学位論文要旨



No 116214
著者(漢字) 北畠,琢郎
著者(英字)
著者(カナ) キタバタケ,タクオ
標題(和) 日本の冷温帯森林植生の境界域特性に関する生態学的研究
標題(洋)
報告番号 116214
報告番号 甲16214
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2244号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 森林科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 鈴木,和夫
 東京大学 教授 大沢,雅彦
 東京大学 教授 丹下,健
 東京大学 助教授 石田,健
内容要旨 要旨を表示する

第1章 序論

 森林植生の地理的な広がりを理解するうえで、はじめに行われる研究は、その地理的な分布パターンを認識・記載するということであろう。ある生物または生物群の分布のまとまりを示す概念には、同時に境界の概念が必要であると考える。つまり,異なる森林植生帯の間には、その異質として認識した植生帯の分離または接続領域が必ず発生していると考えられる。そして、それは境界域にほかならない。

 森林群落の分布パターンの生成は森林の更新動態のひとつの帰結である。したがって、森林帯の境界域におけるそれら分離・接続の様式は森林の更新動態からの解明が可能であると考えられる。森林群落の分布パターンの静的な記載のあとには、それがいかにして生成しうるのかという動的な追求が,森林の更新動態の側面から試される。本研究のねらいは、個体一個体群一群落のこれら異なるスケールで観測される森林の更新初期過程における生態的現象を森林帯のスケールにおいて総合化することにある。

第2章 北限のブナ林における捕食者と樹木実生の生残過程

 ブナ・ミズナラ実生への野ネズミ類による捕食圧の立地変化を検討するため、実生の移植実験を行った。Clethrionomys属のエゾヤチネズミと、Apodemus属のアカネズミとヒメネズミの3種の生息が確認できた緩やかな立地を平坦区、エゾヤチネズミを欠き、Apodemus属2種の生息が確認できた急傾斜地を斜面区とし、それぞれの実験区に実生を移植し、その生残を追跡した。ミズナラ移植コホートは両実験区において消滅した。一方、ブナは平坦区においてはミズナラ同様に生存率0%であったが、斜面区では45%と高い値を示した。対照区として金網によりネズミ類の捕食圧を排除したコホートの生存率は、ブナが平坦区で72.2%、斜面区で90%、ミズナラは両実験区で100%と高い値を示した。ブナ実生にとってはエゾヤチネズミのいない急傾斜地がセーフサイトであり、ミズナラ実生は両立地でApodemus属による捕食圧を強く受ける。また、地形を横断するような実生移植実験をブナについて行ったところ、開放コホートの生存率は平坦部から移行部、斜面部へと行くに従い有意に高い値を示した。対照的に、金網で保護したブナ移植実生の生存率には立地変異は認められなかった。開放コホートにおける死亡要因はネズミ類による被食であった。一方、金網コホートの死亡要因は鱗翅目の幼虫による被食であった。本章では、地形の傾斜角という環境傾度が捕食者野ネズミ類の分布パターンに違いを生じさせたことにより、被食者である樹木実生のセーフサイトに地形的な変異が生ずることを示した。傾斜変曲部はいわばネズミ群集の組成に変化をもたらす境界である。同時に、樹木実生の生残過程においても境界が発生していると考えられる。

第3章 更新ニッチの時空間的異質性

 本章第1節において、汎針広混交林の主要な構成樹種であるミズナラとトドマツ、アカエゾマツの実生セーフサイトが森林群落内にどのような分布を示すかを、大型哺乳類(エゾシカ)による林床植生と落葉層の撹乱強度との関係から記載した。その結果、エゾマツと、特にアカエゾマツの実生がエゾシカの歩行にともなってできた地表面の撹乱跡(落葉層が排除された立地)に多く分布していた。一方、ミズナラはエゾシカのけものみちに沿うように分布していた。エゾマツやトドマツのようなサイズの小さい実生の定着には、その阻害要因となる落葉層のない立地がセーフサイトとなる。一方、ミズナラのような大きなサイズの実生にとって、落葉層の排除された立地よりは、けものみち沿いの林床植生の破壊された明るい立地環境がセーフサイトとして機能しているものと推察された。これらのことは、実生セーフサイトの空間的な境界がエゾシカの行動により生成したことを示している。つまり、エゾシカによる落葉層と林床植生という異なる環境撹乱が樹木実生のセーフサイトに異所性をもたらしているといえる。第2節では汎針広混交林を構成する針葉樹の更新適地とされる倒木・伐根の機能的な側面を、倒木および伐根の腐朽過程に着目して観察・記載した。その結果、伐根は倒木に較べて更新立地としてかならずしも機能的ではないことを示した。さらに、更新適地である倒木においても、時間的変化過程の中で、その機能は変化し、実生セーフサイトとして有効に機能する時間的な境界が存在する可能性を示した。

第4章 実生セーフサイトの実験的検証

 本章では、実生の生残過程における定着阻害要因と実生の形質との関係性を実験的に検証した。第1節では、第2章において自然群集内で明らかとなった樹木実生と捕食者野ネズミ類との関係性を直接的に検証する目的がある。野外実験柵で管理されたエゾヤチネズミとアカネズミに、ブナとミズナラの当年生実生を与える給餌実験を行ったところ、両捕食者の捕食パターンに際立った違いがみられた。すなわち、エゾヤチネズミについては、どちらの実生にたいしても胚軸の切断と地上部(葉)の捕食という捕食パターンが高い確率で観察された。一方、アカネズミはミズナラ実生に堅果の状態で残存している地下子葉に対しては、集中的な捕食パターンを示したが、ブナとミズナラ両実生の地上部が餌資源として消費されることはなかった。これらの捕食パターンの違いは、植食性のエゾヤチネズミと種子や昆虫を主な餌資源としているアカネズミの餌資源選択性の違いに起因しているものと推察された。第2節では、第3章で示した大型哺乳類による落葉層の撹乱と実生の分布パターンの形成過程において、落葉層が実生の定着阻害要因としてどの程度機能するかを検証するために圃場実験を行った。圃場にブナ・ミズナラ・トドマツ・エゾマツの4種類の樹木種子を播種し、その上をミズナラおよびウダイカンバの落葉層で覆った。落葉量は、それぞれ150g/m2、300g/m2および無処理の3段階で、4回繰り返しの完全無作為化法により処理区を設定した。ミズナラとブナは実生の定着過程において落葉層の影響を受けないが、トドマツとエゾマツは実生の定着に落葉層の影響を強く受けることがわった。さらに、トドマツとエゾマツの実生定着率を比較すると、3009/m2区において、トドマツ:32.1%;エゾマツ:5.2%と、両者の間に約6倍の差が認められた。以上の結果から、種子と実生のサイズが小さい針葉樹は、実生の定着過程において落葉層の影響を強く受けることがあきらかとなった。また、落葉層が厚くなると、エゾマツ実生に較べてトドマツ実生の方が、実生定着能力が高いことが示された。

第5章 ブナ帯北限形成要因の新説

 本研究の結果および既往の報告から、黒松内低地における森林植生の境界域において以下のような事象が生成していると考えられる。つまり、1)傾斜地(渡島半島の脊梁山脈)におけるブナ林の被食者一捕食者関係には“ブナーアカネズミ・ヒメネズミ群集”が成立しており、この関係性においてはブナ実生コホートは全滅しない、2)平坦地(黒松内低地)におけるブナ林においては被食者一捕食者関係にブナーエゾヤチネズミという関係性が成立している。この関係性では、エゾヤチネズミのブナ実生への強度の捕食圧により、ブナ林の更新阻害が発生する、3)ブナ帯の分布拡大には、ブナ林の連続的な更新が不可欠である。したがってエゾヤチネズミによる更新阻害はブナ帯の分布域拡大を停滞させる要因となりうるものと推察できる。これらのことからブナ北限形成要因についての新説ー群集構造変異説ーを提示した(Fig.5-1-2)。

 北海道におけるブナ林の分布拡大は渡島半島につらなる脊梁山脈を伝うようにして起こった。この立地環境における被食者一捕食者(ネズミ類)の組み合わせは、“ブナー Apodemus群集”である。この組み合わせでは、ブナの実生は捕食圧をうけるもののコホートの全滅には至らない。つまり、ブナ林の分布拡大が起きた脊梁山脈の山地斜面はマクロレベルで連続する更新適地であるといえる。山地斜面にあるブナ林は、更新の連続性を維持できたことで分布域の拡大に成功した。

 渡島半島の脊梁山脈は黒松内低地でその終焉を迎える。黒松内低地に達したブナ帯のフロントラインは、ブナ林の高緯度地方への進出にともなう垂直分布の低下とあいまって、低標高地の平野部へと侵出をはじめた。このことは、ブナ帯の領域が山地から平地へと移行することを意味する。平坦地へのブナ林の進出で、新しい被食者と捕食者の関係が出現した。それは、“ブナーエゾヤチネズミ(Clethrionomys)”の関係性であり、山地斜面のブナ林における“ブナーApodemus群集”からの変異が、黒松内低地で起きたと言える。しかし、エゾヤチネズミはブナ実生の強力な捕食者であり、ブナ実生コホートを殲滅する要因となる。この捕食者との組み合わせにおいて、ブナ林の更新は初期段階で強力に阻害される。つまり、エゾヤチネズミによる強度の更新阻害によってブナ帯のフロントラインにおける個体群は、“更新速度”の低下を示すことになる。その結果、ブナ帯の拡大は停滞し、この領域(黒松内低地)に、現在みられるブナ帯の北限域が形成されたものと推察される。

Fig.5-1-2. A schema of the northern boundary phenomenon.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、わが国の森林植生帯の重要な境界域として古くから注目されながら、その境界の成因について未だに説得力のある解釈が示されていなかった生態地理学的現象、すなわちブナ帯の北限が何故北海道渡島半島黒松内低地帯で終焉するかを、主に同境界域におけるブナの更新特性に着目して、その解明を図ったものである。

 まず、黒松内低地帯の平坦地と斜面を包含する地形に成立するブナ―ミズナラ林に設置した調査区において、ブナおよびミズナラ実生の主たる捕食者である野ネズミ類の生息状況を記号放逐法によるセンサスによって調査した。その結果、同調査区にはアカネズミ、ヒメネズミおよびエゾヤチネズミの野ネズミ類3種の生息が確認された。これら3種のうち、前2種は斜面および平坦地のいずれのトラップにおいても捕獲されたが、後者は緩傾斜地から平坦地でのみ捕獲された。このことから、エゾヤチネズミは傾斜20゜以上の斜面を生息適地としていないことが明らかにされた。

 次に、同じ調査区においてネズミ類による捕食圧が平坦地と斜面という地形の違いによってブナとミズナラ実生の生残にどのように影響するかを明らかにする目的で、当年生実生の移植実験を行った。その結果、ミズナラの移植実生は平坦区、斜面区いずれにおいても消滅した。一方、ブナは平坦区においてはミズナラと同じく生存率0%であったが、斜面区では45%と高い値を示した。対照区として金網によってネズミ類の捕食圧を排除した移植実生の生存率は、ブナが平坦区72%、斜面区90%で、その死亡はすべて鱗翅目幼虫によるものであった。ミズナラは平坦・斜面両区で生存率100%であった。このことから、ブナ実生の更新適地はエゾヤチネズミの生息しない傾斜20°以上の斜面であり、ミズナラ実生は平坦・斜面いずれの立地においてもアカネズミ類による捕食圧を強く受けることが示唆された。

 さらに、上記の実験結果を踏まえて、捕食者一被食者関係をより明確にする目的で、鉄板で囲ったケージ内でエゾヤチネズミとアカネズミの捕獲個体を用いて、ブナとミズナラそれぞれの当年生実生に対する補食パターンの違いを明らかにする実験を行った。その結果、1)エゾヤチネズミはブナとミズナラいずれの実生に対しても捕食圧が強くかかること、2)地下子葉に堅果が残存しているミズナラ実生にはその堅果にアカネズミによる強い捕食圧がかかるが、地上子葉性のブナ実生はアカネズミの捕食圧は低いことの二点が確認された。この結果は、先に示したブナ北限域のブナ―ミズナラ林で行った実験から導かれた推論を支持するものであり、またエゾヤチネズミが草食性、アカネズミが種子や昆虫を主食にしているという従来の知見と一致した。さらに、黒松内低地帯の実生移植実験を行った同じ林分で、自然条件下で生育するブナ当年生および多年生実生の分布を地形の傾度に沿って調査した。その結果、ブナ実生の分布量は平坦地に比べて斜面で有意に高いことが判明した。

 上記の一連の研究をとおして、地形の傾斜角という環境傾度が捕食者野ネズミ類の分布パターンをコントロールする結果、被食者である樹木実生の更新適地に地形的な変異が生ずるという従来にない知見を提示した。

 さらに、黒松内低地帯で何故ブナ帯の分布が終焉するかについて、以下の解釈を提示した。すなわち、黒松内低地帯におけるブナ林の林分構造は急傾斜地ほど更新が連続的であり、ブナの更新適地は斜面に限定される。ブナ北限域を含む渡島半島の山地斜面では被食者一捕食者関係として、ブナーアカネズミ・ヒメネズミ群集が成立しており、同群集においてはブナの連続的更新が可能である。しかし、渡島半島の脊梁山脈は黒松内低地帯に至って、エゾヤチネズミの捕食圧を回避できるブナの更新適地である連続した斜面を有する山地が途絶える。したがって、黒松内低地ではブナ―エゾヤチネズミの関係性が成立し、ブナ林の更新はその初期過程で強力に阻害され、その結果同北限域でブナの分布拡大が停滞しているものと、考えられる。

 本研究の成果は日本の森林帯の明瞭な境界域の一つである黒松内低地帯におけるブナ帯北限の成因に関して、その境界域特性に着目して気候以外の要因がその成因に大きく関与していることを示した点で、学術上新規性を有するものである。その成果は北海道内におけるブナの造林適地の選定に直接利用可能であるばかりでなく、ブナ林の更新・保全等に幅広く応用できるものであり、学術上、応用上寄与するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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