学位論文要旨



No 116296
著者(漢字)
著者(英字) Boffi,Federico Martin
著者(カナ) ボフィ,フェデリコ マルティン
標題(和) 馬における運動負荷に伴う筋肉傷害に関する研究
標題(洋) Studies on exercise-induced myopathy in horses
報告番号 116296
報告番号 甲16296
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第2326号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 教授 小川,博之
 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 助教授 稲葉,睦
 日本中央競馬会競走馬総合研究所 臨床医学研究室長 吉原,豊彦
内容要旨 要旨を表示する

馬で認められる運動負荷に伴う筋肉傷害は、獣医臨床上のみならず、運動生理学ならびにスポーツ医学の観点からも重要な課題である。これら筋肉傷害は運動時に認められる末梢性筋疲労の終末像として、筋の部分断裂を示す局所性筋損傷、横紋筋繊維の融解を示す運動性横紋筋融解症などに細分されるが、様々な因子が関与するため、その発症機序については不明の点が少なくない。運動負荷時の筋細胞では、局所的虚血、エネルギー供給の低下、代謝産物の蓄積、細胞内のpHの低下、細胞膜脱分極の阻害などが観察されているが、本症発症との関連は推測の域をでない。一方、虚血時には組織低酸素、無酸素的解糖系の亢進、高エネルギーリン酸化合物(ATPやクレアチンリン酸)の分解などが引き起こされるとともに、血中あるいは病変部組織中の脂質過酸化反応産物の増加、抗酸化系酵素活性の変動などから、その発症因子としてフリーラジカルの重要性が指摘されている。フリーラジカルは、ATPなどの分解最終過程であるヒポキサンチン・キサンチン・尿酸産生系、ミトコンドリア電子伝達系の障害、筋断裂にともなって遊走する白血球で産生され、生体膜リン脂質を過酸化して膜の構造を変化させるばかりでなく、その二次産物を通じて膜蛋白を修飾し、細胞の機能障害や細胞死と密接に関連すると考えられる。また、これらの傷害は虚血が解除された再潅流時に増悪するため、いわゆる虚血・再潅流傷害として重要視されている。しかしながら、馬の運動負荷に伴う筋肉障害では、高エネルギーリン酸化合物の動態、フリーラジカルの産生、脂質過酸化による膜の障害、細胞内カルシウムの動態、あるいは細胞死の発現機序など、その詳細は不明である。そこで本研究では、マウス骨格筋株化細胞(C2C12細胞)を用いた in vitroの系、ならびにトレッドミールで強制運動をさせた馬を用いたin vivoの系で、運動負荷に伴う筋肉傷害の発症メカニズムについて検討した。

 まず、第1章ではC2C12細胞を分化させた後、一般に広く用いられている虚血条件、すなわち培養液からグルコースを除去した条件に加えて、アルゴンガス存在下で培養し、高エネルギーリン酸化合物、膜障害のマーカーとして培養上清中のLDHの変動、ならびに脂質過酸化のマーカーとしてチオバルビツール酸反応物質(TBAF6)あるいはマロンジアルデヒド(MDA)、スピントラップ法によるフリーラジカルの産生、また共焦点レーザー顕微鏡による細胞内カルシウムの変動、さらにTUNEL法と電気泳動法により核のDNA断片化について検討した。また、虚血・再潅流は、白血球遊走を想定して虚血処置後、培養液にフリーラジカルの代表的物質である過酸化水素(H202)を添加した条件で行った。

 虚血:細胞内ATPならびにGTP含量は、虚血後1時間で急速に、かつ有意に減少し、以後低値を維持した。また、最終産物であるIMPは有意に増加し、さらに培養上清中のヒポキサンチン濃度も増加し、フリーラジカル産生系の基質が虚血により増加することが明らかとなった。また、上清中MDA濃度は虚血後1時間から有意に増加し、以後高値を維持した。一方、上清中のLDH活性は虚血後2時間から有意に増加し、虚血により細胞死が誘発されると考えられたが、細胞死のマーカーであるPI蛍光の増加は認められなかった。細胞内カルシウム濃度は、虚血後1時間から増加し、以後高値を維持した。TUNEL陽性細胞は虚血2、3時間後に増加した。また、キサンチンオキシダーゼ活性は認められず、スピントラップ法によるフリーラジカルの産生も観察されなかった。したがって、骨格筋細胞では虚血により高エネルギーリン酸化合物の分解が生じ、フリーラジカル産生の基質となるヒポキサンチンの増加は認められるものの、キサンチンオキシダーゼ活性が存在しないため、フリーラジカルの産生は起こらないと考えられた。また、虚血のみでは細胞死は発現しないが、核DNA断片化が引き起こされると考えられた。上清中のTBAF6の増加は、細胞内カルシウムの増加により引き起こされるフォスフォリパーゼによる細胞膜からの脂質過酸化物の切り出しにより、膜の安定性が傷害され、LDHの増加を生じたものと推測された。

 虚血・再潅流:虚血処置を行わなかった細胞に、再潅流のみを行った場合、H2O2の高濃度添加(1および5mM)ではATP、GTPの急速かつ有意な減少が認められたが、低濃度添加(0.2および0.04mM)では有意な変動を示さなかった。また、虚血を行った細胞に再潅流を行うと、高濃度添加ではいずれの高エネルギーリン酸化合物に変動は認められなかったが、低濃度添加ではATP、GTPが処置後3-4時間で増加した。したがって、生理的な虚血・再潅流条件は低濃度のH202添加により再現できるものと考えられた。虚血・再潅流時の上清中のLDH活性は、虚血のみを行った場合に比較して著しい高値を示した。しかしながら、再潅流単独では、前述した虚血単独の場合に比較して低値を示した。一方、上清中TBARS濃度は虚血を行わなかった場合に比較して、虚血・再潅流では処置後1時間から著しい高値を示し、フリーラジカルによる脂質過酸化、あるいは過酸化物の切り出しは虚血処置で増幅されると考えられた。細胞内カルシウム濃度は虚血・再環流では増加し、これに伴ってPI蛍光で表現される細胞死が発現した。一方、スピントラップ法によるフリーラジカルの産生では、虚血行わなかった場合には認められなかったが、虚血・再潅流では軽度ながら観察され、虚血処置がフリーラジカル産生系に何らかの影響を及ぼしていると考えられた。フリーラジカルのトラップ剤であるDMSO、ならびに鉄のキレート剤であるDFOを添加した場合、高エネルギーリン酸化合物は変動を示さなかったが、上清中TBARS濃度、LDH活性が抑制される傾向を示した。したがって、虚血・再潅流時には細胞死が発現し、また、虚血・再潅流は筋細胞外からのラジカル反応を増強させ、これらラジカルによる細胞膜過酸化ならびにカルシウム流入が細胞死の発現に関与するものと考えられた。

 第2章ではトレッドミールを用いて、馬に強制運動負荷を行い、中殿筋組織中高エネルギーリン酸化合物、血中ヒポキサンチンならびに尿酸値、LDHならびにCK活性値、筋組織中のMDA濃度の変動、筋組織中キサンチンオキシダーゼ活性、TUNEL法ならびに電気泳動法による筋細胞の核のDNA断片化について検討した。

 運動負荷45分後に、筋組織中高エネルギーリン酸化合物のうちATP ならびにGDP濃度の有意な減少が認められたが、いずれも負荷後24時間で前値に復した。また、IMPは負荷後45分で、有意に増加した。血中ヒポキサンチン濃度は、負荷後30分で、尿酸濃度は45分で増加し、また筋組織中にはキサンチンオキシダーゼ活性の認められることから、in vivoにおいては筋細胞の近傍でフリーラジカルの産生が起こっていることが明らかとなった。血中LDH活性に変動は認められなかったが、CK活性は負荷後45分、24時間で有意に増加した。筋組織中のMDAは負荷後45分で遊離ならびに蛋白結合型いずれも有意に増加したが、24時間後には前置に復した。筋細胞における核のDNA断片化は、TUN巳法、電気泳動法いずれにおいても負荷後45分、24時間後に有意に増加した。したがって、馬の運動負荷時にはフリーラジカルの産生亢進、膜の脂質過酸化、ならびに核のDNA断片化を示す細胞の増加していることが明らかとなった。

 以上の結果から、馬に認められる運動負荷にともなう筋肉傷害では、膜の安定性欠如とともに核のDNA断片化を伴う細胞死が引き起こされていることが明らかとなり、またこの原因には、これまで重要視されていた嫌気的代謝に基づく乳酸アシドーシスによるものではなく、むしろ高エネルギーリン酸化合物の分解、細胞内カルシウムの増加を介した膜の安定性低下、ならびにフリーラジカルによる膜の過酸化が重要であると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 馬で認められる運動負荷に伴う筋肉傷害は、獣医臨床上のみならず、運動生理学ならびにスポーツ医学の観点からも重要な課題である。運動負荷時の筋細胞では、局所的虚血、エネルギー供給の低下、代謝産物の蓄積、細胞内のpHの低下、細胞膜脱分極の阻害、フリーラジカルの産生などが指摘されているが、本症発症との関連は推測の域をでない。本論文は、マウス骨格筋株化細胞(C2C12細胞)を用いたin vitroの系、ならびにトレッドミールで強制運動をさせた馬を用いたin vivoの系で、運動負荷に伴う筋肉傷害の発症メカニズムについて検討したもので、以下の2章から構成されている。

 まず、第1章ではC2C12細胞を分化させた後、培養液からグルコースを除去し、アルゴンガス存在下で培養する虚血条件、また、白血球遊走を想定して虚血処置後、培養液にフリーラジカルの代表的物質である過酸化水素(H202)を添加して培養する虚血・再潅流の両条件で培養した際の、高エネルギーリン酸化合物、培養上清中のLDHチオバルビツール酸反応物質(TBARS)の変動、フリーラジカルの産生、また細胞内カルシウムの変動、さらに核のDNA断片化について検討した。

 虚血:細胞内ATPならびにGTP含量は、虚血後、急速に、かつ有意に減少し、またIMPは有意に増加した。培養上清中のヒポキサンチン濃度も増加し、フリーラジカル産生系の基質が虚血により増加することが明らかとなった。また、上清中TBARSならびにLDH濃度は虚血後有意に増加したが、細胞死のマーカーであるPI蛍光の増加は認められなかった。細胞内カルシウム濃度は、虚血後増加し、以後高値を維持した。DNA断片化を示すTUNEL陽性細胞は虚血後増加した。また、スピントラップ法によるフリーラジカルの産生は観察されなかった。したがって、骨格筋細胞では虚血により高エネルギーリン酸化合物の分解が生じ、フリーラジカル産生の基質となるヒポキサンチンの増加は認められるものの、フリーラジカルの産生は起こらないと考えられた。また、虚血では核DNAの断片化は引き起こされるものの、細胞死は発現しないと考えられた。

 虚血・再潅流:虚血・再潅流時では、培養上清中LDH活性は虚血のみ、あるいは再潅流のみの場合に比較して有意な高値を示した。また、上清中TBARS濃度も処置後著しい高値を示し、フリーラジカルによる脂質過酸化ならびに過酸化物の切り出しは虚血処置で増幅されると考えられた。また、細胞内カルシウム濃度は増加し、これに伴って細胞死が発現した。一方、虚血・再海流ではフリーラジカルの産生が観察され、虚血処置はフリーラジカル産生系を増強していると考えられた。フリーラジカルのトラップ剤であるDMSO、ならびに鉄のキレート剤であるDFOを添加した場合、上清中TBARS、LDH濃度は有意に抑制された。したがって、虚血・再潅流時には細胞死が発現し、ラジカル産生は増強され、これらラジカルによる細胞膜過酸化ならびにカルシウム流入が細胞死の発現に関与するものと考えられた。

 第2章では馬に強制運動負荷を行い、中段筋組織中高エネルギーリン酸化合物、血中ヒポキサンチンならびに尿酸値、LDHならびにCK活性値、筋組織中のTBARS(MDA)濃度の変動、キサンチンオキシダーゼ活性、核のDNA断片化について検討した。

 運動負荷後、筋組織中ATPならびにGDP濃度の有意な減少とIMP濃度の有意な増加が認められた。血中ヒポキサンチン、尿酸濃度は有意な増加を示した。筋組織中にはキサンチンオキシダーゼ活性が認められ、in vivoにおいては筋細胞の近傍でフリーラジカルの産生が起こっていることが明らかとなった。また、負荷後、血中CK活性、筋組織中の遊離ならびに蛋白結合型MDAが有意に増加した。一方、核のDNA断片化が、TUNEL法、電気泳動法いずれにおいても認められた。したがって、馬の運動負荷時にはフリーラジカルの産生亢進、膜の脂質過酸化、ならびに核DNA断片化を示す細胞の増加していることが明らかとなった。

 以上の結果から、馬に認められる運動負荷にともなう筋肉傷害では、フリーラジカルの産生にともなう膜の安定性欠如とともに核のDNA断片化を伴う細胞死が引き起こされていることが明らかとなった。この原因は、これまで重要視されていた嫌気的代謝に基づく乳酸アシドーシスによるものではなく、むしろ高エネルギーリン酸化合物の分解、細胞内カルシウムの増加を介した膜の安定性低下、アポトーシス経路の活性化、ならびにフリーラジカルによる膜の過酸化が重要であると考えられた。

 このように本論文は、獣医学上重要な問題である、馬の運動負荷にともなう筋肉傷害の発症機序を明らかにしたもので、獣医学の学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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