学位論文要旨



No 116276
著者(漢字) 宇山,理奈
著者(英字)
著者(カナ) ウヤマ,リナ
標題(和) 犬猫乳腺癌細胞株の樹立と転移関連因子に関する研究 : Eカドヘリンおよびα、β、γ カテニンについて
標題(洋)
報告番号 116276
報告番号 甲16276
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2306号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 西村,亮平
内容要旨 要旨を表示する

 乳腺腫瘍は雌犬および雌猫において非常に発生率の高い腫瘍のひとつであり、悪性症例では高率に転移を起こすが、特に猫では臨床的に早期の癌でもすでに転移を起こすことがあるといわれる極めて悪性度の高い腫瘍である。転移は癌の最も重大な合併症であり、患者の予後を規定する重要な因子であることから、癌転移の制御はその予後を著明に改善すると考えられる。乳腺腫瘍の転移に関する基礎的研究は、人やマウス、ラット等に発生した乳腺腫瘍から樹立された培養細胞株を用い、細胞レベルを含めた様々な側面から行われてきた。しかし、人の本症と病態が類似し、そのモデルとして有用と考えられる犬、猫の本腫瘍から樹立された細胞株は必ずしも多くはなく、また特に猫の本腫瘍の細胞株樹立は非常に困難とされており、現在までに樹立された細胞株数は非常に少ない。

 一方、癌の転移は複雑な段階を経て成立すると考えられているが、近年これらの各段階の中で様々な接着因子の関与が注目されている。カドヘリンおよびカテニンは通常上皮細胞において細胞間接着および組織構築に重要な役割を演じている接着因子である。これらの因子は癌の転移過程で最も重要な段階のひとつといわれる癌細胞の原発巣からの離脱と、標的臓器での再接着の局面に深く関与していると考えられている。

 以上の背景のもとに、本研究においてはまず第−に犬と猫の乳腺癌原発巣由来および転移巣由来の細胞株それぞれからの樹立を試みた。次にそれらの乳腺癌細胞株を用いて転移能と相関するといわれる細胞運動能を測定した。さらに各細胞株におけるEカドヘリンとα,β,γカテニンの発現、およびEカドヘリンについてはその機能についても測定した。これらの結果をもとに、原発巣−転移巣由来細胞間および犬−猫細胞間を比較し、犬と猫の乳腺癌の転移機構におけるカドヘリンーカテニン系の重要性について検討した。

 第1章の序論に続き、第2章では犬および猫乳腺癌細胞株を臨床例から樹立した。樹立した犬乳腺癌細胞株は同一症例の原発巣由来細胞株一転移巣由来細胞株が4対、合計 8 株であり、それぞれ CHMp,CHMm,CIPp,CIPm,CTBp,CTBm,CNMp,CNMm と命名した。これらの細胞株は形態学的、またヌードマウスにおける転移能では原発一転移株間の差異は必ずしも明瞭ではないものの、これまでに90〜160継代の培養が続けられており、長期間の継代においてもいずれも形態、増殖等安定した状態が維持されていることから、犬乳腺癌細胞株として有用な材料と考えられた。−方、樹立した猫乳腺癌細胞株は原発巣由来細胞 5 株、転移巣由来細胞 3 株の合計 8 株であり、それぞれ FYMp,FKNp,FONp,FMCp1,FMCp2,FONm,FMCmおよびFNNmと命名した。なお、このうち同一症例から原発−転移を対で樹立した細胞株は、2症例より計5株であった。これらもすでに40〜150継代の培養が続けられており、いずれの株も安定した増殖を維持している。原発−転移株をそれぞれ比較すると、原発株は転移株に比べ腺構造を呈した細胞増殖形態を示す株が多く認められた。それ以外の特徴では原発−転移株間の差異は必ずしも明瞭ではなかった。一方、猫乳癌細胞のヌードマウスへの皮下移植後、遠隔転移を起こす細胞株は、犬株と比較して少なかった。しかし樹立されたこれらの細胞株は長期間の継代においても形態、増殖等安定した維持をしていることから、猫乳腺細胞癌株として有用な材料と考えられた。また、これまでに犬および猫乳腺癌から原発−転移由来細胞が対で株化された報告はないことから、これらの細胞株が犬、猫乳腺癌の転移に関する研究において非常に貴重な材料になると考えられた。

 第3章では樹立した犬および猫乳腺癌の原発株と転移株を用いてそれぞれの運動能を測定し、細胞自体が持つ運動能が原発−転移間でどのように変化を起こしているか比較し、細胞の運動性と転移能との間に何らかの相関性があるのかどうか検討すると同時に、犬と猫の癌細胞間における差異についても検討した。その結果、犬細胞株での運動能は原発巣/転移巣という由来に無関係に細胞によって大きく異なっていた。また猫細胞株においても、犬と同様に原発株−転移株の間に一定の傾向は認められなかった。これらの結果より、犬・猫乳腺癌細胞の転移は、必ずしも細胞運動能の亢進と相関しないことが示された。犬−猫間で比較すると、猫細胞株における運動能は犬細胞株に比べ低値を示し、猫細胞株のヌードマウスヘの細胞移植による転移率の低い結果と関連するものと考えられた。猫では臨床上、病期の早期にすでに肺転移を示す症例が犬よりもはるかに多いにも関わらず、ヌードマウスヘの細胞移植実験では低転移性を、また細胞運動能実験では低値を示したことから、猫乳腺癌における細胞運動能には猫生体内の微小環境に重要な因子が存在する可能性が示唆された。一方、犬細胞では猫ほど生体内微小環境に左右されず、癌細胞自身が常に高い細胞運動能を維持させることが可能である傾向を持つことが示唆された。

 第4章では癌転移の最も重要な段階の一つである癌細胞の腫瘍組織からの離脱と、標的臓器での再接着に関わると考えられている細胞−細胞間接着分子カドヘリンの発現および機能を、またカドヘリンの裏打ち蛋白であるα,β,γカテニンの発現を測定した。その結果、犬および猫いずれの乳腺癌細胞においてもEカドヘリン機能は、同一症例の原発−転移株間で比較した場合、原発株で弱く、転移株でより強いことが認められた。このことは、原発巣における低いEカドヘリン機能が細胞間接着能の減弱を示しており、原発巣において癌細胞がより離脱しやすい状態であることを示唆すると考えられた。また逆に、転移株における高いEカドヘリン機能は転移巣における癌細胞接着能の増強を示しており、これらの細胞が腫瘍組織塊の再形成により適した状態にあることが示唆された。このように犬および猫乳腺癌細胞は、転移の段階によりEカドヘリン機能の発現レベルを変化させている可能性が考えられ、Eカドヘリンが犬・猫乳腺癌の転移過程において重要な役割を持つ因子であることが示唆された。

 一方、α,β,γ カテニンはEカドヘリンの細胞内ドメインと結合している裏打ち蛋白である。これらはさらに細胞内骨格などと結合しており、情報伝達の役割を持つという可能性も示唆されていることから、これらカテニン系が実際の細胞−細胞間接着を司る細胞外Eカドヘリンの機能を制御している可能性も考えられている。そこで、さらに犬・猫乳腺癌細胞株におけるカテニン系の発現を測定した結果、9株中7株の猫乳腺癌細胞においてβおよびγカテニンが欠損していることが認められた。一方犬乳腺癌細胞においては、βおよびγカテニン両方が欠損している細胞株は認められなかったが、βカテニン欠損株が一つ認められ、これは従来報告されていない結果であった。

 一般にカドヘリンーカテニン複合体はEカドヘリンとβカテニンがまず結合し、次にαカテニンがβカテニンを介してEカドヘリンと結合する。またγカテニンはβカテニンファミリーのメンバーの一つと考えられているため、βカテニンの代わりにその役割を果たすことができると考えられている。しかしこれらの猫の7株ではβ,γカテニン両方が欠損していたことから、αカテニンがEカドヘリンに直接結合しているか、またはβ,γカテニン以外の蛋白を介して結合していることが示唆された。現在までにそのような結合を示す可能性を示唆する細胞は全く報告されておらず、βカテニン欠損細胞株の報告もない。これら猫乳腺癌細胞7株の中にはすべての原発巣由来細胞5株が含まれており、前述したように猫乳腺癌症例は臨床病期の早期に高率に転移を起こすという特異的な転移動態を示すことから、その転移機構にはこれらカテニン系の異常が関与する可能性も示唆された。αカテニン分子の欠損は、いずれの犬・猫乳腺癌細胞おいても認められなかったことから、Eカドヘリン機能がαカテニンの発現の変化により制御されている可能性は示唆されなかった。なお、各癌細胞株でのカドヘリンーカテニン系の発現や機能と細胞運動能、ヌードマウスヘの細胞移植後の転移能との間には一定の傾向は認められなかった。このことは、犬と猫の乳腺癌の転移において、カドヘリンーカテニン系の発現レベルの低下やカドヘリン機能の低下は転移の必須条件の1つである可能性はあるが、直接的に細胞運動能の亢進や、ヌードマウスへの細胞移植後の転移能に関しては必ずしも絶対的条件ではないと考えられた。

 以上の結果から、犬と猫の乳腺癌における転移の成立過程の1条件としてEカドヘリン機能の変化やカテニン系の異常が深く関与することが示唆された。原発巣からの癌細胞の遊離を阻止することが転移抑制の1手段と考えられるが、本研究の結果は、犬・猫乳腺癌においてカドヘリンを介した細胞接着能の亢進やカテニン系の機能亢進といった方法によって、これらの癌の転移を早期に阻止できる可能性を示唆するものであり、新しい癌転移の治療への応用が期待できると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 乳腺腫瘍は雌犬および雌猫において非常に発生率の高い腫瘍のひとつであり、特に猫では臨床的に早期の癌でもすでに転移を起こすことがあるといわれる、極めて悪性度の高い腫瘍である。乳腺腫瘍の転移に関する基礎的研究は、人やマウス、ラット等に発生した乳腺腫瘍から樹立された培養細胞株を用い、細胞レベルを含めた様々な側面から行われてきた。しかし、人の本症と病態が類似し、そのモデルとして有用と考えられる犬、猫の本腫瘍から樹立された細胞株は必ずしも多くはない。

 −方、カドヘリンおよびカテニンは、通常上皮細胞において細胞間接着および組織構築に重要な役割を演じている接着因子である。これらの因子は、癌の転移過程で最も重要な段階のひとつといわれる癌細胞の原発巣からの離脱と、標的臓器での再接着の局面に深く関与していると考えられている。

 これらを背景に、第2章では犬および猫乳腺癌細胞株を臨床例から樹立した。樹立した犬乳腺癌細胞株は、同−症例の原発巣由来細胞株−転移巣由来細胞株が4対、合計8株であり、これらの細胞株はヌードマウスにおける転移能では原発−転移株間の差異は必ずしも明瞭ではないものの、これまでに90〜160継代の培養が続けられている。猫乳腺癌細胞株は原発巣由来細胞5株、転移巣由来細胞3株の合計8株が樹立された。なお、このうち同−症例から原発−転移を対で樹立した細胞株は、2症例より計5株であった。これらもすでに40〜150継代の培養が続けられており、いずれの株も安定した増殖を維持している。犬と猫の細胞の性質を比較すると、猫乳腺腫瘍ではきわめて高率に転移が起こるものの、猫乳腺癌細胞のヌードマウスへの皮下移植では、遠隔転移を起こす細胞株が犬株と比較して少なかった。しかし、これまでに犬および猫乳腺癌から原発−転移由来細胞が対で株化された報告はないことから、これらの細胞株が犬、猫乳腺癌の転移に関する研究において非常に貴重な材料になると考えられた。

 第3章ではこれらの細胞株を用いてそれぞれの運動能を測定し、細胞の運動性と転移能との間の相関性を検討すると同時に、犬と猫の細胞間における差異についても検討した。その結果、犬細胞株、猫細胞株のいずれにおいても、運動能は原発巣/転移巣という由来に無関係に細胞によって大きく異なっており、由来組織による細胞運動能の差異は必ずしも明瞭ではなかった。−方、猫細胞株における運動能が犬細胞株に比べ低値を示したことは、猫細胞株のヌードマウスへの細胞移植による低い転移率の結果と関連するものと考えられた。

 第4章では上皮系腫瘍の転移で最も重要な段階の一つである、癌細胞の原発巣からの離脱と、標的臓器での再接着に関わると考えられている、細胞−細胞間接着分子カドヘリンの発現および機能、ならびにカドヘリンの裏打ち蛋白であるα、β、γカテニンの発現を測定した。その結果、同一症例の原発−転移株間で比較した場合、犬、猫いずれの乳腺癌細胞においても、Eカドヘリン機能は原発株で弱く、転移株でより強いことが認められた。このことは、原発巣におけるEカドヘリン機能の低下が細胞間接着能の減弱と関連しており、原発巣では癌細胞がより離脱しやすい状態であることを示唆すると考えられた。また逆に、転移株における高いEカドヘリン機能は、転移巣における癌細胞接着能の増強を示しており、これらの細胞が腫瘍組織塊の再形成に、より適した状態にあることが示唆された。

 一方、α、β、γカテニンはEカドヘリンの細胞内ドメインと結合している裏打ち蛋白である。犬、猫乳腺癌細胞株におけるカテニン系の発現を測定した結果、犬乳腺癌細胞においてはβカテニン欠損株が一株認められた。このような腫瘍細胞株は従来報告されておらず、これが初めての細胞株であった。一方、猫の乳腺癌細胞では、9株中7株においてβおよびγカテニンが欠損していることが認められた。このようなβ、γカテニン両者の欠損は、αカテニンがEカドヘリンに直接結合しているか、またはβ、γカテニン以外の蛋白を介して結合していることを示唆しており、現在までにそのような結合を示す可能性を示唆する細胞は全く報告されていない。猫における高度な転移性には、これらカテニン系の異常が何らかの形で関連する可能性も考えられた。また、αカテニン分子の欠損は、いずれの犬・猫乳腺癌細胞においても認められなかったことから、Eカドヘリン機能がαカテニンの発現の変化により制御されている可能性は示唆されなかった。

 以上要するに、本研究は犬と猫の同一症例を含む乳腺癌症例の原発巣ならびに転移巣由来の細胞株を樹立し、その生物学的性状を明らかにして、今後の癌転移研究における有力な細胞を提供したことに加え、これらの細胞を用いた実験により、上皮系腫瘍の癌転移にもっとも関連の深い接着因子であるカドヘリン、カテニン系の本腫瘍転移への関与を示唆したものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の博士論文として価値あるものと認めた。

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