学位論文要旨



No 116112
著者(漢字) 小田切,庸正
著者(英字)
著者(カナ) オダギリ,ノブマサ
標題(和) 分子動力学法を用いた生体分子のシミュレーション
標題(洋)
報告番号 116112
報告番号 甲16112
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4949号
研究科 工学系研究科
専攻 システム量子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中沢,正治
 東京大学 教授 大橋,弘忠
 東京大学 助教授 高橋,浩之
 東京大学 助教授 長崎,晋也
 放射線医学総合研究所   山口,寛
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

 ヒト・ゲノムプロジェクトによる人の遺伝情報の解明は終わりを迎えつつあり、注目すべき対象が遺伝情報そのものから遺伝情報から作られるタンパク質の機能へと移ってきている。タンパク質を含めた生体分子の機能発現や反応機構を分子/原子レベルで詳細に調べることは今後の研究課題である。これまで生体分子の構造や活性部位の情報は主にNMRやX線構造解析などの実験で、機能は分子生物学での研究により得られてきたが、生体中でおこる分子の動的特性を原子レベルまで掘り下げて調べることには限界があった。

 この動特性を実験的に調べることは現状では非常に難しい。幸いにも近年、コンピュータの計算性能が急速に向上したことで、生体分子のシミュレーションにより分子の動特性が解析できるようになってきた。すなわち、生体分子のような大きな系に対して分子動力学(MD)法を用いた計算手法を適用できるようになってきた。本研究では、生体分子に特化した分子動力学プログラムAMBER[1]を用いて研究を行った。

本研究の目的

 MDシミュレーションで生体分子の動的性質を解析し、分子の機能に関わる情報を得ることを目的とする。はじめに、近年のコンピュータ性能の向上により高速計算が可能となってきたことから、(1)タンパク質を用いたMDシミュレーションを行うことで、計算時間の短縮のための近似計算に関してその効果と精度に関する調査を行った。

 次に、DNAの湾曲には塩基配列に特有なものがあるという議論に注目した。(2)その中でもアデニンの連続部(A-tract)に関するDNAの湾曲についての実験結果に注目し、MDシミュレーションによる結果の解析との比較を行った。

 最も大きな関心を寄せている課題に、放射線によるDNA障害の修復過程解明にMDシミュレーションが適用できるかどうかがある。(3)すなわち適用を行うためにいかなる方法があるかなどを検討することを目的とした。ここでは、DNAの二重らせんの一方が切断された損傷(single strand break)を持つDNAのMDシミュレーションについて研究を行った。

1 MDシミュレーションにおける近似計算法の効果

1-1.目的

i)SHAKE法の効果

 生体分子のMDシミュレーションでは、高周波数で動く結合距離や結合角を拘束することで運動方程式の時間刻み(Time Step)を長くとり、計算コストの削減を行うSHAKE法(2)がよく用いられる。SHAKE法による分子運動に与える影響は少ないとされているが、近似計算であるためその精度を確認する必要がある。計算機の能力が向上していることで長い時間間隔のMDシミュレーションが短時間で可能になってきたため、MDシミュレーションに対するSHAKE法の効果を再度確認した。ii)PME法の効果

 クーロン力などの長距離力を計算するために、計算対象の原子から一定距離以内にある原子だけを計算の考慮に入れるcutoff法が使用されることがあるが、定めた距離以遠にある原子との相互作用を無視したため結果の再現性に問題があった。そこで、cutoff距離以遠の長距離力成分の近似と計算速度を上げたParticle Mesh Ewald (PME)法[3]が提案され、周期的境界条件とともに近似の向上がはかられた。しかし、水溶液中における生体分子のMDシミュレーションの場合、周期的境界条件によって作られる自分自身の虚像boxが実像boxに対し強く影響するといわれている。これは自分と同じものが周囲に高濃度に存在する状態であり、生体中と異なる構造の揺らぎが懸念される。そこで、タンパク質周囲の水分子の量を変化させることでその影響について調べた。

1-2方法

i)Shake法の効果

 タンパク質の大きさに依存する可能性があるため、小さいpsv(designed small protein,図1A)と中程度のHpr(Histidine comtaining phosphocarrier protein,図IB)を用いた。MDシミュレーションでは、cutoff法とPME法を用いる区別に加え、

 SHAKEall: 全ての原子間距離を拘束

 SHAKEH: 水素原子を含む結合のみを拘束

の区別を行った。計算条件の概略を表1に示す。SCUT、SPMEはそれぞれcutoff法またはPME法を適用したMDシミュレーションである。8つのMDシミュレーションは温度が300K、周期的境界条件下で2[ns]のシミュレーションを行った。

ii)PME法の効果

 ここではpsvを用いた。psvを構成するどの原子からもBoxの端までの距離(Lmin)が最低8,10,15[A]離れている3種類のBoxを初期構造とした。その3種類の初期構造に対してcutoff法、PME法を適用した計6種類のシミュレーションを、300Kの温度でそれぞれ2[ns]のシミュレーション行った。計算条件の概略を表1に示す。

1-3計算結果

i)Shake 法の効果 8つのシミーレーシヨンにおいて、タンパク質を構成する原子位置の初期構造からのRoot mean Squuare deviation(RMSD)を比較してもSHAKEの有無による差は見いだせたかった。そこで、シミュレーションの最後の500[ps]の構造上に関して、平均構造の原子位置からの揺らぎを表すRoot mean spuare fluctuations (RMSF)を用いて構造の揺らぎを求めた。図2はHPrのRMSFのグラフで、黒の太線: SPME with SHAKEH、灰色の太線: SPME with SHAKEall、黒の細線:SCUT with SHAKEH、灰色の細線: SCUT with SHAKEall、黒く太い破線:はX線構造解析の温度因子から求められているものを比較に用いた。その結果、PME法を用いてSHAKEHを適用したものがより実験結果と合っていることがわかった。

(ii)PME法の効果

 Lminを変えた6種類のシミュレーションのそれぞれからたんぱく質を構成する原子同士のエネルギーを求めた。その中でもvan der Waals エネルギーの変化は特徴的であり、Lminが長くなるにつれて双方が収束するようにみえる(図3)。このことから、cutoff法を用いた場合には計算を考慮する水の分子数が増えるほどタンパク質の構造が固くなり、PME法の場合はboxが大きくなるほどイメージboxからの影響がすくなくなりタンパク質の構造が堅くなるっているようである。また、PME法を用いたLmin=8,l0,15Aのシミュレーションで後半のタンパク質の平均構造をとった場合、Lmin=8Åでは構造が変化したため不十分であることがわかった。

1-4結論

 このようなMDシミュレーションの解析の結果、タンパク質のシミュレーションには、PME法を用い、水素を含む原子の結合長のみを固定し、より大きなbOXを用いることが望ましいという事がわかった。

2)A-tractを含むDNA

2-4背景

 DNAの構造や特徴はDNAを構成する塩基配列に依存するものがある。その中でも、アデニン(A)の連続部であるA-tractはタンパク質などが結合しやすい部分であり、配列よって特徴的な湾曲を示すことが実験で示されている。その一つとして、PJ.Hagermanらの行った実験[4]に注目した。Hagermanらは、

 (i)octamer:[GAAATTTC]N

 (ii)decamer::[GGAAATTTCC]N(N=1,2,3_)

 (iii)dodecamer::[GGGAAATTTCCC]Nという中心にA-tractをもつDNAを用い、それぞれを繰り返し単位としてN(1,2,3,...)個結合させたものに対して電気泳動実験を行った。その結果、10量体のDNAのみが50塩基対以上(N>50)になった時に湾曲するという解釈であった。50塩基対以下では3種類のDNAは直線であるとの解釈であった。そこで本研究では、この結果の解釈を確認するために、次の様な中心にHagermanらが示したA.tractを含む3種類の16塩基対のDNAに対してMDシミュレーションを行った。

(1)TTTCGAAATTTCGAAA,(2)TCCGGAAATTTCCGGA,(3)CCGGGAAATTTCCCGG

2-2方法

 計算は粒子数(N)、水とDNAを入れる箱にかかる圧力(P)、温度(T=300K)のそれぞれが一定のMDシミュレーションを1[ns]の時間について行った。計算条件はそれぞれの通りである。(1)DNA(1018)、カウンターイオン(NA+)(30)、水分子(3517)、(2)DNA(1016)、カウンター一イオン(NA+)(30)、水分子(3526)、(3)DNA(1012)、カウンターイオン(NA+)(30)、水分子(3529)である。

2-3結果と考察

 それぞれのシミュレーションにおいて、DNAを構成する原子の位置の初期構造からのRoot Mean Square Deviation(RMSD)の経時変化は、およそ700[ps]以降で平衡化した。そこで、(1),(2),(3)のシミュレーションの700[ps]〜1.0[ns]区間について解析を行った。

 (1)平均構造からA-tractを含む繰り返し単位の共通部分(GAAATTTC)のらせん軸を求めた。その軸の端点間の距離(End to End length)、およびその軸に沿った長さ(Path length)の比を取り、湾曲の割合について調べた所、それぞれのA-tract部分にわずかに湾曲があることが確かめられ、他の実験やシミュレーションで言及されている特徴は再現できていた。DNAの構造をらせん上部および横より見たものを図4に示す。左からoctamer, Decamer, dodecamerである。

 次に、3種類のDNAの、それぞれのくり返し単位の平均構造を結合して、仮想的に長いDNAを構築した。その結果、Hagermanらが実験結果を基にDecamerの連続体で起こると仮定していた弓形の構造が、MDシミュレーションの結果からはdodecamerで起こった(図5)。DNAの構造について詳細に調べた結果、DNAの構造全体にわたり、塩基対間のパラメータがX線結晶構造解析などで得られた結果と異なっていることがわかった。また、DNAの電荷を中和するためのNa+は、数十psでDNAから大きく離れてゆくことがわかった。これらの結果、特に塩基対間のねじれの角度が小さくなっていることの原因は、DNA周囲のNa+の影響つまり、塩濃度が原因であろうと考えられる。

 それ故、電気泳動などの実験で得られたDNAの構造情報をそのまま生体中の構造に適用するには注意が必要であることがわかる。

3)鎖切断を含むDNAの分子動力学シミュレーション

 DNAの放射線による障害に関するシミュレーションには、これまで放射線の飛跡シミュレーションが主に使われてきた。飛跡構造シミュレーションによるラジカルの空間分布にDNA構造を重ね合わせることで、DNAの鎖切断の収量などが推定されるようになったが、飛跡構造シミュレーションによって示されたことは、DNA損傷の多様性と非特異性である。そこで、次の問題は放射線損傷のあるDNAの生体中における形態と、その修復過程に関心が移行しつつあるため、まず障害を持つDNAについてMDシミュレーションの適用を試みた。

 MDシミュレーションには塩基配列がTCGCGTTGCGCTであるDNAを使用し、中央部のチミン(T)の連続部の中間に一つの鎖切断(Single strand break : SSB)があると仮定した。AMBERでは次式でForce filedを計算する。左から順番に原子間の結合の伸縮、結合角の曲がり、4つの原子で作る二面角、van der Waals、静電相互作用のエネルギーである。

 当初は切断した部分にはAMBERの持つデータベースのforce fieldパラメータをそのまま適用していた。その結果DNAの構造が壊れたがその壊れかたに再現性がみられなかったため、生涯が起きた部分のforce fieldパラメータの不正確性を疑った。そこで、非経験的分子軌道法などを用いて新たにパラメータを見積もったところ、角度のforce fieldパラメータであるKθが大きく異なることがわかった。そこで新たなforce fieldパラメータを用いてシミュレーションを行ったところ、lnsのシミュレーションでも構造が安定し、さらに鎖切断のある塩基対問の距離が通常より狭くなるなどの変化がみられた。

4)まとめ

 本研究により、まずタンパク質のMDシミュレーションに対する最適化条件を求めた。この条件はDNAのMDシミュレーションに対しても有用である。また、2種類のDNAのシミュレーションにより、DNAの特徴的な構造が原子レベルで再現できる事が確認でき、今後、障害を持つDNAとその修復酵素を含む複合系というさらに複雑な生体反応機構に応用できると思われる。

[1] Case, D. A., D. A. Peariman, J. W. Caidwell, T. E. Chatham III, W. S. Ross, C. L. Simmerling, T. A. Darden, K. M. Merz, R. V. Stanton, A. L. Cheng, J. J. Vincent, M. Crowley, D. M. Ferguson, R. J. Radmer, G. L. Seibel, U. C. Shingh, P. K. Weiner, and P. A. Kollman. 1997. AMBER5. University of California, San Francisco.

[2] Ryckaert, J. P., G. Ciccotti, and H. J. C. Berendsen. J. Comput. Phys. 23,327(1977)

[3] Darden, T., D. York, and L. Pedersen.. J. Chem. Phys. 98, 10089(1993)

[4] Hagerman, P. J. Proc. Nati. Acad. Sci. USA, 81, 4632(1984)

図1:psvとHprの構造のリボン表示

図2:HPrのRMSF値

表1:計算条件

図3:Lminの変化に対するvan der Waalsエネルギー(灰色:BCUT,黒:BPME)

図4:A-tract部分のDNAの構造とらせん軸の表示

図5:100塩基対まで結合させたDNAの構造

審査要旨 要旨を表示する

 現在、遺伝子組み替え技術やDNAの塩基配列決定技術などの生体遺伝子工学に関する研究が盛んであるが、ヒトゲノム解読も修了しつつあり、今後は生体の機能の説明に研究の中心が移りつつあるといわれている。この生体の機能解明のためには、構造生物学的アプローチでは、蛋白質の立体構造解析が必須であり、そのためにNMR(核磁気共鳴)法や、X線、電子線、中性子線による構造解析から動態解析研究が注目されている。この構造解析の一手法として実験的アプローチを補完するものとして、コンピュータシミュレーションがあり、本論文は、生体高分子に対して分子動力学法(Molecular Dynamics, MD)計算によるアプローチ手法を用いており、それにより生体分子の性質や構造を解析しようとするのが本論文の目的である。

 第一章は序論であり、本研究の背景および目的を紹介するとともに、分子動力学計算法の計算コードとしてAMBER(Assisted Model Building on Energy Refinement)コードを用いると説明している。これは、このAMBERプログラムが生体高分子用に特化していること、また多くのMD計算法と比較してみると決定論的に求められる水素結合エネルギーの値をAMBERコードが最も良い計算結果を示したこと、従ってそのような経験的ポテンシャルエネルギー関数になっていることとしている。このAMBERコードは、MD計算のため、準備部分、シミュレーション計算の部分、MD計算結果の解析部分の3つのプログラム群があることを紹介し、各プログラム群の機能を説明している。

 第2章は、このAMBERコードで蛋白質に対してMDシミュレーション計算を効率的に行うための諸条件について検討している。例えば、周期的境界条件の設定法とその条件下でのParticle mesh Ewald法と呼ばれる長距離相互作用の計算法、また高速運動を固定して計算する拘束的計算法(shake法)などのほか、計算領域を決定するWater bathの大きさの影響を調べている。その結果、拘束条件では、水素原子の位置を固定して扱う方法により実験結果を再現できること、またやはりWater bathは大きい程よくて、ミニマムでも10オングストローム以上が必要なことが分った。

 第3章は、DNAの湾曲構造に関するもので、塩基配列によって決まる湾曲がDNAの複製とか転写に影響を与えることが知られている。そこで塩基であってアデニン(A)の連続部(A-tract)の存在による湾曲について調べたものである。これについてはHegermanらの電気泳動法の実験があるので、これとの比較を行なっている。Hegermanらの実験では、〔GGAAATTTCC〕Nというデカマーが弓形になるとの結果を得ていたが、MD計算では〔GGGAAATTTCCC〕Nというドデカマーが湾曲しており、実測との相違がみられた。このように電気泳動実験では、DNA周囲の塩濃度が高い場合や結晶化によるDNAへの影響が大きいときには、より生体に近い条件の場合に比べて差を生ずる可能性があることが分ったとしている。

 第4章は、放射線損傷等によりDNAに鎖切断が起こった場合に、その後DNAがどのように変化していくかを調べたものであり、具体的にはDNAのチミン(T)の連続部に、一本鎖切断(Single Strand Break, SSB)が生じたときDNAはどうなるのかを調べている。MD計算の結果は、SSBのあるDNAはかなり安定した構造にあり、そのために修復酵素がそのDNAを認識しやすく、従って修復し易い可能性があることが分った。この問題を更に追究するためには、SSBを持たない同じ塩基配列のDNAとの比較が重要であるとまとめている。

 第5章は本論文の結論であり、上述の成果を簡潔にまとめている。

 このように本論文では分子動力学計算を通じて、放射線とDNAとの相互作用という問題へのアプローチの仕方の有効性を示しており、システム量子工学におけるシミュレーション計算手法の新しい方向性を示しているといえよう。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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