学位論文要旨



No 116293
著者(漢字) 山田,篤
著者(英字)
著者(カナ) ヤマダ,アツシ
標題(和) 海馬のNMDA受容体および Ras-MAPK 経路を介したシグナル伝達の解析
標題(洋)
報告番号 116293
報告番号 甲16293
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2323号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 勝木,元也
 東京大学 教授 甲斐,知恵子
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 内藤,邦彦
内容要旨 要旨を表示する

 Ras タンパク質は細胞の増殖や分化に重要な役割を果たしている低分子量 GTP 結合タンパク質である。Ras タンパク質をコードするがん遺伝子rasはその活性型変異が多くのヒトのがん細胞から検出される。ほ乳類では3種類のras遺伝子(H-ras,N-ras,K-rasが同定されている。これらの3種類は、それぞれのアミノ酸配列の相互間での相同性が高い 21kDa のタンパク質である。Ras タンパク質はグアニンヌクレオチド変換酵素(guanine nucleotide exchange factor:GEF)によってGTP結合型に変換すると活性化する。また、GTP 加水分解酵素活性化タンパク質(GTPase activatin gprotein:GAP)により自身の持つGTP加水分解酵素としての機能を活性化し、GDP結合型に変換すると不活性型となる。Rasタンパク質はこうした作用機構により、細胞外からのシグナルに対して、分子スイッチとしての役割を果していると考えられる。

 Rasタンパク質は中枢神経系で多く発現している。細胞の増殖に関与するRasタンパク質が、分裂の停止している神経細胞においてどのような働きをするのかはよくわかっていない。しかし、神経細胞は分裂停止後も学習を通して神経回路網をダイナミックに形成し、その回路網を構成する細胞間では迅速な情報伝達が行われていることを考えると、分子スイッチとしてのRasタンパク質がいかに関与しているか興味が持たれる。そこで、中枢神経系におけるRasタンパク質の作用機構に注目した。その解析手段として脳で特に発現の多いH-Rasタンパク質に着目し、H-ras 遺伝子欠損マウスを用い、海馬におけるH-Rasタンパク質の役割、特にNMDA受容体を介するシナプス応答、長期増強に対する影響およびリン酸化による受容体の活性化の制御について解析した。

 その結果、Hザα3遺伝子欠損マウスの海馬CA1領域での長期増強の大きさが野性型マウスに比べて約2倍であった(図1)。その効果は、NMDA受容体を介するシナプス応答の選択的増強によるものであることが明かとなった(図2)。H-κα3遺伝子欠損マウスのこのような生理学的現象の分子生物学的なメカニズムを検討した。リガンド結合実験およびウェスタンブロッティングによりNMDA受容体の数に変化はないことがわかった。次に、NMDA受容体の翻訳後修飾による変化、なかでもNMDA受容体のリン酸化修飾による変化を確かめた。NR2サブユニットのチロシンリン酸化を調べたところ、NR2AおよびNR2Bのチロシンリン酸化が上昇していた(図3-a)。また、NMDA受容体の構成要素を変化させずにNR2サブユニットのチロシンリン酸化を増加させた(図3-b)。

 中枢神経系においてグルタミン酸受容体は興奮性神経伝達物質の受容体として働いているが、過度の刺激は細胞死を誘導する。神経細胞は、シナプスを興奮させつつも、過度のグルタミン酸による刺激は興奮毒性(excitotoxic)となり細胞死を誘導する。神経細胞には細胞自身の生死のバランスを保つ機構が存在すると考えられる。なかでもMAPK(mitogen-activated protein kinase)は神経細胞の生死のバランスを調節するタンパク質の一つであると考えられている。ラット海馬初代培養神経細胞において、NMDA受容体はグルタミン酸刺激によりERKを活性化することが知られている。また、海馬切片にNMDAを処理した際、ERKが活性化する(図4)。

 NMDA受容体を介したRasタンパク質、および細胞内シグナル伝達においてその下流に存在するMAPKの活性化を誘導した時のNMDA受容体のチロシンリン酸化に対する影響を調べた。海馬切片および海馬初代培養神経細胞を用いNMDAで刺激した時、Ras-MAPKを介するシグナル伝達およびNMDA受容体の修飾がどのようになるか確かめた(図4,図5)。その結果、NMDAで刺激した時のERKの活性化はRaS-GapであるGaplmにより完全に阻害されることからRasを介する経路によることが明らかとなった。このERKの活性化とは独立した現象としてNR2Bサブユニット自身の脚リン酸化の現象が見られた。それはこの脱リン酸化の現象がERKの阻害剤であるUO126で阻害されず、またERKを活性化させるTrkBのリガンドBDNFでも起こらなかったことから明らかとなった(図6)。また、NR2Bサブユニットの脱リン酸化は2つの作用の異なるNMDAレセプターのアンタゴニストMK801およびAPVにより阻害された。NR2B遺伝子欠損マウスおよびNMDA特異的なantagonistであるifenprodil処理によってERKの活性化が阻害されることからNMDA刺激によるシグナル伝達にはNR2Bサブユニットが必要であることが明らかとなった(図7)。

以上の結果から、中枢神経系においてH-Rasタンパク質はNMDA受容体のチロシンリン酸化の制御や神経の可塑性に関与していると考えられる。またNMDAで刺激を与えたときRas-ERKシグナルの活性化が起こり、生存シグナルとしての活性化にも関与していることが示された。このERKの活性化とは別にNR2Bサブユニットの脱リン酸化が起こった。ERKの活性化およびNR2Bサブユニットの脱リン酸化はNR2Bを介して起こることも明らかとなった。

図1 野性型マウスおよびH-后s遺伝子欠損マウスの海馬スライスにおけるLTPの時間経過

図2 NMDA受容体およびAMPA受容体を介するEPSC

図3-a NR2AおよびNR2Bサブユニットのチロシンリン酸化+/+は野性型マウス、-/-はH-ras 伝子欠損マウスを表す。

図3-b NMDA受容体のサブユニット構成に対する影響について+/+は野性型マウス、-/-はH-ras遺伝子欠撰マウスを表す。

図4 成体の海馬切片および海馬初代培養神経細胞にNMDA処理した際のEPK活性

図5 成体の海馬切片および海馬初代培養神経細胞にNMDA処理した際のNR2Bサブユニットのチロシンリン酸化

図6 U0126で処理した海馬初代培養神経細胞のNMDAおよびBDNF処理によるNR2Bサブユニットのチロシンリン酸化およびERKの活性

図7 lfenprodilで処理した海馬初代培養神経細胞にNMDAおよびBDNF処理によるNR2Bサブユニットのチロシンリン酸化およびERKの活性

審査要旨 要旨を表示する

 Rasタンパク質は細胞の増殖や分化に重要な役割を果たしている低分子量GTP結合タンパク質である。Rasタンパク質はグアニンヌクレオチド変換酵素(guanine nucleotide exchange factor:GEF)によってGTP結合型に変換すると活性化する。また、GTP加水分解酵素活性化タンパク質(GTPase activating protein:GAP)により自身の持つGTP加水分解酵素としての機能を活性化し、GDP結合型に変換すると不活性型となる。Rasタンパク質はこうした作用機構により、細胞外からのシグナルに対して、分子スイッチとしての役割を果していると考えられる。

 Rasタンパク質は中枢神経系で多く発現している。細胞の増殖に関与するRasタンパク質が、分裂の停止している神経細胞においてどのような働きをするのかはよくわかっていない。そこで、中枢神経系におけるRasタンパク質の作用機構に注目した。その解析手段として脳で特に発現の多いH-rasタンパク質に着目し、H-ras遺伝子欠損マウスを用い、海馬におけるH-Rasタンパク質の役割、特にNMDA受容体を介するシナプス応答、長期増強に対する影響を解析したところ、H-ras遺伝子欠損マウスはNMDA受容体を介するシナプス応答の選択的増強による長期増強(LTP)の増大が起こった。

 そこで申請者はH-ras遺伝子欠損マウスのこのような生理学的現象の分子生物学的なメカニズムを検討した。リガンド結合実験およびウェスタンブロッティングによりNMDA受容体の数に変化がないことがわかった。次に、NMDA受容体の翻訳後修飾による変化、なかでもNMDA受容体のリン酸化修飾による変化を確かめた。NR2サブユニットのチロシンリン酸化を調べたところ、NR2AおよびNR2Bのチ ロシンリン酸化が上昇していた。また、NMDA受容体の構成要素を変化させずにNR2サブユニットのチロシンリン酸化を増加させた。この時、NMDA受容体複合体のサブユニット構成に影響は認められなかった。

 次に申請者はNMDA受容体を介したRasタンパク質、および細胞内シグナル伝達においてその下流に存在するMAPKの活性化を誘導した時のNMDA受容体のチロシンリン酸化に対する影響を調べた。海馬切片および海馬初代培養神経細胞を用いNMDAで刺激した時、Ras-MAPKを介するシグナル伝達およびNMDA受容体の修飾がどのようになるか確かめた。その結果、NMDAで刺激した時のERKの活性化はRas-GapであるGaplmにより完全に阻害されることからRaSを介する経路によることが明らかとなった。このERKの活性化とは独立した現象としてNR2Bサブユニット自身の脱リン酸化の現象が見られた。それはこの脱リン酸化の現象がERKの阻害剤であるU0126で阻害されず、またERKを活性化させる受容体型チロシンキナーゼTrkBのリガンドBDNFでも起こらなかったことから明らかとなった。

 また、NR2Bサブユニットの脱リン酸化は2つの作用の異なるNMDA受容体のアンタゴニストMK801およびAPVにより阻害された。NR2B遺伝子欠損マウスおよびNMDA特異的なアンタゴニストであるifenprodil処理によってERKの活性化が阻害されることからNMDA刺激によるシグナル伝達にはNR2Bサブユニットが必要であることが明らかとなった。

 以上、本研究はH-Rasタンパク質が海馬においてNR2サブユニットのチロシンリン酸化の制御に重要な役割を果たしていることを示唆し、また海馬初代培養神経細胞の系でNMDA刺激によるNR2Bサブユニットのチロシン脱リン酸化がERKの活性化と独立してNR2Bサブユニットを介して起こることを示唆した。これらは海馬におけるNMDA受容体およびRas-MAPKを介した新たな細胞内シグナル伝達の存在を明らかにしたと考えられる。よって本論文は博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認められる。

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