述べられている。

 第2章では、ブラッグ角90°の回折に関するX線動力学的回折理論について述べられている。まず通常のブラッグ角におけるラウエ流の理論について説明し、ブラッグ角が90°に近づくと理論がどのように破綻するかを示している。これに対して、ダーウィン流の理論はブラッグ角が90°においても特別の取り扱いを必要とせず、本研究での理論計算にはダーウィン流の理論を用いていると述べられている。

 第3章では、試料として完全性の高いシリコン(991)を用いて、ブラッグ角90°における回折の反射率と透過率を測定した実験について述べられている。従来は反射率に関する研究が多く、透過率についてはあまり議論されてこなかった。本実験では、反射率と共に透過率も同時に測定し、結晶の厚さが200μm程度の試料について、理論とよく一致するという結果が得られている。FP干渉計への応用を考えると、透過率を実験的に測定し、理論との一致を確認することは重要な意味があると述べられている。

 第4章では、X線領域でのFP干渉計の理論的考察を行い、放射光を用いた実験を通して干渉の観測を試み、干渉の観測に必要な条件を明らかにしたことが述べられている。まず理論計算によりFP干渉計の可能性について議論を行い、干渉の観測に最適な設計を行っている。理論的にはエネルギーバンド幅0.1meV以下の分光が可能であると示されている。干渉の観測に必要な条件としては、1)干渉計の結晶の完全性、2)モノクロメータの分解能、3)系の温度の安定性、4)ゴニオメータの角度分解能があり、2)〜4)までは十分であることが確認され、残る問題は1)だけであり、これを解決するには新たな切削方法およびエッチング方法の開発が必要があると述べられている。

 第5章では、試料として完全性の高いシリコン(991)を用いて、ブラッグ角90°における透過回折波の位相変化を測定した実験について述べられている。本実験では、LLL型X線干渉計を利用した試料の位相変化に敏感な測定システムを用いて測定を行っている。測定された入射角の変化に対する位相変化は、ブラッグ角が90°の極近傍には同時反射の影響が現れるものの、それ以外の領域では2波近似による理論とほぼ一致する結果が得られたと述べられている。

 第6章では、エネルギーバンド幅の非常に狭い57Feからの核共鳴散乱線を用いて、水晶(0610)におけるブラッグ角90°の回折の純粋なエネルギースペクトルを測定した実験について述べられている。測定の結果、ブラッグ角90°の回折波のエネルギーバンド幅が非常に狭いことが確認され、受け入れ発散角の大きなモノクロメータとして応用することが可能であると述べられている。

 第7章はまとめであり、放射光を用いて行ったブラッグ角90°における回折に関する実験の総括を行っている。

 第8章では、今後の展望が述べられており、FP干渉計の実現、ブラッグ角90°の回折の高分解能モノクロメータへの応用の可能性を指摘している。

 以上をまとめると、本研究はX線領域でのFP干渉計の実現に向けて、ブラッグ角90°における動力学的回折の特徴を理論と実験の両面から明らかにし、将来への素地を築いていている。これらの実験技術・基礎的知見は、X線光学の発展に大いに貢献することが期待される。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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