学位論文要旨



No 116220
著者(漢字) 加藤,久嗣
著者(英字)
著者(カナ) カトウ,ヒサツグ
標題(和) 日本海におけるキュウリエソの初期生活史に関する研究
標題(洋)
報告番号 116220
報告番号 甲16220
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2250号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡邊,良朗
 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 助教授 佐野,光彦
 東京大学 教授 河村,知彦
 水産庁日本海区水研 国際資源研究官 南,卓志
内容要旨 要旨を表示する

 キュウリエソMaurolicus Japonicus は、日本海、本州太平洋岸の黒潮流域、ハワイ周辺海域に分布し、日本海では再生産を行う唯一の中深層性魚類である。日本海における生物量は極めて多く、食物連鎖の骨格を構成する種として生態系において重要な位置を占める。

 中深層性魚類では、発育段階を通した連続標本が得られないことや飼育が困難なために、卵仔稚魚期における形態の記載が少なく、十分な種の査定法が確立されていない。このため、初期生活史における生態についての知見もほとんどない。キュウリエソの初期生活史における形態発達過程と発達に伴う生態変化を解明することは、中深層性魚類の初期生態を解明するための重要な基礎となる。キュウリエソは、卵仔稚魚の同定が中深層性魚類の中では例外的に容易である。また、生きた状態での卵の採集が可能で、飼育の可能性がある。

 本研究では、キュウリエソの天然卵を仔魚まで飼育することに成功した。この飼育と野外から得られた試料に基づき、キュウリエソの形態発達過程を詳細に記載した。また、日本海において周年の分布調査を実施し、本種の生活史における分布様式の変化を明らかにした。これらの結果から、形態発達と生態との関連を検討し、日本海における本種の繁栄要因について考察した。

1. 形態発達

 孵化仔魚の体長は約2.9 mmで、油球は卵黄の中央下部に位置する。体長約3.1 mmで眼が黒化する。約3.5mmで卵黄は完全に吸収され、すでに上下の顎骨、擬鎖骨、副蝶形骨の化骨が始まっている。この時期の眼球の形状は楕円形である。天然卵を飼育した結果(12℃)、卵期の継続時間が約1週間、孵化から卵黄吸収完了までが約2週間であった。体長約6.5mmで発光器、黒色素胞、鰭条の発現、胃、幽門垂、鰾、網膜細胞の分化、下尾骨の形成が認められる。体長約10.0mmで眼球は円形となる。体長約12.0mmで鰭条数は定数となる。この時期、内臓頭蓋および脊椎骨の化骨がほぼ完了するが、その他の骨要素は化骨しておらず、諸器官は仔魚的形質を残している。体長約21.0mmで全ての発光器(63個)が発現し、嗅房の形成が完了する。嗅上皮の嗅細胞は、第一型繊毛細胞、放射状繊毛細胞、微絨毛細胞の3種類で構成され、これらの嗅細胞が嗅上皮に一様に分布する。嗅房形成前後で細胞の種類や分布様式に変化は認められない。神経頭蓋および尾骨が化骨完了するのは体長約33.5mmで、これとほぼ同じくして体表全面が黒色素胞に覆われる。担鰭骨は、成熟体長(約35.0mm以上)の個体でも部分的に化骨するのみである。

 網膜の視細胞は、全生活史を通じて桿体のみで構成され、暗所適応的である。発育に伴って桿体の細胞密度が上昇し、体長約30.O mmまでに約5500細胞/0.01mm2に達する。その後も密度が緩やかに上昇し、硬骨魚類の中では高い値を示す。視細胞の構成およびその密度変化は、分布水深の照度に関連すると考えられた。

 体側筋における筋繊維の数は、発育とともに増加する。背側筋は最終的に5つの筋肉束よりなるが、この状態になるのは成熟体長以降の体長約42.5mmである。背側筋および担鰭骨にみられる発達の遅延は、本種の稚魚、成魚の遊泳能力の貧弱さに対応していると考えられた。一方、螺は体長約6.5mmで分化しており、鉛直分布と密接に関連すると推察された。

 消化管は生活史を通じて直走するが、生活史初期から相対的に太い。胃および幽門垂は体長約6.5mmで分化し、成魚型の消化吸収機構が早期に確立されると推察された。その後の発達は緩やかで、幽門垂数は体長約22.5mmで11本の定数に達する。消化器系における早期の機能化およびその後の発達様式は、摂餌開始期における餌料生物が大きいことや生活史を通じ極端な食性変化が認められないことに対応していると考えられた。

 本研究における形態発達の観察結果から、キュウリエソの発育段階を以下のように定義した。

卵黄仔魚期:孵化から卵黄吸収完了まで(SL<3.5mm)

仔魚前期:卵黄吸収完了から第一発光器の発現まで(3.5≦SL<6.5mm)

仔魚後期:第一発光器の発現から鰭条数の定数化まで(6.5≦SL<12.0mm)

稚魚期:鰭条数の定数化から全発光器の発現完了まで(12.0≦SL<21.0mm)

未成魚期:全発光器の発現完了から成熟体長まで(21.0≦SL <35.0mm)

成魚期:成熟体長以上(35.0mm≦SL)

 本研究の結果、キュウリエソでは、各器官の発達が全生活史を通じ比較的緩やかに進行し、これまで多くの沿岸性魚類で報告されている変態期に相当する急激な形態変化の時期が明瞭でないことが明らかになった。

2. 分布様式の変化

2-1. 水平分布

 卵仔稚魚および成魚が、海深50m以浅の海域に出現することはなかった。また、陸棚縁辺より沖合海域でも出現量が少なく、全生活史を通じて、分布の中心は陸棚縁辺海域であることが明らかとなった。日本海に生息する他魚種の卵仔稚魚は、ほとんどが陸棚上の沿岸海域に分布するため、キュウリエソの卵仔稚魚は他魚種より沖合の海域に分布することがわかった。

 若狭湾周辺海域において、卵仔稚魚は周年出現した。初夏から秋にかけて分布密度が高くなり、この傾向は日本海における他の海域と一致した。また、初夏から秋にかけては、卵および仔魚前期の個体の水平分布が湾内に拡大する傾向が認められた。このことは、秋季に対馬暖流の勢力が増大することと密接な関係があると考えられた。

2-2. 鉛直分布

 年間を通じ、卵仔稚魚および成魚が表層に出現することは稀で、水温17℃以上の水深帯に出現することは少なかった。また、全生活史を通じて、水深約200m以深の日本海固有冷水(水温2℃以下)には分布しなかった。日本海におけるキュウリエソは、他の海域に分布するキュウリエソに比較して浅い水深帯に分布し、鉛直的な分布範囲が狭いことが明らかとなった。一方、卵仔稚魚は、日本海に生息する他魚種卵仔稚魚の分布が約0〜50mなのに対して、約50m以深とより深い水深帯に分布することがわかった。

 卵は、発生初期段階で水深約100〜150m、孵化前で約150〜200mに分布し、発生段階が進むほど深い層に分布した。卵の比重は分離浮遊卵としては大きく(約1.027g/m1)、卵は中層から下層で産出された後に沈降すると考えられた。孵化前の卵は、固有冷水の上層に集積する傾向を示した。この現象を卵の比重のみによって説明することはできなかった。卵黄仔魚は全く採集されなかった。孵化直後の卵黄仔魚は、遊泳力がなく、比重は海水より小さい(約1.023g/ml)。比重は発育とともに増大するが、仔魚前期の個体の分布が水深120m以浅に限られていたことから、孵化後、約2週間の卵黄仔魚期に分布を上層へ移行させると考えられた。仔魚後期以降には、発育が進むにつれ徐々に下層に分布域が移行する傾向が認められた。また、日周鉛直移動も認められ、その移動幅は発育とともに徐々に大きくなった。下層への分布域の移行および日周鉛直移動の変化が、生活史を通じて漸進的であることは、沿岸性魚類の多くが変態(=稚魚化)とともに短期に生息場所を移行させることと相違した。

3. 形態発達と分布変化との関連

 孵化直後の卵黄仔魚は、形態的に未発達であった。しかし、卵黄吸収の完了した仔魚前期の初期には、眼球が黒化し、顎骨は他の骨要素に先立ち化骨が開始していた。また、消化管上皮は分化し、嗅上皮の構造も成魚と同様であった。これら摂餌に直接的に関与すると考えられる器官の早期発達は、内部栄養から外部栄養への栄養源の転換を可能にしていると推察される。これらの器官形成と並行して、卵黄仔魚期には餌料の獲得に有利と考えられる上層への分布水深の移行がみられた。

 仔魚後期の初期の個体では、下尾骨の形成、脊椎骨の化骨開始、鰾の分化が認められ、これらの器官形成は深層への生息場所の移行や日周鉛直移動を可能にすると考えられる。また、仔魚後期以降に認められた、発光器、黒色素胞の発現、各骨要素の化骨、網膜視細胞における桿体密度の上昇は、深層への生息場所の移行や日周鉛直移動に対する適応的発達と考えられる。

 キュウリエソでは、形態発達が鉛直的な分布域の変化と同調して緩やかに進行することが明らかとなり、諸器官の機能的発達は分布を規定する要因となることが推察される。

4. 日本海における繁栄要因

 キュウリエソの日本海における鉛直分布が他の海域に比較し浅いことは、本種が固有冷水を有する日本海の環境に適応していることを示し、ハダカイワシ類など他の中深層性魚類で分布水深が種によって固定的であることとは異なっている。このことは、中深層性魚類のなかでキュウリエソのみが日本海に棲息することの要因となっていると推察される。

 卵期および卵黄仔魚期が時間的に長いことは、被食による累積的死亡率が高くなる要因になり得る。しかし、本種の卵は、捕食者が少ないと考えられる中層から下層で産出され、その後も沈降して下層で孵化すると考えられた。卵黄仔魚期には、海水より小さい比重によって上層へ分布が移行すると考えられ、摂餌を開始する仔魚前期の個体は、餌が豊富な比較的浅い水深帯に分布していた。上層への移動は、内部栄養から外部栄養への転換の成功の確率を高くすると考えられる。仔魚後期には再び下層へと分布を移行させ、日周鉛直移動も認められた。上層に多く分布する捕食者の摂餌が一般に昼間に活発であることから、下層への分布の移行や日周鉛直移動は、被食減耗を低下させると考えられる。このような分布生態は、生活史初期の生き残りを高め、本種の日本海における繁栄の要因になっているものと推察される。

審査要旨 要旨を表示する

 キュウリエソMaurolicus Japonicusは、日本海において再生産を行う唯一の中深層性魚類である。その生物量は莫大で、日本海における食物連鎖の骨格を構成する。中深層性魚類では、発育段階を通した連続標本が得られないことや飼育が困難なことのために、初期生活期における形態や生態の知見がほとんどない。本種は中深層性魚類としては例外的に卵仔稚魚の同定が容易であり、天然卵の飼育が可能である。本研究は、キュウリエソの天然卵を仔魚まで飼育するとともに、日本海において時空間的に広い範囲から得た野外採集標本を用いて、キュウリエソの形態発達と初期生態を明らかにし、本種の日本海における繁栄要因を考察したもので、4章から構成されている。

 第1章の緒言では、キュウリエソ属魚類の世界的分布、初期生態研究の現状、日本海における中深層性魚類の生態について総括した。

 第2章では、キュウリエソの形態発達過程を、受精卵から成魚までの連続標本によって記載した。卵は表面に6角形の凹みがある金平糖状の皮膜を持つ。水温12℃で受精約6日後にふ化した仔魚の体長は約2.9mmで、油球は卵黄の中央下部に位置する。約3.1mmで眼球黒化し、3.5mm(ふ化後2週間)で卵黄吸収とともに上下の顎骨、擬鎖骨、副蝶形骨の化骨が始まる。6.5mmで発光器、黒色素胞、鰭条、胃、幽門垂、鰾、網膜細胞、下尾骨が分化する。約12.0mmで鰭条数が定数に達し、内臓頭蓋および脊椎骨の化骨が完了する。約21.0mmで全ての発光器が発現し、嗅房形成が完了する。神経頭蓋および尾骨が化骨完了するのは体長約33.5mmで、これとほぼ同じくして体表全面が黒色素胞に覆われる。担鰭骨は、成熟体長(約35.0mm)の個体でも部分的に化骨するのみである。

 視細胞は全生活史を通じて桿体のみで、暗所適応的である。桿体密度は30.0mmまでに約5500細胞/0.01mm2に増加する。

 背側筋は成熟体長以降の約42.5mmで5つの筋肉束が完成した。一方、鰾は体長約6.5mmで分化し、鉛直移動開始と密接に関連すると推察された。胃および幽門垂は体長約65mmで分化し、成魚型の消化吸収機構が早期に確立されるが、幽門垂数は体長約22.5mmで11本の定数に達した。

 以上からキュウリエソでは、各器官の発達が全生活史を通じ比較的緩やかに進行し、多くの沿岸性魚類で報告されている変態期に相当する急激な形態変化の時期が明瞭でないことが明らかになった。

 形態発達の観察結果から、キュウリエソの発育段階を、卵黄仔魚期(艀化から卵黄吸収完了まで)、仔魚前期(卵黄吸収完了から第一発光器の発現まで)、仔魚後期(第一発光器の発現から鰭条数の定数化まで)、稚魚期(鰭条数の定数化から全発光器の発現完了まで)、未成魚期(全発光器の発現完了から成熟体長まで)、成魚期(成熟体長以上)に区分した。

 第3章では発達過程における分布様式の変化を調べた。キュウリエソは対馬海峡以西、男鹿半島以北にはほとんど分布しなかった。全生活史を通じて、分布の中心は陸棚縁辺海域にあった。若狭湾周辺海域では卵仔稚魚は周年出現し、初夏から秋にかけて分布密度が高かった。

 卵仔稚魚および成魚は50m以浅に出現することなく、約200m以深の日本海固有冷水(水温2℃以下)にも分布しなかった。日本海におけるキュウリエソは、他の海域に比較して鉛直的な分布範囲が狭いことが明らかとなった。

 卵の比重1.027g/mlは分離浮遊卵としては大きい。発生初期には水深100〜150mに分布し、発生の進行に伴って沈降して、ふ化直前の卵は固有冷水の上層に集積する傾向を示した。卵黄仔魚の比重は海水より小さく、仔魚前期における分布が水深120m以浅に限られていたことから、卵黄仔魚期に分布を上層へ移行させると考えられた。仔魚後期以降には、発育が進むにつれ徐々に下層に分布域が移行するとともに、日周鉛直移動の移動幅は次第に大きくなった。

 第4章の総合考察では、キュウリエソの漸進的な形態発達過程が、発達に伴う鉛直分布様式の緩やかな変化と対応することを明らかにし、本種の個体発達過程は、多くの沿岸性魚類が変態期に集中的な形態発達と生態変化を遂げることと異なることを明らかにした。また、本種が鉛直分布範囲を浅くすることによって200m以深に固有冷水を有する日本海に適応し、競合者や捕食者の少ない中深層を独占的に利用できるようになった結果、日本海において再生産する唯一の中深層性魚種として繁栄したと結論した。

 以上のように本研究は、キュウリエソの形態的・生態的発達過程を詳細に記載したこと、および日本海における本種の生態的特徴と繁栄要因を明らかにした点で、中深層性魚類研究への貢献が顕著である。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文としてふさわしいものと認めた。

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