学位論文要旨



No 116329
著者(漢字) 小池,千加
著者(英字)
著者(カナ) コイケ,チカ
標題(和) ヒト扁平上皮癌細胞へのpatched遺伝子導入による癌形質の抑制
標題(洋)
報告番号 116329
報告番号 甲16329
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1724号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清木,元治
 東京大学 教授 山本,雅
 東京大学 教授 渋谷,正史
 東京大学 客員教授 横田,崇
 東京大学 助教授 仙波,憲太郎
内容要旨 要旨を表示する

 patched遺伝子はもともとDrosophiaのセグメントポラリティー遺伝子のひとつとして同定され、これまでそのホモログを用いてマウスやニワトリにおいても発生学における機能の解析が行われてきた。その産物であるPatched(Ptc)は12回膜貫通型タンパク質として細胞膜上に存在し、通常は他の7回膜貫通型タンパク質であるSmoothened(Smo)と結合してそのシグナル伝達活性を抑制している。Ptcにそのリガンドタンパク質でありモルフォゲンとして機能するSonic hedgehog(Shh)が結合すると、PtcはSmoに対する抑制活性を失って、Smoからのシグナルが細胞内に伝達されるようになる。このいわゆるShh/Ptc/Smoシグナルはパターン形成や器官形成で重要な働きをしている。このシグナル伝達系の下流の詳細はまだ明らかにされていないが・伝達系の活性化によりgli 1、patchedなどの遺伝子がその標的遺伝子として発現誘導される。すなわち、patched遺伝子の発現量はこのシグナル伝達系のフィードバック制御をとおして自己制御されているものと考えられる。

 一方、ヒトの常染色体優性遺伝疾患である基底細胞母班症候群において染色体9q22附近の欠損がみられ、その位置にpatched遺伝子が存在することから、この遺伝子とヒトの疾患との関連が注目された。この疾患に罹患しているヒトでは紫外線照射などによるこの位置のヘテロ接合体の消失(LOH;loss of heterozygosity)によって基底細胞腫などの腫瘍が形成されたものと考えられる例が蓄積している。偶発性の基底細胞腫においても、必ずしも両allele共の損傷ではないもののpadched遺伝子の欠損、変異が検出されたことからおそらくpatched遺伝子は癌抑制遺伝子として機能するものと考えられる。しかしながら、こういった腫瘍部位の遺伝子解析の記述のみでは決定的な結論は得られず、今後はより積極的、直接的にpatched遺伝子の機能を解析していく必要がある。

 我々の研究室ではヒト遺伝子治療に利用できるVSV-Gシュードタイプレトロウイルスベクターとその産生系の開発を行っており、このベクターが1回のトランスダクションで多コピーの遺伝子をヒト培養細胞に導入することを示してきた。実際に、転写制御因子AP-1のドミナントネガティブ変異体であるsupiunD-1や天然の癌抑制遺伝子であるp53をこのベクターを用いてヒト固形癌由来の細胞株で発現させてその発癌性を効率良く抑制することを示した。

 patchedが癌抑制遺伝子であってその欠損、変異のみで癌化をひき起こしているならば、patchedを強制発現させれば癌化を抑制し得ると予想される。そこで本研究ではpatchedの癌抑制遺伝子としての機能の解析を目的としてchicken patched遺伝子を発現するVSV-Gシュードタイプレトロウイルスベクターを作製した。このchicken patched遺伝子を発現するウイルスをいくつかのヒト癌由来の樹立細胞株に導入し、軟寒天中でのコロニー形成を指標として癌抑制活性を検討した。その結果、発現しているpatched mRNAに変異のある扁平上皮癌細胞A431やKA株にこのPtcウイルスを導入した場合に、導入量に依存してコロニー形成が著しい抑制がみられた(表1)。これらの上皮癌細胞にsupjunD-1を導入した場合には、抑制活性はあまりみられなかった(表2)。これとは逆にpatched遺伝子に変異を持たない扁平上皮癌細胞NA株や対照で用いたrasでトランスフォームしたNIH-3T3細胞(NIH-ras)への導入ではsupjunD-1で強い抑制がみられたのに対し(表2)、Ptcでは抑制はあまりみられなかった(表1)。また、精製Shhタンパク質溶液を添加した培地を用いて軟寒天中でのコロニー形成活性を検討した。patched遺伝子を導入したA431、KA株ではコロニー形成能が著しく抑制されるが、Shhの添加によってコロニー形成率 patched遺伝子を導入しない場合の70%程度まで回復した(表3)。さらに、Smoのシグナル伝達系の阻害剤であり、発生期に催奇性を示す物質であるcyclopamineを添加した培地を用いて軟寒天中でのコロニー形成活性を検討したが、この場合にもA431やKA株では添加量に依存して著しい抑制効果が示されたが、NIH-rasでは抑制は一切みられなかった。NA株に対するcyclopamineのコロニー形成率に対する抑制効果もやや見られたものの、A431やKA株に比べて低いものであった。10μMのcyclopamineの添加により足場依存的増殖においてA431、KA株、NA株ともに抑制がみられたことからcyclopamineの高濃度の添加は扁平上皮癌細胞に対する毒性を示す可能性がある。A431、KA株においてはPtcウイルス導入と、cyclopamine添加が同じシグナル経路を辿って癌抑制効果を発揮していることを示唆している。さらに、Shh/Ptc/Smoシグナル伝達系により発現調節されると考えられている遺伝子patchedおよびgli 1のmRNA発現をRT-PCRにより検討した。その結果、A431ではpatched、gli 1共にPtcウイルス導入により発現量が減少していた。KA株ではpatchedの発現量はあまり変化がないものの、gli 1の発現量はPtcウイルス導入により減少していた。NA株ではどちらもほとんど変化がなく、とくにgli 1の発現レベルはpatched遺伝子導入の有無に関わらず非常に低かった。これらの遺伝子発現量の減少はこれらA431、KA株においてpatched遺伝子の変異によってSmo以下のシグナルを抑制できずに過剰に機能していたことつまり標的遺伝子が過剰発現していたこと、外来の野生型patched遺伝子の発現により、それが抑制されたことを示唆する。以上より、Ptcの導入に特異的に癌抑制効果があらわれたことから、これらの上皮癌細胞A431、KA株では機能をもったPtcを産生していないことが癌化の要因となっており、野生型Ptcを導入するだけで足場非依存的増殖能すなわち癌形質を失うことが示された。とくにA431ではこれまでEGF受容体の過剰発現等が癌化に関わっているのではないかと考えられていたが、そういったシグナルの下流にあると考えられる内在性AP-1に対してドミナントネガティブに作用するsupjunD-1遺伝子導入では効果がなくむしろpatched遺伝子の導入に足場非依存的増殖能を抑制する効果が見られたことからこの細胞においてはpatched遺伝子の変異が癌化の主要因となっていると考えられる。反対に、NA株やNIH-rasにおいてはpatched遺伝子の導入ではなくsupjunD-1遺伝子導入により足場非依存的増殖能を抑制する効果が見られた。これらの結果から今回調べたそれぞれの癌細胞株において癌化に関わる経路はそれぞれ独立であることを示唆している。

 本研究で、Ptcの発現に異常のある細胞にレトロウイルスを用いてpatched遺伝子を導入することで、その発癌を抑制し得ること、その抑制はShh/Ptc/Smoシグナル伝達系の制御によるものであることを示した。このことは扁平上皮癌などのヒトの疾患におけるpatched遺伝子導入による遺伝子治療の可能性を示している。

表1 Patched遺伝子導入の増殖に対する効果

表2 supjunD-1遺伝子導入の増殖に対する効果

表3 Shh添加の足場非依存的増殖に対する効果

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はpatched遺伝子の癌抑制遺伝子としての機能を解析することを目的として、野生型patched遺伝子を発現するVSV-Gシュードタイプレトロウイルスベクターを作製し、ヒト扁平上皮癌由来の樹立細胞株に導入してその形質に与える影響を検討し、下記の結果を得ている。

1. ニワトリpatched遺伝子を発現するVSV-Gシュードタイプレトロウイルスベクターを作製し、発現しているpatched遺伝子に変異をもつヒト扁平上皮癌由来細胞A431、KA株、変異をもたないNA株、対照としてrasでトランスフォームしたNIH-3T3(NIH-ras)に導入した。その結果、いずれの細胞においても単層培養における増殖に影響はなかった。癌形質を強く示唆する軟寒天中におけるコロニー形成に与える影響を検討した。その結果、patched遺伝子に変異をもつA431、KA株では著しいコロニー形成の抑制がみられた。この効果は導入量依存的であった。変異をもたないNA株、NIH-rasではあまり抑制は見られなかった。

2. PatchedのリガンドであるShhタンパク質を添加した培地を用いて軟寒天中におけるコロニー形成活性を検討した。その結果、patched遺伝子を導入したA431、KA株ではコロニー形成能が著しく抑制されるが、Shhの添加によりそのコロニー形成能はpatched遺伝子を導入しない場合の70%程度まで回復する事が示された。patched遺伝子に変異をもたないNA株ではShhの添加効果は見られなかった。

3. Shh/Ptc/Smoシグナル伝達系の阻害剤である植物から得られたアルカロイドcyclopamineを添加した培地を用いて軟寒天中におけるコロニー形成活性を検討した。その結果、A431、KA株ではその添加量に依存して著しい抑制効果が示された。NIH-rasでは抑制は一切みられなかった。NA株ではやや抑制効果がみられたものの、その効果はA431やKA株に比べて低いものであった。A431、KA株においてコロニー形成能に対するpatched遺伝子導入とcyclopamine添加の効果が似ていたことはこれらが同じ経路を阻害してコロニー形成を抑制していることを示す。

4. Shh/Ptc/Smoシグナル伝達系の標的と考えられている遺伝子patchedおよびgli1のmRNAの発現をRT-PCRによって検討した。その結果、A431ではpatched、gli 1ともに野生型patched遺伝子導入により減少していた。KA株ではpstchedの発現量はあまり変化がないものの、副の発現量は野生型patched遺伝子導入により減少していた。NA株ではどちらもほとんど変化がなく、特にgli 1の発現レベルは非常に低いものであった。これらの遺伝子の発現量の減少はA431、KA株ではpatched遺伝子の変異によりSmoのシグナル伝達活性を抑制できないために過剰にシグナルが伝達されて標的遺伝子が発現していて、外来の野生型patched遺伝子の発現によりそれが抑制されたことを示唆する。

5. patched遺伝子導入との効果の比較を目的としてAP-1のドミナントネガティブ変異体supjunD-1を発現するウイルスを各細胞に導入し、軟寒天中におけるコロニー形成を検討した。その結果、A431、KA株ではあまり抑制がみられなかった。NA株、NIH-rasでは強い抑制効果がみられた。A431、KA株ではAP-1を介する経路よりもPatchedを介する経路がより癌化との関連が強いことを示唆する。また、NA株ではsupjunD-1遺伝子導入がコロニー形成の抑制を示したことから、扁平上皮癌を同種の癌としてひとくくりにできないことを示す。このような癌形質抑制効果の違いは、それぞれの癌においてその癌化の主要因となる経路は異なり、治療の標的となり得る遺伝子が異なることを示す。

以上、本論文は野生型patched遺伝子を発現するVSV-Gシュードタイプレトロウイルスベクターを作製してヒト扁平上皮癌細胞株に導入し、その癌形質が抑制されることを示した。この結果はpatched遺伝子による癌抑制効果を示した最初の報告であり、また野生型patched遺伝子を発現するVSV-Gシュードタイプレトロウイルスベクターが一部の扁平上皮癌の有効な治療手段であること示したことにおいても意義深いものである。本研究はpatched遺伝子の癌抑制遺伝子としての機能解析、また遺伝子治療の基礎研究として重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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