学位論文要旨



No 116288
著者(漢字) 戸田,典子
著者(英字)
著者(カナ) トダ,ノリコ
標題(和) ディーゼル排気微粒子の循環器作用に関する実験的研究
標題(洋)
報告番号 116288
報告番号 甲16288
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2318号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 中山,裕之
 東京大学 助教授 桑原,正貴
内容要旨 要旨を表示する

 今日、日本をはじめ世界中の都市部の大気汚染は改善の兆しがみられず、特に、浮遊粒子状物質(SPM)の汚染は深刻である。東京都内のSPMの約半分はディーゼル排気微粒子(Diesel Exhaust Particles;DEP)であり、このDEPは肺がんやアレルギー性鼻炎の原因として知られ、動物実験においては、気管支喘息様の病態や精子数の著しい低下などが報告されており、DEPの生体影響は極めて深刻であるといえる。これまでDEPは、主に呼吸器系疾患との関連性について調べられてきたが、近年、アメリカやイギリスからの疫学的研究報告により、粒径が2.5μm以下の微粒子であるPM2.5と心肺疾患による過剰死亡率との間に非常に高い相関性が存在することが示唆された。しかし、大気汚染物質の心臓循環器系に及ぼす影響に関しては、これまで本格的な研究は着手されておらず、今後の重要な研究分野であることが指摘されている。そこで、本研究では、DEPを対象物質として、組織標本を含むin vitro 実験とディーゼル排気の曝露実験の実験を組み合わせることにより、DEPのどのような物質(成分)が心肺循環器系にどのような影響を及ぼすのかを明らかにすることを目的とした。

 はじめに、DEPはディーゼル排気(DE)とともに呼吸器を介して体内に取り込まれる経路が一般的であり、吸入曝露における循環器影響を検討する必要がある。そこでDEPを含むディーゼル排気(DE)に曝露させたラットの心電図測定を行い、循環器系への影響の有無を調べた。ラットをチャンバー内で1ヶ月から12ヶ月間DE (0.3、1.0、3.0mg/m3;それぞれ環境基準値0.1mg/m3の3、10、30倍)、および清浄空気(対照群)に曝露させ、3ヶ月ごとに心電図の測定および体重測定を行った。さらに、12ヶ月曝露後のラットは心電図測定後、剖検を行い臓器重量の測定を行った。

 DE曝露群では対照群に比べ異常心電図を発現する個体が有意に多かった。また、心拍数も曝露群が対照群に比べて増加する傾向が認められた。3.0mg/m3曝露群の体重は対照群に比べ有意に減少し、12ヶ月曝露後の臓器重量測定では対照群に比べて心臓、肝臓、腎臓、生殖器系臓器重量が有意に増加した。上記の成績から、DEの吸入曝露は、異常心電図などの循環器異常を起こしうることや、その他の全身臓器に対しても影響を及ぼすことが示唆された。

 次いで、DEPの循環器系への影響についてより詳細な検討を行うため、DEPの全ての成分を含む溶液(Whole DEP)を、麻酔下のラットの静脈内に投与し、血圧や心電図に及ぼす影響を検討した。Whole DEP(120mg/kg)を投与することにより、血圧の一過性の低下および異常心電図の発現を認めた。この血圧低下は自律神経遮断薬の前処置によって消失した。さらに胸部大動脈と右心室の摘出標本を用いた実験において、Whole DEPは、血管に対しては収縮および弛緩作用、心筋に対しては収縮力の減少や心筋全体の強縮作用を有することを確認した。これらの結果から、DEPには血管や心筋に対する作用物質が含まれることが示唆された。一方、DEPには約数百から数千種類の物質が含まれているといわれ、その循環器系への影響評価を行い、また作用機序を解明するには、DEPをより純粋化することが必要と考えられた。そこで分析化学的手法を用いて、DEPを有機溶媒により極性の異なるHexane、Benzene、Dichlorome thane、MethanolおよびAmmonia分画に分離し、血管および心筋に対する作用を検討した。その結果、血管に対してはHexane、Benzene分画で弛緩反応が、Dichloromethane、Methanol分画においては収縮および弛緩反応が認められ、Ammonia分画では主に収縮反応が確認された。一方、心筋の強縮作用はHexane、Benzene、DichloromethaneおよびMethanol分画で観察された。これらの成績から、血管の弛緩および収縮作用は広範囲に分布しているが、心筋に対する作用物質は難水性成分からなることが示唆された。

 このように5分画で反応性の相違が認められたが、反応が多くの分画にまたがって存在していたことから、さらに細分化された分画における作用を検討することとした。

そこで、有機溶媒によって分離された5分画のうち、血管と心筋の両方に作用が認められたHexane、Benzene、DichloromethaneおよびMethanol分画をさらに酸塩基抽出法によりHCO3-分画(酸性)、中性分画およびNaOH分画(アルカリ性)に分離した。HexaneおよびBenzene分画のHCO3-可溶分画、NaOH可溶分画においては、血管の弛緩作用が、Methanol分画の両分画では収縮作用が認められた。Dichloromethane分画のHCO3-可溶分画、NaOH 可溶分画には収縮作用が、中性成分には弛緩作用が出現した。心筋への強縮作用は Hexane および Benzene 分画の HCO3-可溶分画、NaOH可溶分画にのみ出現した。酸塩基抽出法を用いてさらに細分化したことで、分画ごとの心臓や血管に対する反応性の違いがより明らかなものとなった。しかし、作用物質のある分画にはなお数十種類の化学物質が含まれることが考えられた。そこで、血管と心筋の両方に対して作用をもち、反応が明瞭で、かつ分析化学的に性質をトレースしやすいBenzene分画のNaOH可溶画分に注目した。Benzene NaOH 可溶分画を、シリカゲル吸着クロマトグラフィー法を用いてさらに15分画に分離し、それぞれの分画における血管および心筋への作用を検討した。その結果、第1分画では血管に対し、弛緩作用のみがみとめられた。第2〜第4分画では低濃度で収縮作用、高濃度で弛緩作用が認められ、第5分画以降では収縮作用のみが認められた。また、心筋の強縮作用は第2、3分画において出現した。よってこれらの結果から、Benzene NaOH可溶分画中の血管作用物質および心筋作用物質の存在部分は、化学的性質によって分離されていると思われた。

 血管作用物質と心筋作用物質の化学的性質をさらに絞り込むために、Benzene NaOH可溶分画の15分画のうち、血管と心筋に対する作用が認められた第3分画を吸着クロマトグラフィー法により、5つの分画(Fraction;Fr.1〜5)に細分画した。血管への弛緩作用はすべての分画において認められたが、Fr.4の弛緩はPE収縮前のレベルまで戻らなかった。また、Fr.3では非常に微妙ではあるが収縮作用が認められた。心筋に対し強縮作用が確認されたのはFr.1のみであった。

 以上のように、Whole DEPから3段階の分離過程を経て、血管および心筋に対する作用物質を含むと考えられるBenzene NaOH分画の第3分画を得た。この分画がWhole DEPの静脈内投与でみられた血圧の低下と類似性があるかどうかを確認するため、再びラットの静脈内投与実験を行った。第3分画溶液を静脈内に投与すると、Whole DEP投与時と同様な血圧の一過性の低下が認められた。Whole DEP溶液では120mg/kg以上で反応が出現していたのに対し、第3分画では45mg/kgの低濃度で反応が出現した。さらに5mg/kgではWhole DEP単独投与では不明瞭であった血圧の上昇反応も明瞭に認められた。これらの結果は低濃度では収縮作用、高濃度では弛緩作用が出現する摘出標本実験結果と一致した。Whole DEPを細分画することで、各分画に含まれる化学物質の数が減少するとともに純粋化し、より反応性が明瞭になったものと考えられた。また、第3分画投与時にも、Whole DEP投与時と同様、一過性の心室性期外収縮の出現を認めた。これらの結果から、第3分画はWhole DEPと同様の生体反応を引き起こすこと、すなわち生体に対し血圧低下や異常心電図の出現の原因となる物質を含んでいることが明らかとなった。

 以上を要約すると、吸入曝露実験では、DE曝露群において異常心電図の発現、体重減少および臓器重量の増加などの影響が認められた。Whole DEPの静脈内投与実験の成績からは、DEPは血圧低下や異常心電図を誘発すること、摘出標本実験においては、Whole DEPの細分画Benzene NaOH分画の第3分画中に、血管や心筋に対して直接作用を有する化学物質が含まれることが確認された。さらに、Benzene NaOH分画の第3分画の静脈内投与実験では、Whole DEP投与時と同様の血圧低下や異常心電図の出現が認められ、Whole DEPによる血圧および心電図への影響は、少なくともこの分画中に含まれる化学物質が原因となっていることが明らかとなった。

 本研究においては、生理学的実験によるDEPの生体および臓器への影響の検索とそれに基づいた分析化学的手法によるDEPの分離・精製を組み合わせることによって、これまで不明とされていたDEPの循環器系に及ぼす作用の性状、ならびに循環器作用をもたらす化学物質群の性状が明らかとなった。

審査要旨 要旨を表示する

 世界各国の大都市においては、産業や交通手段による大気汚染が深刻な社会問題になっている。とくに浮遊粒子状物質による汚染が重要視されている。わが国では浮遊粒子状物質の40〜60%はディーゼル自動車由来の排気微粒子(以下、DEP)である。近年、米国及び英国の疫学的研究により、大気中のDEP濃度(とくに粒子径が2.5μm以下)と心疾患死亡率との間に正の相関があることが報告されるに及んで、その健康影響への重大性が従来にもまして注目されてきた。しかしながら、DEPの循環器作用に関する実証的研究は、本論文も含めて世界的に極めて少ない状況にあり、早急に本格的な研究に着手する必要性が唱えられている。

 本論文は、ラットを供試動物として、ディーゼル排気の慢性吸入曝露、DEP溶液の静脈内投与、摘出動脈血管および摘出心筋標本に対するDEPの作用など、各種の実験を行い、これらを通じてDEPによる循環器作用を明らかにした上で、循環器作用をもたらす候補物質の一部を解明するために行われた。

 第1章では、DEPの構成物質ならびにDEPやその他の大気汚染物質の生体影響研究に関する主な知見と研究の歴史的経緯を整理した。

 第2章では、ディーゼル排気(0.3、1.0、3.0mg/m3)の1〜12ケ月間吸入曝露による心電図、体重、臓器重量および臓器の組織学的変化を観察した。ディーゼル排気曝露群では対照群に比べて異常心電図を発現する個体が有意に多く認められた。異常心電図は心室性期外収縮や第H度房室ブロックとして認められた。臓器重量では、0.3mg/m3および3.0mg/m3の濃度の12ケ月間曝露群で、心臓重量の有意な増加が認められた。これらの成績から、ディーゼル排気は心臓に対する有害作用をもたらす可能性が強く示唆された。

 第3章では、DEP全分画溶液の静脈内投与実験を行った。DEP溶液をラットに投与すると、投与直後に血圧の低下が観察された。この血圧低下反応は120mg/kg以上の濃度から出現し、濃度依存性の反応が示された。この血圧低下反応は自律神経遮断薬を前投与することで消失する一方で、反対に軽度の血圧上昇が観察された。これらの成績から、DEP全分画溶液は心臓や血管に対して直接作用と、自律神経系あるいはその受容体を介した間接作用を有することが示唆された。

 第4章では、胸部大動脈および右心室の摘出標本に対するDEP全分画溶液の作用を調べた。phenyrephlin(10-5M)収縮の血管標本および電気刺激によって一定の単収縮を反復する心筋にDEP全分画溶液を低濃度から累積投与した。血管はDEP濃度が0.1mg/mlで軽度の収縮反応を、10mg/mlでは強い弛緩反応を示した。また、心筋は10mg/mlで単収縮が消失し、明瞭な弛緩が現れた後に、単収縮を消失させたまま長時間に亘って持続する強い収縮状態(以下、強縮)が発現した。

 第5章では、DEPをhexane、benzene、dichloromethane、methanol、ammoniaの5種類の有機溶媒によって極性の異なる5分画に分離し、血管および心筋標本に対する作用を検討した。さらに、血管と心筋の両方に作用が認められたhexane、benzene、dichloromethaneおよびmethanolについて塩酸基抽出法によって、HCO3-分画(酸性)、中性分画およびNaOH分画(アルカリ性)に分離し、それぞれの血管および心筋に対する作用を検討した。血管の弛緩作用および心筋作用は、hexaneおよびbenzene分画のHCO3-可溶分画とNaOH可溶分画に存在した。dichloromethane分画では、HCO3-可溶分画とNaOH可溶分画では血管の収縮作用が、中性分画では弛緩作用が認められ、NaOH可溶分画には心筋の収縮反応も認められた。

 さらに、血管と心筋の両方に作用を有し、反応が明瞭で、かつ化学的に性質をトレースしやすいbenzene分画のNaOH可溶分画に注目し、第1〜15分画に分け、それぞれについて血管、心筋標本作用を観察したのち、心筋の強縮反応が得られた第3分画を詳しく調べたところ、fraction1〜5のすべての分画に血管の弛緩反応が、そしてfraction 1 にのみ心筋の強縮反応が観察された。このbenzene NaOH可溶分画の第3分画に含まれる物質は、紫外分光法による解析によってフェノール性化合物であることが判明した。

 以上を要するに、本論文はこれまで不明であったディーゼル排気微粒子の循環器に対する有害作用を実験的に証明した上で、そのような作用をもたらす物質群の化学的性状を明らかにしたものであり、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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