学位論文要旨



No 116250
著者(漢字) 川崎,善博
著者(英字)
著者(カナ) カワサキ,ヨシヒロ
標題(和) 癌抑制遺伝子産物APCによるG蛋白質の制御
標題(洋)
報告番号 116250
報告番号 甲16250
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2280号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋山,徹
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 加藤,茂明
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 吉田,稔
内容要旨 要旨を表示する

 APC(adenomatou polyposis coli)遺伝子はヒト第5番染色体(5q21-22)に存在し、家族性腺腫性ポリポーシス(familialadenomatouspolyposis:FAP;大腸に数百〜数千の腺腫が発生し、大腸癌に進展する常染色体優性の遺伝性疾患)の原因遺伝子として1991年に単離された癌抑制遺伝子である。さらに、APC遺伝子の不活性化はFAP家系の腺腫や大腸癌だけでなく、散発性の大腸癌においても高頻度に見出されることが明らかになっている。APC遺伝子産物は約300kDの巨大な蛋白質で、β-カテニンの分解を誘導して癌化や形態形成に重要な役割を果たすWnt/Winglessシグナル伝達経路を負に制御していることが良く知られている。また、培養細胞にAPCを過剰発現すると細胞周期のG1期からS期への進行が阻害されることも見出されている。

 本研究では、APCの機能をさらに明らかにするためにヒトからC.elegansまで最もよく保存されているAPCのアルマジロモチーフをbaitとしてヒト胎児脳のcDNAライブラリーを用いて、yeast two-hybrid systemを行い、APC結合蛋白質をコードする遺伝子を検索した。その結果、低分子量GTP結合蛋白質(G蛋白質)のRhoファミリーに対するヌクレオチド交換因子(GEF)をコードする遺伝子を新たに見出しAsef(APC-stimulated guanine nucleotideexchange factor)と命名した。

1. Asefの構造

 Asef遺伝子産物は619アミノ酸から成る約85kDの蛋白質で、アミノ末端側に蛋白質一蛋白質相互作用を担うSH3(Src homology3)ドメイン、中央に低分子量GTP結合蛋白質のRhoファミリーに対するヌクレオチド交換反応を行うDH(Dbl homology)ドメイン、カルボキシル末端側に細胞膜への局在に関与していると考えられているPH(Pleckstrin homology)ドメインが存在する。DHドメインをもつ蛋白質は多数知られており、癌遺伝子Dblの産物をはじめ発癌性をもつものが多い。

2. AsefはAPCと複合体を形成する

 まず、in vitro での pull down assayによりAPCとAsefの結合が直接的であることを確認し、さらにAPCとの結合領域がSH3ドメインよりもさらにアミノ末端側に存在することを見出した。また、ラット胚脳の組織溶解液上澄を用いた免疫沈降及びウエスタン-ブロッティングによりAPCとAsefが実際に生体内において結合していることも確認した。大変興味深いことに、APC/Asef複合体にはβ-カテニンも含まれており3者複合体を形成していると考えられた。さらに、マウスの腸管上皮や神経細胞においてAPC、Asefの局在が一致していることを蛍光免疫組織化学及び免疫電子顕微鏡により示した。

3. AsefはRac特異的なGEFである

 次に、Asefはアミノ酸配列から低分子量GTP結合蛋白質のRhoファミリーに対するヌクレオチド交換因子(GEF)であることが推測された為、in vitroでRhoA、Rac1、Cdc42と結合するかどうか検討した。その結果、AsefはRhoAとRac1に結合することが明らかになった。したがって、AsefはRhoAとRac1に対するGEFであると推察された。そこでまず、全長のAsefを用いてin vitroにおいてGEF活性を調べたところ、弱い活性しか認められなかった。そこで、一般にDHドメインを含むDblファミリー(RhoGEF)はアミノ末端領域の欠失により活性化されることが知られているので、APC結合領域を含むアミノ末端領域の欠失変異体(AsefΔAPC)を作製し、再びin vitro においてGEF活性を測定した。その結果予想通り、AsefΔAPCは時間依存的及び濃度依存的にRac1のみに強いGEF活性を示すことが明らかになった。一方、RhoA及びCdc42に対してGEF活性は認められなかった。これらの事実から、AsefはRac1に特異的なGEFとして機能し、APC結合領域を含むアミノ末端領域によりその活性が負に制御されていると考えられた。

4. APCはAsefを活性化する

 さらに、APC/Asef複合体形成の生理的意義を解明するためにAPCがAsefのGEF活性に与える影響を調べた。その結果、大変興味深いことに in vitro においてAPCは濃度依存的にAsefのGEF活性を活性化することを見出した。APCがAsefのアミノ末端領域に結合することにより、アミノ末端によるGEF活性の負の制御がはずれ活性化が引き起こされると考えられる。

5. Asefはアクチンネットワークの変化を引き起こす

 Racが活性化するとアクチン細胞骨格系の制御を通してラッフリングやラメリポディアの形成を誘導し形態変化や細胞運動を引き起こすことは良くしられている。そこで、この種の実験によく使われるイヌの腎尿細管上皮由来のMDCK細胞を用いて、Asefの細胞形態に及ぼす作用について調べた。

 まず、MDCK細胞に全長のAsefを強制発現すると細胞膜のラッフリングやラメリポディアの形成が観察された。そこへさらに、APCも強制発現すると、in viytro での結果から予想された通り、より顕著にかつ巨大なラッフリングやラメリポディアの形成がみられた。このAsefとAPCを共に強制発現した場合の形態変化の度合は、活性化型のAsef(Asef△APC)を強制発現した時とほぼ同じレベルであった。このように、MDCK細胞においてAPCはAsefを介した細胞膜のラッフリングやラメリポディアの形成を誘導することが明らかになった。さらに、AsefのGEF活性がAPCにより制御されていることを確認するために、AsefのAPC結合領域のみを含むdeletion mutantを同時に発現すると、期待通りAPCによる細胞膜のラッフリングやラメリポディアの形成が抑えられた。これらの実験で強制発現したAsefとAPCの細胞内における局在を蛍光免疫染色により検討すると、両者とも細胞質、ラッフリング膜、さらに細胞内でも他の細胞と接触していない縁に存在していることが明らかになった。一方、Nelsonらが報告しているように、移動している細胞の先端部の微小管末端近傍にAPC蛋白質は濃縮して存在しているが、Asefを強制発現するとこのようなAPCの局在は観察されなくなった。

6. APC/Asef複合体と細胞運動

 本研究で得られた知見から、APCはAsefを介して低分子量GTP結合蛋白質のシグナル伝達経路を活性化することによりアクチン細胞骨格系のネットワークを制御し、細胞運動の制御に重要な働きをしている可能性があると考えられる。事実、時間経過を追って観察するとAsefは細胞運動を顕著に活性化するはたらきがあることが明らかになった。腸管ではcryptに存在するstem cellが分裂して、生じた娘細胞が上方へ移動するに従って分裂を止め分化して消化吸収に携わり最終的に繊毛の先端から脱落していくが、この過程にAPC/Asef複合体が関与している可能性がある。FAP症例や一般の大腸癌でみられるAPC遺伝子の異常はほとんどが5'側半分に集中しており、フレームシフト変異やナンセンス点突然変異により終始コドンが生じ、短い遺伝子産物ができることが特徴である。もし、APCに変異が生じてAsefとの結合能を失えば細胞運動が正常に起こらなくなり大腸上皮細胞はcryptに留まったまま分裂を続け腺腫の形成に至ると考えることができる。アルマジロモチーフの下流で欠失している場合にはAsefとの結合は起こるが、β-カテニン・微小管・DLGとの結合ドメインを欠失している場合が多い。APCがこれらの蛋白質と結合することがAsefを適切な場所へ局在させるために重要であると考えると、Asefが適切な場所に局在することができず、大腸上皮細胞の運動能が損なわれるのではないかと想像することができる。

 さらに、APCとAsefは神経細胞の細胞体、シナプスにおいても局在が一致していることから、神経細胞の運動やシナプスでのシグナル伝達にも関与している可能性があると推測される。

 APCには様々な蛋白質が結合し、APCの生体内における生理機能は多岐にわたっていると予想されるが、まだその一端が解明されたにすぎない。今回のAsefの発見によって、APCと低分子量GTP結合蛋白質を結ぶ新たな制御機構が明らかになった。さらに今後、Asefノックアウトマウスの解析、あるいは関係するシグナル伝達分子の同定、解析を行うことにより、細胞運動・細胞骨格の新しい制御機構の実体が明らかになることが期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 APC(adenomatous polyposis coli)遺伝子は家族性大腸腺腫症(FAP)の原因遺伝子として単離された癌抑制遺伝子で、大腸癌の70-80%の症例で変異が見出される。APC遺伝子産物はβ-cateninやAxin等と結合することによりβ-cateninのユビキチン-プロテアソーム依存的分解を誘導し、形態形成や発癌機構に重要な役割を果たすことで知られているWnt/Winglessシグナル伝達経路を負に制御することが明らかとなっている。しかし、APC遺伝子産物はヒトから線虫まで最も高度に保存されたアルマジロモチーフを有しており、この領域が生物学的に大変重要な機能を担っている可能性があると考えられている。本論文は、APCがアルマジロリピートを介して低分子量GTP結合蛋白質(G蛋白質)のRhoファミリーに対するヌクレオチド交換因子(GEF)と結合しアクチンネットワークの制御に関与していることを示したものである。

 第1章では、APCに関する基礎的な知見をまとめ本論文の目的を述べた。

 第2章では、APCのアルマジロリピートドメインをbaitとするyeast two-hybrid screeningにより新規のGEFがAPCに結合することを明らかにしAsef(APC-stimulated guanine nucleotideexchange factor)と命名した。Asefは619アミノ酸から成る約85kDの蛋白質で、アミノ末端側に蛋白質一蛋白質相互作用を担うSH3(Src homology3)ドメイン、中央に低分子量GTP結合蛋白質のRhoファミリーに対するヌクレオチド交換反応を行うDH(Dbl homology)ドメイン、カルボキシル末端側に細胞膜への局在に関与していると考えられているPH(Pleckstrin homology)ドメインが存在する。in vitroおよびin vivoのpull-down assayによりAPCのアルマジロリピートとAsefのアミノ末端領域が直接結合することを明らかにし、さらにAPC/Asef複合体にはβ一カテニンも含まれており3者複合体を形成していることを見出した。また、マウスの腸管上皮や神経細胞においてAPC、Asefの局在が一致していることを蛍光免疫組織化学及び免疫電子顕微鏡により示した。

 第3章では、AsefがAPCによって活性化されるRac特異的なGEFで、アクチンネットワークの再編成、細胞の運動性の制御に関与することを明らかにした。まず、AsefはRhoAとRac1に結合することを明らかにし、Rac1に対してはGEF活性を示すことを見出した。すなわち、全長のAsefは弱い活性しか示さないがAPC存在下では強いGEF活性を示すことが見出された。また、APC結合領域の欠失変異体(AsefΔAPC)はAPC非存在下でもRac1に強いGEF活性を示した。以上の結果から、APCがAsefのアミノ末端領域に結合することにより、アミノ末端によるGEF活性の負の制御がはずれ活性化が引き起こされると考えられた。

 Asefの細胞形態への作用を明らかにするためイヌ腎尿細管上皮由来のMDCK細胞にAsefを強制発現すると細胞膜のラッフリングやラメリポディアの形成が観察された。さらに、APCも同時に強制発現するとより顕著なラッフリングやラメリポディアの形成がみられた。このAsefとAPCを共に強制発現した場合の形態変化の度合は、活性化型のAsef(AsefΔAPC)を強制発現した時とほぼ同じレベルであった。これらの実験で強制発現したAsefとAPCの細胞内における局在を蛍光免疫染色により検討すると、両者とも細胞質、ラッフリング膜、さらに細胞内でも他の細胞と接触していない縁に存在していることが明らかになった。一方、Nelsonらが報告しているように、移動している細胞の先端部の微小管末端近傍にAPC蛋白質は濃縮して存在しているが、Asefを強制発現するとこのようなAPCの局在は観察されなくなった。さらにAsefΔAPCを発現したMDCK細胞を時間経過を追って観察するとAsefは細胞運動を顕著に活性化するはたらきがあることが明らかになった。腸管ではcryptに存在するstem cellが分裂して、生じた娘細胞が上方へ移動するに従って分裂を止め分化して最終的に繊毛の先端から脱落していくが、この過程にAPC/Asef複合体が関与している可能性があると推測された。APCの変異により細胞運動が正常に起こらなくなると大腸上皮細胞はcryptに留まったまま分裂を続け腺腫の形成に至ると考えることができる。

 以上、本論文はAPC結合蛋白質Asefの解析によりAPCと低分子量GTP結合蛋白質、細胞骨格を結ぶ新たな制御機構を明らかにしたもので、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の単位論文として価値あるものと認めた。

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