学位論文要旨



No 116223
著者(漢字) 今井,基文
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,モトフミ
標題(和) 安定同位体比を用いたマガキの生産構造に関する研究
標題(洋)
報告番号 116223
報告番号 甲16223
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2253号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日野,明徳
 東京大学 教授 黒倉,寿
 東京大学 教授 古谷,研
 東京大学 助教授 小川,和夫
 東京大学 助教授 岡本,研
内容要旨 要旨を表示する

 内湾を代表する生物の一つである二枚貝は多様な環境に適応し、生物種、量ともに多く、漁業生産においても重要な生物であるが、主な棲息場所である浅海域の滅少に伴い生産量は減少している。しかしながら、その漁場を保全するに当たっては生産生態学上不明な点が多く、漁場の評価方法自体にも検討する余地は多い。主な原因としては食性に関する研究の少ないことが挙げられ、そのため二枚貝に関して生産構造が解析された例は少ない。そこで、内湾の漁業において重要な種であるマガキ Crassostrea gigas をモデルとして食性をはじめとした生産構造の解析を行った。解析には近年食物連鎖網の解析において食物段階の指標として利用されている、炭素(C)、窒素(N)安定同位体比を導入し、また二枚貝研究におけるその有効性についてもあわせて検証を行った。

1. 安定同位体比を用いた解析の有効性と問題点

 安定同位体比ははじめ地球化学分野の研究に用いられ、生態系の食物段階解析には1970年代から利用されている指標である。この解析は自然界に存在するC、あるいはNに含まれる安定同位体の割合を用いるが、通常は炭素でPee Dee Belmnite; PDB、窒素で大気窒素:at-Airという標準物質の比との相対千分偏差δ(‰)により求められる。表記方法はそれぞれδ13CPDB,δ15Nat-Air(以下δ13C,δ15N)となり以下の式で求められる。

δ(‰)=(試料の比一標準物質の比)/(標準物質)の比×1000

 南極海における解析では食物段階の上昇に伴いδ13C、およびδ15Nがそれぞれ+1,+3という値を持つことが報告されており、消化管内容物同定が困難な二枚貝の食性解析にはこのような自然界のトレーサーを用いる方法が有効であると考えられる。その一方で生体内の代謝が影響する場合もあり、鳥類では個体差、または組織間での差も報告されている。また、体成分の抽出を行う場合においても成分間で差が報告されている。したがって、導入に当たっては野外調査以外に実験系における検証が必要である考察される。

2. 浜名湖の環境と研究手法の検討

 浜名湖は本州太平洋岸に位置する閉鎖性内湾であり、本湖の環境は大きく2つに分けられる。南部は遠州灘との水交換の良い2m以浅の海域(湾口部)であるが、北部および支湾は、都田川をはじめとする河川が流入し、また水交換の不良な2m以深の海域(湾奥部)になっている。マガキ養殖は、湾奥部では成層による貧酸素水塊が形成される春季から中秋季を除き垂下によって行われ、湾奥部でマガキの「身入り」の良いことが知られている。これについてはこの時期に湾奥部に発生する赤潮がデトライタス化して、マガキが再び垂下される晩秋期以降の生産に寄与していると推察されるが、この推論を検証するには有機懸濁物(POM)の性状、マガキの身入りを表す生殖線の発達について検証する必要がある。

 POMについては植物色素(Chlorophyll-a(Ch1-a), Pheopigment(Pheo))、懸濁態有機炭素(POC)の各々を調査した。またPOMの検鏡については、壊れやすいデトライタスが多く含まれるため、2%グルタルアルデヒド固定海水を濃縮せずに観察した。マガキ安定同位体比の測定は餌料環境の変化などに鋭敏に反応すると考えられる生殖消化部(GD)のほか、安定同位体比の変化が少ないと報告されている閉殻筋(M)について行った。安定同位体比分析には封管法-質量分析計法のほか、EA-IRMS(元素分析計-質量分析計)法を用いた。

3. 浜名湖におけるマガキの安定同位体比の変動

く浜名湖5海域での秋期から春期における調査>

 湾奥部4点、湾口部1点について、1996年秋期から1997年春期を中心に沿岸潮下帯の天然マガキ、水中懸濁物を調査した。その結果δ13Cは貯蔵物質であるグリコーゲン(G)、GD、消化組織、結合組織を含むタンパク質(P)の順に高く、それぞれ代謝経路の違いを反映したと考察された。

 海域に関しては湾口部ではマガキG、Pのδ13Cはほとんど変化しなかったが、湾奥部では2月以降G.Pが-19以下に低下した。POMはChl-a,Pheoが低く、組成は主にデトライタスと20μm以下の鞭毛藻であった。湾奥部にある猪鼻湖での継続調査ではマガキGの蓄積量が増加するとともにδ13Cは約2低下するなど、POMの摂餌と、それによる体成分の増加が示唆され、安定同位体比が食性の解析に有効であると考えられた。その後の成熟期にGは増加したものの、δ13Cは組織、体成分ともに2月とは異なった変動傾向を示し、生殖巣発達に伴う体成分の分解、移動、再合成が影響すると推察された。

<湾ロ部、湾奥部における周年調査>

 湾口部と湾奥部の生産特性を詳細に検討するために、調査間隔をPOMについて約2週間、マガキで1〜1.5ヶ月間隔で、1998年秋から1999年秋まで1隼間安定同位体比を調査した。この調査では均一性を確保するため0年齢養殖マガキを用いた。体成分はG、Pについて定量し、生殖巣の状態を確認するために1999年5月以降組織切片を作成した。1999年7月以降は湾奥部のマガキも湾口部に移して調査を行った。

 その結果、湾口部ではPOMはPOC,Ch1-aの値が低く、内容物はデトライタス中心であった。δi3Cは-21以下であったが、δ15Nは大きく変動した。これに対してマガキのG量は4月に急激に増加し、その後性成熟に伴い低下した。P量は4月まで増加したが、その後放卵放精の影響と思われる変化を示した。マガキ安定同位体比はPOMと同様の変化を示し、δ13Cはほとんど変化しなかったのに対してδ15Nには変化があった。

 湾奥部では4月までPOMは全般的にPOC,Chl-aの値が高く、δ13Cは-21以下で、98年秋〜初冬のブルーム時の珪藻のδ13Cはこれまで報告されている値より低かった。その後の内容物は97年2月以降と同様にデトライタスと20μm以下の鞭毛藻であった。一方、マガキにはGが多く蓄積されており、δ13℃、δ15NはPOMと同じ傾向を示したことから、有機懸濁物の豊富さが高い生産性に寄与していることが考察された。次いで、4月以降は珪藻、鞭毛藻のブルームが確認されその際にPOC,CH1-aは上昇し、δ13Cは-21以上になった。これに対してマガキは、湾口部と同様にG、Pの量、安定同位体比とともにPOM以外にも生殖巣の状態によって変化した。湾奥部より湾口部に移動させたマガキPのδ13Cの分析では、代謝の高い季節にも関わらず餌料環境の履歴が1.5ヶ月後にも残っていた。

 以上から、浜名湖におけるマガキの生産の基礎はデトライタスであり、湾奥部ではこれに一次生産が付加され、高い生物生産をもたらすと考察された。しかしながら、餌料の特定に関しては、POMの安定同位体比は、性状、内容(珪藻、鞭毛藻類、デトライタス)以外に、河川からの無機炭酸ならびに有機物、日射、水温等が藻類の生理的または生態的に影響して変化することが推察され、実験的な検証が必要であり、マガキについては代謝の影響を調べるために飼育系による確認が必要であると考えられた。

4. 実験系におけるPOMおよびマガキ安定同位体比の変動

<POM.の安定同位体比の変動>

 数L規模のmicrocosm(MI)と数t規模のmesocosm (ME)を用いて有機懸濁物の種類、性状とPOM安定同位体比の関係を調べた。MIは珪藻単離培養株Chaetoceros sociale(Ch), Cyclotella sp.(Cy1)のほか、浜名湖で採取した繊毛虫Mesodinium sp.(Mes),鞭毛藻Gyrodinium sp.(Gyr)主体の赤潮試料を用いた。珪藻は24L-OD,塩分27-28の条件で改変K培地を使用し、14,24℃の2区を設定し、赤潮試料は24L-0D,24℃で放置した。MEでは浜名湖の海水に栄養塩(NO3-,PO4-)を添加した。

 その結果、珪藻はChl-aが最高100μg/1以上になり、赤潮の状況を再現できた。Ch区ではPOMのδ13CはChl-aの上昇に伴い14℃で-33.5から-12.6へ、24℃で-24.6から-13.2へ、塩分の条件が不適であったCyl区ではこれより最低値が3程度、最高値は10程度低い値であった。MesではPOMのδ13Cは-15.3でCH-aの低下に伴い-17.9に低下した。Gyrは内容物に20μm以下の鞭毛藻が含まれ、両者の光合成活性とGyrの栄養型の転換による変動が大きかったと考えられたが、δ13CはChl-aの上昇に伴い-22.0から-15.5と変化した。MEでは珪藻と20μm以下の鞭毛藻が主体で、日射量の増加に伴い珪藻が増加し、Chl-aも上昇した。POMのδ13Cは日射量が少ない時は-22.5〜-21.1で日射量が増加すると-20前後に上昇した。

 以上からPOMの安定同位体比は内容物の種類以外にも性状の変化、光合成活性の違い、栄養型の違いによって違う値を取ることが考えられた。

<マガキ安定同位体比の変動>

 餌料の安定同位体比とマガキ安定同位体比の関連、また代謝の影響を知るために一定の同位体比の餌料を投与した。事前の検討の結果、装置は飼育水回転率の高い流水式水槽に高濃度餌料液を添加する方式を取り、餌料には市販の高密度培養珪藻を用いることにした。実験区は大型個体区:マガキ軟体部重量0.9-20g(実験A)と生殖の影響を除くための小型個体区:0.02-0.48g(実験B)を設定し、それぞれに対照区として飢餓群を用意した。温度については15℃以下(低温区)と生殖活動が活発になる20℃以上(高温区)を設定した。

 その結果、実験Aでは性成熟が確認され、Pについて高温区では大きな増加は認められなかったが、低温区では増加が認められた。Pにおける餌料との相対的な安定同位体比の回転率(相対回転率)は低温区で高く、体成分増加による影響が推察された。一方Gの相対回転率では温度間で差がなかった。しかしながら、試料の分離抽出過程で生じる不均一性については、未解決の問題となった。

 実験BにおいてはGはほとんど無く、Pも大きな変化は認められなかったが、相対回転率はAより高く、温度区内の傾向は実験Aと同様であった。

 以上からマガキ安定同位体比の変化はサイズの大型化、生殖活動、温度上昇により鈍化することが明らかになった。

5.まとめ

 以上からマガキの生産の基礎は腐食食物連鎖によって支えられている一方、成長には一次生産が大きく関わり、これらが高い餌料価値を持っていると考察された。今後、マガキの生産評価には従来考えられていた一次生産以上にデトライタスを定量化することが重要であると考察された。これらの評価において安定同位体比はPOMの種類の特定、マガキのサイズならび代謝における間題はあるものの、有効であった。今後は、安定同位体比の変動要因をパラメーター-化するための検証を充分行う必要があると考察された。

審査要旨 要旨を表示する

 二枚貝は漁業生産上重要な生物であるが、漁場の評価や保全にあたっては生産生態学上不明な点が多い。そこで、浜名湖のマガキCrassostrea gigasをモデルとし食性を初めとした生産構造の解析を、近年食物連鎖網の解析に利用されている炭素(C)、窒素(N)安定同位体比を用いて行い、また手法の有効性についても検証、論議を行った。

 第1章では、安定同位体比を用いた生産構造解析の有効性と問題点を解説し、本研究への展開方法について論議している。安定同位体比は、通常は相対千分偏差δ(‰)で表され以下の式で求められる。

 δ=(試料の比-標準物質の比)/(標準物質の比)×1000

 南極海では食物段階毎にδ13Cおよびδ15Nがそれぞれ+1、+3上昇することが報告されており、消化管内容物同定が困難な二枚貝の食性解析では有効であると考えられた。

 一方、鳥類で代謝が影響するケースも、また体成分間に差の有ることも報告されている。従って、導入に当たっては野外調査以外に実験系での検証が必要と考えられた。

 第2章では、浜名湖の環境特性から研究手法の検討を行っており、閉鎖性内湾である同湖では、デトライタスが生産に寄与していると推察されるが、この検証には有機懸濁物(POM)の性状、マガキの身入りを表す生殖線の発達について知見が必要と考えられた。また、マガキ安定同位体比は、餌料環境に鋭敏に反応する生殖消化部(GD)のほか、対照として、同位体比変化が少ない閉殻筋(M)について測定することが適当と考えられた。

 第3章では、マガキの安定同位体比の変動を調査しており、δ13Cは貯蔵物質であるグリコーゲン(G)、GD、消化組織、タンパク質(P)の順に高く、代謝経路の違いを反映したと考察された。海域間では、湾口部ではマガキG,Pのδ13Cは変化しなかったが、湾奥部では2月以降G,Pが-19以下に低下した。このときPOMは同位体比の低いデトライタスと鞭毛虫であったことなどから、同位体比が食性の解析に有効であると考えられた。

 つぎに、調査間隔を短く、かつ同一群の養殖マガキを各地点に分けて垂下するなどして詳細に検討した結果、湾奥部ではマガキにはGが多く蓄積されており、そのδ13C、δ15NはPOMと同じ変化傾向を示したことから、有機懸濁物の豊富さが高い生産性に寄与していることが考察された。これに対してマガキは、湾口部と同様にG、Pの量、同位体比ともにPOMの変化以外にも生殖巣の状態によって変化した。湾奥部より湾口部に移動させたマガキPのδ13Cの分析では、餌料環境の履歴が1.5ケ月後にも残っていた。

 以上から、浜名湖におけるマガキの生産の基礎はデトライタスであり、湾奥部ではこれに一次生産が付加されると考察された。しかしながら、POMには内容(珪藻、鞭毛藻類、デトライタス)以外にも藻類の生理的または生態的な状態が安定同位体比に影響することが推察され、実験的な検証が必要であり、マガキについては代謝の影響を調べるために飼育系による確認が必要であると考えられた。

 第4章では、有機懸濁物(POM)およびマガキ安定同位体比の変動要因について、浜名湖由来の珪藻単離培養株および赤潮生物を対象にmicrocosm(MI)とmesocosm(ME)を用いた実験系で検討している。その結果、POMの同位体比は藻や原生動物の種類以外にも性状、光合成活性の違い、栄養型の違いによって違う値を取ることが検証できた。

 マガキ安定同位体比については、流水式水槽を開発し実験したが、Pにおける餌料との相対的な安定同位体比の回転率(相対回転率)は低温区で高く、Gの相対回転率は温度間で差が無かったほか、マガキ同位体比の変化はサイズの大型化、生殖活動、温度上昇により鈍化することが明らかになった。

 第5章は、本研究の総括として、浜名潮のマガキの生産の特徴に関する考察のほか、今後の二枚貝生産構造の研究には、一次生産以上にデトライタスを定量化することが重要であると指摘しており、これらの評価において安定同位体比はPOMの種類の特定、マガキのサイズならびに代謝における問題はあるものの有効であるが、さらに、安定同位体比の変動要因をパラメーター化するための検証を充分行う必要があると考察している。

 以上本論文は、二枚貝の生産構造解析に安定同位体比を導入することが、食性の解析のみならず海域の生産特性の解析に有効であることを証明し、また今後の応用に多くの指針を与えているなど、学術上また応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値有るものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク