学位論文要旨



No 116437
著者(漢字) 関根,寿樹
著者(英字)
著者(カナ) セキネ,ヒサキ
標題(和) 感覚神経の刺激受容メカニズム : 嗅覚受容分子の発現クローニングと機能解析
標題(洋)
報告番号 116437
報告番号 甲16437
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1832号
研究科 医学系研究科
専攻 分子細胞生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 助教授 David,Saffen
 東京大学 講師 丹生,健一
 東京大学 講師 竹内,直信
 東京大学 助教授 川島,秀俊
内容要旨 要旨を表示する

 嗅覚は、例えば線虫にも備わる原始的な感覚神経であり、化学物質を刺激として受容する。哺乳類の嗅覚神経系は数十万とも言われる多様な匂い物質を受容識別することができる。その刺激受容メカニズムに関して近年分子生物学的手法を用いて非常に多くの知見が得られた。嗅覚は視覚と同様にGタンパク質共役型受容体(G-protein coupled receptor,GPCR)が刺激受容分子となっている。この嗅覚受容体は鼻腔に露出した嗅細胞の繊毛に存在し、げっ歯類で約1,000種類の遺伝子ファミリーに属する。また各嗅細胞は一種類の受容体のみを発現していると考えられている。ただし、嗅覚受容体が1991年に同定されてから現在までのところ特異的なリガンドが同定された嗅覚受容体はわずかであり、嗅覚受容体の構造とリガンド特異性の相関関係についてはほとんど知られていない。さらに嗅覚刺激は個体にさまざまな心理学的、生理学的な影響を与えるが、これらの嗅覚神経系の高次な生物学的作用の分子メカニズムについても多くの謎が残されている。今回、本研究では嗅覚受容体の詳細で系統的な機能解析と生物学的役割を明らかにするため、8種類のいわゆる「みどりの香り」物質をリガンドとして選択し、これらの匂い物質に対するマウスの嗅細胞の応答特性の解析と嗅覚受容体遺伝子の単離を試みた。

 みどりの香りは植物の葉緑体膜由来の脂肪酸であるリノール酸またはα-リノレン酸のリポキシゲナーゼ代謝産物である8つの化合物からなる。これらは炭素数がいずれも6つの直鎖のアルコールまたはアルデヒドで、8つの化合物のうち二つは飽和、残り6つは不飽和の、いずれも無色の揮発性の液体で、沸点は100〜160℃の範囲にある。これら8種類の匂い物質は異なる香調を持ち、これらの匂い物質が持つ、官能基、二重結合、立体構造などの特徴が嗅覚受容体のリガンド特異性に対して何らかの影響を与えていることが予想される。また、みどりの香りは森林浴で曝露される匂い物質の集合に含まれ、生理反応、心理反応を含めた多様な影響を個体に与える可能性が示されており、匂い刺激の高次な生物学的作用の研究にも役立つと考えられる。

 嗅覚受容体の単離には、匂い応答のカルシウムイメージング法と単一細胞RT-PCR法を組合せた方法を採用した。この方法は、嗅細胞では匂いに応答して細胞内カルシウムイオン濃度が上昇するということと、嗅細胞はそれぞれ一種類の受容体のみを発現しているという知見に基づいている。この方法は、匂い受容体のheterologousな細胞系での機能解析が難しいということ、匂い物質の数が膨大になると言う嗅覚受容体研究の困難さに対して有利な手法と言える。

 まずBALB/cマウスの嗅上皮を培養皿上で個々の嗅細胞に分離した後に匂い刺激に応答して引き起こされる細胞内カルシウム濃度の変化を測定した。カルシウム指示薬fura-2AMを用いArgus50/Caシステムで指示薬の蛍光強度の変化を測定し、細胞内カルシウムイオン濃度変化を算定した。匂い物質の濃度は300μMから1mMとした。次に、匂い刺激に対しカルシウム応答を示した細胞を回収し、嗅覚受容体に保存されたアミノ酸配列からデザインしたプライマーを用い、RT-PCR法によってその細胞に発現されている受容体遺伝子を増幅した。

 みどりの香りに応答し細胞内カルシウムイオン濃度の上昇を示す嗅細胞が81個観察され、嗅細胞がこれらの構造的に類似した化合物を細胞固有の応答特性に則り識別している可能性が示唆された。今回観察された嗅細胞の応答特性は26種類である。官能基の種類に着目すると大きくアルデヒドだけに応答する細胞、アルコールだけに応答する細胞、両方に応答する細胞の3種類に分けられ、全応答細胞中それぞれ81.5%、7.4%、11.1%であった。応答特性で最も多く観察された嗅細胞は、n-hexanalとtrans-2-hexenalに応答するもので31個(38.3%)、次にn-hexanalに応答するもので22個(27.2%)であった。その他の応答特性を示した嗅細胞の個数は1〜3個であった。

 次に、みどりの香りのうちn-hexanal単独にカルシウム応答を示す一個の嗅細胞を、マイクロキャピラリーで採取した。この嗅細胞よりmRNAを抽出し逆転写反応によってcDNAを得た後、単一細胞RT-PCRを行い、約390bpのPCR産物を得た。この配列をプローブにしてマウス嗅上皮cDNAライブラリーをスクリーニングした結果、ORFの全長を含むマウス嗅覚受容体をコードすると考えられる1個のcDNAクローンmgor1を単離した。塩基配列を解析したところ、mgor1のORFは942bpの塩基配列をもち、313アミノ酸残基からなる新規のタンパク質をコードしていた。その遺伝子産物は、予想通り7回膜貫通型受容体の構造を有しており、既知の嗅覚受容体と高い相同性を有していた。もっとも相同性が高かった既知の嗅覚受容体はマウスS18で、アミノ酸同一性は58.3%であった。よく知られたラット17とのアミノ酸同一性は、28.5%であった。mGOR1は、他の嗅覚受容体と第2、第3、第6、第7膜貫通ドメインおよび第2、第3細胞内領域で特に高い相同性を示した。mGOR1はヒト、マウスおよびラットの嗅覚受容体と同様にGタンパク質共役型受容体に共通した構造がよく保存されていた。さらに、プロテインキナーゼCによるリン酸化のターゲットと推定されるセリン残基がC末端領域(S308)に存在した。

 培養細胞発現系での嗅覚受容体の機能解析を目的として、mGOR1の培養細胞内での局在を二つの方法で確認した。はじめに、受容体のC末端に緑色蛍光タンパク質(green fluorescent protein,GFP)を付加した遺伝子をHEK293細胞に導入した。共焦点レーザー顕微鏡で観察したところ、GFPの蛍光は細胞質に強く、受容体の細胞膜移行が不良であることが示唆された。次に、受容体タンパク質のN末にヘマグルチニンの9アミノ酸残基からなるエピトープタグ(HA)を標識として付加した遺伝子を同様にHEK293細胞に導入し、抗HA蛍光抗体で染色した後、フローサイトメトリー法によって観察した。蛍光抗体によって染色された細胞数は受容体を発現させたものと発現させないものとの間で差が認められず、GFP標識の場合と同様に受容体の細胞膜移行が極めて不良であることが示唆された。結論として次の三点が上げられる。

1.マウス嗅上皮にみどりの香りにカルシウム応答を示す嗅神経細胞が合計81個観察された。みどりの香りに応答する細胞はそれぞれの応答特性に則って匂い物質に応答を示した。応答特性別に見るとn-hexanalとtrans-2-hexanalに応答する細胞が最も多く観察され全応答細胞数の38.3%であり、次にn-hexanalに応答するもので27.2%であった。応答特性は大きく、アルデヒドに応答するもの、アルコールに応答するもの、その両方に応答するものの三群に分けられ、官能基の種類が嗅細胞の応答特性を決める最大の要因と考えられた。

2.一つの嗅細胞は複数のみどりの香り物質に応答した。一つのみどりの香り物質は複数の応答特性を持つ嗅細胞によって認識された。ほとんど全ての場合、嗅細胞は一種類の嗅覚受容体を発現していると考えられることから、嗅細胞の応答特性は嗅覚受容体タンパク質のリガンド特異性を間接的に示している。すなわち、みどりの香りによる匂い刺激に於いて、複数の匂い物質にさまざまな強さで親和性を持つ複数の嗅覚受容体が活性化され、それらの組み合わせが匂いの識別に重要であることを強く示唆している。

3.みどりの香りのうち、特にn-hexanalに応答する単一の嗅細胞からRT-PCR法によって新規の嗅覚受容体(mGOR1)遺伝子の部分配列を得、その嗅上皮cDNAライブラリーをスクリーニングして全長と考えられるcDNAを単離した。この受容体は7回細胞膜を貫通するGPCRに保存された構造を有しており、既知の嗅覚受容体と高い相同性を有していた。RT-PCRよる臓器別発現解析の結果この受容体は嗅上皮に選択的に強い発現が見られた。嗅球にも非常に弱いながら発現が見られた。されにこの受容体は培養細胞における発現系では効果的に細胞膜に輸送されないことが明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、植物が発するいわゆる「みどりの香り」を構成する匂い物質である葉緑体膜由来の8つの脂肪族アルデヒドおよびアルコールをリガンドとしてマウス嗅細胞の匂い応答性を解析し、応答細胞から嗅覚受容体を単離を試みたものである。嗅覚は視覚と同様にGタンパク質共役型受容体(G-protein coupled receptor,GPCR)が刺激受容分子となっている。この嗅覚受容体は鼻腔に露出した嗅細胞の繊毛に存在し、げっ歯類で約1,000種類の遺伝子ファミリーを形成する。しかし、嗅覚受容体が1991年に同定されてから現在までのところ特異的なリガンドが同定された嗅覚受容体はわずかであり、嗅覚受容体の構造とリガンド特異性の相関関係についてはほとんど知られていない。さらに嗅覚刺激は個体にさまざまな心理学的、生理学的な影響を与えるが、これらの嗅覚神経系の高次な生物学的作用の分子メカニズムについても多くの謎が残されている。そこで、本研究ではみどりの香りをリガンドとして、嗅細胞の応答特性を解析し、そこに発現している嗅覚受容体を単離した。本研究によって得られた結果は以下の三点である。

1.マウス嗅上皮にみどりの香りにカルシウム応答を示す嗅細胞が合計81個観察された。みどりの香りに応答する細胞はそれぞれの応答特性に則って匂い物質に応答を示した。応答特性別に見るとn-hexanalとtrans-2-hexanalに応答する細胞が最も多く観察され全応答細胞数の38.3%であり、次にn-hexanalに応答するもので27.2%であった。応答特性は大きく、アルデヒドに応答するもの、アルコールに応答するもの、その両方に応答するものの三群に分けられた。みどりの香り構成物質が持つお互いの構造的相違点は、官能基、二重結合、旋光性が挙げられるが、このうち官能基の種類が嗅細胞の応答特性を決める最大の要因であることが示唆された。

2.一つの嗅細胞は複数のみどりの香り物質に応答した。一つのみどりの香り物質は複数の応答特性を持つ嗅細胞によって認識された。ほとんど全ての嗅細胞は一種類の嗅覚受容体を発現していると考えられることから、嗅細胞の応答特性はそこに発現する嗅覚受容体タンパク質のリガンド特異性を間接的に示している。すなわち、嗅覚受容に於いて、複数の匂い物質にさまざまな強さで親和性を持つ複数の嗅覚受容体が活性化され、それらの組み合わせが匂いの識別に`重要であることを強く示唆している。

1.みどりの香りのうち、特にn-hexanalに応答する単一の嗅細胞からRT-PCR法によって一種類の嗅覚受容体遺伝子が増幅された増幅された部分配列プローブとして、嗅上皮cDNAライブラリーをスクリーニングして全長と考えられるcDNAを単離した。この受容体は7回細胞膜を貫通するGPCRに保存された構造を持った新規の嗅覚受容体(mGOR1)遺伝子で、既知の嗅覚受容体を高い相同性を有していた。RT-PCRよる臓器別発現解析の結果この受容体は嗅上皮に選択的に強い発現が見られた。嗅球にも非常に弱いながら発現が見られた。さらに培養細胞発現系での嗅覚受容体の機能解析のため、この受容体に緑色蛍光タンパク質およびヘマグルチニンエピトープタグを標識したタンパク質を培養細胞に発現させ細胞内での局在を解析したところ、mGOR1は培養細胞発現系では効果的に細胞膜に輸送されないことが示された。

 以上、本研究では構造的に類似性をもつ8つの脂肪族アルデヒドおよびアルコールを用いて、嗅細胞の匂い応答特性を明らかにした。さらに、応答細胞から単一細胞RT-PCR法によって嗅覚受容体遺伝子増幅し、全長と考えられるcDNAを単離した。現在のところ培養細胞発現系ではmGOR1の機能的再構築は成功していないが、培養細胞内での局在を明らかにし、今後の機能解析の基礎的データを得た。嗅覚神経系の最大の謎は数十万とも言われる匂い物質を約1,000種類の嗅覚受容体をもっていかにして識別しているかということであり、その詳細なメカニズムの解明が待たれる。本研究は構造的に似通った少数の匂い物質に注目して、系統的にこの問題に取り組むものであり、今後の嗅覚受容メカニズムの解明に重要な貢献を果たすものと考えられる。以上のことから、本研究は学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク