学位論文要旨



No 116212
著者(漢字) 山ノ下,卓
著者(英字)
著者(カナ) ヤマノシタ,タカシ
標題(和) Melaleuca cajuputi熱帯泥炭湿地環境への適応機構
標題(洋)
報告番号 116212
報告番号 甲16212
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2242号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 八木,久義
 東京大学 教授 鈴木,和夫
 東京大学 教授 宝月,岱造
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 助教授 小島,克己
内容要旨 要旨を表示する

 Melaleuca cajuputi Powell はフトモモ科に属する常緑の有用樹で、北オーストラリアからアジアの熱帯および亜熱帯の広い地域に分布しており、タイ南部の荒廃した泥炭湿地では純林が見られる。この泥炭湿地は、土壌の酸性や貧栄養、湛水、人為的な火事などによって、植物の生育に極めて不適な環境になっているが、M.cajuputiはそのような不良環境条件に適応できる樹種と考えられる。さらに、湿地での生産力が高いことから、M.cajuputiは泥炭湿地における生物生産に最も適した樹種と考えられる。本研究は、泥炭湿地におけるM.cajuputi林の持続的な利用に資する知見を得るために、荒廃した泥炭湿地の環境条件の中で、最も植物の生存や成長に影響を及ぼすと考えられる火事と湛水へのM.cajuputiの適応機構を明らかにすることを目的として、更新と成長について現地調査を行い、火事と湛水への適応能力を実験により評価した。

〔火事への適応〕

 M.cajuputiの更新機会について、現地での観察を行った。火事などの大きな撹乱のないM.cajuputi林の林床で2年間にわたって実生の発生を調べたところ、M.cajuputiの実生はほとんど発生しないことがわかった。一方、撹乱がないときの種子散布の有無を現地でのM.cajuputiの成木のフェノロジー、特に種子散布の観点から観察したところ、年2回以上開花する枝がみられ、さらに、ほとんどのさく果が成熟してからも種子を含んだまま樹上に19ヶ月間以上着いていた。これらの観察結果から、M.cajuputiは樹上に種子を多量に蓄えており、撹乱がないと地上に散布される種子量はわずかであることが示唆された。泥炭湿地での火事後の更新を考えた場合、火事中は泥炭が燃焼しているので、M.cajuputiは樹上にシードバンクを形成することで、火事後の出現を栄養繁殖に依存する種や表層土壌にシードバンクを形成する種より、更新に成功する確率が高くなると考えられる。

 泥炭湿地で最も大きな撹乱であると考えられる火事がM.cajuputiの種子散布に与える影響を調べるために、火事跡地に残存したM.cajuputiの成木について、樹上のさく果の状態を観察した。枯れた枝のさく果はほとんど種子嚢が開いて種子が散布されていたのに対し、緑色の葉を着けていた枝では種子嚢が開いていないさく果が多かった。このことから、火事の高温や燃焼もしくは火事後の枝の枯死によって樹上のさく果の種子嚢が開いた可能性があり、火事が直接的もしくは間接的に引き金となってM.cajuputiの種子が樹上から散布されると考えられる。

 実験室内でM.cajuputiの種子の発芽特性を湿地内外に分布するMelastoma malabathricum Linn.とFagraea fragrans Roxb.と比較し、さらにM.cajuputiの種子の高温耐性について評価した。火が入った湿地に生育するM.cajuputiは他の火事頻発地域に生育する植物と比べても高い高温耐性を持ち、林内のギャップ内や林縁に生育するM.malabathricumは暗黒下と遠赤色光下での顕著な発芽抑制がみられ、湛水や火事が起こらない砂地に生育すF.fragransは乾燥耐性が高く、高温耐性が低かった。これらの3樹種の発芽特性はそれぞれの主な生育環境における発芽更新に適応していると考えられる。

 次に、さく果による種子の保護効果を調べた。さく果を10分間以上高温にさらすと、種子を直接高温に同じ時間さらしたときに比べて種子の発芽率は低くなった。しかし、炎に種子とさく果をそれぞれ10秒間さらすと、種子は燃えたが、さく果は燃えなかった。種子はさく果によって10分間以上の高温から保護されることはないが、短時間炎にさらされる際の燃焼からは保護されると考えられる。種子が樹上に蓄えられていることと種子の高い高温耐性に加え、さく果によって炎から保護されることで、火事中にM.cajuputiの種子が比較的発芽能を維持している可能性が高いと考えられる。

 さく果の種子嚢はデシケーターで乾燥させると開くことと、高温にさらしたさく果のうち、種子嚢が開かずにいたものは開いたものより含水率が高かったこと、炎に10秒間さらしてもさく果の種子嚢が開かなかったことから、さく果の種子嚢は熱ではなく、乾燥によって開くことが示唆された。種子は火事中には放出されず、火事後に枝の枯死に伴って放出されると考えられる。火事と種子散布に時間差があることは、炎に直接種子がさらされないという利点がある。

〔湛水への適応〕

 泥炭湿地上の3ヶ所の水位が異なる試験地で、純林を形成しているM.cajuputi稚樹群を対象にして、1年間にわたって樹高成長を測定した。林冠を構成している個体は水位が高い試験地ほど樹高成長が大きく、また、寡雨期よりも、地表が冠水する多雨期に樹高成長が大きかった。このことから、M.cajuputiは湛水によって成長が促進されることが示唆された。

 泥炭湿地上の別の試験地で、林冠を構成している個体と被陰された個体の枯死率と水ポテンシャルについて調べたところ、林冠を構成している個体には水ポテンシャルにも枯死率にも季節性がなかったのに対し、被陰された個体は湛水期に水ポテンシャルが下がり、枯死率が高くなっていた。このことから、M.cajuputi湛水時に光要求性が高いことが示唆された。

 さらに、実験によって、M.cajuputiの湛水耐性について評価した。湛水条件や過湿条件下でM.cajuputiの樹高成長が大きかったことから、湛水によって樹高成長が促進されることが実験的にも確かめられた。

 また、酸素濃度が低い湛水環境下での根の機能の維持機構についても解析した。湛水条件下でもM.cajuputiの根は高いエネルギー状態を保っていた。根のアルコール脱水素酵素(E.C.1.1.1.1)活性とピルビン酸脱炭酸酵素(E.C.4.1.1.1)活性が上昇したことから、湛水条件下での酸素呼吸の低下によるATP生産の低下をアルコール発酵で補っていることが示唆された。

 湛水条件下で長期間生育するためには根の生理的な適応だけではなく、通気組織などの形態的な適応も必要となる。湛水条件下で生育したM.cajuputiでは、樹皮中の通気組織を通して地上部から根端近くまで酸素を供給している様子が、ロイコメチレンブルー溶液の呈色反応によって観察された。このことから、M.cajuputiでは湛水によって通気組織が発達することにより、最も酸素の不足する根端付近でも酸素呼吸ができるようになると考えられる。アルコール発酵系の増大と、通気組織の発達で可能となる酸素呼吸によって、M.cajuputiは湛水環境下で根のエネルギー状態を高く保っていると考えられる。被陰個体では、エネルギー源である光合成産物の減少によってアルコール発酵系が低下し、さらに、日照によって生じる温度差を駆動力とする通気組織中の酸素輸送が低下するために、根のエネルギー状態を維持できず、湛水期に枯死率が高くなったと推測された。

 湛水環境下で発達する不定根の機能についても評価を試みたが、湛水期間中に不定根を切除しても地上部の水ポテンシャルが落ちなかった。このことから、地中根の水分吸収能は維持されており、水分吸収への不定根の寄与は少ないと考えられる。湛水環境に対し、水面近くに発達させた不定根によって地中根の機能低下を補うという適応反応が他樹種で知られているが、泥炭湿地に適応したM.cajuputiでは湛水環境下で地中根の機能を維持させ、泥炭湿地の軟らかい土壌で樹体を支えられるだけの根を地中に張っていると考えられる。

 火事によってM.cajuputiは更新が促進され、また、泥炭湿地の火事による裸地化と泥炭の焼失による相対的水位の上昇がM.cajuputi稚樹の成長にとって好適な条件となることから、泥炭湿地に生育するM.cajuputiの生活史に火事が重要な役割を担っていると考えられる。また、他の多くの植物には致命的なストレスとなる火事と湛水が、それぞれM.cajuputiの更新と成長に好適な条件であることにより、結果として熱帯泥炭湿地に純林が形成されると考えられる。

 本研究により、泥炭湿地上でのM.cajuputi林の持続的な利用にあたって、火事に代わる更新のための皆伐や植栽の必要性、また、成長に対する水位を高く保っことの重要性などが指摘できた。本研究で得られたM.cajuputiの泥炭湿地環境に対する適応能力に関する知見は、実際の泥炭湿地における現象に即しており、熱帯泥炭湿地でのM.cajuputiの造林や森林管理に応用することが十分可能である。本研究で得られた知見を用いることによってM.cajuputi林の持続的利用が可能になり、現在放棄状態に置かれている熱帯地域の泥炭湿地での持続的生物生産が可能になると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 土壌の強酸性や貧栄養、および度重なる火事や湛水などにより、植物の生育に極めて不適な立地環境となっている泥炭湿地が、タイ南部に広がっている。

 本論文は、そのような泥炭湿地における持続的な生物生産技術の開発に資する知見を得るために、その不良環境条件下に自生し、しばしば純林を形成しているフトモモ科の常緑樹Melaleuca cajuputiに関して、泥炭湿地における自然環境下での調査と人為環境下での実験の結果から、現地の諸環境条件の中で最も植物の生存や成長に影響を及ぼすと考えられる、火事と湛水に対する適応機構を明らかにしたものである。

 本論文は、次の5章から成る。

 第1章は、研究の背景やM.cajuputiに関する既報の総説にあてている。

 第2章では、現地に設定した複数の固定試験地での調査結果などから、M.cajuputiの泥炭湿地での生態を明らかにしている。

 まずM.cajuputiは、通常は樹上に多量の種子を蓄えており、火事が間接的な引き金となってそれらの種子が散布されることを示唆する結果を得た。

 また、林冠を構成している個体は水位が高い試験地ほど樹高成長が大きく、寡雨期よりも地表が冠水する多雨期に樹高成長が大きくなることを明らかにした。さらに、林冠を構成している個体と被陰された個体の枯死率と水ポテンシャルについて調べたところ、林冠を構成している個体には水ポテンシャルにも枯死率にも季節性がなかったのに対し、被陰された個体は湛水期に水分欠乏が大きくなり、枯死率が高くなっていたことから、M.cajuputiは湛水時に光要求性が高くなると推察している。

 第3章では、M.cajuputiの主に〓果や種子を用いておこなった様々な実験の結果に基づき、火事に対する適応について述べている。

 乾燥した種子は極めて高い高温耐性をもつことを明らかにすると共に、火事の際には〓果によって炎から保護されていること、火事後の〓果の乾燥によってその種子嚢が開き、種子が放出されることなどが示唆された。

 この章では、光や水分欠乏などに対する発芽特性についても実験的に明らかにしている。

 第4章では、M.cajuputiの湛水に対する耐性について、その機構を解明している。

 まず、水分条件のみが異なるように設定した稚樹の実験によって、M.cajuputiがが湛水に対して高い耐性をもっていることを確認した。

 さらに、水中では酸素濃度が低下し酸素呼吸が妨げられると考えられる根系について、アデノシン系核酸の含有比を測定して、湛水条件下であってもエネルギー充足率が高く維持されていることを示すと共に、アルコール脱水素酵素とピルビン酸脱炭素酵素活性の測定結果から、アルコール醗酵系でATP生産の低下を補い、高いエネルギー充足率を維持していることを明らかにした。

 さらに、湛水条件下で育成した実生の樹皮中に通気組織が発達し、根端付近まで酸素が供給されていることを、酸化還元指示薬を用いた実験によって実証した。

 一方で、湛水に伴い水面付近に発達してくる不定根を切除しても、地上部への水分供給能が損なわれないことを明らかにした。

 これらの結果から、短期的には醗酵系の賦活化によって、長期的には通気組織の発達によって、湛水環境下においても根系が機能を維持しているとしている。

 第5章では、以上に得られた結果をとりまとめ、荒廃した泥炭湿地におけるM.cajuputiの適応性について考察している。火事によって種子散布が促進され、また、泥炭湿地の火事による裸地化と泥炭の焼失による相対的水位の上昇が、M.cajuputiの稚樹の成長にとって好適な条件となると推察し、他の多くの植物には致命的なストレスとなる火事と湛水が、それぞれM.cajuputiの更新と成長に好適な条件であることにより、結果として熱帯泥炭湿地に純林が形成されていると結論している。

 さらに、ここで得られた知見から、泥炭湿地上でのM.cajuputi林の持続的な利用についても考察を加えている。

 本研究は、脊悪な熱帯泥炭湿地に生育する樹種を持続的生物生産に利用可能なものとして着目し、自然環境下での調査研究と人為環境下での実験研究を組み合わせて、その生態や特性を解析的に描き出している点に高い価値が見いだされる。また、実証的な知見の蓄積が乏しい荒廃地における持続的生物生産技術開発の基となる先駆的な研究であり、樹木の根系に関して生化学的な分析を導入するなど手法的にも画期的なものである。

 よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文としてふさわしいものであると判断した。

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