学位論文要旨



No 116287
著者(漢字) 高橋,朋子
著者(英字)
著者(カナ) タカハシ,トモコ
標題(和) イヌ肥満細胞腫の臨床ならびに浸潤・転移機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 116287
報告番号 甲16287
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2317号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 西村,亮平
内容要旨 要旨を表示する

 肥満細胞腫はその生物学的動態や病態が動物種によって大きく異なる極めて特殊な腫瘍である。イヌの本腫瘍は固形腫瘍として発現し、主として皮膚や皮下織に好発する。皮膚型肥満細胞腫の特徴の一つに発生部位による悪性度の違いがあり、鼠径や会陰部、粘膜皮膚結合部に発生するものは悪性度の高いことが多い。一方、内臓に発生するイヌ肥満細胞腫の存在が知られており、我々の経験でもその悪性度はきわめて高い。発生部位と悪性化の関係は不明であるが、局所の周囲微小環境の差が腫瘍の悪性化に影響している可能性が考えられる。肥満細胞は局所環境によって表現型が異なることがすでにヒトや齧歯類でも知られており、腫瘍と局所環境との関係を研究する上で、本腫瘍は有用な対象であると考えられる。

 本腫瘍の別の特徴として、際立って高い浸潤能が挙げられる。悪性の本腫瘍は周囲組織へ浸潤し、高率にリンパ行性転移を起こすことから、手術辺縁を大きく取って切除したときにもしばしば再発が認められる。一般に、腫瘍の浸潤・転移を阻害できれば、飛躍的に予後の改善が得られるものであり、その意味ではこのような腫瘍はこれらの機構解明に有用な腫瘍であると考えられる。

 腫瘍の浸潤・転移には種々のプロセスが関与する。中でも腫瘍細胞と細胞外基質(ECM)との相互作用が重要であり、またECMは腫瘍細胞周囲の局所環境を規定する因子でもある。腫瘍細胞浸潤の3ステップ(ECMへの接着、分解、間隙への移動)において、最初のステップではインテグリンなどの接着分子、第2のステップでは蛋白分解酵素が関与する。いずれか1つの要因を制御することにより、浸潤を抑制することが可能であるが、腫瘍の種類によってこれらの要因の重みが異なるため、それぞれの細胞で、個々の要因をきちんと把握することが重要である。従来、イヌ肥満細胞腫におけるこれらの役割に関しては、ほとんと検討されてこなかった。その理由の一つは、本腫瘍細胞株の樹立が困難であったことにある。細胞株を用いた安定した条件下での浸潤・転移関連因子に関する研究は、きわめて悪性度の高いイヌの本腫瘍の病態解明だけでなく、多くの悪性腫瘍の浸潤・転移機構解明にも有用な情報を提供するものと考えられる。

 そこで本研究では第一に、従来報告が少なくその病態が明らかとなっていない、内臓原発のイヌ肥満細胞腫に対するretrospective studyを行った。

 本学大学院農学生命科学研究科附属動物医療センター外科系診療科に1982年4月から1997年3月に来院し、組織学的に肥満細胞腫と診断されたイヌ症例118頭の記録を調査したところ、10頭が内臓型肥満細胞腫の診断基準に合致した。小型純血種の雄における発生率が高く、臨床症状は非特異的であった。内臓型本腫瘍の予後は、未分化型の皮膚型本腫瘍と比較してもさらに悪く、初回来院から2ヵ月以内に全ての症例が死亡した。また皮膚型本腫瘍と比較して高度に悪性像を呈し、さらに一部の症例の組織では、ホルマリン固定により細胞内顆粒の異染性が消失したことから、内臓型本腫瘍は従来報告されている皮膚型とは異なる性質を持つ可能性が示唆された。

 第二に、イヌ皮膚型、内臓型肥満細胞腫からの細胞株樹立を試みた。その結果、それぞれから各1株を樹立することに成功した。これらに対し、皮膚型本腫瘍由来の細胞株をTiMC、内臓型由来をLuMCと命名した。従来イヌ肥満細胞腫細胞の培養は増殖因子などを添加しても困難とされてきたが、これらの細胞は特別な添加物を加えることなく、RPMI 1640培地中で安定して浮遊増殖した。

 これらの細胞の性質を評価する方法としては、ヒトや齧歯類の肥満細胞に従来用いられている表現型分類法を参照して実施した。その結果、両細胞ともホルマリンに感受性で、ヘパリンを含有せず、tryptase、chymaseとも陽性であった。電子顕微鏡による観察では、肥満細胞に特徴的な様々な電子密度の細かい顆粒が、いずれの細胞にも認められた。ヒスタミン放出試験を行ったところ、両細胞で、カルシウムイオノフォアA23187およびサブスタンスPにより用量依存性のヒスタミン放出が見られたが、コンパウンド48/80による有意な脱顆粒は認められなかった。またヒト1gEおよびイヌIgGを介して脱顆粒することが確かめられた。これらの性質はヒトおよび齧歯類肥満細胞の表現型とは対応しないものであり、これらの動物の肥満細胞分類法は、イヌ肥満細胞腫細胞には当てはまらないと考えられた。いずれにせよ、両細胞は肥満細胞特有の生物学的性質を有し、かつ安定した増殖を示すこと、さらには高親和性IgGレセプターを有することが示唆されたことから、腫瘍の研究だけでなく、免疫応答におけるIgGの役割を解明するためにも有用な細胞と考えられた。

 第三に、これらの樹立した細胞と北海道大学より供与された細胞株(イヌロ腔肥満細胞腫由来CoMS)の、合計3株の細胞を用い、腫瘍の浸潤・転移に関わる因子、特に接着分子のインテグリンおよび蛋白分解酵素の発現・機能について検討した。

 インテグリンβ1サブファミリーは主要なECMの受容体として知られる。フローサイトメトリーにより、これらの3細胞はいずれも、インテグリンβ1鎖およびインテグリンα1〜5鎖をほぼ100%近く発現し、インテグリンα6鎖を中等度に発現したが、これらの発現率は従来のヒト肥満細胞に比較してきわめて高い値であった。

 各種ECMへの接着を見たところ、TiMCおよびLuMCは、12-0-tetradecanoylphorbo1-13-acetate(TPA)による刺激時にフィブロネクチン(FN)への有意な接着を示したが、CoMSは無刺激でも接着したことから、FN接着時のシグナル伝達が各細胞で異なる可能性が考えられた。またFNへの接着はインテグリンα5β1を、ラミニン(LN)への接着はTPA刺激下のLuMCでのみ認められたが、これはインテグリンβ1サブクラスを、それぞれ介することが明らかとなった。なお、コラーゲン(Coll)に対する接着はいずれの細胞においても認められなかった。

 蛋白分解酵素の発現・機能については、matrix metalloproteinase(MMP)の中でも基底膜分解に最も重要とされるゼラチナーゼ(MMP-2、9)、および肥満細胞が有する主要なセリンプロテアーゼであるtryptase、chymaseについて検討を行った。

 その結果、いずれの細胞も恒常的にゼラチナーゼを産生し、その活性は細胞により異なったが、CoMSで最も高かった。産生したゼラチナーゼは、MMP-9前駆体と中間体、およびMMP2前駆体であった。Matrigel コートチャンバーを用いた細胞浸潤能の検討では、いずれの細胞もMatrigelを分解して下室へ遊走し、この遊走はMMP阻害剤であるBB94により有意に阻害された。またいずれの細胞においてもMMP-9の前駆体から中間体へのシフトがBB94により用量依存性に抑制されることが、ゼラチンザイモグラフイーにより確認されたことから、イヌ肥満細胞腫細胞ではMatrigel浸潤時にMMP-9が重要な役割を果たすものと推察された。一方、MMP活性化におけるセリンプロテアーゼの役割は、明らかではなかった。

 次にこれらの細胞において、インテグリンを介するシグナル伝達によるMMP発現の制御の可能性を検討した。様々な条件下(FN、LN、Coll、Matrigel 単層上、Coll ゲル上、Collゲル包埋)で各細胞を培養したが、いずれの条件下でもMMPの発現に変化は認められなかったことから、少なくともこのような系においては、イヌ肥満細胞腫細胞における、インテグリンとECMの直接的な相互作用によるMMP発現の制御はないと考えられた。

 これらの成績は3種の細胞にほぼ共通して見られたことから、イヌ肥満細胞腫における固有の性質である可能性が高いが、培養・継代に伴って変化したものである可能性もあり、今後初代培養細胞や腫瘍組織を用いた検討が必要と考えられた。

 以上の研究から、従来報告が少なく病態が明らかではなかった、イヌ内臓型肥満細胞腫についてその病態をまとめて明らかにし、さらに皮膚型、内臓型本腫瘍由来の細胞株を樹立し、その細胞学的特性を解析した。その結果、ヒトや齧歯類肥満細胞とは性質が異なるが、イヌにおいても発生部位によって異なる性質を有する肥満細胞の存在する可能性が示唆された。これらの細胞を用いて、イヌの本腫瘍ではほとんど検討されていなかった浸潤・転移を規定する因子である、インテグリンおよび蛋白分解酵素の発現・機能を解析した。その結果、いずれの細胞株においてもインテグリンβ1サブファミリー各鎖を強く発現したこと、しかしECMに対する接着能がそれぞれで異なったことから細胞内シグナル伝達は細胞間で異なること、細胞浸潤に関わるゼラチナーゼについても細胞間で差異のあることが確かめられた。今後イヌ肥満細胞腫の浸潤・転移機構について様々な角度から研究を行う必要があるが、その際にこれらの細胞はきわめて有用であると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 イヌの肥満細胞腫は固形腫瘍として発現し、主として皮膚や皮下織に好発する。本腫瘍は発生部位により悪性度が大きく異なり、鼠径や会陰部、粘膜皮膚結合部に発生するものの悪性度は高い。一方、内臓に発生するきわめて悪性度の高いイヌ肥満細胞腫の存在が知られているが、臨床症状を含めてその詳細は明らかではない。本腫瘍はまた、きわめて高い浸潤能を示す。本腫瘍はしばしば周囲組織へ浸潤し、高率にリンパ行性転移を起こすことから、手術辺縁を大きく取って切除したときにもしばしば再発が認められる。このような発生部位による悪性度の差や強い局所浸潤能は、局所の周囲微小環境が関連すると考えられる。肥満細胞は局所環境によって表現型が異なることが、すでにヒトや齧歯類でも知られており、イヌの本腫瘍における悪性度の差もその違いに基づく可能性が考えられるが、これらの点は、従来ほとんど検討されていない。

 そこで本研究では第一に、従来報告が少なくその病態が明らかではない、内臓原発のイヌ肥満細胞腫に対するretrospective studyを行った。その結果、本症は小型純血種の雄における発生率が高く、臨床症状は非特異的であった。またその予後は、皮膚型本腫瘍と比較してもさらに悪く、初回来院から2カ月以内に全ての症例が死亡した。さらに一部の症例の組織では、ホルマリン固定により細胞内顆粒の異染性が消失したことから、内臓型本腫瘍は従来報告されている皮膚型とは異なる表現型を持つ可能性が示唆された。

 第二に、イヌ皮膚型、内臓型肥満細胞腫からの細胞株樹立を試みた。その結果、それぞれから各1株を樹立することに成功した。これらに対し、皮膚型腫瘍由来の細胞株をTiMC、内臓型由来をLuMCと命名した。次にこれらの細胞の性質を、ヒトや齧歯類の肥満細胞に用いられている表現型分類法を参照して評価した。その結果、両細胞ともホルマリンに感受性で、ヘパリンを含有せず、tryptase、chymaseとも陽性であった。ヒスタミン放出試験では、両細胞で、カルシウムイオノフォア A23187およびサブスタンス P により用量依存性のヒスタミン放出が見られた。またヒト IgE およびイヌ IgG を介して脱顆粒することが確かめられた。これらの結果から、イヌの肥満細胞腫細胞はヒトおよび齧歯類肥満細胞の表現型とは対応しないものの、由来組織によって異なる表現型を有し、かつ正常肥満細胞特有の生物学的性質を有していること、安定した増殖を示すこと、さらに高親和性IgGレセプターを有することが示されたことから、腫瘍の研究だけでなく、免疫応答におけるIgGの役割を解明するためにも有用な細胞と考えられた。

 第三に、これらの樹立した細胞と北海道大学より供与された別の部位由来の細胞株(イヌ口腔肥満細胞腫由来CoMS)の合計3株の細胞を用い、本腫瘍の浸潤・転移に関わる因子と推測される、接着分子の インテグリンおよび蛋白分解酵素の発現・機能について検討した。その結果、これらの細胞はいずれもインテグリンβ1鎖およびインテグリンα1〜5鎖をほぼ100%近く発現しており、またこれらの発現率は従来のヒト肥満細胞に比較してきわめて高い値であった。

 さらに、各種細胞外基質(ECM)への接着を検討した結果、各細胞によってECMへの接着性が異なり、これは由来する局所環境を反映していることによる可能性が考えられた。またフィブロネクチンへの接着はインテグリンα5β1を、ラミニンへの接着はインテグリンβ1サブクラスをそれぞれ介することが明らかとなった。

 蛋白分解酵素の発現・機能については、matrix metalloproteinase(MMP)の中でも基底膜分解に最も重要とされるゼラチナーゼ(MMP-2、9)、および肥満細胞が有する主要なセリンプロテアーゼであるtryptase、chymaseについて検討を行った。その結果、いずれの細胞もMMP-9前駆体と中間体・およびMMP-2前駆体として、恒常的にゼラチナーゼを産生した。細胞基底膜のモデルであるMatrige1をコートしたチャンバーを用いた細胞浸潤能の検討では、いずれの細胞もMatrigelを分解して下室へ遊走し、この遊走はMMP阻害剤であるBB94により阻害された。またいずれの細胞においてもBB94により、MMP-9前駆体から中間体へのシフトが用量依存性に抑制されたことから、イヌ肥満細胞腫細胞の基底膜分解にはMMP-9が重要な役割を果たすものと推察された。しかし、各腫瘍細胞に発現するインテグリンを介したシグナル伝達による、MMP発現の制御は確認されなかった。

 以上要するに、本論文はきわめて高い浸潤能を示し、高度に悪性なイヌ肥満細胞腫の病態を調査し、さらに細胞株樹立によって正常肥満細胞の性質に基づく細胞学的特性を明らかにし、さらに本腫瘍の浸潤・転移機構の解明に一序を果たしたものであり、学術上、応用上貢献するところは少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の博士論文として価値があるものと認めた。

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