学位論文要旨



No 116371
著者(漢字) 伊地知,秀明
著者(英字)
著者(カナ) イヂチ,ヒデアキ
標題(和) 消化器癌細胞におけるTGR-β-Smadシグナル伝達系異常の機能的検討
標題(洋)
報告番号 116371
報告番号 甲16371
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1766号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 教授 名川,弘一
 東京大学 教授 上西,紀夫
 東京大学 助教授 門脇,孝
 東京大学 講師 金子,義保
内容要旨 要旨を表示する

[研究の背景および目的]

 Transforming growth factor-β(TGF-β)は、細胞の増殖の制御、細胞の分化、アポトーシス、細胞外マトリックスの増生など多様な機能を持つサイトカインであり、中でも上皮系細胞において、このシグナルは主に細胞増殖抑制効果を持つことが知られている。TGF-βシグナル伝達系はTGF-βtype I receptorとtype II receptor(TβRI、TβRII)および細胞内シグナル伝達分子Smad群から成り立つ。

 このシグナル伝達系に異常があると細胞は増殖抑制を免れ、それによる癌化への寄与が推察されている。実際にTβRII遺伝子の変異が遺伝性非ポリポーシス性大腸癌やマイクロサテライト不安定性を示す散発性大腸癌・胃癌に、またSmad4遺伝子の異常が膵癌や大腸癌に認められる。

 これまでヒトの癌においてTGF-β-Smadシグナル伝達系の遺伝子の異常を個々に調べた報告は数々なされてきたが、シグナル伝達系全体としての機能異常を複数の消化器癌で比較検討した報告はなかった。そこで本研究では、「Rescue」の実験等、機能的解析を用いて、ヒト消化器癌(大腸癌、胃癌、膵癌、肝癌)におけるTGF-β-Smadシグナル伝達系異常の頻度とその異常の原因分子を明らかにし、このシグナル伝達系の異常と各消化器癌との関与を明らかにしようと試みた。

[方法と結果]

 38種のヒト癌培養細胞株(大腸癌11種、膵癌9種、胃癌10種、肝癌8種)を用いた。

 各細胞株におけるTGF-β-Smadシグナルの伝達をplasminogen activator inhibitor-1遺伝子及びcollagenase-1遺伝子のプロモーター配列の主要な部分を有するp3TP-luxというレポーターを用いルシフェラーゼアッセイにて検討した。またSmad binding elementを有する別種のレポーターSBE-lucを用いた検討も加えた。transfection効率を内部コントロールを用いて補正した。TGF-β刺激による活性値の有意な上昇を示さない細胞株ではこのシグナル伝達系の機能が低下していると考えられた。大腸癌では10/11(91%)、膵癌では6/9(67%)、胃癌では4/10(40%)と高頻度にシグナル伝達の低下が認められたが、肝癌では8例全例でシグナルは正常に伝達されていた。

 次にこのシグナル伝達が低下を示した全20種の細胞株について、その低下の原因分子の解明を試みた。まずTβRII遺伝子exon 3のポリアデニン配列(poly (A) stretch)の異常を蛍光標識プライマーを用いたPCR産物の電気泳動度の差により検出した。この結果、20種の細胞株中、大腸癌の5種にアデニン塩基の欠失が認められた。次にSmad4蛋白の発現をWestern blotにて検出した結果、20種の中で膵癌細胞4種及び大腸癌細胞1種においてSmad4蛋白発現が消失していることがわかった。更に、野生型のTβRIIまたはSmad4蛋白を発現するプラスミドをp3TP-luxを用いたルシフェラーゼアッセイの際にco-transfectionすることにより、シグナル伝達の回復(TGF-βによる有意な活性上昇)が得られるかを検討する「Rescue」実験を行った。この結果、野生型TβRIIの発現によりシグナル伝達の回復を示した細胞株が20種中5種(大腸癌4種と膵癌1種)、野生型Smad4の発現によりシグナル伝達の回復を示した細胞株も20種中5種(膵癌3種と大腸癌2種)得られた。

 TβRII遺伝子poly(A)stretchの変異もしくはTβRIIの発現によるシグナルの回復を示した細胞株では、TβRIIの機能喪失がこのシグナル伝達系異常の原因と考えられた。またSmad4蛋白発現の消失もしくはSmad4のRescueによるシグナルの回復を示した細胞株では、Smad4の機能喪失がこのシグナル伝達系異常の原因と考えられた。この結果、大腸癌では7/10(70%)がTβRIIの異常、膵癌では4/6(67%)がSmad4の異常を示したが、胃癌ではTβRII及びSmad4には明らかな異常が認められなかった。

 そこでTβRII及びSmad4に明らかな異常を示さない6種の細胞株についてはTβRI、Smad2、Smad3についても同様に「Rescue」実験を行ったところ、胃癌細胞株1種でのみTβRIの機能異常が示された。

[考察]

 TGF-β-Smadシグナル伝達系には、2種の受容体とSmad2,3,4以外にもinhibitory Smadや核内の転写のcorepressorの関与、また他のシグナル伝達系とのクロストークの存在が次々と明らかになってきている。従って、シグナル伝達系全体の機能を評価するには個々の遺伝子異常を調べるのみでは不十分である可能性がある。そこで、本研究ではルシフェラーゼアッセイによるTGF-β-Smadシグナル伝達系全体の機能的検討を中心として癌細胞におけるこのシグナル伝達系の異常を検討した。その結果、大腸癌、膵癌、胃癌細胞ではTGF-β-Smadシグナル伝達の低下が高頻度に認められるが、肝癌細胞ではこのシグナル伝達が保たれていることがわかった。従って、肝癌においてはこのシグナル伝達系は癌抑制遺伝子群としての働きは果たしていないと考えられる。

 膵癌細胞では、TGFβ-Smadシグナル伝達の低下が高頻度(67%)に認められ、Smad4の機能喪失がこのシグナル伝達系異常の主原因と考えられた。

 大腸癌細胞ではTGF-β-Smadシグナル伝達の低下が最も高頻度(91%)に認められ、このシグナル伝達系異常の主原因はTβRIIの異常と考えられた。しかし大腸癌細胞におけるTβRIIのRescue実験では、TβRII遺伝子のpoly (A) stretchに欠失のある細胞株中、TβRIIのRescueによりシグナル伝達系の回復を示したのは40%のみであり、正常なpoly (A) stretchを持つ細胞株でのRescue実験と同じ割合であった。このようにTβRIIのRescue実験では、TβRII遺伝子poly (A) stretchの変異解析との間にやや解離した結果が認められた。

 この解離の理由としては、1)TβRII遺伝子のpoly (A) stretch以外の部分の変異や、TβRIIの発現自体の低下が存在する可能性2)細胞株によっては、transfectionされた野生型TβRII蛋白の発現プラスミドが、細胞膜へのTβRIIの局在阻害などの機序により十分機能しないという可能性3)RescueされたTβRIIが正しく機能したとしても、TβRIIより下流の位置でクロストークなどによりシグナル伝達が阻害される可能性等が考えられる。実際に下流に存在する分子であるSmad4のRescue実験においては、Smad4蛋白のWestern Blotと明らかに相関する結果が得られた。

 TGF-β-Smadシグナル伝達の低下が認められた胃癌細胞株では、3/4例(75%)でシグナル伝達異常の原因分子が同定できなかった。これらの細胞ではinhibitory Smadや転写のcorepressorがシグナル伝達系異常の原因となっている可能性があり、更には、胃癌にはこのシグナル伝達系異常の新規のメカニズムが潜んでいる可能性がある。

 本研究で複数の臓器由来の癌細胞株多数例についてTGF-β-Smadシグナル伝達系全体の機能を同時に比較検討した結果、各消化器癌によりTGF-β-Smadシグナル伝達系異常の頻度が異なり、その異常を来すメカニズムもそれぞれに特徴があることが明らかとなった。将来的には、このようなシグナル伝達系の機能とそれに関わるメカニズムを臨床検体で明らかにすることが望まれる。

[結論]

 大腸癌、膵癌、胃癌、肝癌の培養細胞株多数例についてTGF-β-Smadシグナル伝達系の機能を比較検討した結果、このシグナル伝達系は大腸癌、膵癌、胃癌の発癌において癌抑制遺伝子群としての役割を担っていることが示唆されたが、肝癌においては同様の役割は果たしていないと考えられた。

 また、大腸癌ではこのシグナル伝達低下の主原因はTβRIIの異常であり、膵癌においてはSmad4の異常と考えられたが、胃癌ではその大部分でシグナル伝達異常の原因が不明であり、未知のメカニズムが存在する可能性がある。

 このように各消化器癌におけるTGF-β-Smadシグナル伝達系異常の頻度とそのメカニズムが異なることが明らかとなり、各癌の診断・治療における標的分子の解明や発癌メカニズムの解明の一助となると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、癌抑制遺伝子群として働くと考えられているTGF-β-Smadシグナル伝達系について、消化器癌におけるその機能低下の頻度及びメカニズムについて培養細胞株多数例を用いて解析を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1. 38種の消化器癌培養細胞株(大腸癌11種、膵癌9種、胃癌10種、肝癌8種)におけるTGF-β-Smadシグナル伝達を、TGF-β-Smadシグナルにより誘導される遺伝子plasminogen activator inhibitor-1とcollagenase-1の主要なプロモーター領域を有するレポーターp3TP-luxによるレポーターアッセイを用いて検討した結果、大腸癌では10/11例(91%)、膵癌では6/9例(67%)、胃癌では4/10例(40%)と高頻度にシグナル伝達の低下が認められた。対して肝癌では8例中全例でシグナルは正常に伝達されていることがわかった。Smad binding elementを有するレポーターSBE-lucを用いたレポーターアッセイにおいてもp3TP-luxと同様の結果を得た。

2. TGF-β-Smadシグナル伝達の低下した細胞株20種全例について、TGF-β-type II receptor(TβRII)遺伝子exon3のポリアデニン配列(poly (A) stretch)の変異を蛍光標識primerを用いたPCR産物のポリアクリルアミドゲル電気泳動により検出した結果、20種中大腸癌の5種にアデニン塩基の欠失が認められた。

3. TGF-β-Smadシグナル伝達の低下した細胞株20種全例について、Smad4蛋白の発現をWestern blottingにて検出した結果、膵癌の4種と大腸癌の1種にSmad4蛋白発現の消失が認められた。

4. TGF-β-Smadシグナル伝達の低下した細胞株20種全例について、野生型TβRII蛋白または野生型Smad4蛋白の発現プラスミドをレポーターp3TP-luxと共にトランスフェクションし、シグナル伝達の回復をレポーターアッセイにて検討する「Rescue」実験を施行した。この結果、野生型TβRII蛋白の発現により20種中5種(大腸癌4例と膵癌1例)に、また野生型Smad4蛋白の発現により20種中5種(膵癌3例と大腸癌2例)にシグナル伝達の回復が認められた。

5. 2、3、4の結果を総合すると、大腸癌では7/10例(70%)にTβRIIの機能異常が存在し、膵癌では4/6例(67%)にSmad4の機能異常が存在すると考えられた。対して胃癌ではTβRII及びSmad4には明らかな異常が認められなかった。

6. TβRII及びSmad4に明らかな異常を示さない細胞株についてTGF-β-type I receptor(TβRI)、Smad2、Smad3の「Rescue」実験を4.と同様に施行した結果、胃癌細胞株1例でのみTβRIの機能異常が示された。その他の胃癌3/4例(75%)では異常を示す分子が明らかとならなかった。

以上、本論文は各消化器癌におけるTGF-β-Smadシグナル伝達系異常の頻度とそのメカニズムが異なることを、培養細胞株を用いた機能的解析を中心として明らかとした。このシグナル伝達系は大腸癌、膵癌、胃癌において癌抑制遺伝子群としての役割を担っていることが示唆されたが、肝癌においては同様の役割は果たしていないと考えられた。本研究は各消化器癌の診断・治療における標的分子の解明や発癌メカニズムの解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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