学位論文要旨



No 116130
著者(漢字) 秋永,宜伸
著者(英字)
著者(カナ) アキナガ,ヨシノブ
標題(和) 遷移金属表面における分子の吸着と光解離に関する理論的研究
標題(洋)
報告番号 116130
報告番号 甲16130
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4967号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 越,光男
 東京大学 助教授 水野,哲孝
 東京大学 講師 中野,晴之
内容要旨 要旨を表示する

序論

表面科学について

 遷移金属表面で見られる触媒作用に対しては、主に工業面への応用から数多くの研究が行われている。Pd,Pt,Ru,Rh,Ir,Niといった金属を触媒としたsteam reforming processは、天然ガスとして豊富に存在する炭化水素から、H2・CO・CO2といった、NH3合成・CH3OH合成において重要な出発物質を供給する反応として表面触媒反応の重要な一例である。steam reformingに代表される熱的触媒反応、あるいは基底状態の触媒反応に代わる新しい触媒反応の可能性として、活発な研究活動が行われるようになったのは、表面における光化学反応であるが。金属表面における光化学反応はほとんどが基礎研究の段階にあり工業面・実生活面への応用は少なく、現状では金属表面における多くの表面光反応の機構が未解明のままである。

 また、表面科学の別の応用として、主として金基盤上にアルカンチオールによって形成される自己集積化膜(self-assembled monolayer,SAM)が高密度・高周期性・高い熱力学的・化学的安定性を持つことが見出され、注目を集めている。しかし、SAMについても応用的な研究が先行しており、SAMの構造・形成の機構・安定性を左右する因子といった基礎的な側面については不明な点が多いのが現状である。

表面化学における理論の役割

 このように、表面における化学は、応用面で重要とされながらもその反応機構を実験的に明らかにすることは困難であった。このような状況では、理論化学的手法が威力を発揮する。表面化学に対する理論的アプローチにはモデルハミルトニアンを用いる方法、ジェリウム等の極端にモデル化した系で表面を近似する方法などが過去に存在したが、ハード面・ソフト面での著しい発展を経た現在、主流となっているのは、分子軌道法・密度汎関数法を駆使した第一原理電子状態計算である。これにより、実験的な観察が困難であった、分子の吸着構造・表面における反応のエネルギーダイアグラムなどの特定が可能となった。本研究では、このような利点を活かして、次の2つの反応系に対して理論化学的アプローチを試みた。

1. Pt,Pd,Ni表面におけるCH4の光解離

 近年、Pt,Pd(111)表面に吸着したCH4分子が波長193mm(約6.4eV)の光照射でHとCH3に解離することが見出された。一般に、固体表面における光化学反応は、最初のステップとなる光吸収の機構によって2通りに大別される。吸着した分子が光を吸収し、励起されることによって反応が進む場合を直接励起型と呼び、主に絶縁体表面で見られる反応機構である。一方、基盤表面によって光が吸収された後、吸着種に電子移動することによって活性種が生成され、反応する場合を表面を介した間接励起型と呼ぶ。間接励起は半導体・金属表面で主に見られる。金属表面で起こる直接励起の例としては、Hoらによって報告されたMo(CO)6の光解離が挙げられるが、Mo(CO)6の励起状態は表面の影響をほとんど受けず、励起エネルギーにもシフトは見られないことが報告されている。

Pt,Pd表面でのCH4の光解離で用いられた193nmの励起光は、気相のCH4の光解離における吸収波長に比べ、約2eV低い励起エネルギーに相当する。表面との相互作用が非常に弱い系で、励起エネルギーにこのような大幅なシフトが見られる系は過去になく、表面科学的に極めて興味深い現象であるが、励起エネルギーがシフトする機構については有効なモデルがなく、不明のままであった。また、表面における光化学を理論的に検討した例は過去にほとんど存在しない。本研究では、ab initio電子状態理論を用いてPt,Pd,Niクラスター上に吸着したCH4の励起状態の計算を行い、(1)表面との相互作用によってCH4の励起状態が安定化されているか、(2)安定化の機構、(3)Ni表面で同様な反応が起こる可能性について検討した。CH4の吸着構造は密度汎関数法(B3LYT交換・相関汎関数)によって、7原子クラスターを用いて決定した。励起状態の計算にはCASSCF法を用いた。金属原子には相対論的有効ポテンシャルを用い、C,Hにはcc-pVDZにdiffuse関数を加えた基底を置いた。

Pt7クラスターに吸着したCH4の吸着エネルギーは約0.6kcal/molと算出された。実験によると、CH4と表面の間に化学的相互作用はなく、CH4の高い分極率による分散力が吸着の主な駆動力である。実験によるCH4のPt表面への吸着エネルギーは約5kcal/molと報告されている。得られた構造で、励起状態の計算をCASSCF法を用いて行い、C-H結合距離に関するポテンシャル曲線を描いた。基盤としてPt7クラスターを用いた時の各状態の主配置およびCH4の正味電荷を下表に示す。

 51A1状態はC-H結合解離的であることが、ポテンシャル曲線を描くことによって明らかになった。上表に示した主配置から、この状態がC-H結合性軌道からCH43sRydberg軌道とPt6s軌道の混成軌道への励起を主に含むことがわかる。また、電荷密度解析によるCH4の正味電荷は+0.559となっており、この励起がCH4から表面への電荷移動であることがわかる。同レベルの手法を用いたCH4分子の励起エネルギーは10.16eVと算出されていることから、CH43s-Pt6s軌道間相互作用によってCH4の励起状態が約3eV安定化されていることがわかる。これは観測されている励起エネルギーの変化量2eVを十分説明できる値である。得られた反応モデルの妥当性を検証するために、やはりCH4の光解離が観測されているPd表面について同様の計算を行ったところ、ほぼ同様の結果を得ることが出来た。そこで、得られたモデルを適用することによって、信頼性のある実験が行われていないNi表面での反応性の予測を試みた。Ni表面ではPt,Pd表面と同様、電荷移動状態の安定化が見られ、直接励起によるC-H解離反応が起こる可能性が示された。

本研究で明らかになったことをまとめると、

 (1) 表面との相互作用によってCH4の励起状態は安定化され、C-H解離に要する励起エネルギーが低くなる。

 (2) 安定化の機構は、CH43sRydberg軌道を介した金属のs軌道への電荷移動である。

2. Au,Ag,Cu表面におけるSCH3の吸着およびSAM形成に関する考察

 固体基盤上に分子が秩序を持って配列した自己集積化膜(SAM)は、従来用いられてきたLB膜に比べて(1)高い安定性、(2)膜表面の物性のより広範囲なチューニングが可能、等の利点を持ち、近年注目を集めている。Au(111)面上に形成されるアルカンチオールのSAMは高い構造秩序と扱い易さから、その分子配列構造・形成過程について数多くの研究が行われてきた。しかし、Au基盤上でのチオールの吸着位置・表面でチオールが2量化している可能性など、不明な点が多い。本研究では、IB族遷移金属Au,Ag,Cuの(111)表面におけるSCH3の吸着挙動を密度汎関数法を用いて調べ、異なる金属表面間での吸着挙動の相違を明らかにし、それらがSAM形成に及ぼす影響を考察する。計算にはBLY交換・相関汎関数を用いた。金属表面のモデルとして9原子x2層の18原子クラスターに周期的境界条件を課して用い、相対論的有効ポテンシャルを置いた。SCH3および金属の価電子軌道には数値的基底を用いた。

チオール分子は表面でのS-H結合解離によってチオレートラジカルとして存在し、金属−S相互作用によって表面に結合していることが知られているが、Au(111)面におけるアルカンチオレートの吸着位置について、実験的に確たる証拠は現在でも得られていない。次表は本研究で得られたAu,Ag,Cu(111)面の3つの吸着サイトにおけるSCH3の吸着エネルギーおよび構造である。fcc,bridge,on-topは図のように、それぞれ3,2,1配位の吸着サイトである。表中の方、hsurface-s,θ,R(Au-S)はそれぞれ表面−S距離、表面垂直方向からのS-C結合の傾き角、金属−S結合距離を表す。

1,2配位構造(on-top,bridge)と3配位構造(fcc)の間でSCH3分子の配向の違いが見られる。本研究の結果ではAg,Cu(111)面ではS-C結合が表面垂直方向を向いたfcc構造が最も安定となり、実験的観測と一致する。Au(111)面では2配位のbridge構造が最も安定となり、これはHayashiらにより最近行われた密度汎関数計算の結果と一致する。

右図に示すのはAu,Ag,Cu原子とSCH3の結合エネルギーと、表面on-topサイトでの吸着エネルギーの比較である。金属原子とSCH3の結合エネルギーはAgで最小となる。これは相対論効果によりAu-SCH3結合が安定となるためである。一方、表面での吸着エネルギーはCu,Ag,Auの順に低くなり、1原始に対するモデルでは一連の金属間に見られる傾向を説明できないことが明らかになった。

発表状況

(1)“Theoretical study of CH4 photodissociation on the Pt(111) surface”J.Chem Phys.,107(1997)415

(2)“Theoretical study of CH4 photodissociation on Pd and Ni(111)surfacds”J.Chem.Phys.,109(1998)11010

(3)“Density functional study for adsorption of methanethiolate on noble metal(111)surfaces” J.Chem Phys.,to be submitted.

表:CH4-Pt7の基底状態・励起状態における主配置およびCH4の正味電荷

表:IB族金属表面におけるSCH3の吸着エネルギーおよび吸着構造

図:bridge吸着構造及び吸着サイト

図:金属−SCH3結合エネルギーの比較発表状況

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「遷移金属表面における分子の吸着と光解離に関する理論的研究」と題し、密度汎関数法およびab initio法を用いた量子化学計算によって遷移金属表面におけるさまざまな興味深い化学現象を理論的に解明したものであり、全5章から構成されている。遷移金属表面における分子の吸着・反応は不均一触媒反応の優れたモデル系として古くから興味の対象となっている。実験技術の発達にともないこれらの表面反応の機構に関する詳細が明らかにされつつあるが、系の複雑性のため実験観測のみによる表面現象の理解には限界があり、理論計算による現象の解明が求められていた。

 1章は序論であり、2章では用いた理論的方法論の妥当性等が述べられている。

 第3章ではPt,Pd,Ni(111)表面におけるCH4の光解離について考察している。表面における分子の光による解離・脱離は、反応の初期ステップとなる励起の機構によって直接励起、間接励起の二つに分類される。直接励起型では表面吸着種が光で励起されて生じた活性種が反応する。間接励起型では表面などの基盤が励起され、生じた光電子が吸着種に付着することで生じた活性アニオン種が反応する。従来から直接励起は絶縁体表面、間接励起は半導体及び金属表面で主に見られる機構であったが、Pt,Pd(111)表面におけるCH4の光解離は遷移金属表面の光反応であるにも関わらず、直接励起型の反応であることが実験によって示唆されている。また基底状態におけるCH4の吸着が物理吸着であるにも拘わらず、表面におけるCH4の励起エネルギーが気相よりも約2eV低くなることが見出されている。本章では、Pt,Pd,Niクラスターに吸着したCH4の励起状態に対する反応ポテンシャル曲面の理論計算を行い、気相よりも安定な励起状態からのCH4分解の可能性を検討している。CH4の励起状態は吸着によって気相から1〜3eV安定化され、CH結合の解離につながることを明らかにした。つまり表面におけるCH4の光解離はCH4のRydberg軌道を介した表面への電荷移動によって起こることを理論的に明らかにした。また、実験のないNi表面でも同様のCH4の光解離反応が起こることを予測している。このような反応機構は従来観測されなかったものである。このような反応機構を検証するために、より多くの基盤を対象とした実験が期待される。

 第4章は貴金属表面に形成される長鎖アルカンチオールの自己集積化単分子膜(SAM)に関する理論研究である。SAMは高い構造秩序と安定性を併せ持ち、膜表面の物性を容易に制御できることから近年注目を浴びている。貴金属Cu,Ag,Auの(111)表面におけるSCH3分子の吸着構造および吸着エネルギーを明らかにし、その傾向について考察している。DFTによる構造最適化の結果、Cu,Ag表面ではfcc-hollowサイト、Au表面ではbridgeサイトが最も安定となり、相互作用の強さはCu>Ag>Auの順に小さくなることが示している。実験による観測結果は、いずれも今回の計算結果と一致する。吸着構造・吸着エネルギーに見られる傾向を理解するため、モデル分子系MSCH3(M=Cu,Ag,Au)の最安定構造およびM-SCH3結合エネルギーを計算し、表面で得られた結果と比較している。その結果、Cu,Ag表面間で見られた吸着エネルギー・構造の相違はモデル系CuSCH3,AgSCH3間の相違によるものと理解できる。一方、Ag,Au表面間の相違は表面系、モデル系ともに相対論効果によるものと結論している。Au表面でのAu-SCH3結合エネルギーにおける相対論効果はモデル系とは定性的にも異なっており、これは表面における電荷分布の分極により、相対論による表面一吸着種間共有結合の安定化が抑えられるためであるとしている。表面の特徴的な電子状態が化学吸着結合の性質、および吸着エネルギーの傾向に大きく影響することを示す重要な一例である。

 以上のように本論文は量子化学計算によって表面における興味深い現象に対する理解、新しい知見を提供したもので、理論化学、分子工学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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