学位論文要旨



No 116211
著者(漢字) 陸,明
著者(英字)
著者(カナ) ルー,ミン
標題(和) 海産巻貝類におけるステロイドホルモンの環境分析化学的研究
標題(洋)
報告番号 116211
報告番号 甲16211
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2241号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 山根,久和
 東京大学 助教授 松永,茂樹
 東京大学 助教授 大久保,明
内容要旨 要旨を表示する

 近年、有機スズ汚染による海産巻貝類のインポセックス(生殖器異常/生殖機能障害)が広範に見られるようになった。しかし、その詳細な発症機構については全く不明である。その誘導機構に関して3つの仮説がある。1はアロマターゼ阻害説である。有機スズによってアロマターゼ阻害が起きて巻貝体内のアンドロジェン濃度が高まり、アンドロジェンレセプターとの結合に伴う作用がインポセックス誘導に関与しているとするものである。2は脳神経節障害説である。雌の脳一側神経節からは、通常足神経節からペニスの形成や成長を制御する物質が分泌されるのを阻害する“退化”因子が分泌されているが、有機スズがその“退化”因子の分泌を抑制するため雌にペニス形成が起きるとするものである。3は硫酸抱合能阻害説である。有機スズがテストステロンおよびその代謝物の硫酸抱合体としての排出を阻害することにより、巻貝体内のテストステロン濃度の増大を招き、そのためインポセックスに帰結するというものである。その中では有機スズが巻貝類のステロイドホルモンの代謝を撹乱させることが原因ではないかとの考えが有力視されている。

 しかし、そのいずれの仮説がインポセックス誘導機構を示すかは不明である。加えて巻貝類に関する基礎的な知見、例えば、巻貝類固有のステロイドホルモンの種類および存在量など、必要な知見がほとんどない。そこで、本研究では海産巻貝類のうちイボニシとバイとを対象に、性徴発現に最も大きな影響を与えるテストステロンと17β-エストラジオールを中心にして巻貝類体内のステロイドホルモンの同定と定量法に関する研究を行った。

1. 巻貝類におけるテストステロンとエストラジオール分画法の確立

 試料には茨城県平磯で2000年7月と8月に採集したイボニシ(♂80-100、♀80-100匹)を使用した。使用するまで-20℃の冷凍庫に保存した。バイは新潟県寺泊漁市場で2000年9月に購入したものを用いた。イボニシ、バイはともに年齢を同定できないので、幼貝、成貝合わせて用いた。ただし、テストステロンの測定には雄を、エストラジオールの測定には雌を用いた。

 イボニシおよびバイの外殻を破壊除去し、軟組織からメスで生殖巣(精巣または卵巣)を切り出した。消化腺を完全に除去することはできなかった。消化腺を含む生殖巣10g(80-100個体)をホモジナイザーで粉砕し、サロゲート物質(エストラジオール-d3)10ngを加えメタノール抽出した。遠心上清に水を加え加熱し、冷却後除タンパクを行った上清をメタノール飽和ヘキサンで分配した。メタノール層を濃縮乾固後、メタノールー水に溶解し、直列に2個連結したC8-SPEに負荷した。溶媒のメタノールー水の割合を変えることにより、極性ステロイドホルモン画分と非極性ステロイドホルモン画分を得た。非極性画分をクロロホルム-ヘキサンに溶かし、これにKOH(0.25M)を加え、ジエチルエーテルで分配し、有機層と水層を得た。有機層を乾固し、酢酸エチル-ヘキサンに溶解しSi-SPEに負荷した。酢酸エチル-ヘキサン(3:1)で溶出乾固後、シリル化を行い、試料1を得た。容器は密封し、4℃、12時間静置した後にGC/MSに供した。一方、水層は1M塩酸酸性とし、エーテル抽出を行い、乾固後、NH2-SPEに負荷した。同様に酢酸エチル-メタノールで溶出し乾固後シリル化を行い、試料2を得た。本研究では生殖巣と消化腺との混合した試料を用いたため分画が困難であったが、C8-SPEを2個直列に連結することによって効果的な來雑物質の除去が可能となり、以後の明確な分画ができるようになった。

2. GC/MS法によるステロイド類の定性

 GCにはHP5890型、MSは日本電子製JMS-700を用いた。GC条件は、注入口温度:280℃、カラム温度は100℃(1分)、100℃から290℃まで昇温(10℃/分)し、290℃(5分)を保った。MS条件は、イオン化室温度は200℃、検出モードはSIMで行った。測定イオン(m/z)としてテストステロンは432.2882、エストラジオールは416.2569、エストラジオール-d3は419.2804を指標イオンとした。分解能は5000である。

 その結果、イボニシではテストステロン、エストラジオールを、また、バイでは一斉分析の結果、テストステロン、エストラジオール、エストロン、エチニルエストラジオールおよびアンドロステロンの存在を初めて確認した。

3. GC/MS法によるテストステロンとエストラジオールの定量

 本研究では性徴発現への影響が最も大きいと思われるテストステロンとエストラジオールについて定量を行った。二種類の巻貝の精巣、卵巣および生殖組織を除いた残りの軟組織を試料に、本分析法の精確度を確認するため、添加回収試験を実施した。サロゲートを添加し上記1.の分画法の全操作における回収率を求めた。操作は9回繰り返し行った。回収率は83%-96%の範囲にあり、良好な回収率を示した。その結果、イボニシの試料1のテストステロン含量は生重で0.80±0.20ng/g、試料2のエストラジオールは1.10±0.20ng/g、バイでは試料1のテストステロンは0.95±0.29ng/g、試料2のエストラジオールは0.90±0.22ng/gであった。

4. 病理組織法による間細胞の確認

 イボニシおよびバイ中にテストステロンの存在が確認されたことから、巻貝類にテストステロン産生細胞が存在するかどうかを調べた。脊椎動物では精巣中にある間細胞がテストステロン産生細胞といわれている。そこでイボニシとバイのパラフィン切片法による組織学的検討を行った。

 イボニシとバイを解剖した後、Bouin液で固定し、パラフィン包埋をしてから4μm切片を作成した。これにヘマトキシリン・エオシン染色を行い、顕微鏡で観察した。その結果、イボニシとバイの精巣に間細胞らしき細胞の存在が初めて示された。

5. 免疫組織化学法によるテストステロン存在の確認

 イボニシとバイ中のテストステロンの存在と、その産生細胞と思われる間細胞らしき細胞の存在が示唆されたことから、この細胞がテストステロンを分泌しているかどうかを知るために、免疫組織化学法による細胞の染色を行った。

 4.の方法でバイの切片を作成し、これに抗テストステロン抗体を用いたペルオキシダーゼ標識ストレプトアビジン/DAB発色による免疫組織化学染色を行った。その結果、間細胞様の細胞が強く染色されることが分かった。その結果から、間細胞様の細胞がテストステロン産生細胞である可能性が示された。

6. ELISA法によるテストステロンの定量

 GC/MS法は分析値の精度が高く、構造が類似する複数の化合物を一斉に同定・定量することができる。しかし、上記イボニシの場合は試料量として少なくとも生殖巣10g(80〜100個体)が必要で、個体別のホルモン含量を知るためには限界があった。そこでより高感度で、迅速・簡便なELISA法を用いて個体レベルでのテストステロンの定量法を検討した。

 一般にELISA法を動物組織の抽出液など、組織由来の脂肪、タンパク質などを多量に含む系ではマトリックス成分による妨害が避けられないこと、また、モノクローナル抗体を用いても共存する類縁体との交差反応があることなど、その測定値はGC/MS法の測定値より高い値を与えることがしばしば報告されており、正確性に難点がある。この点を克服するためにマトリックスによる影響を検討した。

 7月に採取したイボニシ(♂)12匹を2群に分け、1.の分画法により、1群6個体はホモジネートをメタノール抽出した段階の試料(非精製液)とし、他の6個体はシリル化を除く全分画過程をGC/MS法の場合と同様に行った(精製液)。測定はAcetylcholine esteraseを用いた発色(ACE-EIA)法で行った。その結果、非精製液の測定値は精製液の測定値より8倍以上高いこと、さらに精製液の測定値はGC/MS法の測定値とよい一致を示すことが分かった。このことから、ELISA法における試料の前処理を厳密に行えば個体別の試料について正確な測定値が得られることが分かった。

7. 有機スズ汚染とイボニシ雌のテストステロン含量

 これまで用いてきたイボニシは比較的有機スズ汚染の少ない海域で採取されたものを用いたため、有機スズ汚染との関係は明確ではなかった。そこでELISA法を用いて汚染域と非汚染域におけるイボニシ中のテストステロンの含量測定を行った。試料は汚染域の雌(インポセックス罹患個体)と非汚染域の雌(正常)を用いた。試料の前処理は1.の分画法によった。その結果、汚染域におけるインポセックス個体のテストステロン含量はわずかではあるが非汚染域のそれより有意に高い傾向を示した。

まとめ

1. 海産巻貝類のイボニシとバイからテストステロンと17β一エストラジオールの分画法を確立した。

2. GC/MS法を用いてイボニシにおけるステロイド類としてテストステロンとエストラジオールを初めて同定・定量した。

3. GC/MS法を用いて巻貝類のバイにおけるステロイドホルモンの一斉分析を行い、テストステロン、エストラジオール、エストロン、エチニルエストラジオールおよびアンドロステロンの存在を初めて確認し、テストステロンとエストラジオールを定量した。

4. 病理組織法を用いてイボニシとバイ(精巣)の間細胞様細胞の存在を初めて観察した。

5. 免疫組織化学法を用いて間細胞様細胞からのテストステロンの分泌を観察した。

6. ELISA法とGC/MS法の測定値の相違の原因を明らかにした。

7. ELISA法を用いてイボニシにおけるテストステロンを個体別に定量することができた。

8. ELISA法を用いて有機スズ汚染域と非汚染域のイボニシ雌中のテストステロン量を個体別に測定することができた。

審査要旨 要旨を表示する

 有機スズ化合物は、外因性内分泌撹乱物質いわゆる環境ホルモンとして、現在、製造中止、使用禁止措置がとられているが、未だに海洋汚染が続いており、海産巻貝類における有機スズによるインポセックスが広範に見られる状況にある。本論文は、有機スズによるインポセックス、即ち「メスのオス化」が、有機スズ化合物による海産巻貝類のステロイドホルモン代謝の撹乱にあるのではないか、との考えから、有機スズ汚染による海産巻貝類のインポセックスとステロイドホルモンの変動との相関を求めることを最終目的としたもので、序章に続く7章からなる。

 第1章では、有機スズ汚染とインポセックス発症およびその原因についてこれまでの研究経過をまとめている。

 第2章では、海産巻貝類としてイボニシ(Thais clavigera)とバイ(Babylonia Japonica)を対象に、海産巻貝類中の有機スズ汚染の経年変化とインポセックスとの相関について検討した。汚染域では未だに高濃度の有機スズが残存し、インポセックス発症の危険性があること、またバイのインポセックス罹患メスの卵巣に有機スズが集積すること、および有機スズ濃度とメスのペニス長とが明瞭な正の相関にあることを示した。

 第3章では、巻貝類のホルモンに関する基礎的な知見がほとんどないことから、GC/MSのためのステロイドホルモンの分画法について諸々検討し、効果的な來雑物質の除去法を確立した。

 第4章ではGC/MSによるステロイドホルモンの同定と定量について述べている。内部標準物質として17β-エストラジオール-d3を用い、イボニシではテストステロンと17β一エストラジオールを、バイでは一斉分析の結果、テストステロン、アンドロステロン、17β一エストラジオール、エストロンおよびエチニルエストラジオールの存在を初めて確認した。内部標準物質の回収率は83%-96%の範囲にあり、良好な回収率を示した。これによりイボニシおよびバイ中のテストステロンと17β-エストラジオールを定量することに成功した。その結果、イボニシ精巣のテストステロン含量は生重で0.80±0.20ng/g、卵巣の17β-エストラジオール含量は1.10±0.20ng/g、バイ精巣のテストステロン含量は0.95±0.29ng/g、卵巣の17β-エストラジオール含量は0.90±0.22ng/gであった。なお、エチニルエストラジオールは人エステロイドであることから、人間の放出物が海底に生息する巻貝にまで取り込まれていることを指摘した。

 第5章では、第4章のGC/MSでは一回の分析に多数の個体を用いなければならず個体別の測定ができなかったことから、ELISA法による巻貝の個体別定量について検討した。しかし、ELISA法は、測定値がキット毎に異なり、また試料マトリックス成分や交差反応によっても測定値が大きく変動するので、この点を集中的に検討した。先に示したGC/MSの分画法における抽出の初期段階の分画(非精製液)と、最終段階の分画(精製液)について測定したところ、非精製液は精製液より数倍から数十倍高い値を示したことから、試料の精製度が測定値の変動の原因となることを明らかにすることができた。その結果、GC/MSとよい一致を示す測定値が得られ、イボニシ個体別のテストステロン量を初めて測定できた。これによりELISA法により巻貝類中のステロイドの個体別の正確な測定値を得るための試料の前処理法を確定することができた。さらに、汚染域と非汚染域で採取されたイボニシの卵巣および精巣それぞれの個体別テストステロン含量を測定し、汚染域のテストステロン含量が高めにでることを確認した。

 第6章では、イボニシおよびバイ中にテストステロンの存在が確認されたことから、海産巻貝類にテストステロン産生細胞が存在するかどうかを病理組織学的染色法および免疫組織化学的染色法により調べた。イボニシとバイに間細胞様の細胞が存在すること、さらに免疫組織化学的染色法によって、その間細胞様の細胞が強く染まることを観察した。このことからテストステロン産生細胞の存在の可能性が示唆された。

 第7章では研究のまとめと今後の展望について述べている。

 以上、本論文は、海産巻貝類におけるステロイドホルモンの分析法を確立し、有機スズによる内分泌撹乱作用におけるステロイドホルモンの関与を検討するための分析化学的基礎を築いた点で、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、本審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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