学位論文要旨



No 116263
著者(漢字) 丸山,潤一
著者(英字)
著者(カナ) マルヤマ,ジュンイチ
標題(和) 麹菌Aspergillus oryzagの核動態に関する研究
標題(洋)
報告番号 116263
報告番号 甲16263
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2293号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北本,勝ひこ
 東京大学 教授 依田,幸司
 東京大学 教授 五十嵐,泰夫
 東京大学 助教授 堀内,裕之
 東京大学 助教授 中島,春紫
内容要旨 要旨を表示する

 麹菌A.oryzaeは我々日本人の経験と知恵を結集し受け継がれ、千年以上にわたって清酒・醤油・味噌などの醸造に用いられてきた。また、アミラーゼなどの酵素生産微生物としての活躍も約一世紀と長きにわたる。最近では、形質転換法の開発を契機に分子遺伝学的手法が導入された麹菌は、異種蛋白質生産の宿主として世界的にも注目されている。さらに、この10年ほどの間に麹菌の様々な遺伝子がクローニングされるなど、分子生物学的解析が飛躍的に進んでいる。

 しかし、麹菌の菌糸成長や分生子形成などの形態的な観点からの解析は、まだ始まったばかりである。なかでも、麹菌の核輸送は菌糸成長や分生子形成に必要であり、醸造や産業利用に重要な役割をもつ。麹菌は菌糸のみならず分生子も多核であるため、変異株取得に多大な労力と時間を要するという問題があった。この性質は、基礎研究において麹菌への古典遺伝学の適用を困難にし、実用において変異育種の際に生育の阻害や分生子形成効率低下などの2次的影響をもたらすことが多々あった。逆に、この性質は麹菌に遺伝的安定性を付与することから、醸造にとっては望ましい形質である。以上のことから、核輸送の研究は麹菌がもつ醸造上の特性を解明するために、また遺伝学的解析や育種の改良を見据えたうえでも、意義あるものである。

 Neurospora crassaやAspergillus nidulansなどの糸状菌の解析により、核輸送にcytoplasmic dynein(細胞質ダイニン)やdynactin complex(ダイナクチン複合体)が関与することが明らかになっている。cytoplasmic dyneinは微小管依存性のモーターであり、マイナス端方向に移動する。エンドサイトーシス、ゴルジ体の形成、神経軸索のオルガネラの逆輸送、微小管依存性の有糸分裂など、細胞内の様々な輸送過程に関与している。dynactin complexはcytoplasmic dyneinとオルガネラなどの荷物とを連結し、その輸送を活性化すると考えられている。

 A.oryzaeにおいては、dynactin complexのコンポーネントであるアクチン関連蛋白質Arp1(actin-related protein)をコードする遺伝子(arpA)が、既に当研究室でクローニングされている。arpA破壊株は著しい生育阻害、菌糸の多分岐、核分配の阻害、分生子柄の形態異常を示した。アミラーゼに関するハロアッセイの結果より、arpA破壊株における菌体重量あたりのアミラーゼ生産量が野生株より高いことが示唆された。これらの結果は、基礎的ならびに麹菌の応用的観点からも非常に興味深い現象である。そして、cytoplasmic dyneinとdynactin complexの役割に関するさらなる研究が、麹菌利用の一助となることが期待される。

 本研究では、麹菌A.oryzaeの核輸送・核動態に着目し、EGFPによるA.oryzaeの核の可視化、核動態観察、FACS(fluorescence-activated cell sorter)を用いた分生子内の核数の解析、cytoplasmic dynein heavy chainをコードする遺伝子(dhcA)のクローニングと機能解析を行った。

 1 EGFPを用いたA.oryzaeの核の可視化

 生きた細胞の核動態を観察するために、A nidulans histone H2Bをコードする遺伝子と、EGFPをコードするDNA断片との融合遺伝子力h2b-egfpを作成した。A.oryzae niaD300株(niaD)とA.nidulans FGSC89株(argB)に、それぞれのマーカーとともに融合遺伝子h2b-egfpを導入した。取得した形質転換体を蛍光顕微鏡で観察し、A.oryzaeおよびA.nidulansの菌糸の核に融合蛋白質H2B::EGFPの蛍光を確認した。また、冷却CCDカメラを装着した蛍光顕微鏡を用い経時的に追跡し、菌糸成長時には先端の核の成長方向への移動、有糸分裂時は染色体凝縮と娘染色分体の分離を観察した。以上の結果から、H2B::EGFPの発現により、細胞周期全般にわたり核の動態の可視化に成功した。

 2 A.oryzaeの分生子の核数

 A.oryzaeならびにA.nidulansのH2B::EGFP発現形質転換体の分生子を蛍光顕微鏡で観察し、蛍光を確認した。A.oryzaeは分生子も多核であることから、H2B::EGFPを発現した分生子内の蛍光の数を調べた。分生子が単核であるA.nidulansではすべて1個であったのに対し、A.oryzaeでは66%が2個、24%が1個、10%が3個以上であった。A.oryzaeに単核の分生子が存在することを示したのはこれが初めてであり、またこれまで報告されてきた核数(4個から6個)と大きな隔たりがあった。そこで、醸造研究所のA.oryzaeの保存株(RIB(Research Institute of Brewing)strains)の中から清酒醸造に使用されている5株を選び、DAPI染色により分生子の核数を調べた。株によって分布が異なるが大部分が多核であり、2〜5個のものが多かった。また、A.oryzae H2B::EGFP発現株に比べて割合は非常に少ないものの、単核の分生子も形成する株が存在した。以上の結果より、A.oryzaeにおいて株によっては、数は少ないながらも単核の分生子が存在することが明らかになった。

 3 FACS解析と単核の分生子の単離

 本研究では、大量の分生子のGFP蛍光を定量的解析するために、FACS解析に適した励起波長をもつEGFPを用いた。H2B::EGFPを発現させた分生子をFACS解析に供したところ、A.nidulansでは単一のピーク、A.oryzaeでは相対蛍光強度が異なる2つのピークを観察した。単核の分生子をもつA.nidulansのピークと比較することにより、これと同じ蛍光強度をもつA.oryzaeのピークは単核のもの、それより大きい蛍光強度のピークは2つの核をもつ分生子に対応するものであると判断した。さらに、ソーティングによりA.oryzaeの2つのピークの分生子を回収し、蛍光顕微鏡観察を行ったところ、それぞれ単核と2つの核のピークであることを確認した。また、回収したA.oryzaeの単核の分生子からコロニーを形成させ、単核の分生子を形成するかを調べた。その結果、最初と同様の核数分布を示した。以上の結果から、A.oryzaeは様々な核数をもつ分生子を形成するように遺伝的にプログラムされていることが示唆された。

 4 A.oryzaeのcytoplasmic dynein heavy chainをコードする遺伝子dhcAのクローニング

 cytoplasmic dynein heavy chainをコードする遺伝子(dhcA)をA.oryzaeよりクローニングした。N.crassaのcytoplasmic dynein heavy chainであるRo1の配列をもとにプライマーを作成、PCRで得たDNA断片をプローブにして、クローニングを進めた。その結果、dhcA遺伝子は2つのイントロンをもち、4346個のアミノ酸からなる蛋白質をコードすると推定した。A.oryzae DhcAはA.nidulans NudAと88%、N.crassaRo1と73%、ラットCyDnと49%、出芽酵母Dyn1pと38%の相同性を有していた。また、他の生物種のcytoplasmic dynein heavy chainと同様に、A.oryzae DhcAではATP結合と分解に特徴的なP-loopが4ヶ所保存されていた。これらのことから、A.oryzae dhcA遺伝子がdynein heavy chainとして機能していることが考えられた。

 5 A.oryzae dhcA遺伝子の機能解析

 A.oryzae dhcAにおけるdhcA遺伝子の機能を調べるために、遺伝子破壊株を作成した。硫酸塩資化に関与するsC遺伝子をマーカーとして、A.oryzaeのNS4株(sC,niaD)をホストとして、形質転換を行った。PCRおよびサザン解析により、dhcA遺伝子破壊株の取得を確認した。dhcA破壊株の生育は著しく阻害されたが、致死ではなかったため、dhcA遺伝子は必須でないことが明らかになった。dhcA破壊株の菌糸の核をDAPIを用いて染色したところ、核分配の阻害を観察した。この表現型より、A.oryzae dhcA遺伝子は核分配に必要であることがわかった。

 走査型電子顕微鏡を用いて分生子柄の形態を調べたところ、dhcA破壊株の分生子柄に異常な形態を観察した。また、dhcA破壊株の分生子も異常な形態を示し、分生子内の核数がホスト株NS4に比べて増加した。これらの結果から、dhcA遺伝子が分生子形成時の正常な形態形成に必要であることを示した。

 次に、dhcA遺伝子のエンドソームや液胞の局在への役割を調べるため、dhcA破壊株をcell tracker blue(CMAC)存在下で培養し、蛍光顕微鏡で観察した。野生株RIB40では先端にエンドソームや液胞を示す蛍光はほとんど見られず、菌糸が基部に近づくにつれて液胞状のものがみられた。一方、dhcA破壊株では先端にエンドソームや液胞が多く存在した。このことにより、dhcA遺伝子はエンドソームと液胞の適切な局在に必要であることが明らかになった。

 また、dhcA破壊株の菌糸は多分岐の形態を示した。糸状菌において分泌蛋白質は菌糸先端から分泌されていることから、dhcA遺伝子破壊による分泌への影響に興味がもたれた。そこで、アミラーゼに関するハロアッセイを行った。dhcA破壊株は生育が悪いものの、野生株RIB40とほぼ同様の大きさのハロを形成した。このことから、dhcA破壊株は菌体重量あたりのアミラーゼ生産量が高いことが示唆された。多分岐という形態は有用蛋白質生産の観点から注目を集めており、このような菌糸形態と分泌効率との関連は興味深いものである。

 6 A.oryzae dhcA 破壊株におけるH2B::EGFPの発現

 核動態におけるdhcA遺伝子の役割の詳細な解析を目的として、dhcA破壊株にH2B::EGFPを発現した。蛍光顕微鏡を用いて菌糸を観察したところ、H2B::EGFP発現下でも核分配の阻害を確認した。経時的観察の結果、先端方向への輸送が遅くなる核や、先端と逆の基部の方向に移動する核が認められた。さらに、H2B::EGFP発現細胞を用い、先端の核と菌糸先端との距離を計測した。その結果、野生株では12.2±2.7μm(n=12)、dhcA破壊株では24.4±7.8μm(n=12)であった。以上の結果より、dhcA破壊株では菌糸先端への核輸送に障害が起こっていることがわかった。

まとめ

 本研究では麹菌の核動態について調べるため、EGFPによる核の可視化と分生子の核数の解析、核輸送に関与する遺伝子のクローニング、機能解析を行った。

 麹菌の核の可視化に用いたH2B::EGFP発現系は、核動態の詳細な解析に非常に役立つと期待される。分生子の核数の解析では、麹菌の分生子は大部分が多核であるが、株によっては低頻度ながら単核のものも存在することを初めて示した。FACS解析の利用は、単核の分生子を形成する変異株の単離や、多核の分生子を形成する機構の解析に寄与すると思われる。

 さらに、dhcA遺伝子が正常な核輸送、分生子形成時の形態形成、エンドソームと液胞の適切な局在に必要であることを明らかにした。これはarpA遺伝子と同様の結果であり、A.oryzaeにおいてもcytoplasmic dyneinとdynactin complexは協同して働いていることが考えられる。今後は、H2B::EGFP発現系を用いて詳細な核動態の観察を行い、麹菌におけるarpA遺伝子とdhcA遺伝子の役割をより明確にする予定である。

 我が国の長い醸造の歴史で独自に培ってきた経験・技術を活かしつつ、分子遺伝学的手法ならびに最新の解析道具・実験機器を駆使することにより、麹菌の核動態の解析が今後発展していくことが大いに期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 麹菌A.oryzaeは、清酒・醤油・味噌などの醸造、アミラーゼなどの酵素生産に用いられている重要な微生物であり、異種蛋白質生産の宿主として注目されている。最近、その分子生物学的解析が飛躍的に進みつつあるが、麹菌の菌糸成長や分生子形成などの形態的な観点からの解析は、ほとんどなされていない。なかでも、麹菌の核輸送は菌糸成長や分生子形成に必要であり、醸造や産業利用に重要な役割をもつ。また、麹菌は菌糸のみならず分生子も多核である。以上のことから、麹菌の核輸送の研究は意義あるものである。他の糸状菌の解析により、核輸送にcytoplasmic dynein(細胞質ダイニン)やdynactin complex(ダイナクチン複合体)が関与することが明らかになっている。A.oryzaeのdynactin complexのArp1(actin-related protein)をコードする遺伝子(arpA)の破壊株では、著しい生育阻害、核分配の阻害、菌糸の多分岐、分生子柄の形態異常が既に観察されている。この結果は、基礎的ならびに応用的観点から非常に興味深い現象である。そして、cytoplasmic dyneinとdynactin complexの役割に関するさらなる研究が、麹菌利用の一助となることが期待される。本研究は、麹菌A.oryzaeの核輸送・核動態に関するものであり、3章からなる。

 第1章では、生きた細胞の核動態を観察するために、A.nidulans histone H2BとEGFPとの融合蛋白質(H2B::EGFP)をA.oryzaeで発現し、蛍光顕微鏡による詳細な観察を行っている。その結果、A.oryzaeの菌糸ならびに分生子の核にH2B::EGFPの蛍光を確認し、菌糸成長時には先端方向への核輸送、有糸分裂時は染色体凝縮と娘染色分体の分離を観察した。また、A.oryzaeは分生子も多核であることから、H2B::EGFPを発現した分生子内の蛍光の数を調べたところ、66%が2個、24%が1個、10%が3個以上であった。大量の分生子のGFP蛍光を定量的に解析するため、H2B::EGFPを発現させた分生子をFACS解析に供したところ、相対蛍光強度が異なる2つのピークを観察した。ソーティングによりA.oryzaeの2つのピークの分生子を回収し、蛍光顕微鏡観察を行ったところ、それぞれ単核と2つの核のピークであることを確認した。また、回収したA.oryzaeの単核の分生子からコロニーを形成させ、単核の分生子を形成するかを調べた結果、最初と同様の核数分布を得た。以上のことから、A.oryzaeは様々な核数をもつ分生子を形成するように、遺伝的にプログラムされていることを示唆した。FACS解析の利用は、単核の分生子を形成する変異株の単離や、多核の分生子を形成する機構の解析に寄与すると期待される。

 第2章では、cytoplasmic dynein heavy chainをコードする遺伝子をA.oryzaeよりクローニングしdhcAと命名し、その遺伝子の構造解析を行っている。

 第3章では、dhcA遺伝子の機能を調べるために、遺伝子破壊株の様々な表現型を解析した。dhcA破壊株は、著しい生育阻害、核分配の阻害、菌糸の多分岐を示した。また、dhcA破壊株にH2B::EGFPを発現したところ、先端方向への輸送が遅くなる核や、先端と逆の基部の方向に移動する核を観察した。以上の結果より、dhcA遺伝子は菌糸先端への核輸送に必要であることがわかった。そのほか、dhcA遺伝子が分生子形成時の正常な形態形成、液胞とエンドソームの適切な局在に必要であることを明らかにしている。また、アミラーゼに関するハロアッセイの結果、dhcA破壊株は菌体重量あたりのアミラーゼ生産量が高いことが示唆された。dhcA破壊株の菌糸が示す多分岐という形態は有用蛋白質生産の観点から注目を集めており、このような菌糸形態と分泌効率との関連は興味深いものである。今後は、EGFP発現による核などのオルガネラの動態観察を行うことにより、dhcA遺伝子の役割がより明確になることが期待される。

 以上、本論文はAspergillus oryzaeの核動態について分子生物学的に解析したもので、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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