学位論文要旨



No 116384
著者(漢字) 小野,啓
著者(英字)
著者(カナ) オノ,ヒラク
標題(和) インスリンシグナル伝達におけるPTENの役割と効果
標題(洋) PTEN's roles and effects forinsulin signal transduction
報告番号 116384
報告番号 甲16384
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1779号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 助教授 油谷,浩幸
 東京大学 助教授 小塚,裕
 東京大学 助教授 岡崎,具樹
 東京大学 講師 橋本,佳明
内容要旨 要旨を表示する

 インスリンが肝、筋、脂肪などの標的細胞に作用すると、これらの細胞にブドウ糖を取り込ませるという効果をもたらす。この仕組みには、イノシトール環の3位がリン酸化されたイノシトールリン脂質(3-phosphoinositides;以後3-PIsと略す)が重要な役割を担っていることが知られている(3-PIsは、phosphoinositide3-kinase(PI3-キナーゼ)という酵素によって作られるが、この酵素を薬物あるいは変異体の過剰発現によって阻害すると、インスリンの標的細胞にブドウ糖を取り込ませる効果が顕著に抑制され、また逆に、PI3-キナーゼを過剰発現させるとインスリン非存在下でも標的細胞へのブドウ糖の取り込みが見られることから、このことが示されている)。また、その下流には3-PIsによって活性化されるAktという蛋白が存在し、糖取り込みの経路を担っている可能性が示唆されているが、未だ議論の余地が多い。

 PTENは最近発見された癌抑制蛋白で、3-PIsの3位の脱リン酸化(PI3-キナーゼの逆作用)を触媒することから注目を集めている。またPTENに欠損をもつ細胞でAktのリン酸化と活性化が認められることから、PTENがPI 3-キナーゼ/Akt経路に拮抗する役割を持つことが示唆されている。3-PIsの合成酵素であるPI3-キナーゼの重要性については確立されているが、分解酵素であるPTENのインスリンシグナル伝達における役割はいまだ不明である。そこで本研究では、PTENが細胞内の3-PIs、およびAktのリン酸化と糖取り込みといったインスリンの作用に対してどのように影響するかを、Sf9昆虫細胞、およびインスリン標的培養細胞である3T3-Ll細胞に、PTENおよびその変異体をウイルスベクターを用いて過剰発現させる実験系を用いて検討した。

方法

 野生型PTEN(WT)、酵素非活性型PTEN(CS)、およびこのそれぞれのN末端にmyristoylation signalを付加したもの(myr-WT,myr-CS)を強制発現するバキュロウイルスおよびアデノウイルスを作製した。バキュロウイルスをSf-9昆虫細胞に、アデノウイルスを3T3-Ll脂肪細胞に感染させ、それぞれの蛋白を強制発現させた。3T3-Ll脂肪細胞において、インスリン刺激・非刺激時の細胞内の3-PIsを、HPLCを用いて定量した。Sf-9においては、インスリン刺激の代わりに、PI 3-キナーゼの p110 サブユニットを PTENおよび変異体と共発現させることによってこれを模した。また、3T3-L1脂肪細胞において、3-PIsの下流にあるとされるAktのリン酸化、および糖取り込みの指標となる2-deoxyglucose取り込みに関し、上記のPTENおよび変異体がどのように影響を及ぼすかを調べた。

結果

 両細胞において、インスリン非刺激時あるいはp110非存在下では、PTENおよび変異体は細胞内3-PIsに有意に影響しなかった。3T3-L1脂肪細胞をインスリン刺激、あるいはS`9にp110を過剰発現させると、PI(3,4)P2およびPI(3,4,5)P3の2種の3-PIsは有意に両細胞内で増加する。ここにWTを過剰発現させると、内因性PTENの50倍以上の過剰発現にもかかわらず3-PIsの量に対する影響は小さかった。一方、myristoylation signalの付加によって膜に移動させられるmyr-WTを過剰発現させると、PI(3,4)P2、PI(3,4,5)P3は共に著明な減少を見た。逆に、酵素非活性型であるCS、myr-CSを強制発現させると、インスリン刺激時あるいはp110存在下での3-PIsは著明に増加した。

 次に、3T3-Ll脂肪細胞において、Aktのリン酸化部位に対する特異抗体を用いて、Aktのリン酸化に対するPTENおよび変異体の影響を調べた。Aktの2力所のインスリン応答性リン酸化部位のうち、Thr308のリン酸化は、PTENおよびその変異体の過剰発現によって、3-PIsとほぼ並行して影響を受けた(すなわち、myr-WTによってリン酸化が著明に抑制され、またCS、myr-CSによって著明にリン酸化の増加が認められた)。一方、Ser473のリン酸化は、myr-WTの発現によって一部抑制をうけたものの、CS、myr-CSの強制発現によって有意な上昇が認められなかった。

 3T3-Ll脂肪細胞において、2-deoxyglucose取り込みに対するPTENおよび変異体の影響を調べたところ、myr-WTの発現によってインスリン刺激時の2-deoxyglucose取り込みは40%程度の抑制を受けたが、その他のアデノウイルスの発現では有意な影響は認められなかった。

考察

 これまでに発表された文献では、PTENの3-PIsに対する脱リン酸化作用は、in vitro assayによって、あるいはPTEN遺伝子に変異を持つ腫瘍細胞にPTENを再導入してその細胞内の3-PIsを測定することによって、示されてきた。多くの文献では、細胞内の3-PIsの測定においては薄層クロマトグラフィーを用いてPI(3,4,5)P3のみを測定した結果の報告にとどまっている。本研究では、SF-9および3T3-L1脂肪細胞の両種の細胞において、PTENを過剰発現させると、インスリン刺激、あるいはp110の発現によって増加せしめられたPI(3,4)P2およびPI(3,4,5)P3の2種の3-PIsが共に有意に減少することを示すことが出来た。また、CS、myr-CSの酵素非活性型PTENの過剰発現により、PI(3,4)P2およびPI(3,4,5)P3が増加することは、これらの酵素非活性型PTENが内因性PTENに対しdominant negative効果を発揮しているためと考えられ、このことは内因性のPTENがインスリン刺激時に細胞内で増加した2種の3-PIsを分解する作用を担っていることを示している。

 当初の予想に反し、myristoylation非付加の野生型PTENは、細胞内3-PIsに大きい影響を及ぼさなかった。これまでに、PTENを欠失した腫瘍細胞において、野生型PTENを再導入すると細胞内3-PIsが抑制されるという報告が複数ある。この結果の乖離は、本研究で用いた両細胞に存在する内因性PTENが、インスリン刺激時に増加した3-PIsを分解するに既に十分量であって、さらなる過剰発現は著明な付加的効果をもたらさないためではないかと考える。これに、myr-WTの過剰発現によってインスリン刺激時の3-PIsの増加が著明に抑制されたことを考え併せると、PTENが膜に移動して初めて有効に作用することが示唆される。実際、PTENのC端には膜への結合に関与すると考えられるC2ドメイン構造が存在することが最近報告されており、PTENの膜への移動とその活性調節のメカニズムについてさらなる研究が望まれる。

 インスリンシグナル伝達において、PI 3-キナーゼの活性化から糖取り込みに至るまでの細胞内シグナル伝達経路は、未だその多くが未知である。Aktはインスリン、PI3キナーゼおよび3-PIsによって活性化を受ける蛋白であり、また活性型Aktを過剰発現させると糖取り込みなどのインスリン刺激と同様の効果が認められることから、この経路で重要な役割を果たしている可能性が示唆されている。

 Aktはインスリン刺激によってThr308、Ser473の2アミノ酸残基がリン酸化されることにより活性化される。3-PIsはAkt、およびThr308のリン酸化酵素であるPDKlを膜に移動させる役割を果たしていると考えられている。

 上記の結果より、3-PIs、特にPI(3,4,5)P3とAktのThr308リン酸化の間には強い相関が認められる。このことは、AktがPI(3,4,5)P3によって膜に移動させられ、膜上でPDKlがAktのThr308部位をリン酸化するという仮説によく合致する。ところが、AktのSer473に関しては、myr-WTの過剰発現によって部分的にそのインスリン刺激時のリン酸化が抑制されるものの、CS、myr-CSの過剰発現によって増強を受けない点がThr308の場合と大きく異なっており、この2つのリン酸化部位のリン酸化は別の機序によって調節されていることが示唆された。

 インスリン刺激反応性の糖取り込みに関しては、これがPI 3-キナーゼの下流に存在することは異論のないものである。この糖取り込みに関し、本研究の結果からは、膜に移行するmyristoylation signal付加型のPTENの過剰発現によってその一部が抑制をうけるものの、3-PIsに対する影響に比較すると部分的であり、またdominant negative効果をもつ酵素非活性型のPTENによって3-PIsを増加させても全く糖取り込みの増強は認めなかった。このことから、内因性のPTENは、インスリン刺激時の3T3-L1脂肪細胞の糖取り込みの機序に対して、大きい関与をしていない可能性があると考えられる。また、AktのSer473のリン酸化が、2-deoxyglucose取り込みとほぼ並行して影響されていることを考えると、AktのSer473のリン酸化が糖取り込みに関与している可能性が考えられ、今後AktのSer473のリン酸化の機序に関するさらなる研究が望まれる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はインスリン情報伝達において必要不可欠な役割を果たしているPI3-キナーゼの逆反応を触媒するPTEN蛋白のインスリン情報伝達における役割と効果を、PTENをウイルスベクターを用いて培養細胞に過剰発現させる実験系を用いて調べたものであり、下記の結果を得ている。

1.野生型PTENを過剰発現させたところ、細胞内PI(3,4)P2とPI(3,4,5)P3に及ぼす影響は予想外に小さかった。膜に移動するmyristoylation signalを付加した野生型PTENはPI(3,4)P2とPI(3,4,5)P3を著明に低下させた。一方、酵素不活性型PTENはPI(3,4)P2とPI(3,4,5)P3を著明に増加させた。この結果から、PTENがin vivoでPI(3,4)P2とPI(3,4,5)P3を脱リン酸化することによってこれらの量の調節の役割を果たしていることが示された。 Myristoylationsignalのない野生型PTENの効果が小さかったこと、またmyristoylation signal付加型の酵素不活化型PTENの効果が持続的であったことから、PTENの活性調節に膜への移動が関与している可能性が示唆された。

2.過剰発現させた蛋白は、インスリン刺激時のAktリン酸化にも影響を及ぼした。Aktの2カ所のリン酸化部位のうち、Thr308に関しては、そのリン酸化はPI(3,4,5)P3量と並行しており、PI(3,4,5)P3またはPI(3,4)P2がAktを膜に移動させ膜においてPDKlがAktのThr308をリン酸化するという仮説を裏付ける結果であった。一方、Ser473のリン酸化は、酵素不活性型PTENによってそのリン酸化が増強されない点でThr308とは異なっており、2カ所のリン酸化が異なる機構で行われることが示唆された。

 3.インスリン刺激時の3T3-Ll脂肪細胞のグルコース取り込みに対しては、myristoylation signalを付加した野生型PTENの過剰発現によって、約40%の低下が認められたが、酵素不活性型PTENの過剰発現による影響は認められなかった。酵素不活性型PTENによって、PI(3,4)P2とPI(3,4,5)P3の増加があったにもかかわらず、グルコース取り込みの増強が認められなかったことから、PTENはインスリン刺激時の糖取り込み機構の調節にはあまり関与していない可能性が示唆された。

 4.AktのSer473のリン酸化と、グルコース取り込み量とは並行した動きが認められ、AktのSer473リン酸化と糖取り込みとの間に関連がある可能性が示唆された。

 以上、本論文は培養細胞において、PTENおよびその変異体を過剰発現させてその効果を解析することにより、PTENがPI(3,4)P2とPI(3,4,5)P3の調節の役割をはたしており、これを介してAktのThr308リン酸化の調節にも強く関与していることを示した。また、PTENの活性調節に膜への移動が関与していること、および、AktのSer473リン酸化がグルコース取り込み機構に関与している可能性を示唆した。インスリン情報伝達におけるPI3-キナーゼより下流の細胞内シグナルの研究に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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