学位論文要旨



No 116424
著者(漢字) 岡本,宏之
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,ヒロユキ
標題(和) 生理活性脂質スフィンゴシン1-リン酸受容体の同定とその機能解析
標題(洋)
報告番号 116424
報告番号 甲16424
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1819号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 永井,良三
 東京大学 教授 清水,孝雄
 東京大学 教授 芳賀,達也
 東京大学 助教授 小塚,裕
 東京大学 講師 北山,丈二
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

 リン脂質は細胞膜の構成成分あるいはその代謝産物としてだけではなく、様々な生理活性をもつ重要な脂質メディエーターとしての役割が知られている。血液中に存在する生理活性脂質スフィンゴシン1-リン酸(S1P)は、リゾホスファチジン酸(LPA)とともにリゾリン脂質として立体構造上の類似性をもち、生体内では血小板が主な産生貯蔵場所とされている。1990年代初め、S1Pが細胞内カルシウム動員と細胞増殖促進作用という生理活性を有することが報告され、これらの作用は当初、S1Pの細胞内作用であると考えられた。その後、培地に添加したS1Pが種々の癌細胞や平滑筋細胞の運動を抑制することが報告され、この現象がビーズに固相化したS1Pでも引き起こされること、さらにはS1Pによる細胞応答の多くが百日咳毒素(PTX)感受性であることがなどが明かになり、S1Pの作用の多くは細胞膜上の受容体を介していると考えられるようになってきた。一方、私達の研究室では1993年にラット大動脈平滑筋細胞から新規のGタンパク共役型受容体AGR16をクローニングしていたが、そのリガンドは不明であった。遺伝子データベースのホモロジー検索の結果、AGR16は唯一EDG1(endothelial differentiation gene-1)との間にアミノ酸レベルで高いホモロジー(51%)を持つことが見い出された。EDG1は、ヒト臍帯静脈内皮細胞をホルボールエステルで刺激することで発現誘導されるGタンパク共役型受容体遺伝子として1990年に発見されたが、AGR16と同様にそのリガンドは同定されていなかった。マトリックスゲル内の三次元培養下でホルボールエステルは血管内皮の管腔形成を促進することより、この受容体遺伝子は血管内皮の分化誘導に関わっているのではないかとの考えからEDG1と命名された。その後、EDG1、AGR16に高いホモロジーを示す受容体遺伝子が次々とクローニングされ、これらは血管内皮に発現するか否かに関わらず、EDG2〜8と命名された。この命名法ではAGR16はEDG5と呼ばれている。1996年になり、EDG2がLPAに対する受容体である可能性が報告された。私達はこの報告を契機に、その他のEDG受容体もLPAあるいはS1Pを含む類縁脂質の受容体として機能する可能性について検討を開始した。本研究ではまず、EDG1、EDG3、EDG5/AGR16がいずれも高い特異性と親和性をもつS1P受容体であり、それぞれが特徴的な情報伝達能をもつことを示した。また細胞膜上の受容体が同定された後も、S1Pの細胞運動に対する影響については不明な点が多く、受容体を介する細胞外からの作用なのかそれとも細胞内メッセンジャーとしての作用なのかは議論の多いところであった。そこで本研究の後半では、S1Pが各EDG受容体サブタイプを介して細胞運動に対して異なる作用を及ぼすこととその細胞内機構を明かにした。すなわち、S1Pの場合には、一つのリガンドが異なる受容体を介して細胞遊走の増進と抑制という相反する作用を及ぼすきわめてユニークな性質をもっていることを初めて明かにした。

方法

1)遺伝子導入:発現プラスミドの遺伝子導入にはLipofectAMINEを使用し、安定形質発現株の選択にはG418を用いた。アデノウイルスベクターは、moi 100で1時間感染させ、99%以上の細胞に遺伝子導入できることを確認した。

2)細胞内カルシウム濃度は蛍光色素fura-2を用いて測定した。イノシトールリン酸産生の測定では、細胞をmyo-[2-3H]inositolでラベルし、全イノシトールリン酸画分を抽出しその放射活性を測定した。サイクリックAMP(cAMP)の測定は、細胞を0.2mM3-isobuty1-1-methylxanthine存在下で刺激し、ヤマサのcAMPアッセイキットで行なった。

3)Mitogen-activated protein kinase(MAPK)の活性測定:Myc-MAPK発現ベクターを導入した細胞の溶解液から抗Myc抗体でMyc-MAPKを免疫沈降し、[γ-32P]ATP存在下でミエリン塩基性蛋白質のリン酸化を測定した.

4)[32P]S1P結合実験:非標識のS1Pあるいは類縁脂質の存在下および非存在下で、[32P]S1Pを含むメディウムで25℃30分インキュベートし、細胞に付着した放射活性を測定した。特異的結合は、10μMS1P存在下で結合した非特異的結合分を差し引いて計算した。

5)細胞遊走:細胞遊走はフィブロネクチンコートした8μmポアのポリカーボネイトフィルターを用いBoydenチェンバー法で測定した。

6)Rho、Rac、Cdc42の活性測定:GST-rhotekin(for Rho)、GST-PAK(for Rac and Cdc42)を使ったプルダウン法によって活性型(GTP型)のRho、Rac、Cdc42の量を各々に特異的な抗体によりウエスタンブロッティングで評価した。

7)ホスファチジルイノシトール(PI)3-キナーゼ活性の測定:細胞溶解液から抗リン酸化チロシン抗体でPI3-キナーゼを免疫沈降し、PIを基質にリン酸化を測定した。PI-3Pの分離はシリカゲルプレートを用いた薄層クロマトグラフィーで行なった。

8)GAP(GTPase促進因子)、GEF(グアニンヌクレオチド交換因子)活性の測定:[γ-33P]GTP(for GAP)あるいは[3H]GDP(for GEF)を結合させた組換Rac1蛋白質を細胞溶解液と反応させ、経時的にサンプリングしてニトロセルロースフィルターで濾過し放射活性を測定した。

9)蛍光顕微鏡:細胞を3.7%ホルムアルデヒドで固定し0.25%TritonX-100で透過処理をした。F-アクチンはTRITCでラベルしたファロイジンで染色し、落射蛍光顕微鏡で観察した。

結果

I.S1P受容体の同定と情報伝達

S1Pに対する細胞応答の非常に弱いCHO(Chinese hamster ovary)細胞にEDG1を一過性に発現させると、親細胞には認められないS1Pによる細胞内カルシウム上昇とMAPKの活性化が観察された。またS1Pのみならず類縁脂質のLPAにも反応を示さないHEL(human erythroleukemia)細胞で樹立したEDG1の安定発現株(HEL-EDG1)においても、S1Pは濃度依存的にカルシウム上昇反応を引き起こし、EC50は10-9Mであった。S1Pの他にはSPCがEC50=10-7Mの弱いアゴニストであることがわかった。その他の類縁脂質は10-6Mまでの濃度でカルシウム上昇を引き起こさなかった。32Pで標識したS1Pを使ってEDG1に対する結合を調べると、HEL親細胞では特異的結合はほとんどみられないのに対し、HEL-EDG1細胞では有意な特異的結合が観察された。HEL-EDG1細胞への[32P]S1P結合は非標識のS1Pにより濃度依存的に抑制された。そのIC50は5×10-8Mであった。また他の類縁脂質の中ではSPCのみが[32P]S1Pの結合に競合した。私達は同様の方法を用いて、EDG3、EDG5もS1Pの受容体として機能し、いずれもS1Pの他にはSPCのみが弱いアゴニストとして作用することを確認した。各受容体を発現させたCHO細胞(EDG1細胞、EDG3細胞、EDG5細胞)を用いて各々の情報伝達能を検討した。EDG1、EDG3、EDG5はいずれもホスホリパーゼC/カルシウム動員に共役するが、EDG1は百日咳毒素(PTX)感受性のGiを介して、EDG3とEDG5は主としてPDX非感受性Gタンパク質おそらくはGq/11を介して共役した。また3種の受容体ともPTX感受性のGiを介してMAPKを活性化した。しかしその共役の効率は受容体ごとに異なっており、EDG1とEDG3のMAPK活性化に対するEC50値はEDG5のそれより10倍低値であった。またEDG1とEDG3はcAMP産生をPTX感受性Giを介して抑制した。これとは対照的に、EDG5はcAMP産生を促進した。

II.EDG受容体による細胞遊走制御とそのメカニズム

 各S1P受容体の細胞遊走に及ぼす作用を検討したところ、EDG1細胞、EDG3細胞では、S1Pは化学遊走を誘導し、膜ラッフリングの形成、Racの活性化を引き起こした。これらの反応は、別の化学遊走因子であるインシュリン様増殖因子-I(IGF I)によっても同様に引き起こされた。S1P、IGF Iによるこれらの反応はRacのdominant negative変異体の発現やPI3-キナーゼ阻害剤によって強く抑制された。一方、EDG5細胞ではS1Pは化学遊走を誘導せず、逆にIGF Iによる化学遊走、膜ラッフリングの形成、Racの活性化を完全に抑制した。S1PはEDG5細胞において他のEDG細胞と同様にPI3-キナーゼ活性とその下流に存在するRac-GEF活性を増加させた。しかしRac-GAP活性は、EDG1細胞ではS1Pによって抑制される傾向にあったが、EDG5細胞では逆に増強した。これらの結果は、EDG5細胞におけるS1Pの化学遊走抑制作用にはRac-GEF活性の抑制ではなくRac-GAP活性の増強によるRacの抑制が関与していることを意味している。またS1PはEDG3細胞とEDG5細胞においてRhoを活性化したが、EDG1細胞では活性化しなかった。Cdc42は無刺激の状態である程度活性化されており、S1P刺激による変化はみられなかった。

考察

 本研究と他の研究グループからの報告により、EDG受容体ファミリーは今やS1P受容体群(EDG1、EDG3、EDG5、EDG8)とLPA受容体群(EDG2、EDG4、EDG7)の二つのサブグループに分かれることが明らかになった。このように一つのリガンドに対し複数の受容体が存在することは、当然その機能的役割分担に興味がもたれ、私達は本研究において、EDG5が化学遊走を抑制する受容体として働くのに対し、EDG1とEDG3が化学遊走を誘導する受容体として働くことを明かにした。血液中のS1P濃度が数100nMオーダーであることを考えると、S1Pによる受容体を介した細胞運動制御は、実際に生体内での生理的、病理的なさまざまな過程に関わっている可能性があると考えられる。活性化された血小板から放出されたS1Pが血管内皮あるいは平滑筋細胞に作用してさまざまな病態に関与している可能性も興味深い。また、近年循環器疾患で研究対象になっている障害血管における内膜肥厚が中膜平滑筋細胞の遊走・増殖がその主たる原因であることを考えると、EDG5を介した細胞遊走の抑制作用は効果的な治療として役立つ可能性がありその応用が期待される。特に各EDG受容体の選択的なアゴニスト、アンタゴニストの開発が、この分野の新しい治療法につながると思われる。またこれらの受容体の遺伝子導入は、血管内膜肥厚や悪性腫瘍に対する新しい遺伝子治療の可能性を示すものと考えられる。

結論

 これまでリガンド不明であったGタンパク共役型受容体EDG1、EDG3、EDG5/AGR16がスフィンゴシン1-リン酸受容体であることを示した。これらの受容体は異なる情報伝達能を有し、EDG1、EDG3はGiタンパクを介してRacの活性化を引き起こしS1Pに対する細胞遊走を誘導する。一方、EDG5はRac-GAP活性を増強しRac活性を抑制することによって細胞遊走を抑制する。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、これまでリガンド不明であったGタンパク共役型受容体EDG1、EDG3、EDG5/AGR16をCHO(Chinese hamster ovary)細胞に強制発現させ、その安定形質発現株を用いてリガンドの同定と機能解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. S1Pに対する細胞応答の非常に弱いCHO細胞にEDG1を一過性に発現させると、親細胞には認められないS1Pによる細胞内カルシウム上昇とMAPKの活性化が観察された。またS1Pのみならず類縁脂質のLPAにも反応を示さないHEL(human erythroleukemia)細胞で樹立したEDG1の安定発現株(HEL-EDG1)においても、S1Pは濃度依存的にカルシウム上昇反応を引き起こし、EC50は10-9Mであった。S1Pの他にはSPCがEC50=10-7Mの弱いアゴニストであることがわかった。その他の類縁脂質は10-6Mまでの濃度でカルシウム上昇を引き起こさなかった。32Pで標識したS1Pを使ってEDG1に対する結合を調べると、HEL親細胞では特異的結合はほとんどみられないのに対し、HEL-EDG1細胞では有意な特異的結合が観察された。HEL-EDG1細胞への[32P]S1P結合は非標識のS1Pにより濃度依存的に抑制された。そのIC50は5×10-8Mであった。また他の類縁脂質の中ではSPCのみが[32P]S1Pの結合に競合した。またEDG3、EDG5もS1Pの受容体として機能し、いずれもS1Pの他にはSPCのみが弱いアゴニストとして作用することを確認した。各受容体を発現させたCHO細胞(EDG1細胞、EDG3細胞、EDG5細胞)を用いて各々の情報伝達能を検討した。EDG1、EDG3、EDG5はいずれもホスホリパーゼC/カルシウム動員に共役するが、EDG1は百日咳毒素(PTX)感受性のGiを介して、EDG3とEDG5は主としてPTX非感受性Gタンパク質おそらくはGq/11を介して共役した。また3種の受容体ともPTX感受性のGiを介してMAPKを活性化した。しかしその共役の効率は受容体ごとに異なっており、EDG1とEDG3のMAPK活性化に対するEC50値はEDG5のそれより10倍低値であった。またEDG1とEDG3はcAMP産生をPTX感受性Giを介して抑制した。これとは対照的に、EDG5はcAMP産生を促進した。

2. 各S1P受容体の細胞遊走に及ぼす作用を検討したところ、EDG1細胞、EDG3細胞では、S1Pは化学遊走を誘導し、膜ラッフリングの形成、Racの活性化を引き起こした。これらの反応は、別の化学遊走因子であるインシュリン様増殖因子-I(IGF I)によっても同様に引き起こされた。S1P、IGF Iによるこれらの反応はRacのdominant negative変異体の発現やPI3-キナーゼ阻害剤によって強く抑制された。一方、EDG5細胞ではS1Pは化学遊走を誘導せず、逆にIGF Iによる化学遊走、膜ラッフリングの形成、Racの活性化を完全に抑制した。S1PはEDG5細胞において他のEDG細胞と同様にPI3-キナーゼ活性とその下流に存在するRac-GEF活性を増加させた。しかしRac-GAP活性は、EDG1細胞ではS1Pによって抑制される傾向にあったが、EDG5細胞では逆に増強した。これらの結果は、EDG5細胞におけるS1Pの化学遊走抑制作用にはRac-GEF活性の抑制ではなくRac-GAP活性の増強によるRacの抑制が関与していることを意味している。またS1PはEDG3細胞とEDG5細胞においてRhoを活性化したが、EDG1細胞では活性化しなかった。Cdc42は無刺激の状態である程度活性化されており、S1P刺激による変化はみられなかった。

 以上、本論文はこれまでリガンド不明であったGタンパク共役型受容体EDG1、EDG3、EDG5/AGR16がスフィンゴシン1-リン酸受容体であることを示した。またこれらの受容体が異なる情報伝達能を有し、EDG1、EDG3はGiタンパクを介してRacの活性化を引き起こしS1Pに対する細胞遊走を誘導するのに対し、EDG5はRac-GAP活性を増強しRac活性を抑制することによって細胞遊走を抑制することを明らかにした。本研究はスフィンゴシン1-リン酸の生理活性の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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