学位論文要旨



No 116290
著者(漢字) 中村,倫子
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ノリコ
標題(和) 犬および猫のリンパ系腫瘍における多剤耐性機構に関する研究
標題(洋) Studies on the Multidrug Resistance in Canine and Feline Lymphoid Tumors
報告番号 116290
報告番号 甲16290
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2320号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 辻本,元
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 助教授 尾崎,博
 東京大学 助教授 大野,耕一
内容要旨 要旨を表示する

悪性リンパ腫や急性リンパ芽球性白血病(acute lymphoblastic leukemia、ALL)などのリンパ系腫瘍は犬や猫において最も発生頻度の高い悪性腫瘍の一つである。それらリンパ系腫瘍に対する治療法としては、抗がん剤を用いる化学療法が最も一般的に使用されている。とくにリンパ腫は抗がん剤に対する感受性が高く、寛解導入率が高い。しかし、治療開始前から、または再発時に認められる腫瘍の抗がん剤に対する耐性が治療上の大きな問題となっており、予後の悪化に関与している。そのような腫瘍細胞の抗がん剤に対する耐性にはさまざまな機構があり、化学構造的に関連のない複数の抗がん剤に対して耐性となる多剤耐性が認められることも多い。抗がん剤に対する耐性機構としては薬剤の排出促進、抗がん剤の解毒亢進、抗がん剤の標的の変化、および抗がん剤によるアポトーシス誘導機構の異常などが知られている。ヒトにおいては、これら多剤耐性を克服する試みが行われているが、犬や猫においては多剤耐性に関する報告は少ない。犬および猫においては、P糖蛋白(P-gp)による薬剤耐性に関する少数の報告があるに過ぎず、その他の機構や臨床的に有用な薬剤耐性の克服に関しては報告がない。そこで本研究では、培養細胞の系だけではなく、臨床検体も用いることによって、犬および猫のリンパ系腫瘍における多剤耐性機構およびその克服に関する一連の検討を行った。

第一章:犬のリンパ系腫瘍細胞における多剤耐性関連遺伝子の発現

 薬剤耐性に関連する遺伝子として、エネルギー依存的に薬剤を排出する膜タンパクであるP-gpPをコードするmdr1およびMRPをコードするmrpグルタチオン抱合に関与するGSTπ、アポトーシスの負の制御因子であるbcl-2、DNAの複製および修復に関わるTopoIIαの5種類の遺伝子について検討した。

 まず、犬のリンパ腫由来細胞株(CL-1)および白血病由来細胞株(GL-1)に加えて、これら細胞株を抗がん剤であるアドリアマイシン(ADM)またはビンクリスチン(VCR)存在下で培養して作成した薬剤耐性株(CL-1/ADM、GL-1/ADM、GL-1/VCR)について検討した。これらの細胞RNAからcDNAを作成して鋳型とし、ヒトの各遺伝子の塩基配列を基に作成したプライマーを用いてPCRを行った。内部コントロールとしてGAPDH遺伝子を用いた。mdr1は、3つの薬剤耐性株のうちGL-1/VCR細胞のみにその発現が認められた。mrpは薬剤感受性のCL-1細胞にその発現を認めた。bcl-2に関しては、薬剤耐性獲得に伴い、CL-1/ADM細胞で発現低下が、またGL-1/ADM細胞およびGL-1/VCR細胞で発現上昇が認められた。Topo IIαは、3つの薬剤耐性株すべてにおいて、親株と比較してその発現が減少していた。GSTπはいずれの細胞株にも発現が見られなかった。

 また、4例の抗がん剤感受性症例および17例の抗がん剤耐性例から成る合計21例の犬のリンパ系腫瘍症例から腫瘍細胞を採取し、それぞれにおいて5種類の薬剤耐性関連遺伝子の発現を検討した。mdr1は抗がん剤反応性の4例中1例、および抗がん剤耐性の17例中10例でその発現が認められた。mrpは抗がん剤耐性症例の3例で発現していた。GSTπは抗がん剤耐性の1症例にのみ発現が認められた。bcl-2およびTopo IIαは全体の21症例のうち、それぞれ16例および15例に発現しており、その発現は抗がん剤感受性および耐性のいずれの症例においても認められた。また、これらbcI-2およびTopo IIαはmdr1とともに発現している傾向がみられた。以上の結果より、犬のリンパ系腫瘍における薬剤耐性においては、mdr1の発現が主要なはたらきを示すものと考えられたが、bcl-2、Topo IIα、mrpなどの遺伝子の発現が関与する場合や、未知の機構によるものが存在することが示唆された。

第二章:犬および猫のリンパ系腫瘍細胞株における各種薬剤による多剤耐性克服効果

 本章においては多剤耐性を示す犬および猫のリンパ系腫瘍細胞株を用い、4種類の多剤耐性克服薬の候補薬について、それらの培養細胞株における効果を検討した。第一章において用いたGL-1細胞株とその薬剤耐性株GL-1/VCRの他、猫のリンパ腫細胞株(FT-1)およびADM存在下で培養して作成した薬剤耐性株FT-1/ADMを用いた。これらGL-1/VCR細胞およびFT-1/ADM細胞においてはmdr1遺伝子およびP-gpの発現が認められ、またADMとVCRに対する交差耐性も確認された。これらの細胞株に、耐性克服候補薬剤としてシクロスポリンA(CsA)、タクロリムス(Tac)、ベラパミル(Ver)および新規キノリン化合物であるMS-209を添加し、ADMおよびVCRに対する感受性をIC50(50%growth inhibitory concentration)値によって評価した。

 GL-1/VCR細胞にCsA、Tac、VerおよびMS-209を添加したところ、ADMに対する感受性は1.4〜10倍に増強され、またVCRに対する感受性は31〜375倍に増強された。その耐性克服効果はMS-209およびVerにおいて高く、CsAおよびTacにおいて低い傾向が認められた。同様にして、FT-1/ADM細胞にCsA、Tac、VerおよびMS-209を添加して培養したところ、ADMに対する感受性は1.5〜7.3倍に増強された。また、FT-1/ADM細胞にCsA、Tac、VerおよびMS-209を添加したところ、VCRに対する感受性は1.2〜35倍に増強された。FT-1/ADM細胞における耐性克服効果はCsA、MS-209およびVerにおいて比較的高く、Tacにおいて低いことが認められた。

 以上の結果から、P-gpを発現し、多剤耐性を獲得した犬および猫のリンパ系腫瘍細胞株において、CsA、Tac、VerおよびMS-209の4薬剤はいずれも抗がん剤に対する感受性を回復させる効果があることが明らかとなった。なかでも、MS-209はいずれの細胞株と抗がん剤の組み合わせにおいても良好な耐性克服効果を示すことが注目された。

第三章:犬および猫の薬剤耐性リンパ系腫瘍症例における多剤耐性克服薬剤(MS-209)の臨床試験

 第二章では、犬および猫のリンパ系腫瘍細胞株において、MS-209が良好な薬剤耐性克服効果を示すことが明らかとなった。またMS-209はCsAやVerとは異なり、単剤での生理活性および副作用がないことが知られている。そこで本章では、抗がん剤耐性となった犬および猫のリンパ系腫瘍症例におけるMS-209の薬剤耐性克服効果を検討した。VCRに耐性になった時点で、VCR投与による腫瘍縮小率を算定し、一定期間後に同一症例に対してVCRおよびMS-209を同時に投与することによってその腫瘍縮小率を算定し、両者の違いを検討することによって、薬剤耐性症例におけるMS-209の有効性を判定することとした。また末梢血中に腫瘍細胞が検出される場合にはその減少率についても同時に評価した。また、本臨床試験を行った症例の腫瘍細胞について、RT-PCRによりmdr1およびmrp遺伝子の検出も併せて行った。

 その結果、本臨床試験を行ったリンパ系腫瘍の犬の7例中4例および猫の2例中2例において、VCR単独投与では腫瘍の縮小や末梢血中腫瘍細胞の減少は認められなかったにもかかわらず、VCRとMS-209の同時投与によって、明らかな腫瘍の縮小および末梢血中腫瘍細胞の減少が認められた。また、犬のリンパ系腫瘍症例のうち、mdr1遺伝子の発現は、MS-209が有効であった4例中3例、および無効であった3例中1例に認められた。mrp遺伝子の発現はMS-209が無効であった1例において認められた。猫のリンパ系腫瘍の2例ではmdr1およびmrp遺伝子のいずれの発現も認められなかった。しかし、MS-209の有効性が認められた症例においても、再発が一週間以内に認められる症例が多く、有効性の持続に関する間題が残った。

 以上、本論文では犬および猫のリンパ系腫瘍における多剤耐性機構の解析とその克服に関する研究を行った。薬剤の排出に関わるP-gpは犬および猫のリンパ系腫瘍において薬剤耐性に関与する主要な分子の一つであることが示されたが、P-gpの発現が認められない薬剤耐性の症例も多く、いわゆる非定型的多剤耐性についてもさらなる検討が必要であることが示された。また、多剤耐性克服のための候補薬剤のうち、とくに新規キノリン化合物であるMS-209が犬および猫のリンパ系腫瘍細胞株において薬剤耐性克服効果を示すことが明らかとなり、さらに実際の犬および猫のリンパ系腫瘍症例においても薬剤耐性克服効果が証明された。犬および猫のリンパ系腫瘍における多剤耐性機構に関する本研究は、抗がん剤治療において最も大きな間題となっている薬剤耐性に対して分子生物学的解析から臨床試験まで幅広いアプローチを行ったものであり、今後の抗腫瘍化学療法に関して新しい展開を導くものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

 リンパ系腫瘍は犬および猫において最も発生頻度の高い悪性腫瘍の一つであり、その治療には抗がん剤による化学療法が用いられる。化学療法における最大の問題は抗がん剤に対する耐性であり、それが症例の予後の悪化と密接に関連している。そのような耐性にはさまざまな機構があり、複数の抗がん剤に対して耐性となる多剤耐性が認められることも多い。そこで本研究では、犬および猫のリンパ系腫瘍における多剤耐性機構とその克服に関する一連の検討を行った。

 第一章では犬のリンパ系腫瘍細胞において、多剤耐性関連遺伝子であるmdr1、mrp、GSTπ、bcl-2およびTopoIIαの発現について検討を行った。まず、犬のリンパ系腫瘍細胞株CL-1およびGL-1に加えて、これらのアドリアマイシン(ADM)またはビンクリスチン(VCR)耐性株であるCL-1/ADM、GL-1/ADM、GL-1/VCRを用い、これら各遺伝子を増幅するRT-PCRを行った。mdr1は、3つの薬剤耐性株のうちGL-1/VCRのみに、mrpはCL-1にその発現を認めた。bcl-2は、薬剤耐性獲得に伴い、CL-1/ADMで発現低下が、GL-1/ADMおよびGL-1/VCRで発現上昇が認められた。TopoIIαは、3つの薬剤耐性株すべてにおいて、親株と比較してその発現が減少していた。GSTπはいずれの細胞株にも発現がみられなかった。次に、4例の抗がん剤感受性症例および17例の抗がん剤耐性例から成る合計21例の犬のリンパ系腫瘍症例から採取した腫瘍細胞においてこれらの薬剤耐性関連遺伝子の発現を検討した。Mdr1は抗がん剤反応性の4例中1例、および抗がん剤耐性の17例中10例でその発現が認められた。mrpは抗がん剤耐性の3症例に、またGSTπは抗がん剤耐性の1症例にその発現が認められた。bcl-2およびTopoIIαは抗がん剤感受性および耐性の症例間で明らかな差は見られなかったが、21症例中それぞれ16例および15例にその発現が認められた。以上のことから、犬のリンパ系腫瘍における薬剤耐性においてはmdr1の発現が主要なはたらきを示すものと考えられたが、bcl-2、TopoIIαなどの遺伝子の発現や、未知の機構によるものが存在することが示唆された。

 第二章では多剤耐性克服薬の候補薬について、多剤耐性を示す犬および猫のリンパ系腫瘍細胞株における耐性克服効果を検討した。GL-1およびGL-1/VCR細胞の他、猫のリンパ腫由来細胞株FT-1およびそのADM耐性株(FT-1/ADM)を用いた。これらGL-1/VCRおよびFT-1/ADMにおいてはP-gpの明らかな発現が認められた。これらの細胞株に、シクロスポリンA(CsA)、タクロリムス(Tac)、ベラパミル(Ver)および新規キノリン化合物であるMS209を添加し、ADMおよびVCRに対する感受性を50%増殖阻害濃度によって評価した。GL-1/VCRにCsA、Tac、VerおよびMS-209を添加したところ、ADMに対する感受性は1.4〜10倍に、VCRに対する感受性は31〜375倍に増強された。同様にFT-1/ADMにこれらの4剤を添加して培養したところ、ADMに対する感受性は1.5〜7.3倍に、VCRに対する感受性は1.2〜35倍に増強された。このことから、P-gpを発現し、多剤耐性を獲得した犬および猫のリンパ系腫瘍細胞株において、CsA、Tac、VerおよびMS-209の4薬剤はいずれも抗がん剤に対する感受性を回復させる効果があることが明らかとなった。なかでも、MS-209はいずれの細胞株と抗がん剤の組み合わせにおいても良好な耐性克服効果を示した。また、MS-209は他の3剤とは異なり、単剤での生理活性および副作用がないことから、その臨床応用が期待された。

 そこで第三章では、抗がん剤耐性となった犬および猫のリンパ腫症例におけるMS-209の薬剤耐性克服効果を検討した。VCRに耐性になった時点で、VCR投与による腫瘍縮小率の算定および末梢血中の腫瘍細胞の減少率の評価を行い、一定期間後に同一症例に対してVCRおよびMS-209を同時に投与して同様の評価を行った。この両治療法による効果の違いによって薬剤耐性症例におけるMS-209の有効性を判定した。本臨床試験の結果、リンパ腫の犬の7例中4例および猫の2例中2例において、VCR単独投与では認められなかった腫瘍の縮小や末梢血中腫瘍細胞の減少が、VCRとMS-209の同時投与によって明らかに認められた。このことから、MS-209が犬および猫のリンパ腫症例において耐性克服効果を有することが示された。

 以上、犬および猫のリンパ系腫瘍における多剤耐性機構に関する本論文は学問的および応用上価値ある論文であり、審査委員一同は博士(獣医学)の学位論文に値するものと認めた。

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