学位論文要旨



No 116240
著者(漢字) 杉元,倫子
著者(英字)
著者(カナ) スギモト,トモコ
標題(和) リグニン分解に影響する二つの未解明の因子 : ラジカル過程における酸素の存在とリグニンにおける構造の不均質性
標題(洋) Tow Unclarified Factors Affecting Lignin Degradation : the presence of oxygen during radical processes and the structural inhomogeneity in lignin
報告番号 116240
報告番号 甲16240
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2270号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生物材料科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯塚,堯介
 東京大学 教授 飯山,賢治
 東京大学 助教授 鮫島,正浩
 東京大学 助教授 磯貝,明
 東京大学 助教授 松本,雄二
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

 木材からパルプを製造する際には大抵の場合、リグニンを分解・除去する為の脱リグニン過程を経ることとなる。脱リグニンは大きく分けて三つの過程からなる。

 すなわち、反応溶液等の浸透による反応場の形成、リグニン自体と反応試薬との反応、そして分解したリグニンの脱離・除去である。これらの過程の中にはさらに様々な因子が働いている訳であるが、それら因子には詳細にわたってすでに検討されたものもある一方で、まだあまりよく分かっていないものもある。また、新たな脱リグニン方法が提案されれば当然因子の数も増えてくる。その中で学位申請者の研究では、リグニン中の結合様式の中で、今まで区別して検討されることの少なかった立体構造異性体(具体的にはβ-O-4型構造のエリスロ・スレオ異性体)を別のものとして取り扱い、これら異性体の脱リグニン反応の際の反応性の差およびリグニン中での分布の違いの検討を通じて、それらが脱リグニン反応にどのように影響しているのかを検討した。また、リグニンが酸化反応を受ける場に存在しているにも関わらず、その影響がほとんど考慮されてこなかった分子状酸素について、リグニンとの反応にどう関わるかについて詳細に検討した。

2. アルカリ脱リグニン過程におけるリグニン構造の不均質性の影響

 近年改良されたオゾン分解法を用いると、試料中に残存するリグニンを単離することなく、残存リグニン中のβ-O-4型構造の量および同構造の異性体であるエリスロ型・スレオ型の比(E/T比)を、生成するエリスロン酸およびスレオン酸から求めることが可能である。そこで木材試料をソーダ蒸解に供し、残存するリグニンの性状を側鎖部分に関してはオゾン分解法を用いて、また芳香核部分に関してはニトロベンゼン酸化法を用いて分析した。その結果、脱リグニンと共に残存リグニン中にβ-O-4型構造の占める割合が減少し、また得られたE/T比も減少した。一方ニトロベンゼン酸化によるシリンガアルデヒド・バニリン比(S/V比)は最終的に大きく増大した。磨砕リグニン(MWL)を同様のソーダ蒸解に供したところ、オゾン分解後に生成するエリスロン酸・スレオン酸の合計収量は激減したが、E/T比は反応初期に若干減少したもののそれ以降ほぼ一定の値を示した。一方のS/V比は、E/T比同様反応初期に減少して以降は一定値を示し、総アルデヒド収量もほぼ同様の傾向を示した。以上の結果をもとに、リグニン構造の不均質性が脱リグニン過程および残存リグニンの性状に与える影響として、次のことを結論した。(1)リグニン中にはβ-O-4型構造のE/T比が異なった区分が不均質に存在し、そもそも反応速度論的に有利な(エリスロ型のほうが反応しやすい)、または薬液の浸透等のトポロジー的に有利な位置にある、あるいはその両者によって、E/T比の高い区分のリグニンがソーダ蒸解過程で優先的に脱離するため、脱リグニンの進行とともにE/T比が徐々に低下する。(2)しかし、最終的にパルプ中に残った残存リグニン中のβ-O-4型構造量が極めて低いことに示されるように、残存リグニン中の同構造は充分な開裂をしており、その意味で、E/T比が低いために速度論的理由で同構造が不十分にしか開裂せずにリグニンが残存した、という解釈は当てはまらない。(3)残存リグニンが上記の性状を有するのは、化学構造的にソーダ蒸解に抵抗性を有する区分が存在し、その区分がβ-O-4型構造が少なく、かつE/T比が低くS-V比が高いという性状を有するためである。MWLでの実験の結果との比較から、ここで示されたE/T比の低さは、残存リグニンの元々の性状を反映していると結論される。

3. 亜塩素酸による脱リグニン過程におけるリグニン構造の不均質性の影響

 亜塩素酸酸化処理した木材試料中に残存するリグニンの性状を、前章同様にオゾン分解法およびニトロベンゼン酸化法を用いて分析した。その結果、亜塩素酸酸化処理では脱リグニンが進行しても、β-O-4型構造のエリスロ型・スレオ型の比(E/T比)は出発試料と同様であった。一方、ニトロベンゼン酸化での総アルデヒド収量およびS/V比は、脱リグニンの後期において減少した。これらから亜塩素酸酸化処理では、ソーダ蒸解とは異なり、側鎖の立体構造とは無関係に脱リグニンが進行することが明らかとなり、脱リグニン後期では次第に、グアイアシル核に富む部分が残存するようになることが示唆された。脱リグニンの前半ではS/V比に変化が見られないことから、亜塩素酸の反応性がS/V比の変化をもたらしたのではなく、S/V比の元々低い部分が残存するようになったのだと考えられる。さらに(E+T)/(S+V)を指標として用い、残存リグニンの側鎖と芳香核どちらで構造変化がより進行しているかも検討した。その結果、亜塩素酸酸化処理では側鎖・芳香環両方で構造変化がほぼ同程度に進んでおり、一方のソーダ蒸解では、側鎖の変化が芳香環の変化よりもかなり激しいことがはっきりと確認出来た。

4. 亜塩素酸または過マンガン酸カリウム処理のリグニン酸化分解過程に対する分子状酸素の影響

 あらかじめ還元した磨砕リグニン(red-MWL)の亜塩素酸処理および過マンガン酸カリウム処理を、酸素圧下および窒素圧下で行い、β-O-4型構造の酸化分解に対する酸素の影響について検討した。その結果現時点では、これらの処理に対する分子状酸素の明確な影響は確認することは出来なかった。一方、各酸化処理後に水素化ホウ素ナトリウムで反応生成物を還元すると、オゾン分解によって得られるエリスロン酸・スレオン酸の生成量が激減することが分かった。これは両有機酸の起源構造が、還元処理によってオゾン分解してもエリスロン酸・スレオン酸を生み出さない構造に変化した事を示している。以上は酸化剤として亜塩素酸を用いた場合でも、過マンガン酸カリウムを用いた場合でも同様であったが、オゾン分解後に得られるエリスロン酸・スレオン酸の比(E/T比)は、亜塩素酸処理の場合は出発値から変化せず一定の値を示したのに対し、過マンガン酸カリウム処理では還元前で若干、還元処理後には明確に減少した。これは反応過程のどこかで、エリスロ型の特異的な反応が進行していることを示している。

5. フェノキシラジカルと分子状酸素の反応性

 リグニン中に何らかの酸化剤により生じたフェノキシラジカルが、分子状酸素と反応するか否かは、酸素一アルカリ漂白過程のみならず、生分解過程、光黄色化反応等について想定されてきたものの、明確な解答は得られていない。そこでモデル化合物のフェノキシラジカルを一電子酸化剤を用いて生成させ、これと分子状酸素との反応性を酸性、加圧酸素下で検討した。この検討は、分子状酸素と反応すれば生成量が増大すると考えられるメタノールを定量することによった。その結果、メタノールの生成量は酸素圧にかかわらず一定値を示し、分子状酸素とフェノキシラジカルとの反応は少なくともこの実験条件下では起こっていないことが明確に確認された。また、メタノール以外の反応生成物として、ホルムアルデヒド、シリンガアルデヒド、p-キノン、o-キノンを確認した。一方、反応終了後に反応液をアルカリ性にすると、反応時の酸素圧に比例したメタノール量の増大が確認された。これは反応液中のマンガンと溶存酸素によって、何らかの活性種が生成したことによると考えられる。

6. リグニン分子中の異なる部位に存在するβ-O-4型構造のエリスロ・スレオ比の定量への試み

 リグニンのβ-O-4型構造のエリスロ・スレオ比(E/丁比)がどのように決定され、リグニン分子中の同構造の部位によってどう異なっているかは、理論的にも応用面でも興味ある問題である。ソーダ蒸解の初期で温度が低いときには、同構造のうちフェノール性水酸基を有する部分のみが構造変化することを利用して、フェノール性β-O-4型構造のエリスロ・スレオ比の解析を試みた。磨砕リグニン(MWL)のソーダ蒸解によって引き起こされるE/T比およびエリスロン酸・スレオン酸収量の変化のうち、初期で温度が低いときに起こる変化がそれに相当すると仮定すると、そのようなβ-O-4型構造、すなわちリグニン分子のフェノール性水酸基側の末端に存在するβ-O-4型構造はエリスロ型に富むことが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 木材組織からのリグニンの分解・除去過程は化学パルプの製造における脱リグニン反応に代表されるが、影響する因子が極めて多様であり、その詳細については不明の点も多い。そこで申請者は本研究で、脱リグニンとリグニン化学構造の不均質性との関係、およびラジカル反応が関与する場合におけるリグニン・フェノキシラジカルと分子状酸素との反応性に注目して、詳細に検討した。

 第1章において既往の研究について明らかにしたのち、第2章においてはアルカリ脱リグニン過程におけるリグニン化学構造の不均質性の影響について述べている。近年改良されたオゾン分解法を用いて、試料中に残存するリグニンを単離することなく、そこに含まれるβ-O-4型構造の量および同構造の異性体であるエリスロ型・スレオ型の比(E/T比)を求め、残存リグニンの側鎖部分の性状を検討するとともに、芳香核部分に関してはニトロベンゼン酸化法を用いて分析した。その結果、脱リグニンの進行と共に残存リグニン中のβ-O-4型構造量のみならず、そのE/T比も減少したが、ニトロベンゼン酸化によるシリンガアルデヒド・バニリン比(S/V比)は最終的に大きく増大した。磨砕リグニン(MWL)を同様の蒸解に供したところ、オゾン分解後に生成するエリスロン酸・スレオン酸の合計収量は激減したが、E/T比は反応初期に若干減少したものの、それ以降ほぼ一定の値を示した。S/V比も同様に反応初期に減少して以降は一定値を示し、総アルデヒド収量もほぼ同様の傾向を示した。以上の結果をもとに、(1)リグニン中にはβ-O-4型構造のE/T比が異なった区分が不均質に存在し、反応性の大きな(エリスロ型のほうが反応性大)、または薬液の浸透等のトポロジカルな面で有利な位置にある、あるいは両条件を備えたリグニンが優先的に脱離するため、脱リグニンの進行とともにE/T比が徐々に低下する。(2)最終的にパルプ中に残存したリグニン中のβ-O-4型構造量が極めて低いことに示されるように、残存リグニン中の同構造は充分に開裂されており、E/T比が低いために速度論的理由で同構造が不十分にしか開裂せずにリグニンが残存した、という解釈は当てはまらない。(3)残存リグニンが上記の性状を有するのは、化学構造的にソーダ蒸解に抵抗性を有する区分が存在し、その区分のβ-O-4型構造が少なく、かつE/T比が低くS/V比が高いという性状を有するためであると結論した。

 第3章では、亜塩素酸による脱リグニン過程におけるリグニン構造の不均質性の影響について、前章同様にオゾン分解法およびニトロベンゼン酸化法を用いて分析した。その結果、亜塩素酸酸化ではソーダ蒸解とは異なり、側鎖の立体構造とは無関係に脱リグニンが進行すること、脱リグニンに伴うS/V比の低下は元々この値の低い部分が残存したためであることを明らかにした。さらに(E+T)/(S+V)を指標とした検討から、亜塩素酸酸化処理では側鎖・芳香環両方で構造変化がほぼ同程度に進んでおり、一方、ソーダ蒸解では、側鎖の変化が芳香環の変化より著しいことを明らかにした。

 第4章においては、亜塩素酸または過マンガン酸カリウム処理のリグニン酸化分解過程に対する分子状酸素の影響について、還元磨砕リグニンの亜塩素酸および過マンガン酸カリウムによる処理を、酸素圧下および窒素圧下で行い、β-O-4型構造の酸化分解に対する酸素の影響を指標として検討した。その結果、これらの処理に対する分子状酸素の明確な影響を確認することは出来なかった。

 第5章においてはフェノキシラジカルと分子状酸素の反応性について、モデル化合物から一電子酸化剤を用いて生成させたフェノキシラジカルと分子状酸素との反応性を酸性、加圧酸素下で検討した。リグニン中に何らかの酸化剤により生じたフェノキシラジカルが、分子状酸素と反応するか否かは、酸素一アルカリ漂白過程のみならず、生分解過程、光黄色化反応等において想定されてきたものの、明確な確認はなされていない。ここではフェノキシラジカルと分子状酸素との反応によってリグニン分子中のメトキシル基から生成すると考えられるメタノールを定量することによって検討を進めたが、メタノールの生成量は酸素圧にかかわらず一定値を示し、分子状酸素とフェノキシラジカルとの反応は少なくとも本実験条件下では起らないことが明確に確認された。また、第6章ではリグニン分子中の末端位あるいは中間位等、異なる部位に存在するβ-O-4型構造のエリスロ・スレオ比の分別定量の試みについて論じている。

 以上、本研究は脱リグニン反応において未解明のままで残されている主要な課題について、理論的解明を試みたもので、リグニン化学に新たな知見を加えるのみならず、パルプ製造における技術開発にも重要な知見を与えるものであり、学術上、応用上重要である。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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