学位論文要旨



No 116134
著者(漢字) 小林,由佳
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ユカ
標題(和) ラジカル解離反応に関する理論的研究
標題(洋) A Theoretical Study on Radical Dissociation Reactions
報告番号 116134
報告番号 甲16134
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4971号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 西郷,和彦
 東京大学 助教授 水野,哲孝
 東京大学 講師 中野,晴之
内容要旨 要旨を表示する

 近年、分子の電子状態を記述する理論は大きく発展し、Hartree-Fock法とそれに基づく電子相関法や、密度汎関数法(DFT)の開発により、閉殻系については、大きな分子系に対しても効率よくかつ精度よく取り扱うことが可能となった。しかしながら開殻系は、依然として電子状態を精度良く記述することが難しいものの一つである。開殻系の中でも、開殻一重項状態(Open-shell singlet)は、2つの配置の線形結合によって記述されるため、特に取り扱いが困難な系として知られる。開殻系の化学反応の例として、本研究のテーマであるラジカル反応が挙げられるが、ラジカル分子は活性に富み、制御が難しいことから、理論的な反応予測が極めて有効な手段である。

 本研究では、以下の研究を通して、開殻系及び、ラジカル反応の理論的記述に関する理解を深めた。

1, 金属触媒表面上で生じるラジカル解離反応(閉殻系から開殻一重項となる解離反応)

  →NO分解反応の反応機構の解明

2, ラジカル解離反応の定量性についての系統的な検討

3, 開殻系の多配置Moller-Plesset摂動論(MRMP法)の開発

1, V2O5触媒上におけるNH3による一酸化窒素(NO)分解反応

 NOは、大気汚染や酸性雨の原因物質であり、大気に排出される前に無害な気体に変換する必要がある。現在では主に、金属触媒上でNH3によりNOをN2とH2Oに還元するSelective Catalytic Reduction(SCR)によって除去されている。

4NO+4NH3+02→4N2+6H2O

本博士論文では金属触媒としてV2O5触媒を用いて、理論的にこの反応のメカニズムについて検討した。

 実験的手段により反応の活性種であると示唆されているNH4+とNH3+のNOとの反応について触媒のない条件で検討した。NO分解の第一段階であるN-N結合形成の過程では、NH4+はN-N結合を形成する際に47kca1/molの活性化障壁を有するのに対し、NH3+は障壁を有さす発熱的にNOとの中間体を形成するため、熱力学的に有利であることが分かった。この差は、それぞれの生成したN-N結合が、NH4+とNOから成る場合、反結合性のσ軌道に一つの電子が占有された0.5重結合となり不安定であるのに対し、NH3+とNOから成る中間体では、N-N結合はNH3+のlonepairからNO+への配位結合となり、比較的安定であることに起因している。NH3+は、単独では比較的不安定な分子種であるが、これが表面上で生成した場合、速やかにNOと反応することが予想される。

 触媒表面上において、このNH3+種が生成する可能性についてV2O5クラスターモデルを用いて検討した。用いたクラスターは、次図に示すようにV2O5結晶、(010)表面の二座の活性サイトを含むものである。CASSCF計算の結果、V=0結合は基底状態においてもdπ→dπ*励起配置が多く混入した多配置的な電子状態を有する、反応に富む結合であり、単配置に基づく理論では記述が困難であることが分かった。また、CASSCF法によると、一重項状態は三重項状態より38kcal/mol安定であることから、反応は一重項のポテンシャル表面上で生じることが示唆される。

 上述のクラスターを用いて、活性種NH3+の表面上での生成可能性について検討した。CASSCF法によるNH4+の表面への吸着エネルギーは27kcal/molと見積もられ、実験値と良く一致する。この吸着構造から、NH4+の一方のサイトにおいて水素原子が引き抜かれるラジカル解離反応について検討したところ、反応の遷移状態構造では、V=O結合と、N-H結合の両方が開裂し、4つのスピンが生じた開殻一重項として記述されていた。また、水素原子が引き抜かれて行くサイトのもう一方で特異的に強い水素結合が形成されているという化学的に興味深い現象が生じていることが明らかとなった。生成物NH3+もまた、強い水素結合によって表面に吸着されており、NH3+単独では不安定であるが、この強い水素結合によって、表面上では比較的安定に存在することが可能であるということを見出した。このことから、触媒表面上のV=O結合は容易に開裂し、吸着したNH4+分子から水素原子を引き抜いて、NOと反応する際に有効な活性種NH3+を発生させる役割を担っていることが明らかとなった。

2, ラジカル解離反応の遷移状態記述の定量性に関する考察

 閉殻系から閉殻系への結合解離は、Hartree-Fock(HF)配置によって記述可能なため、HF配置に基づいて電子相関(動的相関)を取りこむことで、精度良く記述出来る。しかしながら、ラジカル解離では特にその遷移状態近傍における電子状態が複雑になり、活性化エネルギーを定量的に見積もるためには、擬縮退効果を考慮した電子相関(静的相関)を取り込む必要性がある。

 多配置Mφller-Plesset摂動論(MRMP法)は、CASSCF波動関数を参照関数として、摂動展開を行なうため、静的相関と動的相関の両方をバランス良く取り込むという特徴がある。本博士論文では、MRMP法を用いて水素引き抜き反応の反応エネルギー、活性化エネルギーを見積もり、その値がどの程度実験値を再現するかその定量性について検討した。比較の対象としては、単配置に基づく理論であるMP2、CCSD(T)、そして近年、多くの化学系について精度の良い値を与えることが明らかになりつつある密度汎関数法(DFT)を用い、MRMP法との比較を行なった。

 四種の水素引き抜き反応をモデル系として用い、検討を行なったが、本要旨ではそのうちの二種について取り上げる。

下表にMRMP法及び、MP2,CCSD(T)、B3LYPよって計算された、(R1),(R2)反応の反応エネルギー及び、活性化エネルギーを示す。MRMP法による生成エネルギー、生成エネルギーは(R1)、(R2)反応共に実験値からのずれは誤差範囲内であり、良く一致している。一方、単配置に基づく方法では、特に活性化エネルギーを定量的に記述することが困難であることが分かる。CASSCFの配置係数(CI係数)に着目すると、反応物、遷移状態、生成物のそれぞれの構造間で、主配置の重みが異なり、活性化エネルギー、反応エネルギーを定量的に見積もるためには、それぞれの構造固有の多配置性を考慮した上で、バランス良く電子相関を取り入れる必要があることが明らかとなった。

3, 開殻系多配置Mφller-Plesset摂動論(MRMP法)の開発

 MRMP法は、単配置を基にする理論では記述の困難なラジカル反応についても定量的な値を算出するが、未だ残された問題も存在する。その例として、いくつかの分子においては、高スピン状態の電子相関を過大評価してしまう問題が知られている。例えば、CH2分子の一重項-三重項間のエネルギー分裂は、基底関数にdzpを用いた場合、full CI法によると11.97kcal/molと見積もられるが、MRMP法によると15.79kcal/molであり、そのずれはかなり大きいものである。これは、CH2の3B1状態を過剰に低く見積もっていることに起因する。MRMP法においては軌道エネルギーα、β軌道をともに等しいものとして取り扱う。しかしながら、S=0ではないスピン状態では、α電子とβ電子とでは、環境が異なるはずである。そこで、この軌道エネルギーをスピンに依存した形に変更し、その軌道に基づいた摂動展開を行なうことを試みた。本博士論文で取り扱う、スピンに依存したCASSCF軌道エネルギーは、

である。S=0以外の場合には、α電子密度Dklαと、β電子密度Dklβ異なるので、εiαと、εiβも異なる。

 この理論に基づき、プログラムを作成し、CH2分子に対するテスト計算を行なったところ、CH2の3B1状態の、一重項一三重項間のエネルギー分裂幅はFull CI法の結果と1kcal/mol以下の誤差で一致し、大きく改善された。

V2O7H4クラスターの一重態の最適化構造

(ROHF/3-21G),単位はそれぞれ、Å,°,()*内はV2O5結晶の値

種々の方法論によって見積もられたR1,R2反応の反応熱及び活性化エネルギー

Er:生成エネルギー、Ea:活性化エネルギー,単位はkcal/mol基底関数はcc-pVTZを使用。しかし(R1)のMP2では6-31G*,CCSD(T)ではcc-pVDが使用されている。*:R1については実験値、R2についてはMRCIによる計算値を比較の対象とする。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「A Theoretical Study on Radical Dissociation Rcactions(ラジカル解離反応に関する理論的研究)と題し、開殻分子系の理論的取り扱い、特にラジカル反応の反応機構の理論的解明および開殻系分子の電子理論の開発に関する研究をまとめたものである。

 分子の電子状態を記述する理論は大きく発展し、閉殻系については大きな分子系に対しても効率よく高精度に取り扱うことが可能である。しかしラジカルなどの開殻分子系は依然として精度良く記述することが難しいものの一つである。本論文は開殻分子系、特にラジカル反応の反応機構を理論解明および開殻分子系の電子状態理論の開発に関する研究をまとめたものであり、全5章から構成されている。

 第1章は序論であり、研究の背景および研究目的が述べられている。第2章は金属触媒表面上で生じるラジカル解離反応に関する研究、第3章の水素引き抜きラジカル反応に関する研究、第4章の開殻分子系をより定量的に記述するための理論の開発についてまとめられている.

 第2章では五酸化バナジウム触媒を用いたアンモニアによる脱硝反応機構に関する研究である。一酸化窒素は大気汚染や酸性雨の原因物質であり、工業的には金属触媒上でアンモニアを還元剤として一酸化窒素を窒素と水に還元する高選択的触媒反応によって除去している。本論文では五酸化バナジウム触媒を用いてこの反応の機構を理論的に解明している。活性種であると示唆されているNH4+とNH3+ラジカルの一酸化窒素との反応について詳細なエネルギー・ポテンシャル曲面を計算し、NH3+ラジカルがNH4+に比べて熱力学的に有利であることを示唆した。さらに五酸化バナジウム結晶(010)表面の二座の活性サイトを含むクラスターモデル計算から、表面の水素親和力は43.1kcal/molと大きく反応性に富むこと、触媒表面においてはNH4+から水素が容易に引き抜かれ、解離生成物であるNH3+ラジカルはわずか26.7kcal/molの活性化エネルギーで発生することを明らかした。NH3+ラジカルは極めて強い水素結合(30kcal/mol近く)によって表面に吸着されている。この強い水素結合は近年、生体反応を促進する重要な因子として注目されているが、固体触媒反応においてその役割が指摘されたのはこれが初めての例である。強い水素結合を利用した反応制御への道を拓いたものであり注目に値する。

 第3章はラジカル解離反応における遷移状態の理論的記述に関する考察である。ラジカル反応では遷移状態近傍における電子状態が複雑になり、理論計算で活性化エネルギーを定量的に見積もることは難しい。H+H2O→H2+OHをはじめとする4種類の水素引き抜き反応をモデル系として取り上げ、多配置摂動論であるMultireference Moller-Plesset(MRMP)法を用いて反応エネルギー・活性化エネルギーを算出し、実験値との比較検討を行っている。

4種全ての場合において実験値からのずれは誤差範囲内である。ラジカル反応における活性化エネルギー、反応エネルギーを定量的に見積もるためには擬縮退効果である静的電子相関と電子衝突から生じる動的電子相関をバランス良く取り入れることが極めて重要であることを指摘している。

 第4章ではスピンに依存した軌道エネルギーを用いた多配置摂動論の理論開発を行っている。MRMP法の課題の1つに高スピン状態の電子相関を過大評価することがある。このためスピン多重度の異なる状態間エネルギーの見積もりに誤差が生じる。本研究では軌道エネルギーをスピンに依存した理論を考案し、それに基づいた摂動展開を行なっている。メチレン分子の一重項・三重項間のエネルギー分裂幅は従来のMRMP法では4kcal/molもの誤差が生じる。新しく提案された理論ではエネルギー分裂幅を誤差1kcal/mpl以下で正しく算出し、大幅に改善されることを示している。さらにいくつかの分子系でスピンの異なる状態間エネルギーを評価し、数値計算から本理論の近似の妥当性を示している。

 第5章は結論であり、同時に将来の展望がまとめられている。

 以上のように本論文は、理論研究によりラジカル反応の反応機構を解明し、同時に開殻系電子状態理論の開発を行うことにより、開殻系分子の電子構造に関する知見を深めたものであり、理論化学、分子工学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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