学位論文要旨



No 116295
著者(漢字) 蘇,維萍
著者(英字)
著者(カナ) スウ,ウエピン
標題(和) 脳心筋炎ウイルス感染に対するラット脳の年齢依存性の感受性の変化のメカニズムに関する研究
標題(洋) Studies on mechanisms of age-related changes in susceptibility of rat brain to encephalomyocarditis virus infection
報告番号 116295
報告番号 甲16295
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2325号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 高橋,英司
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 久和,茂
 東京大学 助教授 中山,裕之
内容要旨 要旨を表示する

 脳心筋炎(encephalomyocarditis,EMC)ウイルスはピコルナウイルス科カルジオウイルス群に属し、径が約20nmの1鎖のRNAウイルスである。EMCウイルスは最初霊長類、次いで豚から分離され、その宿主域は広い。現在、畜産および獣医学領域では、幼豚の致死性心筋炎および妊娠豚の胎仔死亡や流産の原因として重要で、豚での心筋炎の発生に際しては小型げっ歯類、特に野生ラットがキャリアーと考えられてきた。一方、実験医学領域では、EMCウイルスはこれまでウイルス性脳心筋炎および糖尿病の作出に利用され、ほとんどの小型げっ歯類が感受性を示すことが明らかにされている。しかし、成熟ラットは唯一の例外で、ウイルス増殖も病変形成も確認できなかった。また、ラット由来細胞はin vitroでのEMCウイルス感染に対して感受性を示さないことが報告されている。筆者は予備的な検索により、EMCウイルスD株(EMC−D)の腹腔内接種によって新生児ラットの脳でウイルス増殖および病変形成を確認し、ウイルス増殖および病変形成は接種日齢の増加に伴って軽減することを明らかにした。そこで、本研究では、ラット脳のEMCウイルス感染に対する感受性が加齢に伴って低下するメカニズムを解明する目的で、種々の検索を行った。本論文は4章から成るが、以下に各章の要旨を記載する。

 第1章:EMCウイルス感染に対するラット脳の感受性

 104PFU/ラットのEMC-Dをラットに腹腔内(2、4、7、14、28および56日齢)あるいは脳内(7、14、28および56日齢)接種し、14日齢以下の接種群は3および6日後に、28および56日齢接種群は1、2、3および6日後に、それぞれ剖検した。腹腔内接種すると、2日齢接種群のすべての動物および4日齢接種群の25%の動物が接種6日後までに死亡した。14日齢以下の接種群では、ウイルス増殖は脳、心臓および膵臓で認められたが、病変は脳に限局して観察され、変性神経細胞およびその周囲の神経細胞でウイルスRNAが検出された。14日齢接種群の脳病変は7日齢以下の接種群と比較して軽度であった。28および56日齢接種群では、全検索期間を通じ、ウイルス増殖も病変形成も観察されなかった。一方、脳内接種すると、7日齢接種群では、接種3日後までに77%の動物が、さらに接種6日後までにすべての動物が死亡した。14日齢以下の接種群の全個体の大脳皮質および海馬、ならびに、28日齢接種群の一部の個体の海馬で、ウイルス増殖および病変形成が認められ、病変部の神経細胞でウイルス舳が検出された。56日齢接種群では、接種1、2および3日後にそれぞれ1例ずつの脳でウイルスの増殖が認められたが、病変は観察されなかった。こうした日齢の増加に伴うラット脳のEMCウイルスに対する感受性の低下の原因は、免疫系の成熟よりも神経系の成熟に伴う神経細胞自体の性状の変化に起因する可能性が高いことが示された。

 第2章:EMCウイルスに対するPC12細胞とC6細胞の感受性

 ラットの褐色細胞腫由来のPC12細胞と神経膠細胞腫由来のC6細胞のEMCウイルスに対する感受性を調べた。PC12細胞はnerve growth factor(NGF)に反応し、神経細胞の特性を発現する。それぞれの細胞をNGFを添加した条件としない条件で培養後、0.3PFU/cellのEMC-Dを接種し、さらに培養した。メディウムおよび細胞のウイルス力価は培養開始6、12、24、48、72時間後に測定し、病理組織学的変化および細胞内ウイルス抗原は24および48時間後に検索した。その結果、NGFを加えずに培養したPC12細胞ではウイルス増殖および組織学的変化は認められなかった。一方、NGFを加えて培養したPC12細胞ではウイルス力価が12時間後に増加し、48時間後にピークに達した。さらに、光顕および電顕レベルでの形態学的変化がみられ、細胞内にウイルス抗原が認められた。C6細胞では、NGFによる前処置の有無に拘わらず、ウイルスカ価はごく軽度に増加し、ウイルス抗原も散見された。以上の結果から、NGF前処置をしたPC12細胞およびC6細胞はEMC-Dに感受性を示すことが示された。

 第3章:EMCウイルスに対するラット海馬培養組織片のの感受性

 1、4、7、14、28、56日齢のFischer 344ラットの海馬組織片培養を用い、BMC-Dウイルスの増殖と細胞に与える影響について検討した。各日齢の組織片培養で、ウイルス(7×106PFUg)接種0、12、24、36、48時間後の海馬組織とメディウムのウイルス力価を調べた。ウイルスの増殖は1〜28日齢の海馬組織で認められ、ウイルス力価は1日齢の組織およびメディウムで最も高かった。ウイルス力価のピークは加齢に伴い減少し、56日齢ではウイルス増殖はほとんど認められなかった。光顕的には1〜28日齢ラット由来の海馬組織で神経細胞の変性、壊死が見られ、この変化も加齢に伴い軽減した。in situhybridization法と蛍光免疫組織化学的検索では、ウイルスRNAと抗原が若齢ラット由来の海馬組織で顕著に認められたが、これも加齢に伴い減少した。以上の結果は、ラット脳のEMCウイルスに対する年齢依存性の感受性の低下が神経細胞の成熟と関連があることを示している。

 第4章:EMCウイルスに対する初代培養海馬神経細胞の感受性

 Microtubule-associated Protein 2陽性神経細胞のEMC-D(105-6PFU/slide)に対する感受性を、1、7および56日齢のF344ラットの初代培養海馬神経細胞を用いて検索した。感染1〜12時間後にウイルス力価を測定し、1〜8時間後の細胞を用いてin situ hybridizationおよびindirect immunofluorescence antibody(IFA)法による検索をおこなった。ウイルスRNAおよび抗原陽性細胞は、106PFU/slide接種群で最も早く検出され、陽性細胞数と強度は加齢に伴い減少し、若齢ラットの神経細胞はEMC-Dに対して感受性が高いが、56日齢のラットの神経細胞は低濃度感染には抵抗性があることが示された。また、1日齢および56日齢ラットの海馬神経細胞培養を比較すると、EMC-D感染初期(1〜2時間後)にはメディウムのウイルス力価は後者で高く、細胞内ウイルス力価は前者で顕著に高かった。また、前者と異なり、後者では1時間後には未だ神経細胞内にはウイルスFNAは認められなかった。ただし、感染後期には後者でも前者と同様のウイルスの増殖が観察された。この様な所見から、加齢に伴うEMC-Dに対する神経細胞の感受性の低下は、ウイルス増殖能の低下によるのではなく、EMCウイルス受容体の数と親和性の低下によるものであることが示唆された。

 以上、本研究の結果から、若齢ラットの神経細胞はEMC-Dに対して感受性が高く、成熟ラットの神経細胞は低濃度のウイルスに対しては抵抗性を有するが、高濃度のウイルスには感受性があることが示された。EMCウイルス感染に対するラットの神経細胞の感受性が加齢に伴い低下するのは、加齢に伴う免疫系の成熟によるものではなく、主に神経細胞自体の成熟と関連していること、および神経細胞内でのウイルス増殖能の低下によるのではなく、EMCウイルスに対する受容体の数と親和性の低下によるものであることが示唆された。今後は、この点をより明確にするため、ラットの神経細胞のEMCウイルス受容体の分離を行う予定である。

審査要旨 要旨を表示する

 脳心筋炎ウイルス(EMCV)は幼豚の致死性心筋炎および妊娠豚の胎仔死亡や流産の原因として重要である。小型げっ歯類も感受性を示すが、成熟ラットだけは感受性を示さない。申請者はこれまでに新生ラットはEMCV-D株(EMCV-D)に感受性があることを示している。そこで、本研究では、まず、ラット由来神経系培養細胞株のEMCVに対する感受性の有無を検討し、ついで、ラット脳のEMCV感染に対する感受性の日齢に伴う変化を調べた。

1)EMCVに対するPC12細胞とC6細胞の感受性

 ラット副腎褐色細胞腫由来PC12細胞と神経膠細胞腫由来C6細胞のEMCVに対する感受性を調べた。PC12細胞はNGF処置により神経細胞の特性を発現する。NGF処置または無処置の細胞にEMCV-Dを接種し、ウイルス力価および細胞の形態変化を検索した。その結果、NGF無処置PC12細胞ではウイルス増殖および細胞形態変化が認められなかったのに対し、NGF処置PC12細胞ではウイルス力価が増加して細胞内にウイルス抗原が認められ、細胞の変性壊死もみられた。C6細胞では、NGF処置の有無に拘わらず、ウイルス力価はごく軽度に増加し、細胞内ウイルス抗原も散見された。したがって、NGF処置PC12細胞およびC6細胞はEMCV-Dに感受性を示すことが示された。

2)EMCVに対するラット脳の感受性

 若齢ラットにEMCV-Dを接種し、病変とウイルス増殖を検索した。腹腔内接種すると、2日齢接種群のすべての動物および4日齢接種群の25%の動物が接種6日後までに死亡した。14日齢以前の接種群では、脳にウイルス増殖と病変が観察され、ウイルスRNAも検出された。14日齢接種群の脳病変は7日齢以前の接種群と比較して軽度であった。28および56日齢接種群ではウイルス増殖も病変形成も観察されなかった。これに対し、脳内接種では7日齢以前の接種群で接種6日後までにすべての動物が死亡し、14日齢以前接種群の全個体および28日齢接種群の一部の脳で、ウイルス増殖および病変形成が認められた。56日齢接種群では、接種3日後まで一部の個体の脳でウイルスの増殖が認められたが、病変は観察されなかった。こうした日齢に伴うラット脳のEMCVに対する感受性の低下は神経系の成熟に伴う神経細胞自体の性状の変化に起因する可能性が高いことが示された。

3)EMCVに対するラット海馬培養組織片の感受性

 若齢のラットの海馬組織片培養系を用い、EMCV感受性について検討した。ウイルス増殖は1〜28日齢の海馬組織で認められ、ウイルス力価は1日齢の組織および培地で最も高かった。ウイルス力価のピークは日齢に伴って減少し、56日齢ではウイルス増殖はほとんど認められなかった。1〜28日齢由来海馬組織で神経細胞の変性壊死が見られ、ウイルスRNAと抗原が海馬組織で認められたが、これらも日齢に伴い減少した。以上の結果から、ラット脳におけるEMCV感受性の日齢依存性低下は神経細胞自体の成熟と関連することが確認された。

4)EMCVに対する初代培養海馬神経細胞の感受性

 若齢のラット初代培養海馬神経細胞のEMCV-Dに対する感受性を検索した。106PFUと105PFUの両接種群でウイルスRNAおよび抗原陽性細胞の数と染色強度はラットの日齢に伴い減少した。106PFU接種群は105PFU接種群より陽性細胞の出現が早く、その数と染色強度も増加した。また、106PFUを接種した1日齢と56日齢海馬細胞を比較したところ、感染1〜2時間後の細胞内ウイルス力価は前者で高く、培地のウイルス力価は後者で高かった。また、前者では1時間後に神経細胞体の表面にウイルスRNAのシグナルが認められ、2.5時間後に胞体内にウイルスRNAが認められたが、後者では1時間後のウイルスRNAシグナルは認められなかった。ただし、感染後期には後者でも前者と同様のウイルス増殖が観察された。これらの所見から、日齢に伴うEMCVに対する神経細胞の感受性の低下は、ウイルス増殖能の低下によるのではなく、神経細胞表面のウイルス受容体の数と親和性の低下によるものであると思われた。

 本研究の結果から、ラットの神経細胞はEMCVに対する感受性を有してはいるものの、その感受性は日齢がすすむにつれ低下することが示された。この現象は神経細胞の成熟に伴ってウイルス受容体の数と親和性が減少するためと考えられた。本研究はEMCVの神経細胞に対する感受性と日齢との関係を明確にし、本ウイルスの防御において極めて有用な成果であると考えられた。したがって、審査委員一同は申請者が博士(獣医学)の学位を授与されるにふさわしいと判断した。

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