学位論文要旨



No 116269
著者(漢字) 栗原,重一
著者(英字)
著者(カナ) クリハラ,シゲカズ
標題(和) インスリン様成長因子細胞内シグナルの新しい修飾機構の解明
標題(洋)
報告番号 116269
報告番号 甲16269
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2299号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 教授 千田,和広
内容要旨 要旨を表示する

 インスリン様成長因子-I(Insulin-like growth factor-I;IGF-I)は、多くの細胞に、増殖・分化誘導、細胞死抑制、同化促進活性などを示し、そのため、動物の成長や発達に必須なホルモンであることが、明らかとなってきている。一方、このホルモンのシグナル伝達機構については、IGF-Iが受容体に結合後受容体チロシンキナーゼが活性化され、活性化されたチロシンキナーゼがインスリン受容体基質(IRS)をチロシンリン酸化する。このIRSのリン酸化チロシン残基を認識して、Grb2やPI3-kinase制御サブユニットなどSH2ドメインを持った様々なシグナル分子とが相互作用し、これらの相互作用を介してMAPkinase経路やPI3-kinase経路をはじめとした種々の情報伝達系が活性化、結果として多種多様な生理活性が発現すると考えられている。正常な成長や発達には、IGF-Iが誘導する広範な生理活性のうち特定の生理活性が、組織・時期特異的に発現される必要があるが、標的細胞の生理状態に応答して特定の生理活性を発現するメカニズムは、これまでほとんど明らかにされていない。しかし、IGF-I受容体キナーゼ活性化、IRSのチロシンリン酸化に始まる情報伝達系が、その下流で複雑に分岐して特定の生理活性を発現していることを考えると、どのような情報伝達経路にどのような量のシグナルが伝わるか、言い換えればIGF-I細胞内シグナルの方向と量が調節されることによって、合目的的な生理活性の発現が可能になっていると推定される。

 そこで、本研究では、IGF-I細胞内シグナルの方向と量の調節を可能とする新しいシグナル修飾機構を解明することを目的に研究を行った。まず、IGF-Iにより増殖と分化が誘導されることが明らかになっている神経細胞をモデルに、増殖・分化誘導過程それぞれに、どのようなシグナル伝達系の活性化が必須かについて検討した。その結果、いずれの誘導過程においても、IGF-IがIRSのチロシンリン酸化を同じように引き起こすにも関わらず、増殖誘導あるいは分化誘導には、IRSの下流での情報伝達経路の活性化の必要性が異なることが明らかとなった。そこで、特にIGF-Iシグナル伝達において重要な役割を果たしていると考えられるIRSlに注目し、IRSlに相互作用しIGF-I細胞内シグナルを修飾するような分子のスクリーニングを試みた。その結果、LIMドメインを有した新規シグナル分子の取得に成功し、IRSとタンパク質が相互作用することによりIRSを介した細胞内シグナルを調節するような新しい機構が存在することを発見した。

1.SH-SY5Y細胞においてIGF-I誘導性増殖・分化に必要なシグナル伝達経路の解析

 神経細胞の増殖・分化誘導の良いモデルとなっているヒト神経芽細胞SH-SY5Yは、IGF-Iにより増殖・分化が誘導されることが知られている。しかし、それぞれを誘導するためにどのようなシグナル伝達経路の活性化が必要であるかについてはまだ明らかにされていない。まず、IGF-IでSH-SY5Y細胞を種々の時間処理後、増殖・分化誘導を追跡し、IGF-Iが、DNA合成・細胞数を増加させ、同時に神経突起の伸長、神経伝達物質であるNPYの遺伝子発現の誘導を引き起こすことを確認した。この際の細胞内シグナル伝達を解析したところ、IGF-IはIGF-I受容体チロシンキナーゼを活性化し、IRS1・IRS2・Shcなどの受容体基質のチロシンリン酸化を介して、MAPkinase経路のカスケード下流のキナーゼであるErk、PI3-kinase経路のカスケード下流のキナーゼであるAktを活性化することがわかった。特に、Erk・Aktの活性化は、IRS1のチロシンリン酸化をよく反映することも明らかとなった。そこで、IGF-Iに応答したMAPkinase経路やPI3-kinase経路の活性化が、この細胞の増殖・分化誘導に果たす役割を調べるために、IGF-I処理時にMAPkinase経路の阻害剤PD98059(MEK阻害剤)あるいはPI3-kinase経路の阻害剤LY294002(PI3-kinase阻害剤)を添加して、増殖および分化を解析した。その結果、SH-SY5Y細胞では、IGF-Iによる増殖誘導にはMAPkinase経路及びPI3-kinase経路が同時に活性化されることが必要であり、分化誘導にはMAPkinase経路あるいはPI3-kinase経路のどちらか一方の活性化で十分であることを見出した。以上の結果から、SH-SY5Y細胞はIGF-Iにより増殖及び分化が誘導されるが、増殖・分化誘導過程で、IRSより下流のシグナル伝達経路の活性化の必要性が異なることが明らかとなった。この現象は、IGF-Iの細胞内シグナルが、IRSチロシンリン酸化以降の段階で、どの情報伝達経路へシグナルを伝えるかというシグナルの方向、伝達経路下流へ伝わるシグナルの量が調節され、IGF-Iの特定の生理活性が発現するという機構が存在すると考えると、よく説明ができる。

2.Yeast two-hybrid screeningを用いたIRS1と相互作用するシグナル分子の検索

 先にも述べたように、これまで、IRS1と相互作用するシグナル分子としてリン酸化チロシン残基を認識するSH2ドメインをもったタンパク質が注目されてきたが、最近になり、IRS1のチロシンリン酸化に非依存的に結合するような分子が、インスリンやIGF-Iシグナルを制御している可能性が示されてきている。そこで、IRS1と相互作用し、IGF-Iシグナルを修飾するような分子を同定するために、チロシンリン酸化されていないIRSlと結合している分子のスクリーニングを試みることにした。すなわち、チロシンキナーゼ活性がほとんど検出されない酵母系を用いて、IRS1をbaitとして、IGF-1の代表的な標的組織と考えられているヒト胎盤のcDNA libraryをpreyとしてtwo-hybrid screeningを行った。その結果、14-3-3タンパク質のような細胞内シグナルの調節因子、AP50などのようなタンパク質のソーティングに重要な役割を果たすと考えられているタンパク質、TSPIL(testis-specific protein,Y-encoded-like protein)などのような詳しい機能が明らかになっていないタンパク質などの既知分子の他、報告のない複数種の分子の遺伝子取得に成功した。その中で、ダブルZnフィンガーを特徴としたタンパク質間相互作用に重要なLIMドメインを有する新規分子IRSAL(IRS-associated LIM proteinと命名)は、IRS1との結合が特に強く確認されたので、この分子に注目して解析を進めた。まず、COS7細胞を用いた共沈降実験により、in vitroにおけるIRS1との結合を確認した。次に、IRS1のdeletion mutantを用いてIRS1の結合領域を解析したところ、IRSALはIRS1のa.a.493〜a.a.694に結合することが明らかとなった。この領域は、4分子種の存在が報告されるIRSファミリータンパク質のうち、IRSlとIRS2によく保存されており、IRSALがIRS2とも相互作用するが、IRS-3あるいはIRS-4との結合が観察されないという結果を良く支持していた。一方、IRSALは、その分子内のLIMドメインを介してIRS1およびIRS2と結合することが推定された。

3.新規分子IRSALのcDNA塩基配列の決定及びIGF-Iシグナルに及ぼす影響の解析

 IRSALは、これまで報告のない新規分子であったので、まず、今回取得したIRSAL cDNA約2.0bpの全塩基配列を決定した。その結果、このcDNAは1,008bp、336アミノ酸からなるORFをコードしていた。予想されるアミノ酸配列から、IRSALはLIMドメイン5個のみからなり、LIMタンパク質として報告されているPINCHタンパク質と構造が類似したLIM-only proteinであることが明らかとなった。また、IRSALの発現は、主にインスリンやIGF-Iの標的組織で確認され、特に心臓での発現が強いことがわかった。続いて、IRSALがIGF-Iシグナル伝達に及ぼす影響を調べるために、GFP-IRSALを高発現させた293T細胞をIGF-Iで刺激し、IGF-Iの細胞内シグナルを追跡した。先にも述べたように、IRSALはIRS1およびIRS2に結合することが明らかになっているので、まず、IGF-I刺激後のIRS1及びIRS2のチロシンリン酸化の経時的変化を解析したところ、IRSALは、IGF-Iにより誘導されるIRS1のチロシンリン酸化を増強し、逆にIRS2のチロシンリン酸化を減弱させることを発見した。更に、IRSALとIRS1あるいはIRS2との相互作用が、IRS以降の情報伝達経路の下流、MAP kinase経路あるいはPI3-kinase経路の活性化に及ぼす影響を解析した。その結果、IRSALは、IGF-Iに応答したAktの活性化には影響を与えないが、Erkの活性化を増強させることが明らかになった。以上の結果から、今回新たにIRS1と相互作用する分子として同定されたIRSALは、IRS1あるいはIRS2と結合して受容体キナーゼによるIRSのリン酸化を変化させ、情報伝達系下流のMAPkinase経路へのシグナルの量を調節している可能性が強く示された。

総括

 今回、神経細胞を用いた研究から、IGF-Iが、IRSのチロシンリン酸化以降の段階で、活性化される下流のシグナル経路の決定とシグナル量の調節が行われる結果、特定の生理活性を発現する可能性が考えられた。そして、チロシンリン酸化非依存的にIRS1と結合する分子を取得するという全く新しいアプローチにより、IGF-Iシグナルを修飾するような新規分子の発見に成功した。今回、取得した新規分子IRSALは、LIMドメインというタンパク質間相互作用に機能する特徴的な構造を有しており、このドメインを介してIRS1あるいはIRS2と相互作用することにより、下流のシグナル経路の活性化を修飾することが明らかとなった。この研究結果より、IRSとシグナル分子の相互作用が、IGF-Iシグナルを制御するという全く新しい概念を提示することができた。今後、IRSALによるIRSチロシンリン酸化の制御機構、IRSALと相互作用するようなIRS以外のシグナル分子の検索、IRSALによるIRS下流のシグナル経路活性化の制御機構、そしてIRSALがIGF-Iの生理活性に及ぼす影響などを詳細に解析していくことによって、IRSALの種々の組織・細胞における生理的意義を明らかにしていきたいと考えている。これらの研究成果が、インスリンやIGF-Iが関わる生命現象の解明、IRSが関与すると考えられている種々の疾患の発症原因の究明や治療方法の確立に役立つものと期待している。

審査要旨 要旨を表示する

 インスリン様成長因子-I(IGF-I)は、多くの細胞に、増殖・分化誘導、細胞死抑制、同化促進活性などを示し、そのため、動物の成長や発達に必須なホルモンであることが明らかとなってきている。このホルモンのシグナル伝達機構については、IGF-Iが受容体に結合後、受容体チロシンキナーゼが活性化され、活性化されたチロシンキナーゼがインスリン受容体基質(IRS)をチロシンリン酸化、このIRSのリン酸化チロシン残基を認識してSH2ドメインを持った様々なシグナル分子が相互作用し、これらの相互作用を介してMAP kinase経路やPI3-kinase経路をはじめとした種々の情報伝達系が活性化、結果として多種多様な生理活性が発現すると考えられている。

 本論文では、IGF-Iの細胞内シグナルの方向と量の調節を可能とする新しいシグナル修飾機構を解明することを目的に研究を行ったもので、序章、3つの章、総合討論からなる。

 まず、序章では、本研究の背景および意義を概説し、本研究の目的と本論文の構成について述べている。

 続いて、第1章では、神経細胞の増殖・分化誘導の良いモデルとなっているヒト神経芽細胞SH-SY5Yを用いて、増殖・分化それぞれを誘導するために、IGF-Iのどのようなシグナル伝達経路の活性化が必要であるかについて検討している。IGF-Iに応答したMAP kinase経路やPI3-kinase経路の活性化が、この細胞の増殖・分化誘導に果たす役割を調べるために、IGF-I処理時にMAP kinase経路の阻害剤PD98059(MEK阻害剤)あるいはPI3-kinase経路の阻害剤LY294002(PI3-kinase阻害剤)を添加して、増殖および分化を解析した。その結果、SH-SY5Y細胞では、IGF-Iによる増殖誘導にはMAPkinase経路及びPI3-kinase経路が同時に活性化されることが必要であり、分化誘導にはMAP kinase経路あるいはPI3-kinase経路のどちらか一方の活性化で十分であることを見出した。

 第2章では、IGF-Iレセプターキナーゼの細胞内基質であるIRS1と相互作用し、IGF-Iシグナルを修飾するような分子を同定するために、チロシンリン酸化されていないIRS1と結合している分子のスクリーニングを試みた。すなわち、チロシンキナーゼ活性がほとんど検出されない酵母系を用いて、IRS1をbait、IGF-Iの代表的な標的組織と考えられているヒト胎盤のcDNA libraryをpreyとし、two-hybrid screeningを行った。その結果、14-3-3タンパク質のような細胞内シグナルの調節因子、AP50などのようなタンパク質のソーティングに重要な役割を果たすと考えられているタンパク質の他、報告のない複数種の分子の遺伝子取得に成功した。その中で、ダブルZnフィンガーを特徴としたタンパク質間相互作用に重要なLIMドメインを有する新規分子IRSAL(IRS-associated LIM proteinと命名)は、IRS1との結合が特に強く確認されたので、この分子に注目して解析を進め、この分子が細胞内でIRS1と相互作用し、さらにIRSファミリータンパク質のうちIRS2とも結合することを明らかにした。

 第3章では、今回取得したIRSAL cDNA約2.0kbpの全塩基配列を決定し、このcDNAは1,008bp、336アミノ酸からなるORFをコードしており、予想されるアミノ酸配列から、IRSALはLIMドメイン5個のみからなるLIM-only proteinであることを明らかにした。また、IRSALの発現は、主にインスリンやIGF-Iの標的組織で確認され、特に心臓での発現が強いことがわかった。IRSALを過剰発現させた293T細胞では、IRSALは、IGF-Iにより誘導されるIRS1のチロシンリン酸化を増強し、逆にIRS2のチロシンリン酸化を減弱させることを発見した。更に、IRSALは、IGF-Iに応答したAktの活性化には影響しないが、Erkの活性化を増強させることが明らかになった。

 総合討論では、本研究で得られた結果をまとめ、その意義を考察し、今後の研究の展望を述べている。

 以上、本論文はIRS1あるいはIRS2と相互作用し、受容体キナーゼによるIRSのチロシンリン酸化を変化させ、情報伝達系下流へのシグナルの量を調節している新しいタンパク質を同定したもので、学術上・応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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