学位論文要旨



No 116199
著者(漢字) 篠原,正浩
著者(英字)
著者(カナ) シノハラ,マサヒロ
標題(和) 増殖因子によるアクチン再構成を制御するホスファチジルイノシトール三リン酸結合タンパク質p70
標題(洋)
報告番号 116199
報告番号 甲16199
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2229号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 伊東,広
 東京大学 助教授 反町,洋之
内容要旨 要旨を表示する

 Phosphatidylinositol 3-kinase(PI(3)K)は細胞外からの増殖因子や分化因子により活性化されるリン脂質キナーゼで、細胞内情報伝達因子の一つである。このPI(3)Kは、細胞内においてphosphatidylinositol 4,5-bisphosphate(PtdIns 4,5-P2)を基質とし、そのD-3位をリン酸化することによりPtdIns 3,4,5-P3を産生する。生成したPtdIns 3,4,5-P3は更にセカンドメッセンジャーとして働き、下流因子へと細胞外からのシグナルを伝えるものと考えられている。近年、PI(3)Kが関与している細胞内における現象が明らかにされており、遺伝子の転写、小胞輸送、細胞骨格の再構成など、様々な細胞応答を調節していることが報告されている。セカンドメッセンジャーであるPtdIns 3,4,5-P3に結合するタンパク質としていくつか同定されているが、それだけではPI(3)Kが関わる多岐にわたる生命現象の全てを説明することはできない。我々の研究室ではPtdIns 3,4,5-P3に結合するタンパク質をPtdIns 3,4,5-P3アナログビーズを用いて精製し、同定を行った。いくつかのPtdIns 3,4,5-P3結合タンパク質が同定されたが、本研究においては70kDaのタンパク質、p70についてその機能解明を試みた。

 P70は、B細胞特異的immunogloblin class switch recombinase complexの構成因子、swap-70としてマウス脾臓B細胞より同定されていた。Swap-70は、pleckstrin homology(PH)ドメイン、3つの核移行シグナル(NLS)、1つの核外移行シグナル(NES)を持つ。抗体のクラススイッチを誘導する刺激により、脾臓B細胞の核内に発現が見られることが報告されているが、これらの実験結果について再現させることはできなかった。そこで、このタンパク質についてPI(3)K依存的な他の機能があるものと考え、新たな機能を解明することにした。

 1.増殖因子によるPI(3)K依存的ラッフリング形成への関与

 P70のcDNAとgreen fluorescent protein(GFP)の融合タンパク質GFP-p70をCOS-7細胞に発現させて、GFP-p70の局在を共焦点レーザー顕微鏡により観察した。その結果、NLSの存在にもかかわらず細胞質に局在することが判明した。活性化型PI(3)Kを共発現させることによりこの局在は細胞膜へと変化し、PI(3)Kの阻害剤であるwortmanninを作用させると細胞膜移行が抑制された。欠失変異体およびPtdIns 3,4,5-P3との結合能を欠いたPHドメインの点変異体(R230C)を用いた同様の実験により、この細胞膜への移行にはPHドメインが必要であることが判明した。これらの結果により、p70は細胞質に存在するが、細胞膜上にPtdIns 3,4,5-P3が生成することによりPHドメインを介して局在を変化させることが考えられた。

 また、GFP-p70を発現させたCOS-7細胞を、epidermal growth factor(EGF)で刺激して局在の変化を観察した。刺激後3分で強い細胞膜への局在が見られた。この時のアクチンの状態を観察したところ、p70の局在はラッフリング膜と一致した。このラッフリング膜への移行は、GFP-P70を発現させたNIH3T3細胞を、platelet derivcd growth factor(PDGF)で刺激した時にも観察され、wortmanninで抑制された。また、PtdIns 3,4,5-P3と結合しないR230C変異体およびC末端領域を欠いた変異体では、ラッフリング膜の形成は抑制された。

 更に、374、375番目のリジン残基をアラニン残基に変えた変異体(K374A/K375A)を発現させた細胞におけるアクチンの状態を観察したところ、非刺激時においてもラッフリング膜を形成していた。このことは、K374A/K375Aがp70の恒常的活性型変異であることを示している。また、低分子量Gタンパク質Racのdominant negative変異体やGTP結合型Rac特異的に結合するPAK1(p21-activated kinase)のCRIB(Cdc42/Rac interactive binding)ドメインとの共発現により、このK374A/K375A変異体によるラッフリング膜の形成は抑制されることが判明した。

 以上の結果より、p70は増殖因子によるPI(3)K依存的なラッフリング膜形成に関与し、下流には低分子量Gタンパク質Racが存在することが示唆された。

 2.p70によるRacの活性化およびグアニンヌクレオチド交換反応促進

 in vivoにおけるp70によるRacに対する活性化について検討を行った。COS-7細胞にglutathione S-transferase(GST)を融合したRacを、p70およびその変異体を単独または活性化型PI(3)Kと共に発現させ、Racに結合したGTP/GDP比を測定した。P70 wild typeまたはp70 K374A/K375Aを共発現させることによりRacに結合しているGTP/GDP比は上昇し、活性化型PI(3)Kとp70 wild typeの共発現により更に上昇した。それに対してp70 R230Cと活性化型PI(3)Kの共発現ではGTP/GDP比の上昇を抑制した。これらの結果より、p70はPI(3)K依存的なRacの活性化因子であることが判明した。

 また、Maltose binding protein(MBP)を融合したp70、GST Racを大腸菌で発現させて精製し、in vivoにおけるp70とRacの結合実験を行った。その結果、Mg2+存在下において結合せず、Mg2+非存在下においてのみ結合が見られた。P70はヌクレオチドを結合していない中間体のRacと結合するグアニンヌクレオチド交換因子(guanine nucleotide exchange factor;GEF)の性質を示した。この結合はRac特異的であり、同じファミリーに属するRhoやCdc42との結合は見られなかった。この結果から、p70はRac特異的GEFである可能性が示唆された。

 上記の実験結果からp70はRac特異的GEFであることが予想されたので、in vivoにおけるグアニンヌクレオチド交換反応に対する影響について検討を行った。GDPを結合させたRacを、[3H]GDP存在下においてp70またはPtdIns 3,4,5-P3を結合させたp70と混合、経時的にRacと結合した[3H]GDPを定量した(bindingassay)。その結果、Racのみに比べてp70存在下において交換反応が促進され、Ptdhs 3,4,5-P3を結合させたp70存在下では更に促進された。また、あらかじめ[3H]GDPを結合させ、GTPと交換するrelease assayにおいても同様の交換反応の促進が認められた。以上の実験により、p70はRacに対するGEFとしてPtdIns 3,4,5-P3依存的に働くことが判明した。

 3.p70によるストレスファイバーの消失およびRhoの活性調節

 細胞を増殖因子で刺激すると、PI(3)K依存的にアクチンストレスファイバーの消失が起こることが報告されている。K374A/K375A変異体を発現した細胞においてラッフリングが起こることは上述の通りであるが、同時にストレスファイバーの消失も観察された。

 低分子量Gタンパク質Rhoの活性化によりストレスファイバーが形成されることが知られているため、ストレスファイバーの消失にはGTP型Rhoの減少が起こるものと考えた。

 Rhoを不活性化する因子としてp190 RhoGAPを候補として考え、このp190 RhoGAPの局在を観察した。GFP p70を発現したCOS-7細胞をEGFで刺激し、抗p190 RhoGAP抗体を用いて免疫染色した。刺激していない細胞においてはp70とp190 RhoGAPとの局在の一致は観察されなかったが、刺激した細胞においてラッフリング膜上での局在の一致を見い出した。

 ストレスファイバーの消失およびp190 RhoGAPとの局在の一致から、p70によるGTP型Rhoの減少が予想されたため、in vivoにおけるRhoのGTP/GDP比へのp70の影響について検討した。GST RhoをCOS-7細胞に発現させて、Racと同様にGTP/GDP比を定量した。P70 wild typeまたはp70K374A/K375Aを共発現させることによりRhoのGTP/GDP比は減少した。また、活性化型PI(3)KによってもRhoのGTP/GDP比が減少することも判明した。以上の結果からp70はPI(3)Kの下流でp190 RhoGAPを活性化し、GTP型Rhoを減少させることによりストレスファイバーを消失させる可能性が示唆された。

 4.本研究のまとめ

 PtdIns 3,4,5-P3結合タンパク質p70は、増殖因子刺激に応答して起こるラッフリング形成およびストレスファイバー消失というPI(3)K依存的なアクチン再構成を制御している因子であることが判明した。ラッフリング形成においては、Racに対してGEFとして働き、直接Racを活性化するものと思われる。また、ストレスファイバーの消失に関しては、ラッフリング膜上でp190 RhoGAPと局在を共にすることでGAP活性を上昇させ、Rhoの不活性化を引き起こすものと考えられる。従来よりPI(3)Kはラッフリングなどのアクチン再構成を調節していることが示されていたが、それがどのような機構によるものかは明らかにされていなかった。また最近、RacとRhoは拮抗的に調節される場合が多いことが示唆されているが、その実体も不明であった。本研究によりp70はPI(3)K依存的アクチン再構成において、この拮抗的調節を司る重要な因子であることが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 Phosphatidylinositol 3-kinase(PI(3)K)は細胞外からの増殖因子や分化因子により活性化されるリン脂質キナーゼで、細胞内情報伝達因子の一つである。このPI(3)Kは、細胞内においてphosphatidylinositol 4,5-bisphosphate(PI 4,5-P2)を基質とし、そのD-3位をリン酸化することによりPI 3,4,5-P3を産生する。生成したPI 3,4,5-P3は更にセカンドメッセンジャーとして働き、下流因子へと細胞外からのシグナルを伝えるものと考えられている。本研究はPI 3,4,5-P3に結合するタンパク質をPI 3,4,5-P3アナログビーズを用いて精製し、同定された70kDaのタンパク質、p70についてPl(3)K依存的な機能解明を試み、PI(3)Kの関与する生命現象を分子レベルで解明を行ったものである。

 はじめに、p70の細胞内における局在を検討した結果、細胞質に局在すること、また、活性化型PI(3)Kを共発現させることによりこの局在は細胞膜へと変化することを明らかにした。欠失変異体およびPI 3,4,5-P3との結合能を欠いたPHドメインの点変異体を用いた実験により、この細胞膜への移行にはPHドメインが必要であることも示している。これらの結果より、p70は細胞質に存在し、細胞膜上にPI 3,4,5-P3が生成することによりPHドメインを介して局在を変化させることを明らかにした。さらに、増殖因子刺激時におけるp70の局在に関しても検討を行っている。刺激後、p70の局在はアクチンとの二重染色によりラッフリング膜と一致することを明らかにした。このラッフリング膜への移行はwortmanninで抑制されること、また、PI 3,4,5-P3と結合しない変異体およびC末端領域を欠いた変異体では、ラッフリング膜の形成は抑制されることも示している。

 次に、P70の374、375番目のリジン残基をアラニン残基に変えた変異体を発現させた細胞において、増殖因子非依存的にラッフリング膜を形成していることを示し、この変異体がp70の恒常的活性化型変異体であると推測している。また、低分子量Gタンパク質Racのdominant negative変異体との共発現により、ラッフリング膜の形成が抑制されることを示し、p70の下流にRacが存在することを明らかにした。

 さらに、in vivoにおけるRacに対する活性化について検討を行っている。glutathione S-transferase(GST)を融合したRacを、p70およびその変異体を単独または活性化型Pl(3)Kと共に発現させ、Racに結合したGTP/GDP比を測定した。野生型P70または活性化型p70を共発現させることによりRacに結合しているGTP/GDP比は上昇し、活性化型PI(3)Kと野生型p70の共発現により更に上昇していることを示し、p70はRacの活性化因子であることを明らかにした。

 またin vitroにおけるp70とRacの結合実験を行ったところ、Mg2+非存在下においてのみRac特異 的結合が見られ、グアニンヌクレオチド交換因子の性質を示すことを明らかにした。p70がRac特異的グアニンヌクレオチド交換因子であることを推測し、in vivoにおけるグアニンヌクレオチド交換反応に対する影響について検討を行い、p70はPI 3,4,5-P3依存的なRacに対するグアニンヌクレオチド交換因子であることを示している。

 一方、活性化型p70を発現した細胞においてストレスファイバー構造の消失も示し、ストレスファイバーの消失にはGTP型Rhoの減少が起こるものと推測している。Rhoを不活性化する因子としてp190 RhoGAPの局在を検討した結果、増殖因子刺激した細胞においてラッフリング膜上でのp70との局在の一致を示した。次に、in vivoにおけるRhoのGTP/GDP比へのp70の影響について検討をRacと同様に行っている。その結果、野生型p70または活性化型p70を共発現させることによりRhoのGTP/GDP比は減少し、活性化型PI(3)KによってもRhoのGTP/GDP比が減少することを明らかにした。

 以上、本論文はPI 3,4,5-P3結合タンパク質p70が、増殖因子刺激に応答して起こるラッフリング形成およびストレスファイバー消失というPI(3)K依存的なアクチン再構成を制御している因子であることを示したもので、学術上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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