学位論文要旨



No 116178
著者(漢字) 後藤,明俊
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,アキトシ
標題(和) イネ穎果の登熟に関する生理生態学的研究
標題(洋)
報告番号 116178
報告番号 甲16178
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2208号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,龍一
 東京大学 教授 秋田,重誠
 東京大学 教授 長戸,康郎
 東京大学 教授 山口,五十麿
 東京大学 助教授 山岸,徹
内容要旨 要旨を表示する

 多収性品種の育成を目的として、近年、大きな穎花着生力をもつ新しい穂重型品種の開発が進められている。しかし、実際に育成された穂重型品種は必ずしも高収量をあげていない。例えば、国際稲研究所において育成された、New Plant Type(NPT)系統の一部では、着生穎花数は多いものの、登熟歩合が低いため、収量がむしろ減少する傾向さえみられた。

 イネの穂には、登熟が優先的に進む強勢穎果と、登熟が遅れやすい弱勢穎果とが存在する。強勢穎果と弱勢穎果の違いは、これら2種の穎果のシンク強度の違いに帰せられる。シンク強度は炭水化物の代謝に関わる酵素や植物ホルモンによって制御されている可能性がある。本論文は、強勢穎果と弱勢穎果のシンク強度を決定する要因として、炭水化物代謝関連酵素の活性と植物ホルモンの消長を取り上げ、品種による穎果の登熟様式の違いが生じる機構を調べたものである。

第1章 イネ穎果の登熟様式を決定する遺伝的要因

1)穎果による登熟様式の違いを生じる原因として、生態型、穂の大きさなどの遺伝的要因があげられる。本実験では、IR72(インディカ穂数型)、タカナリ(インディカ穂重型)、アキニシキ(ジャポニカ穂数型)、それにNPT系統の1つIR65598-112-2(熱帯ジャポニカ穂重型)を供試し、各品種の穎果間の登熟様式の違いを比較検討した。まず、強勢穎果は、開花後直ぐに登熟を開始し、登熟の開始時期には品種間で差はなかったが、登熟の速度には品種間で差がみられ、ジャポニカ品種のアキニシキやIR65598-112-2よりも、インディカ品種のIR72やタカナリで高かった。一方、弱勢穎果では、登熟の開始時期においても違いがみられ、登熟開始前の穎果の成長停止期間(ラグフェイズ)の長さに品種間差がみられた。ラグフェイズはインディカ品種のIR72やタカナリでは長かったのに対し、ジャポニカ品種のアキニシキやIR65598-112-2では短かった。

2)穎果の一部を切除するなどしてシンク・ソース比を変化させ、それにともなうラグフェイズの長さの変化を調べたところ、ジャポニカ品種のアキニシキやIR65598-112-2と比較してインディカ品種のIR72、タカナリの方が変化が大きかった。ラグフェイズは穂内における穎果間の養分競合の回避機構として機能していると考えられることから、弱勢穎果のラグフェイズの生じやすさに品種間差があることが示されたが、これは穎果間の養分競合の回避程度には品種間差が存在することを示唆していた。

3)アキニシキやIR65598-112-2では、収穫期における強勢穎果と弱勢穎果の体積に有意な差が認められたのに対し、IR72やタカナリでは有意な差が認められなかった。

4)IR65598-112-2では、穎果間引き処理により穂内の養分競合を弱めても、強勢穎果、弱勢穎果の穎果の比重が他の品種よりも共に低かったことから、個々の穎果のシンク強度が低い可能性が示された。

第2章 穎果の登熟過程におけるデンプン、スクロース、ヘキソースの消長

1)穎果を、穎と穎を除いた部分(以下、便宜的に果実と呼ぶ)とに分け、各々で炭水化物の消長を調べた。穎の炭水化物蓄積は、果実のデンプン蓄積が活発な時期においてのみ増加しており、弱勢穎果ではラグフェイズの期間中、穎における炭水化物含量は増加していなかった。また、弱勢穎果ではシンクに対するソース量の上昇にともない、穎におけるデンプン蓄積の最大値が増える傾向が認められた。以上より、穎における炭水化物蓄積の役割は、登熟が旺盛な時期において、果実に輸送された炭水化物の余剰分を一時的に蓄積することであると推察された。

2)果実のスクロース濃度は、果実の初期成長の段階で最も高く、成長が進むにつれ減少していた。しかしながら、その低下の仕方は、品種および穎果の着生位置で異なっており、デンプン蓄積が不活発な時には、スクロース濃度の減少が著しく遅れた。このことは逆に、スクロース濃度が高くても、必ずしもデンプン蓄積が活発にならないことを示しており、ラグフェイズ終了後の穎果の成長が、穎果への炭水化物の供給量では無く、炭水化物代謝に関連する要因によって制御されている可能性が示唆された。

3)各穎果におけるデンプン、糖類の蓄積の最大値は、品種、穎果の着生位置により異なっていたが、シンク・ソース比を変えても大きな変化がなかったことから、品種や穎果の着生位置といった要因により決定される形質であると考えられた。IR65598-112-2では、着生位置に関係なく、果実のデンプン濃度およびスクロース含量が他品種に比べ低く推移しており、穎果間引き処理によっても増加しなかった。IR65598-112-2の穎果ではシンク側の代謝活性が他の品種よりも低いことが示唆された。

第3章 穎果の登熟過程におけるスクロース分解関連酵素活性の推移

1)穎果に達したスクロースがデンプンまでに代謝される際の鍵酵素である、スクロースシンターゼ(SUS)の活性を測定し、穎果の登熟様式との関連を調べた。全登熟期間を通じて、果実のSUS活性とデンプン蓄積速度との間には有意な正の相関関係が認められた(P<0.01)。このことから、果実中のデンプン蓄積速度は、SUS活性により代謝的に制御されていることが示唆された。また、IR65598-112-2の両穎果では、SUS活性が登熟期間を通じて、他の品種よりも低く推移していた。

2)果実新鮮重あたりの細胞壁結合型インベルターゼ(CWI)活性と各穎果スクロース濃度との間にも有意な相関関係が認められた。このことは、CWI活性が、果実のスクロース濃度に応じて変化することで、果実のスクロース濃度の調節に関与している可能性を示唆していた。

3)果実の腋胞型インベルターゼ(VCI)活性は、強勢穎果およびラグフェイズの短い弱勢穎果では、果実の成長初期段階である縦伸長期にピークを示し、ラグフェイズの長い弱勢穎果では、果実のVCI活性がピークに達する時期が遅く、乳熟期にピークを示した。以上より、VCI活性は、穎果の初期成長の調節に深く関わっており、ラグフェイズの発生とも関係している可能性が示された。

第4章 穎果の登熟過程におけるデンプン合成関連酵素活性の推移

1)デンプン合成の段階で働く、ADPグルコースピロホスホリラーゼ(AGPase)、スターチシンターゼ、デンプン分枝酵素(Q酵素)、デンプン枝切り酵素(R酵素)の活性を測定し、登熟様式との関連を調べた。胚乳中の各酵素活性の最大値とデンプン蓄積速度の最大値を、品種および穎果の着生位置間で比較してみると、AGPaseとQ酵素のみにおいて対応関係が認められた。また、穎果の旺盛な成長の時期を過ぎてデンプン蓄積速度が低下する時期において、AGPaseは活性の低下が認められたのに対し、Q酵素は活性が高いままであった。そこで、全登熟期間を通じて、胚乳中のAGPaseおよびQ酵素の活性と果実のデンプン蓄積速度との対応関係を調べたところ、AGPase活性のみがデンプン蓄積速度と比較的強い正の相関関係を示していた。以上より、デンプン合成関連酵素のうちで、登熟期間全体を通じて、登熟速度の制御に関わっている酵素はAGPaseであることが示唆された。AGPase活性の最大値は、シンク・ソース比を変化させても、ほとんど変化していなかったので、品種と、穎果の着生位置により決定される形質であることが示唆された。また、IR65598-112-2の両穎果では、AGPase活性も登熟期間を通じて、他の品種よりも低く推移していた。

2)スターチシンターゼ、R-酵素の活性は品種間での違いが大きく、穎果間のデンプン合成速度の違いと対応していなかった。

第5章 穎果の登熟様式と植物ホルモンとの関係

1)登熟様式に関連するホルモンとして、サイトカイニンとアブシジン酸に着目した。果実でのサイトカイニン含量は、強勢穎果、弱勢穎果共に、果実の成長初期段階である縦伸長期においてピークがみられた。穎果内におけるアブシジン酸(ABA)含量の変化は、弱勢穎果ではサイトカイニンの変化にやや遅れるものの、デンプン蓄積が活発になる前の、初期成長の段階で多く蓄積されていた。

2)サイトカイニンおよびABAを外与したところ、弱勢穎果ではラグフェイズが短縮され、初期成長が促進されることが示された。その効果は、サイトカイニンの方がABAより大きかった。以上より、ABAおよびサイトカイニンは穎果の発育の初期段階を制御していることが示唆された。

 以上より、穎果間での登熟様式の違いには品種間差が存在していることが示された。穎果間での登熟様式の違いを炭水化物代謝の面から解析した結果、AGPase、SUS活性がデンプン蓄積速度の制御に強く関わっていること、VCI活性は、ラグフェイズの発生に関与している可能性が示された。また、ABA、サイトカイニンといった植物ホルモンは、穎果の初期成長を調節する要因となっていることが示唆された。また、近年開発されたNPT系統の1つであるIR65598-112-2は、登熟期間を通じてSUSやAGPaseの活性が低いため、個々の穎果のシンク強度が低いことが示唆され、この点での改良の余地があると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 イネの穂における強勢穎果と弱勢穎果の違いは、これら2種の穎果のシンク強度の違いに帰せられる。本論文は、強勢穎果と弱勢穎果のシンク強度を決定する要因として、炭水化物代謝関連酵素の活性と植物ホルモンの消長を取り上げ、穎果の登熟様式の違いが生じる機構を調べたものである。

I.イネ穎果の登熟様式を決定する遺伝的要因

1)IR72(インディカ穂数型)、タカナリ(インディカ穂重型)、アキニシキ(ジャポニカ穂数型)、それに、最近国際稲研究所で開発された新草型イネ(New Plant Type,NPT)系統の1つIR65598-112-2(熱帯ジャポニカ穂重型)の4品種につき、穂内穎果間の登熟様式の違いを比較検討した。強勢穎果については、登熟の開始時期に品種間で差はなかった。しかし、登熟の速度には品種間で差が見られ、インディカ品種のIR72やタカナリが、ジャポニカ品種のアキニシキやIR65598-112-2よりも高かった。一方、弱勢穎果については、登熟開始前の穎果の成長停止期間(ラグフェイズ)の長さに品種間差がみられ、インディカ品種では長かったのに対し、ジャポニカ品種では短かかった。

2)穎果の一部を切除するなどしてシンク・ソース比を変化させ、それにともなうラグフェイズの長さの変化を調べた。ジャポニカ品種と比較してインディカ品種の方が変化が大きかった。これは穎果間の養分競合の回避程度が、インディカ品種で大きいことを示唆していた。

II.穎果の登熟過程におけるデンプン、スクロース、ヘキソースの消長

1)果実のスクロース濃度は、果実の初期成長の段階で最も高く、成長が進むにつれて減少した。しかしながら、スクロース濃度が高くても必ずしもデンプン蓄積が活発にならなかったことから、穎果の成長が、穎果へのスクロースの供給量ではなく、デンプン合成に関連する要因によって制御されている可能性が示唆された。

2)各穎果におけるデンプン、糖類の蓄積の最大値は、品種、穎果の着生位置により異なっていたが、シンク・ソース比を変えても大きな変化がなかったことから、品種や穎果の着生位置といった遺伝的要因により決定される形質であると考えられた。

III.穎果の登熟過程におけるスクロース分解関連酵素活性の推移

1)全登熟期間を通じて、果実のスクロースシンターゼ(SUS)活性とデンプン蓄積速度との間には有意な正の相関関係が認められた。このことから、果実中のデンプン蓄積速度は、SUS活性により代謝的に制御されていることが示唆された。

2)果実新鮮重あたりの細胞壁結合型インベルターゼ(CWI)活性と各穎果のスクロース濃度との間にも有意な相関関係が認められた。このことは、CWI活性が、果実のスクロース濃度に応じて変化することで、果実のスクロース濃度の調節に関与している可能性を示唆していた。

3)果実の液胞型インベルターゼ(VCI)活性は、穎果の初期成長の調節に深く関わっており、ラグフェイズの発生とも関係している可能性が示された。

IV.穎果の登熟過程におけるデンプン合成関連酵素活性の推移

 全登熟期間を通じて、胚乳中のADPグルコースピロホスホリラーゼ(AGPase)およびデンプン分枝酵素(Q酵素)の活性と果実のデンプン蓄積速度との対応関係を調べたところ、AGPase活性のみがデンプン蓄積速度と比較的強い正の相関関係を示していた。AGPase活性の最大値は、シンク・ソース比を変化させても、ほとんど変化していなかったので、品種と、穎果の着生位置により決定される形質であることが示唆された。

V.穎果の登熟様式と植物ホルモンとの関係

1)果実でのサイトカイニン含量は、強勢穎果、弱勢穎果ともに、果実の成長初期段階である縦伸長期においてピークがみられた。穎果内におけるアブシジン酸(ABA)含量の変化はデンプン蓄積が活発になる前の、初期成長の段階で多く蓄積されていた。

2)サイトカイニンおよびABAを外与したところ、弱勢穎果ではラグフェイズが短縮され、初期成長が促進されることが示された。その効果は、サイトカイニンの方がABAより大きかった。以上より、ABAおよびサイトカイニンは穎果の発育の初期段階を制御していることが示唆された。

 以上より、本論文は、イネ穎果間での登熟様式の違いを炭水化物代謝の面から解析し、多収性品種の開発に情報を提供するものであり、学術上、応用上貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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