学位論文要旨



No 116357
著者(漢字) 光野,雄三
著者(英字)
著者(カナ) ミツノ,ユウゾウ
標題(和) Helicobacter pylori 感染によるMAPK(mitogen-activated protein kinase)の活性化についての検討116357
標題(洋)
報告番号 116357
報告番号 甲16357
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1752号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,哲
 東京大学 教授 松島,綱治
 東京大学 教授 名川,弘一
 東京大学 助教授 平井,久丸
 東京大学 講師 米山,彰子
内容要旨 要旨を表示する

[研究の背景および目的]

 Helicobacter pylori(以下H.pylori)は胃粘膜に感染する桿菌であり、胃炎、潰瘍の主要な原因であると共に、近年、胃癌やMALTリンパ腫の発生とも強い関連を指摘されている。H.pylori感染により生じる持続炎症は、胃癌の発生母地であると考えられている腸上皮化生を伴った胃粘膜の萎縮を生じる。一方、H.pylori感染によるin vivoやin vitroでの胃粘膜上皮の増殖、H.pyloriの除菌による、胃ポリープの縮小、消失、MALTリンパ腫の改善などの報告があり、これらの事実はH.pylori染が炎症のみでなく細胞増殖を直接的に促進する可能性を示唆するものである。しかし、H.pyloriが細胞増殖を引き起こすメカニズムについては明らかになってはいない。

 細胞増殖のシグナル伝達系としてはMAPKカスケードが知られているが、この系を構成しているserum response element(SRE)、c-fos、c-jun、AP-1などの活性化は細胞増殖において極めて重要である。また、H.pyloriの持つ病原因子の菌株間の違いにより感染者の病態が異なることも数多く報告されており、菌株による、細胞増殖の系の活性化にも差があることが考えられた。

 そこで、細胞増殖のシグナル伝達系として知られているERK(Extracellular signal-regulated kinase)、SRE、c-fos、c-jun、AP-1などを含むMAPKシグナル伝達系路とH.pyloriとの関連、更にはこの系に関与するH.pylori側の要因についてもノックアウト株や16株の臨床分離株を使用し検討した。また、c-fosは細胞増殖のマスタースイッチとも呼ばれており、c-fosの活性化についてはプロモーター解析も含めて行い、H.pyloriによる活性化機序の解明を行った。

[方法]

1)cag pathogenicity island (PAI)のノックアウト株の作製

 cag PAIの両端塩基配列をそれぞれPCR法にて増幅し、これらの産物の間にカナマイシン耐性遺伝子を挿入し、コンストラクトを作製、相同組み換えを行いノックアウト株を作製した。

2)変異プラスミドの作製

 c-fosプロモーター領域-456から+47の下流にルシフェラーゼを結合したHF456(c-fos-Luc)を元に、プロモーターに存在するsignal transducer and activator of transcription (STAT)の結合配列であるsis-inducible element(SIE)、SRE、ternary complex factor (TCF)の結合配列、serum response factor (SRF)の結合配列、activator protein-1 (AP-1)の結合配列、cAMP response element (CRE)を順に削除するようなプライマーを設計した。PCR法にて増幅したそれぞれの産物を再びルシフェラーゼの上流に結合させレポータープラスミドを作製した。SREの2塩基に変異を導入したプラスミドはキットを参考にプライマーを設計しマニュアルに従ってプラスミドを作製した。

3)MAPKの活性化

 H.pyloriによるERK1/2のリン酸化、SAPK/JNKのリン酸化、c-Junのリン酸化をイムノブロットにて、SREの活性化をpSRE-Luc (5x-SRE site)、Elk-1の転写活性化をpFR-LucとpFA-GALElk、c-fosプロモーターの活性化をHF456(c-fos-Luc)、AP-1の活性化をpAP-1-Luc(7x-AP-1site)を用いたルシフェラーゼアッセイにて、c-fosの転写はノザンブロットにて検討した。インターロイキン-8(IL-8)分泌能はElA法にて測定した。またH.pyloriによるc-fos活性化におけるプロモーター領域の結合配列の関与の検討は、変異を導入したレポーターを用いたルシフェラーゼアッセイにて行った。菌株は臨床分離株としてcag PAl陽性のTN2と当院にて得られた10株、cag PAI部分欠損株として当院で得られた5株、完全欠損株として当院で得られた1株(T247)、ノックアウト株としてcag PAIのcagEを人工的に欠損した株(TN2ΔcagE)、今回作製したcag PAI全長を人工的に欠損した株(TN2ΔPAl)、vacAをノックアウトしたTN2ΔvacAを用いた。TN2を65℃、60分間にて処理した死菌と、TN2の培養細胞への直接接触を阻害するためにフィルターも使用した。また、MEK1/2、ERK1/2の活性化の関与を検定するためにMEK1/2インヒビター(U0126)を使用した。

[結果]

MAPKの活性化

1)ERKからElk-1、SREを介しc-fosに至る経路の活性化

(1)ER1/2はTN2、TN2ΔvacAの共培養にてリン酸化されたが、TN2ΔcagE、TN2ΔPAlではリン酸化は認められず、cag PAI依存性にリン酸化を認めた。

(2)日k-1の転写活性化は活性化したERK1/2によって効率的に誘導されるが、TN2の共培養にてElk-1の転写活性化が誘導された。

(3)SREの活性化はTN2、TN2ΔvacAにて認められたが、TN2ΔcagE、cag PAIの完全欠損株(T247)では活性化は低下し、更にTN2の死菌やフィルターにてTN2の培養細胞への直接接触を阻害したものでは活性化は認められなかった。16株の臨床分離株をcag PAI陽性群と陰性群の2群に分類し比較検討した結果でも、同様にcag PAI陰性群では陽性群に比較し、SREの活性化は有意に低下していた。SREの活性化にはcag PAIを有する生きた菌の培養細胞への直接接触が重要であった。またSREの活性化はMEK1/2インヒビ夕ーにて抑制され、H.pyloriによるSREの活性化がERK1/2の活性化を介していることが確認された。

(4)c-fosプロモーターの活性化もノックアウト株、16株の臨床分離株にて検討を行ったが、SREと同様に、cag PAI依存性に活性化を認めた。MEK1/2インヒビターにより活性化は抑制され、ERK1/2の活性化を介することが確認された。

(5)c-fosの転写はTN2の共培養30分後より認められた。

(6)プロモーター領域を削除したレポーターの結果からは、SREを含むプロモーター領域-329から-305の塩基配列がc-fosの活性化に重要であることが明らかとなった。SREの2塩基に変異を導入したレポーター(mSRE c-fos-Luc)では活性化は元のレポーターの41%にまで低下した。以上より、H.pyloriによるc-fosの活性化には、c-fosのプロモーター領域に存在するSREが最も重要であることが明らかとなった。

2)SAPK/JNKからc-junを介する経路

(1)SAPK/JNKはTN2、TN2ΔvacAの共培養にてリン酸化されたが、TN2ΔcagE、TN2ΔPAIではリン酸化は認められず、cag PAl依存性にリン酸化を認めた。

(2)c-Junのリン酸化はTN2の共培養60分後より出現、120分後も継続していた。H.pyloriによるSAPK/JNKの経路の活性化が明らかとなった。

3)AP-1の活性化もcag PAI依存性に認められ、また生菌の直接接触が必要であった。MEK1/2インヒビターにて活性化が抑制され、ERK1/2を介する活性化が関与していることが明らかとなった。

4)TN2によるIL-8の分泌はMEK1/2インヒビターにより53%まで減少した。IL-8の分泌にはH.pyloriによるERK1/2の活性化を介したシグナル伝達経路の関与が認められた。

[考察]

 胃癌細胞株でのH.pyloriの共培養によるMAPKに属するERK、Elk-1、SRE、JNK、c-Jun、AF1の活性化を明らかにした。c-fosプロモーターの活性化、c-fosの転写をみるとともに、c-fosプロモーターの変異の導入などによりH.pyloriによるc-fosの活性化にSREが最も強く関与していることも証明した。そしてこれら細胞増殖に関わる重要な分子の活性化にはcag PAIの欠損のない生菌が培養細胞へ直接接触することが重要であることを明らかにした。また、H.pyloriによるIL-8分泌にもERKを介した経路が関与していることも明らかにした。

 H.pylori感染と胃癌との関連についてはしばしば検討されているが、胃の癌化におけるH.pylori関与の具体的なメカニズムは不明である。H.pylori感染によるNF-kBの活性化を介した持続炎症、胃粘膜の萎縮が、胃癌の発生母地となると考えられているが、一方、H.pylori感染による胃粘膜の細胞増殖や、H.pylori除菌によるポリープや、MALTリンパ腫の改善などの事実は、H.pyloriによる直接的な細胞増殖シグナルが胃の上皮細胞やリンパ腫細胞へ伝達されている可能性を示唆する。

 今回、明らかにした細胞増殖シグナルの活性化はH.pylori感染に伴う胃粘膜増殖や、MALTリンパ腫、さらには胃癌の発生、進行において極めて重要な働きをしている可能性が考えられた。またこの活性化における菌側の因子としてはcag PAIが強く関与しており、以前報告した、H.pylori陽性胃癌患者55人から分離された55株すべてがcagE陽性、即ちcag PAI陽性であった事実を裏付けるものの一つとも考えられた。H.pyloriによって活性化されるFRKの上流については解明されていないが、cag PAIの関与が認められたことは、cag PAIの中コードされている可能性のあるIV型の分泌機構の関与が考えられ、cag PAIにコードされているこの分泌機構を介し、H.pyloriの菌体産物がこのERKのシグナル伝達の活性化を引き起こす可能性が考えられた。事実、CagA蛋白が宿主細胞内へ注入されリン酸化されていることが最近報告されており、宿主細胞のシグナル伝達系へ影響を及ぼすH.pyloriの責任遺伝子と、宿主細胞の標的分子の同定こそが、胃の発癌を引き起こすメカニズムの解明へと結びつくものと考えられた。

[結論]

 H.pylori共培養による、胃癌細胞株でのERK、SRE、c-fos、JNK、更にはAP-1活性化を明らかにした。これらの活性化にはcag PAIを有する生きたH.pyloriの胃癌細胞株への直接接触が極めて重要であり、このシグナルの活性化は、H.pyloriによる細胞増殖、更には癌化に関与する可能性が考えられた。これらのシグナルを活性化するH.pylori側の責任遺伝子、蛋白、宿主細胞側のERK、JNKの上流に存在する標的遺伝子、蛋白の解明が、胃の細胞増殖、癌化を引き起こすメカニズムの解明、更には治療へと結びつくものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 近年Helicobacter pylori(以下H.pylori)感染と胃癌およびMALTリンパ腫の発生との関連が注目されている。本研究はH.pylori感染と、これらの疾患の発生に深く関わると考えられる分子生物学的メカニズムを明らかにする目的で、細胞増殖のシグナル伝達系として知られているMAPK(mitogen-activated protein kinase)シグナル伝達経路とH.pyloriとの関連を、H.pylori病原因子の解析を含めて検討を行い、下記の結果を得ている。

1 H.pyloriの病原因子として知られているcag pathogenicity island(PAI)のノックアウト株(TN2ΔPAI)を作製した。

2 MAPKシグナル伝達経路によって活性化されるc-fosのプロモーター領域-456から+47の下流にルシフェラーゼを結合したレポータープラスミドHF456(c-fos-Luc)を元に、プロモーターに存在するsignal transducer and activator of transcription(STAT)の結合配列であるsis-inducible element (SIE)、SRE(serum response element)、ternary complex factor(TCF)の結合配列、serum response factor(SRF)の結合配列、activator protein-1(AP-1)の結合配列、cAMP response element(CRE)を順に削除したレポータープラスミドと、SREに変異を挿入した変異プラスミドを作製した。

3 H.pylori共培養による培養細胞でのERK(extracellular signal-regulated kinase)からElk-1、SREを介しc-fosに至る経路のcag PAI依存性の活性化を以下の検討により明らかにした。

(1)イムノブロットにてERK1/2のリン酸化を検討したところ、TN2、TN2ΔvacAの共培養ではリン酸化を認めたが、TN2ΔcagE、TN2ΔPAIではリン酸化は認められず、cag PAIの有無に依存したERK1/2のリン酸化が明らかとなった。

(2)Elk-1の転写活性化をレポーターアッセイにて検討したところ、TN2の共培養にてElk-1の転写活性化が誘導された。

(3)SREの活性化をレポーターアッセイにて検討したところ、SREの活性化はTN2、TN2ΔvacAにて認められたが、TN2ΔcagE、cag PAIの完全欠損株(T247)では活性化は低下し、更にTN2の死菌を用いた実験や、フィルターにてTN2の培養細胞への直接接触を阻害した実験では、活性化は認められなかった。16株の臨床分離株をcag PAI陽性群と陰性群の2群に分類し比較検討した結果でも、同様にcag PAI陰性群では陽性群に比較し、SREの活性化の有意な低下を認め、SREの活性化にはcag PAIを有する生きた菌の培養細胞への直接接触が重要であることが明らかとなった。またSREの活性化はMEK1/2インヒビターにて抑制され、H.pyloriによるSREの活性化がERK1/2の活性化を介していることが確認された。

(4)c-fosプロモーターの活性化をノックアウト株、16株の臨床分離株を用い、レポーターアッセイにて検討したところ、SREと同様に、cag PAI依存性に活性化を認めた。MEK1/2インヒビターにより活性化は抑制され、ERK1/2の活性化を介することが確認された。ノザンブロットを用いた検討ではc-fosの転写はTN2の共培養30分後より認められた。

 変異レポーターを用いたc-fosのプロモーター領域の解析では、SREがc-fosのプロモーターの活性化に最も重要であることが明らかとなった。

4 SAPK/JNKからc-Junを介する経路の活性化を以下の検討により明らかにした。

(1)イムノブロットにて培養細胞のSAPK/JNKのリン酸化を検討したところ、TN2、TN2ΔvacAの共培養ではリン酸化されたが、TN2ΔcagE、TN2ΔPAIではリン酸化は認められず、cag PAI依存性にリン酸化を認めた。

(2)イムノブロットにてTN2の共培養による培養細胞のc-Junのリン酸化が明らかとなった。

5 H.pyloti共培養による培養細胞でのAP-1の活性化をレポーターアッセイにて検討した。ノックアウト株、16株の臨床分離株にて検討を行ったが、SREと同様に、cag PAI依存性に活性化を認めた。MEK1/2インヒビターにより活性化は抑制され、ERK1/2の活性化を介することが明らかとなった

6 H.pylori共培養による培養細胞のインターロイキン-8(IL-8)分泌能に対するERK1/2の活性化の関与をEIA法にて測定した。H.pyloriによるIL-8の分泌はMEK1/2インヒビターにて抑制され、ERK1/2の活性化を介したIL-8の分泌が明らかとなった。

 以上、本論文はH.pylori感染と関連があるとされている胃癌やMALTリンパ腫などの増殖性疾患の発生に関与する細胞増殖シグナルの活性化機序をH.pyloriの病原因子を含め詳細に検討した初めての論文であり、学位の授与に値すると考えられる。

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