学位論文要旨



No 116351
著者(漢字) 鳥居,正昭
著者(英字)
著者(カナ) トリイ,マサアキ
標題(和) 脊椎動物脳における領域特異化と神経回路形成の分子機構に関する研究
標題(洋) Study on the molecular mechanisms for regional specification and formation of neural network in the developing vertebrate brain.
報告番号 116351
報告番号 甲16351
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1746号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 御子柴,克彦
 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 講師 楠,進
内容要旨 要旨を表示する

【研究目的】

 記憶、学習といった高次の神経・精神機能は、脳において構築される複雑かつ精巧な神経ネットワークによって生み出される。この神経ネットワーク形成の分子基盤を解明することは、医学、生物学において極めて重要な研究課題のひとつである。哺乳動物の中枢神経系の発生原基である未分化な神経上皮組織には、自己複製能とニューロン、グリアのいずれにも分化する多分化能を有する、いわゆる神経幹細胞としての性質を持った細胞が存在することが明らかになってきた。しかしながら、このような神経幹細胞が増殖から分化に移行する重要な段階を支配している分子機構については、未だほとんど明らかにされていない。一方、近年脳の発生過程において、特定の領域・部位に限局して発現する転写制御因子が数多く同定されてきた。これら転写制御因子群は、神経系における領域特異的な細胞分化や神経ネットワーク構築に深く関与していることが示唆されている。しかしながら、それら因子の個々の生理機能の詳細は、未だほとんど明らかになっていない。本論文では、転写制御因子による神経幹細胞の分化制御および、脳の領域特異化の分子メカニズム、さらにはそれに引き続く特異的神経ネットワークの形成機構を解明することを目的とした。

【研究結果と考察】

(PartI)

 まず、多分化能を持つ神経幹細胞として増殖している神経上皮細胞からニューロン、グリアが分化する過程を制御する分子機構に関する研究を行った。本研究では、神経上皮組織に特異的に発現するヘリックス-ループ-ヘリックスタイプの転写制御因子Mash-1およびホメオドメインタンパク質Prox-1が、この過程において重要な役割を果たしていることを明らかにした。

 まず、Mash-1、Prox-1の発生初期脳神経系における発現パターンを発現部位および発現時期に着目して解析した。その結果、Mash-1あるいはProx-1の発現は分化したニューロンが出現する部位および時期と非常に強い相関関係にあることが明らかとなった。さらに、胎生11.5日あるいは145日のラット前脳および脊髄において、遺伝子の発現パターンを詳細に解析したところ、Mash-1あるいはProx-1発現細胞は、Nestinを発現している自己複製中の神経幹細胞からMAP2を発現している分化したニューロンへと分化が進行する中間段階において一過的に出現することが明らかになった。そこで、我々の研究室において確立された胎生11.5日ラット前脳の神経幹細胞の初代培養系を用いて、分化過程の各段階におけるMash-1およびProx-1の発現について解析した。その結果、Mash-1およびProx-1を発現する細胞は、神経幹細胞が自己複製しながら増殖を続けている段階では現れず、この段階から分化段階に移行する最も初期の段階に一致して一過的に現れることが明らかとなった。さらに、胎生11.5日ラットの前脳および中脳領域の神経上皮細胞に由来する不死化細胞株(MNS細胞株)を用いた実験結果から、Nestinを発現し増殖している神経幹細胞は、Nestinの発現の減少と同時にMash-1、Prox-1を一過的に発現し、さらにそれに引き続いてMAP2陽性のニューロンへと分化することが示された。

 次に、神経幹細胞の分化の進行過程におけるMash-1の機能を調べるために、MNS細胞株にMash-1を強制発現させた安定発現株を樹立した。これらの安定発現株における分化マーカーの発現を解析した結果、Mash-1によって神経幹細胞のマーカーであるNestinの発現が抑制され、逆にProx-1の発現が誘導されることが観察された。このことは、Mash-1が幹細胞の分化過程を直接に制御していることを示唆している。さらに、in vitroで得られた実験結果に加えて、Mash-1ミュータントマウスを用いた個体レベルの解析を行った。その結果、胎生12.5日のミュータントマウスにおいては、視床および視床下部におけるニューロン分化の消失、および未分化細胞層の肥厚、さらにProx-1の発現の消失、などの特異的な異常が起こっている事を見出した。異常の認められる領域は、全て正常胚においてMash-1を強く発現している部位に一致していた。以上の結果から、in vivoにおいてもMash-1が神経幹細胞の分化に必須の役割を担っていることが明らかとなった。

 以上の一連の解析結果から、中枢神経系の初期発生においてMash-1およびProx-1は、神経幹細胞が自己増殖の段階から分化段階へと移行する過程を制御する重要な分子であることが明らかとなった。

(PartII)

 次に、転写制御因子による脳の領域特異化の制御機構、ならびにそれに引き続く特異的神経ネットワークの形成機構について研究を行った。本研究では、発生期における神経ネットワーク形成過程を個体レベルで明らかにするため、実験発生学的な手法の応用に種々の利点を有するニワトリ胚を用いた解析をおこなった。また、特異的な神経軸索束の形成と脳の領域特異化との関連性を明らかにするため、特に発生初期の前脳、中脳において形成される主要な軸索束であるtract of the postoptic commissure (tpoc)に着目した。

 発生初期のニワトリ胚において、tpocニューロンは前脳先端部から長軸方向に沿って軸索を伸長し、Hamburger and Hamilton stage 17-18 (HH17-18)には前脳の後方および中脳に達した。その走行部位を詳細に調べたところ、tpoc軸索はhomeodomain型転写因子であるNkx-2.2,Nkx-2.1,Pax-6,およびwinged-helix型転写因子HNF-3βの発現ドメインと密接に関連した走行を示すことが観察された。このことから、tpoc軸索はこれら転写因子によって区画化された領域の境界を認識して走行することが示唆された。

 そこでまず、これら転写制御因子が脳の領域特異化に果たす役割について検討した。Pax-6は前脳領域において最も背側に発現し、そのドメインはNkx-2.2の長軸に沿った発現ドメインの背側境界に接していた。一方、Nkx-2.2の腹側の境界は、前脳における主要な前後軸境界であるzona limitanceintrathalamica (ZLI)の前後において、それぞれより腹側に発現するNkx-2.1、HNF-3βの発現ドメインの背側境界とほぼ一致していた。次に、これら因子の発現領域の確立に相互の発現制御が関与している可能性について検討するため、電気穿孔法を用いた異所発現実験をおこなった。Pax-6あるいはNkx-2.2を互いの発現領域に異所的に発現させたところ、相互の発現抑制が観察された。また、Nkx-2.1あるいはHNF-3βを背側に異所発現させた場合、異所性発現細胞それ自身でのPax-6およびNkx-2.2の発現抑制と同時に、その周囲の細胞においてPax-6の発現抑制およびNkx-2.2の発現誘導が観察された。この際、異所性発現細胞では、分泌性シグナル分子Sonic hedgehog(Shh)の発現が誘導されていたことから、周囲の細胞におけるPax-6およびNkx-2.2の発現制御はShhを介していることが示唆された。以上の結果から、Nkx-2.2,Nkx-2.1,Pax-6,およびHNF-3βは、それぞれ相互の遺伝子発現を部位特異的に制御する機能を持つことが明らかになった。この転写因子間の相互作用によって、前脳・中脳領域では背腹軸に沿った境界明瞭な発現ドメインが確立され、このことが脳の領域特異化・区画化に寄与しているものと考えられた。

 次に、このような転写制御因子によって確立された脳の領域性が、tpocの走行部位の規定に関与している可能性について検討した。Nkx-2.2を背側のPax-6発現毎域に異所発現させたところ、tpoc軸索は異所的なNkx-2.2陽性細胞に向かって誘引された。逆に、Pax-6をNkx-2.2発現領域に異所発現させると、Nkx-2.2発現部位に沿ったtpocの走行が妨げられた。さらに、Nkx-2.1あるいはHNF-3βを背側で異所発現した場合、異所発現細胞の周囲に誘導されるNkx-2.2陽性細胞に沿う形で、tpoc軸索が誘引された。これらの結果は、背腹軸に沿った前脳・中脳の区画化が転写因子の異所発現によって乱された場合、tpoc軸索の走行に異常が生じることを示している。また、tpocに対して誘引的に働くなんらかの軸索ガイダンス分子の発現が、Nkx-2.2によって制御されている可能性が示唆された。

 そこで、この軸索ガイダンス分子の候補として、脊髄交叉性ニューロンに対する分泌性軸索誘引因子として知られているnetrin-1に着目した。netrin-1は、前脳腹側においてNkx-2.2、Nkx-2.1、およびHNF-3βの発現ドメインに重なる形で発現していた。各転写因子を異所的に発現させた場合、netrin-1の発現はNkx-2.2によって誘導され、逆にPax-6によって抑制された。一方、Nkx-2.1およびHNF-3βを異所的に発現させたところ、netrin-1は異所発現細胞とその周囲の細胞において誘導された。そこで、異所発現によりnetrin-1の直接の作用能を検討したところ、netrin-1がtpoc軸索に対して誘引的に働くことが判明した。以上の結果から、Pax-6, Nkx-2.2などの転写因子は、前脳・中脳領域におけるnetrin-1の発現を制御しており、このnetrin-1の誘引活性によってtpoc軸索の走行が制御されているものと考えられた。

 しかし、正常なtpoc軸索の走行部位はほぼNkx-2.2発現ドメインに一致しており、Nkx-2.1, HNF-3βと重なる最も腹側のnetrin-1発現領域には侵入しない。このことから、Nkx-2.1, HNF-3βを発現する腹側領域では、tpocの軸索の走行を阻害する何らかの機構が働いている可能性が考えられた。そこで、これまで知られている軸索反発性因子の発現パターンについて解析したところ、脊髄底板において交叉性軸索の反発活性を担っているとされる分泌性因子Slit-1およびSlit-2が、前脳・中脳の腹側領域に発現することが判明した。Nkx-2.1およびHNF-3βを異所発現させた結果、Slit-1とSlit-2の発現が誘導された。異所発現の効果を検討したところ、Slit-1とSlit-2はいずれも、tpoc軸索への強い反発活性を示した。従って、tpoc軸索の腹側領域への侵入が阻害されるひとつの要因は、Slit-1、Slit-2による軸索の反発であると考えられた。すなわち、前脳・中脳の腹側部では、軸索誘引分子であるnetrin-1と反発分子であるSlit-1、Slit-2が一部重複して発現しており、tpocの軸索はこの誘引、反発分子群の勾配を認識して、結果的に限られた部位を選択的に走行するものと考えられた。

【結語】

 発生期の脳において転写制御因子Mash-1あるいはProx-1を発現する細胞は、神経幹細胞がニューロンへ分化する過程における中間段階の細胞であることが明らかとなった。またMash-1はこの過程の進行を制御する重要な分子であることが明らかとなった。

 さらに、発生期脳において領域特異的に発現するPax-6, Nkx-2.1, Nkx-2.2,HNF-3βは、互いの発現制御を介して境界明瞭な脳の区画化・分節化の確立に寄与していることが示唆された。これらの転写因子は、神経上皮細胞の領域特異性の制御とともに、軸索ガイダンス分子netrin-1, Slit-1, Slit-2の部位特異的な発現を制御することによって、分化したニューロンが形成するtpoc等の軸索束の走行部位の規定にも重要な役割を果たしていることが明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、中枢神経系の発生過程における、転写制御因子による神経幹細胞の分化制御および脳の領域特異化の分子機構、さらにはそれに引き続く特異的神経ネットワークの形成機構を解明することを目的としている。ラット前脳の神経幹細胞の初代培養系ならびに不死化細胞株を用いた解析、ミュータントマウスを用いた個体レベルの解析、ニワトリ胚での電気穿孔法を用いた異所発現実験等によって、Mash-1およびProx-1による神経幹細胞の分化過程の制御機構、Pax-6, Nkx-2.1, Nkx-2.2, HNF-3βによる神経上皮細胞の領域特異化ならびに、tpoc等の軸索束の走行部位規定の制御機構について解析しており、以下の結果を得ている。

1. 発生初期脳神経系において、Mash-1あるいはProx-1の発現は分化したニューロンが出現する部位および時期と非常に強い相関関係にあることが示された。胎生11.5日あるいは14.5日のラット前脳および脊髄において、Mash-1あるいはProx-1発現細胞は、Nestinを発現している自己複製中の神経幹細胞からMAP2を発現している分化したニューロンへと分化が進行する中間段階において一過的に出現することが示された。

2. 胎生11.5日ラット前脳の神経幹細胞の初代培養系を用いて、分化過程の各段階におけるMash-1およびProx-1の発現について解析した。その結果、Mash-1およびProx-1を発現する細胞は、神経幹細胞が自己複製しながら増殖を続けている段階では現れず、この段階から分化段階に移行する最も初期の段階に一致して一過的に現れることが示された。

3. 胎生11.5日ラットの前脳および中脳領域の神経上皮細胞に由来する不死化細胞株(MNS細胞株)を用いた実験結果から、Nestinを発現し増殖している神経幹細胞は、Nestinの発現の減少と同時にMash-1、Prox-1を一過的に発現し、さらにそれに引き続いてMAP2陽性のニューロンへと分化することが示された。MNS細胞株にMash-1を強制発現させた安定発現株を樹立し、遺伝子発現を解析した結果、Mash-1によってNestinの発現が抑制され、逆にProx-1の発現が誘導されることが観察された。これらの結果から、Mash-1が幹細胞の分化過程を直接に制御していることが示唆された。

4. Mash-1ミュータントマウスを用いた個体レベルの解析から、胎生12.5日のミュータントマウスにおいては、視床および視床下部におけるニューロン分化の消失、および未分化細胞層の肥厚、さらにProx-1の発現の消失、などの特異的な異常が起こっている事を見出した。異常の認められる領域は、全て正常胚においてMash-1を強く発現している部位に一致していた。この結果から、in vivoにおいてもMash-1が神経幹細胞の分化に必須の役割を担っていることが示された。

5. 発生初期のニワトリ胚の前脳、中脳において形成される主要な軸索束であるtract of the postopticcommissure(tpoc)の軸索が、homeodomain型転写因子であるNkx-2.2,Nkx-2.1,Pax-6,およびwinged-helix型転写因子HNF-3βの発現ドメインと密接に関連した走行を示すことが観察された。

6. 電気穿孔法を用いた異所発現実験を行い、Nkx-2.2,Nkx-2.1,Pax-6,およびHNF-3βの発現領域の確立に相互の発現制御が関与している可能性について検討した。その結果、Nkx-2.2,Nkx-2.1,Pax-6,およびHNF-3βは、それぞれ相互の遺伝子発現を部位特異的に制御する機能を持つことが明らかになった。この結果から、転写因子間の相互作用が脳の領域特異化・区画化に寄与していることが示唆された。

7. tpoc軸索は異所的なNkx-2.2陽性細胞に向かって誘引され、逆に異所的なPax-6陽性細胞によって走行が妨げられた。さらに、Nkx-2.1あるいはHNF-3βを異所的に発現させた場合、異所発現細胞の周囲に誘導されるNkx-2.2陽性細胞に沿う形で、tpoc軸索が誘引された。これらのことから、転写制御因子による背腹軸に沿った前脳・中脳の区画化が、tpoc軸索の走行に重要な役割を果たしていることが示された。また、なんらかの軸索ガイダンス分子の発現が、これら転写制御因子によって制御されている可能性が示唆された。

8. 各転写因子を異所的に発現させた場合、軸索ガイダンス分子netrin-1の発現がNkx-2.2によって誘導され、逆にPax-6によって抑制された。一方、Nkx-2.1およびHNF-3βを異所的に発現させたところ、netrin-1は異所発現細胞とその周囲の細胞において誘導された。また、異所発現によりnetrin-1がtpoc軸索に対して誘引的に働くことが判明した。これらの結果から、Pax-6, Nkx-2.2などの転写因子は、前脳・中脳領域におけるnetrin-1の発現を制御しており、このnetrin-1の誘引活性によってtpoc軸索の走行が制御されていることが示唆された。

9. Nkx-2.1およびHNF-3βを異所発現させた結果、軸索ガイダンス分子Slit-1およびSlit-2の発現が誘導された。異所発現の効果を検討したところ、Slit-1とSlit-2はいずれも、tpoc軸索への強い反発活性を示した。従って、前脳・中脳の腹側部では、軸索誘引分子であるnetrin-1と反発分子であるSlit-1、Slit-2が一部重複して発現しており、tpocの軸索はこの誘引、反発分子群の勾配を認識して、結果的に限られた部位を選択的に走行するものと考えられた。

 以上、本論文は、転写制御因子Mash-1、Prox-1が神経幹細胞のニューロンへの分化過程を制御する重要な分子であることを明らかにした。さらに、転写制御因子Pax-6, Nkx-2.1, Nkx-2.2, HNF-3βが神経上皮細胞の領域特異性の制御とともに、軸索ガイダンス分子netrin-1, Slit-1,Slit-2の部位特異的な発現を制御することによって、分化したニューロンが形成するtpoc等の軸索束の走行部位の規定にも重要な役割を果たしていることを明らかにした。本研究は、脳の形態形成および神経ネットワーク形成の分子基盤の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものであると考えられる。

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