学位論文要旨



No 116339
著者(漢字) 岩崎,広英
著者(英字)
著者(カナ) イワサキ,ヒロヒデ
標題(和) イトマキヒトデ卵におけるカルシウムシグナル伝達機構の解析
標題(洋)
報告番号 116339
報告番号 甲16339
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1734号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 豊岡,照彦
 東京大学 講師 小山,文隆
 東京大学 講師 嶋村,健児
内容要旨 要旨を表示する

(背景)

 一般に、卵巣内に存在する未成熟卵に精子を添加しても受精は成立しない。未成熟卵が受精能を獲得する過程を卵成熟と呼ぶ。成熟した卵に精子を添加すると受精膜を形成して多精を回避すると共に卵の賦活化を引き起こし、卵割を開始するようになる。こうした受精時における受精膜形成および卵賦活化には卵細胞内における細胞内カルシウムイオン濃度の動的な変化が必須であることが知られている。

 これまでほとんどの動物種では卵成熟を引き起こすホルモンは分子的に同定されておらず卵成熟の分子機構の解析は立ち遅れているが、棘皮動物に属するイトマキヒトデ(Asterina pectinifera)は、卵成熟を誘起するホルモンが同定され、その構造が既に明らかにされている数少ない動物種の一つであり、卵成熟過程から受精、初期発生過程を連続的に顕微鏡下で観察できるという利点を持っている。

 卵細胞内のカルシウムイオン濃度は平常時においては低く保たれており、受精などの刺激に応じて形質膜上のカルシウムチャネルを介した細胞外から流入するか、或いはイノシトール1,4,5-トリスリン酸(以下IP3)受容体またはリアノジン受容体を介した細胞内カルシウムストアからカルシウムイオンが放出されることにより細胞質のカルシウムイオン濃度が上昇する。受精時における細胞質へのカルシウムイオンの動員機構は動物種により大きく異なることが知られているが、イトマキヒトデ卵ではこれまで明らかにされていなかった。また、イトマキヒトデをはじめとする海産無脊椎動物は受精時における細胞内カルシウム動態の研究に広く用いられてきたにも関わらず、細胞内カルシウム動態に関わる分子の分子的実体はこれまでいかなる知見も得られていなかった。

 また、イトマキヒトデ卵では卵成熟過程において卵のIP3に対する感受性が著しく亢進することが明らかとなっている。未成熟卵に精子を添加しても受精膜の形成や卵賦活化が起こらないことや細胞内カルシウムイオン濃度の動的な変化が受精膜形成や卵賦活化に必須であることから、卵成熟過程におけるIP3感受性の増大はこれらの現象と密接に関わっている事が期待されるが、これまでIP3感受性の増大の分子的なメカニズムは未だ解明されていない。

(目的)

 本研究では、卵成熟および受精過程におけるIP3受容体の役割について解析することを目的とした。

(方法)

 まず卵成熟および受精過程におけるIP3受容体の役割について明らかにするために、新規IP3受容体阻害剤として最近開発されたIP3 spongeを用いた。IP3spongeはIP3受容体のligand binding domain(224〜604;マウスタイプ1IP3受容体)をglutathione S-transferase(GST)との融合タンパク質として大腸菌に大量発現させたものであり、このタンパク質は野生型のマウスタイプ1IP3受容体と比較して約500〜1000倍ものIP3結合能を有する。従ってIP3spongeを細胞に導入すると産生されたIP3はIP3spongeに吸収されるため、内在性のIP3受容体へのIP3の結合が拮抗的に阻害され、IP3-induced calcium releaseが阻害される。さらに、IP3spongeの配列に点突然変異を導入することによりIP3結合活性が低い突然変異体GST-m30が得られており、GST-m30やGSTをコントロールに用いることにより、IP3spongeの効果をより適正に評価することが可能である。

 本研究ではIP3spongeをイトマキヒトデ卵に注入し、卵成熟および受精に対する影響について解析した。次に、卵成熟および受精過程におけるIP3受容体に関するより詳細な解析を可能なものとするためにイトマキヒトデ卵巣よりRT-PCR法を用いてイトマキヒトデIP3受容体のクローン化を行い、塩基配列を決定した。さらに、イトマキヒトデIP3受容体の塩基配列の情報を元に抗体を作製してウエスタンブロッティングを行い、卵成熟過程における発現量の変化について解析した。さらに、卵成熟過程におけるIP3受容体の卵内での局在の変化を、免疫組織化学染色により明らかにした。

(結果と考察)

1.卵成熟・受精に対するIP3spongeの効果について

 イトマキヒトデ卵にガラス針を用いてIP3spongeを注入し、卵成熟ホルモンや精子を添加することにより卵成熟・受精に対する影響について調べた。その結果、卵成熟誘起への影響に関しては、GSTやGST-m30の場合と同様に、IP3spongeを注入した卵においても正常に卵成熟が誘起された。これに対し受精においては、コントロールとなるタンパク質を注入された卵では正常に受精膜が形成されたが、IP3spongeを注入した卵では受精膜の形成が阻害された。コントロールの卵は受精後正常に卵割を行ったが、IP3spongeにより受精膜形成が阻害された卵では卵割は起こらず、卵は死滅した。このことから、IP3spongeを注入した卵では卵賦活化も阻害されていることが明らかになった。

 これらの効果が確かにIP3spongeによってIP3-induced calcium releaseが阻害されたためであることを確認するためにカルシウム感受性蛍光色素fura-2 dextranを用いて受精時の卵におけるカルシウムイオン濃度の変化を調べた。その結果IP3spongeを注入した卵では受精時のカルシウムイオン濃度の上昇が阻害されていた。さらに、IP3spongeを注入した卵に高濃度のIP3spongeを注入するとIP3spongeの効果が相殺されることが明らかになった。

 これらの結果からイトマキヒトデ卵においてIP3受容体は受精時のカルシウムイオン濃度の上昇に重要な役割を担っており、受精膜形成や卵賦活化に深く関わっている事が明らかになった。一方、卵成熟においてはIP3受容体の働きは必須ではないことが明らかになった。

2.イトマキヒトデIP3受容体のクローン化

 イトマキヒトデ卵巣よりRT-PCR法を用いてIP3受容体のクローン化を行った。得られたPCR増幅産物の塩基配列を解析した結果、イトマキヒトデIP3受容体の塩基配列は9475ヌクレオチドから成り、そのうちの8094ヌクレオチドが2698個のアミノ酸を指定していることが明らかになった。配列より推定されるタンパク質の分子量は308kDであった。

 これまでの研究から、哺乳類ではIP3受容体には3つのタイプが存在することが知られているが、ヒト各タイプIP3受容体と比較するとイトマキヒトデIP3受容体はヒトタイプ1IP3受容体と最も高い相同性を示し、ついでタイプ2、タイプ3の順に高い相同性を示した。なお、本研究では各タイプで良く保存されている配列をプライマーとしてRT-PCRを行ったが、増幅産物のシークエンスは全て同一であった。

 他の動物種のIP3受容体の解析からIP3受容体はN末端部に存在するリガンド結合領域とC末端部に存在するチャネル形成領域と、それらの間には様々なタンパク質の認識配列が密集した調節領域からなることが知られている。イトマキヒトデIP3受容体のリガンド結合領域は、これまでにクローン化されたIP3受容体と比較して非常に良く保存されていた。特に、この領域においてIP3との結合に必須であることが知られている3つの塩基性アミノ酸は、本研究で明らかになったヒトデの配列においても全て保存されていた。チャネル形成領域には疎水性アミノ酸が連続して見られる配列が6カ所存在し、この部分で膜に貫通していると考えられる。また、調節領域にはPKAやPKC、PKGなどのリン酸化酵素による認識配列が存在し、FKBP12の結合配列も存在することから、これらの分子によりイトマキヒトデIP3受容体の機能が制御されている可能性が推察される。

3.卵成熟とIP3受容体

 卵成熟過程における卵のイトマキヒトデIP3に対する感受性の増大機構について解析するために、得られたイトマキヒトデIP3受容体の配列を元に抗体を作製し、卵成熟過程におけるIP3受容体の発現量の変化を解析した。その結果、IP3受容体のバンドの濃さは卵成熟過程において変化しなかった。このことからイトマキヒトデIP3受容体の発現量は卵成熟過程においては変化せず、卵成熟に伴うIP3に対する感受性の増大はIP3受容体の発現量の増大に基づくものではないことが明らかになった。

 さらに、卵成熟過程における局在の変化について調べるために、未成熟卵および成熟卵の免疫組織化学染色を行った。共焦点レーザー顕微鏡での観察から、未成熟卵では卵核胞の外側にシグナルが認められたのに対し、卵核胞崩壊を開始した卵では元々卵核胞のあった領域に強いびまん性のシグナルが認められた。また、卵核胞が完全に消失した成熟卵では再びシグナルが卵全域に分散するのが認められた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、卵成熟過程および受精におけるカルシウムイオンの役割を明らかにすることを目的として行われた。卵成熟誘起ホルモンが既に同定されているイトマキヒトデを用い、細胞内ストアからのカルシウムイオンの放出に関与するイノシトール1,4,5-3リン酸(以下IP3)受容体の機能に特に着目して行われた。下記の結果を得ている。

1. イトマキヒトデ卵巣のIP3受容体cDNAを同定し、その塩基配列を決定した。イトマキヒトデIP3受容体は2698個のアミノ酸からなり、配列より計算されるタンパク質の分子量は308kDであった。哺乳類のIP3受容体には3つのタイプが知られているが、イトマキヒトデIP3受容体のアミノ酸配列はタイプ1IP3受容体のアミノ酸配列と最も高い相同性を示した。

2. これまでの研究から、卵成熟過程において卵のIP3に対する感受性が増大することが知られている。イトマキヒトデIP3受容体のアミノ酸配列を元に抗体を作製し、卵成熟過程におけるIP3受容体の発現量をウエスタンブロッティング法を用いて調べた。卵成熟過程においてIP3受容体の発現量は変化しなかった。したがって、卵成熟過程における卵のIP3に対する感受性が増大するのは、IP3受容体の発現量が増大するためではないと考えられる。

3. IP3受容体に対する抗体を用いて、免疫組織化学染色を行った。共焦点レーザー顕微鏡を用いた。未成熟卵では卵核胞の外側にシグナルが認められたのに対し、卵核胞崩壊を開始した卵では元々卵核胞のあった領域に強いびまん性のシグナルが認められた。また、卵核胞が完全に消失した成熟卵では再びシグナルが卵全域に分散するのが観察された。

4.最近開発されたIP3spongeを用いて、イトマキヒトデ卵成熟および受精過程におけるIP3受容体の役割を調べた。IP3spongeは、IP3受容体のligand binding domainの一部をグルタチオンS-トランスフェラーゼとの融合タンパク質として大腸菌に大量発現させたもので、高いIP3結合能を有し、細胞に導入すると内在性のIP3受容体へのIP3の結合が拮抗的に阻害する。その結果、IP3を介した細胞内カルシウムストアからのカルシウムイオンの放出が阻害される。イトマキヒトデ卵にIP3spongeを注入した結果、卵成熟は正常に起こったが、受精膜の形成や卵賦活化が阻害されていることが分かった。

 これらの結果から、イトマキヒトデ卵においてIP3受容体は受精時のカルシウムイオン濃度の上昇に重要な役割を担っており、受精膜形成や卵賦活化に関わっているが、卵成熟には必須ではないことが明らかになった。

 以上本論文は、イトマキヒトデ卵で卵成熟ホルモンが同定されているという事実を利用し、またIP3受容体の同定、抗体の作成、IP3spongeの利用など種々の技術を駆使して、卵成熟と受精過程におけるIP3受容体の役割について新しい知見を提供したものであり、学位の授与に値するものと認められる。

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