学位論文要旨



No 116282
著者(漢字) 岩田,恵理
著者(英字)
著者(カナ) イワタ,エリ
標題(和) 哺乳類フェロモンの分離同定に関する研究
標題(洋)
報告番号 116282
報告番号 甲16282
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2312号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 澤崎,徹
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 西原,眞杉
 東京大学 助教授 武内,ゆかり
内容要旨 要旨を表示する

 フェロモンとは、生物の情報伝達に用いられる化学物質のうち、同種の個体間で用いられる分子群の総称である。哺乳類が用いるフェロモンは更に作用機序の点から2つに分類されている。すなわち受け取った相手に直ちに特定の行動を引き起こさせるリリーサーフェロモンと、受け取った相手の内分泌系に作用して様々な生理機能に変化をもたらすプライマーフェロモンである。有蹄類のヒツジやヤギなどにおいては“雄効果”と呼ばれるプライマーフェロモン効果が知られているが、これは非繁殖期の雌の群れに雄を導入すると雌の発情が回帰し排卵に至るというもので、雄の発する匂い物質、すなわちフェロモンにその原因があるとされている。この現象は、非繁殖期の雌が雄のフェロモンを感受することによって、下垂体前葉から放出される黄体形成ホルモン(LH)のパルス状分泌頻度が上昇し、卵胞発育とエストロジェン分泌が刺激され、最終的にはLHサージの成立を介して排卵がおこる神経内分泌反応であると解釈されている。

 本研究は雄効果に関与するフェロモン分子の探索を目的としたものであり、神経生理学的な生物検定系を用いて雄ヤギ性フェロモンの産生部位を特定し、さらに低〜中揮発性成分の分析に適したヘッドスペースーガスクロマトグラフィー/マススペクトロメトリー装置(HS-GC/MS)を用いてフェロモン候補物質の探索を行ったものである。本論文は以下のように6章から構成されている。

 第1章は緒言であり、これまで行われてきた哺乳類フェロモン研究についての概観を行った上で雄効果の背景について解説し、本論文の目的を述べた。

 第2章では、LHのパルス状分泌を司るGnRHパルスジェネレターの活動を特異的に反映する視床下部神経の多ニューロン発射活動(MUA)を指標とした生物検定系を用いて、フェロモン産生部位の特定を行った。哺乳類フェロモンの産生部位としては様々な分泌腺の関与が示唆されていたことから、雄ヤギにおいて腺分泌が盛んな頭頂部の皮膚を採取し、皮脂腺を分離してジエチルエーテルで抽出した。この抽出物の生物検定を行って、フェロモン活性を持つ雄ヤギ被毛抽出物と比較した。その結果、皮脂腺抽出物を呈示したすべての雌ヤギにおいて、雄ヤギ被毛抽出物と同様に呈示後3分以内にMUAボレー(MUAの一過性上昇)の誘起が観察された。よって性フェロモンは雄ヤギ頭頂部の皮脂腺で産生されていることが明らかになった。

 第3章ではフェロモン分子の同定に必要な基礎情報を得ることを目的に実験を行った。まず実験1では成熟雄ヤギを用いてフェロモン産生の部位別差異について検討した。その結果、フェロモンは成熟雄ヤギの頭部、頚部から肩部にかけての皮脂腺で産生されており、背部、腹部および臀部では産生されていないことが明らかになった。次に実験2ではフェロモン活性の認められない去勢ヤギにテストステロン(T)を持続投与したモデルを用いて、フェロモン産生部位である頭頂部皮脂腺におけるフェロモン活性の消長と皮脂腺発達の評価を行った。その結果、T移植によりフェロモン活性の出現と皮脂腺の発達が認められ、雄ヤギ性フェロモンはT依存性に頭頂部皮脂腺で産生されていることが明らかになった。さらに実験3では去勢ヤギに皮膚での活性型アンドロジェンであるジヒドロテストステロン(DHT)を持続投与したモデルを用いて、頭頂部と臀部皮脂腺のフェロモン活性の消長と皮脂腺発達の評価を行った。その結果、DHT投与によりフェロモンは頭部だけでなく臀部においても産生されることが明らかになった。一方、皮脂腺については頭部で発達が見られたものの臀部では発達が認められないことも明らかになった。これらの結果から、雄ヤギ性フェロモンはTから変換されたDHTの作用により産生されること、また通常の皮脂とは異な号産生機構をもつことが示唆された。フェロモン産生の部位特異性はTをDHTに変換する5α-reductase活性の違いによるものと推察されたが、こうした知見から雄ヤギ性フェロモン分子の探索のためにはフェロモン活性が陽性でかつ皮脂成分の夾雑率が少ない試料の得られるDHT移植モデルを用いるべきであることが示唆された。

 第4章では、去勢ヤギにDHTを投与したモデルを用いて、採取した皮膚試料をHS-GC/MSで分析し、そのフェロモン活性の有無を指標として雄ヤギ性フェロモン候補物質の探索を行った。頭部試料においては、ホルモン処置に伴うフェロモン活性の出現と共に、クロマトグラム上に出現するピークの本数が増加し強度も増強されたが、臀部試料ではフェロモン活性が認められても頭部試料ほど極端なピーク本数増加と強度増強は認められなかった。各試料のフェロモン活性の有無を指標として、クロマトグラム上に出現したピークのサブトラクションを行った結果、フェロモン活性陽性の試料だけに高い出現頻度で同定される化学物質として、Octanal、Heptanol、Dimethyl disulfide(DMDS)、Octanoic acid ethylester、Butanoic acid ethyl ester、Butanoic acid phenyl esterおよび同定不能の2化合物の計8化合物が検出された。このうちOctanal、Heptanol、Dimetbyl disulfide(DMDS)、Octanoi acid ethyI esterの4化合物についてはいずれも合成品が入手可能であった。

 そこで第5章では、これら4種の化合物について、MUAボレーを指標とした生物検定系を用いて、各々単体でのフェロモン活性の有無を検討した。その結果、Octanal、Heptanol、Octanoic acid ethyl esterにはまったくフェロモン活性が見られなかったが、DMDSを呈示した場合には8例中4例に陽性反応が認められた。今回の実験からDMDSがプライマーフェロモンの本体であると結論することはできないが、少なくともDMDSが単独で生殖神経内分泌機構に作用しGnRHパルスジェネレターの活動を直接的に促進しうる化学物質であることが判明した。

 第6章では総合考察を行った。DMDSは単独でGnRHパルスジェネレターに影響を与えうる揮発性の化学物質であることが明らかになったが、このような現象はこれまでに報告されていない。DMDSがどのような機序で受容され、どのような神経回路を介して視床下部に伝達されGnRHパルスジェネレターに影響を与えたのか、またなぜ雄ヤギ被毛に比較して反応性が劣るのかといった間題を検証してゆくことは、フェロモンの受容・作用機構やGnRHパルスジェネレター本体の解明にも進展しうる今後の重要な課題と考えられる。

 生物検定の結果、DMDS単独呈示では神経内分泌学的反応や行動学的反応のいずれにおいても雄ヤギ被毛呈示時との違いが認められたことから、DMDSが雄ヤギ性フェロモンか否かを判断するには更なる検証が必要と考えられた。哺乳類のプライマーフェロモン分子の探索については、主にげっ歯類において精力的に行われており、これまで複数の化学物質が報告されているが、その効果は天然試料と比較して概ね弱くまた再現性に欠けるとされており、フェロモン作用には複数の化学物質が関与している可能性も小さくはない。今回陽性反応の見られたDMDSも雄効果を引き起こすフェロモン物質群の中の-つであるがゆえに単体呈示では作用が減弱した可能性も考えられる。そうであれば今回同定された他のフェロモン候補物質をDMDSと組み合わせて呈示することによって反応性の上昇が見られるかもしれない。また、揮発性分子の作用点としては、通常の匂い物質を受容する主嗅覚系、フェロモンを受容する鋤鼻系に加えて、侵襲的な化学刺激を受容する三叉神経系の3つのシステムが知られており、DMDSがこれらのうちどの経路を経てGnRHパルスジェネレターに影響を与えているかを検証することも重要な課題であろう。

 今回の研究では性フェロモンの産生機構の-部を明らかにすることもできた。すなわち雄ヤギのフェロモンはアンドロジェン依存性に頭部皮脂腺で産生されており、さらにフェロモン産生を直接刺激しているのは皮膚における作用型アンドロジェンであるDHTであることが判明した。フェロモン産生能の部位による差異には、5α-reductaseの発現量の差が関与していることが示唆された。こうした情報はフェロモン分子の探索研究において重要であるばかりではなく、皮脂腺におけるフェロモン産生機構解明の糸口ともなるものと思われる。

 以上、本研究の結果より、雄ヤギの性フェロモンは頭頚部の皮脂腺においてDHTの作用により産生されること、またDHT依存性に出現する化合物の1つであるDMDは単独でGnRHパルスジェネレターに影響を与えうることから哺乳類のプライマーフェロモンの候補分子であることが示された。本研究では、感度と再現性に優れ、リアルタイム解析の可能な神経生理学的生物検定法、特異性の高いフェロモン産生誘導モデル、および気相中の揮発性成分を直接分析可能なHS-GC/MSシステムといった研究手法を組み合わせることにより、哺乳類フェロモンについて新たな知見を得ることができたが、こうした研究戦略は今後他の動物種においてフェロモン分子の探索研究を進めるにあたっても利用価値の高いものであると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 有蹄類のヒツジやヤギなどにおいては“雄効果”と呼ばれるプライマーフェロモン効果が知られているが、これは非繁殖期の雌の群れに雄を導入すると雌の発情が回帰し排卵に至るというもので、雄の発する匂い物質、すなわちフェロモンにその原因があるとされている。この現象は、非繁殖期の雌が雄のフェロモンを感受することによって、下垂体前葉から放出される黄体形成ホルモン(LH)のパルス状分泌頻度が上昇し、卵胞発育とエストロジェン分泌が刺激され、最終的にはLHサージの成立を介して排卵がおこる神経内分泌反応であると解釈されている。本研究は雄効果に関与するフェロモン分子の探索を目的としたものであり、神経生理学的な生物検定系を用いて雄ヤギ性フェロモンの産生部位を特定し、さらに低〜中揮発性成分の分析に適したヘッドスペースーガスクロマトグラフィー質量分析装置(HS-GC/MS)を用いてフェロモン候補物質の探索を行ったものである。本論文は以下のように6章から構成されている。

 第1章は総合緒言であり、これまで行われてきた哺乳類のフェロモン探索研究に関する知見が概観され、本論文の目的が述べられている。

 第2章では、LHのパルス状分泌を司るGnRHパルスジェネレターの活動を特異的に反映する視床下部神経の多ニューロン発射活動(MUA)を指標とした生物検定系を用いて、フェロモン産生部位について検討が行われ、その結果、性フェロモンは雄ヤギ頭頂部の皮脂線で産生されていることが示された。

 第3章では、ます雄ヤギにおけるフェロモン産生の部位別差異について検討が行われ、その結果、フェロモンは成熟雄ヤギの頭部、頚部から肩部にかけての皮脂線で作られるが、背部や腹部、臀部などでは産生されないことが明らかにされた。次に去勢ヤギにテストステロン(T)を持続投与したモデルを用いて、フェロモン産生部位である頭項部皮脂腺におけるフェロモン活性の消長と皮脂線発達の評価が行われた結果、T移植処置によりフェロモン活性の出現と皮脂腺の発達が誘導され、雄ヤギ性フェロモンはT依存性に頭頂部皮脂腺で産生されることが示された。さらに去勢ヤギに皮膚での活性型アンドロジェンであるジヒドロテストステロン(DHT)を持続投与する処置によって、頭部だけでなく磐部においてもフェロモン産生を誘導しうることが明らかとなり、これらの結果から、雄ヤギ性フェロモンはTからリダクターゼにより還元化されたDHTの作用により産生されること、また皮脂産生とは異なる産生誘導機構をもつことなどが示された。フェロモン産生の部位特異性にはTをDHTに変換する5α-reductase活性の違いが関与するものと推察され、また雄ヤギ性フェロモン分子の探索のためにはフェロモン活性が陽性でかつ皮脂成分の夾雑率が少ない試料の得られるDHT移植モデルを用いるべきであることが考察されている。

 第4章では、こうした発見に基づき、去勢ヤギにDHTを投与したモデルを用いて採取した皮膚試料をHS-GC/MSで分析し、そのフェロモン活性の有無を指標として雄ヤギ性フェロモン候補物質の探索が行われた。その結果、フェロモン活性陽性の試料だけに高い出現頻度で同定される化学物質として計8種類の化合物が検出された。

 第5章では、このうち合成品が入手可能であったOctanal、Heptanol、Dimethyl disulfide(DMDS)、Octanoic acid ethyl esterの4化合物について、各々単体呈示でのフェロモン活性の有無が検討された。その結果、DMDSのみが単独で生殖神経内分泌機構に作用してGnRHパルスジェネレターの活動を直接的に促進しうることが明らかとなり、DMDSがフェロモン候補物質として同定された。

 第6章は総合考察であり、本研究で得られた結果を中心に、既報の様々な知見を援用しながら、哺乳類における生殖フェロモンについての考察が展開されている。

 以上、要するに本研究は、ヤギにおいて雄効果をもたらすフェロモン分子の探索研究を行ったものであるが、神経生理学的なフェロモン活性の生物検定法と新たに開発したフェロモン産生モデルを組み合わせることにより性フェロモン侯補分子を同定することに成功するなど、得られた研究成果は今後の哺乳類におけるフェロモン研究の基盤的情報となりうるものであり、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は申請者に対して博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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