学位論文要旨



No 116451
著者(漢字) 菊地,宏久
著者(英字)
著者(カナ) キクチ,ヒロヒサ
標題(和) 在日日系ブラジル人女性と日本人女性のクラミジア感染の比較研究 : 一地方病院の外来患者を対象として
標題(洋)
報告番号 116451
報告番号 甲16451
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1846号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若井,晋
 東京大学 教授 木村,哲
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 助教授 小池,和彦
 東京大学 助教授 渡辺,知保
内容要旨 要旨を表示する

1.研究の目的と背景

 WHOの報告によればブラジルでは性感染症としてのHIV感染症例は極めて多いが(人口の約0.6%がHIVに感染してる)、日本では報告者数はわずかずつ増えて、はいるものの数は少ない(1988年:AIDS患者/HIV感染者は各々50件以下、1999年:300件/530件)。なぜこのような差が生じるのであろうか。本研究では集団の性行動をとらえる指標として、日本における性感染症の中で最も大きな広がりをもち社会や家庭内にも広がっていて性的接触を反映するとされているクラミジア感染症の抗原陽性率を用いた。調査対象は二群であり、一方はもとは同じ日本民族であるがブラジルへの移民した後に違った生活習慣の展開が予想される日系ブラジル人とし、他方は日本人とした。これら二群のクラミジア感染の疫学調査を行うことによりそこに差があれば比校検討し、その差を生んだ背景を考察しようと考えた。調査項目は検査時点でクラミジアに感染していることを示すクラミジア抗原陽性率とした。1992年から1995年まで経年的に調査を継続してきた時点で在日日系ブラジル人女性のクラミジア抗原陽性率が日本人に比較して低いことがわかり、過去の感染既往をみるためにクラミジア抗体検査についても調査を行った。そしてクラミジア感染の疫学像に影響を与えると考えられる避妊法についても調査した。さらに性感染染は自分の体を蝕むのはもちろんのことパートナーへ感染させるわけであるから自分の病態を理解しておく必要がある。治療を行うにあたり自分の病態の把握、処方薬の作用、副作用の理解がされていないと適正な内服が行われない。その意味から在日口系ブラジル人女性と日本人女性では疾病に罹患した場合それぞれの病態や内服薬の内容の理解度に差は無いかを抗生剤の内服状況を通じて調査した。喫煙が性感染症の一つの危険因子であるとの報告があることから喫煙率についても調査した。また、性感染症に直面したときのパートナーとの協力姿勢についても調査し、二群間の行動の差について検討した。

 さらに、クラミジア抗原陽性率の経時的変化に注目し、約100年前の1908年に初めて日系移民がブラジルの地に足を踏み入れた当初はクラミジア感染症に関して同じ抗原陽性率―初期値―であったものが100年の間にどのようにして感染率のずれが引き起こされたのかを数学的に推測し、その式から『集団の性行動指標』を定義し、在日日系ブラジル人女性と日本人女性の指標を求め、この指標が今後のクラミジア感染予防につながる可能性についても考察した。

2.研究の目的

 在日日系ブラジル人女性と日本人女性のChlamydia trachomatis(以下、クラミジアと呼ぶ)の感染疫学調査を行う。さらに避妊方法、抗生剤の常用スタイル、性感染症に面したときのパートナーとの協力姿勢、喫煙率についても調査を行い二群間の行動の差違を検討する。

3.対象と方法

 クラミジア・トラコマティス抗原検査(Chlamydia trachomatis ribosomal RNA同定検査):1992年10月から1999年8月。埼玉県H市総合病院産婦人科を受診した者でDNAプローブ法によるクラミジアトラコマティスribosomal RNA同定検査(以後クラミジア抗原検査と呼ぶ)により子宮頚管部クラミジア抗原検査を実施した総ての在日日系ブラジル人女性493名、日本人女性1835名の検査結果の調査を行った。

 血清によるクラミジア抗体検査、受診時に聴き取り調査による避妊法、抗生剤の内服状況、性感染症に直面したときのパートナーとの協力姿勢、喫煙率について調査し、二群間での差違を検討する。

4.結果

 クラミジア感染症について:クラミジア抗原検査陽性率は在日日系ブラジル人女性で0.41%(2/493)、日本人女性で6.8%(125/1835)と在日日系ブラジル人女性で低く、対象集団を未婚と既婚にわけて比較しても同様の結果であった。これを妊婦(中絶希望者を除く)におけるクラミジア抗原検査陽性率に視点をあててみても同様に在日日系ブラジル人女性で低いという結果であった。

 クラミジア抗原陽性率の年次推移をみた。日本人女性のクラミジア抗原陽「生率は約5%〜10%の間を変遷しているが在日日系ブラジル人女性では約0%〜1%と極めて低い罹患率を維持していた。

 クラミジア抗体陽性率においても、日本人女性28.0%に比べ在日日系ブラジル人女性3.7%で低率であった。

避妊法について:日本人女性の主たる避妊法は未婚者、既婚者ともコンドームで、ピルの使用は極めて少なかった。一方、在日日系ブラジル人女性の避妊法は、ピルが主体であり、コンドームを使用する者は既婚者、未婚者のいずれにおいても少なかった。

抗生剤の内服状況について:在日日系ブラジル人女性は抗生剤を日本人女性よりも日頃から頻繁に内服する傾向があるか、否かを検討したが結果は否定的であった。反対に日本人の方が抗生剤を頻回に内服している傾向が見られた。

パートナーとの協力姿勢、喫煙率について:在日日系ブラジル人女性は性感染症治療に関しパートナーの協力を求める度合いが高いこと、そして喫煙行動は低いことがわかった。

5.考察

 避妊法では在日日系ブラジル人女性でのコンドーム使用率が極めて低くピルの使用率が高いにもかかわらずクラミジア感染率が低い可能性が示唆された。そして日本人女性との具体的な行動様式の違いとしてパートナーとの積極的な協力姿勢、非喫煙行動、病気に対する自覚の高さが示唆された。これらの違いは両国における保険制度の違いや医療をめぐる環境の差、もしくはブラジル在住の日系ブラジル人にはなく在日日系ブラジル人特有の社会、経済的環境も関与している可能性があると考えるが詳細についての検討は今後の、課題である。

 1908年日本人がブラジルに移民した当初は日本人も日系ブラジル人も同じクラミジア抗原陽性率であったと仮定すると抗原陽性率を一つの同じ時間の関数として表すことができクラミジア抗原陽性率の変遷は差分方程式Xn+1=u(1-Xn)Xn(Xnは感染n世代のクラミジア抗原陽性率を表し、uは調査対象ことに決まる定数で性行動、時間、社会環境をも含む陽性率の変遷を表す)で表現されることがわかった。これにより『対象集団の性行動の定量的指標u』を決定し、uの値により対象集団を客観的指標によりカテゴリー化できる。現在の在日日系ブラジル人女性のケースはu≦1.0の場合に対応し、日本人女性のケースは1.05≦u≦1.11となることがわかった。在日日系ブラジル人女性のケースのようにu≦1.0の場合はクラミジア抗原陽性率が減少していることを示している。uの値に影響を与える者は今回調査した項目など総て考えられるが、uの値を大きく低下させる因子がそのその時点においては対象集団にとって極めて重要な危険因子であることがわかる。その危険因子を求めそれを排除することが重要である。この考え方によりさらに有効な性感染症の予防対策が得られる可能性を示した。

6.本研究の問題点と今後の課題

 今回の調査は一地域の一つの病院を受診した在日日系ブラジル人女性と日本人女性の間におけるクラミジア感染の疫学調査を通してこれら二群間の差を検討することにあった。調査項目はクラミジア抗原、抗体の陽性率、そしてこれら陽性率と避妊方法との関連をさぐるためめ調査対象を同院の産婦入科受診者とした。さらに性感染症の予防意識や治療の態度、性的パートナーとの性的関係の詳細などを調査したいと考えたが今回の一連の調査は一般病院の通常診療の範四の中で行っため性的パートナーの数、パートナーの国籍、性交渉の頻度、避妊以外でのコンドーム使用法の詳細などについては患者の心情を配慮し調査が出来なかった。さらに内科外来にて抗生剤の内服状況、喫煙率、パートナーとの協力姿勢についても調査した。これらの調査対象者もクラミジア感染症との関連を見る意味においては産婦入科を受診しクラミジアの検査を受けた同一者を対象とすることが望ましかったが、別の対象と時期に対しこれら他の聴き取り調査を行った。その条件下でしか危険因子や行動の差違について議論ができなかったことは本研究の限界と考える。また対象者が一地方の一つの病院ベースであったため対象に偏りがあった可能性も否定はできず、今回の結果をもって在日日系ブラジル人全体のクラミジア感染疫学の現状を示しているとは言えないかもしれない。今後は同一母集団でのさらに偏りの少ない条件、地域下での前向き研究も含めて行なっていきたいと考える。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は1992年10月から1999年8月にかけて一地域の病院を受診した在日日系ブラジル人女性493名と日本人女性1835名に対し子宮頸管部Chlamydia trachomatis抗原(DNAプローブ法)(以下、クラミジアと呼ぶ)の感染疫学調査を行ったものである。また対象は別であるが避妊方法、クラミジア抗体検査、抗生剤の常用スタイル、性感染症に面したときのパートナーとの協力姿勢、喫煙率についても調査を行い二群間の行動の差違を検討し、下記の結果を得ている。

1. クラミジア抗原検査陽性率は在日日系ブラジル人女性で0.41%(2/493)、日本人女性で6.8%(125/1835)と在日日系ブラジル人女性で低く、対象集団を未婚と既婚にわけて比較しても、また妊婦に視点をあててみても同様の結果であった。クラミジア抗原陽性率の年次推移をみると、日本人女性のクラミジア抗原陽性率は約5%〜8%の間を変遷しているが在日日系ブラジル人女性では約O%〜1%と極めて低い陽性率を維持していた。

2. クラミジア抗体陽性率においても、日本人女性28.0%(14/50)に比べ在日日系ブラジル人女性3.7%(1/27)で低率であった。

3. 日本人女性の主たる避妊法は未婚者、既既婚者ともコンドームで、ピルの使用は極めて少なかった。一方、在日日系ブラジル人女性の避妊法は、ピルが主体であり、コンドームを使用する者は既婚者、未婚者のいずれにおいても少なかった。

4. 在日日系ブラジル人女性は抗生剤を日本人女性よりも日頃から頻繁に内服する傾向があるか、否かを検討したが結果は否定的であった。反対に日本人の方が抗生剤を頻回に内服している傾向が見られた。

5. 在日日系ブラジル人女性は性感染症治療に関しパートナーの協力を求める度合いが高いこと、そして喫煙行動は低いことがわかった。

 今回の研究により、避妊法では在日日系ブラジル人女性でのコンドーム使用率が極めて低くピルの使用率が高いにもかかわらずクラミジア感染率が低い可能性が示唆された。そして日本人女性との具体的な行動様式の違いとしてパートナーとの積極的な協力姿勢、非喫煙行動、病気に対する自覚の高さが示唆された。

 さらにクラミジア抗原陽性率の変遷にも視点をあてている。1908年日本人がブラジルに移民した当初は日本人も日系ブラジル人も同じクラミジア抗原陽性率であったと仮定すると抗原陽性率を一つの同じ時間の関数として表すことができ、クラミジア抗原陽性率の変遷は差分方程式Xn+1=u(1-Xn)Xn (Xnは感染n世代のクラミジア抗原陽性率を表し、uは調査対象ことに決まる定数で性行動、時間、社会環境をも含む陽性率の変遷を表す)で表現されることが示唆された。これにより『対象集団の性行動の定量的指標u』を決定し、uの値により対象集団を客観的指標によりカテゴリー化できる。現在の在日日系ブラジル人女性のケースはu≦1.0の場合に対応し、日本人女性のケースは1.05≦u≦1.11に対応する。在日日系ブラジル人女性のケースのようにu≦1.0の場合はクラミジア抗原陽性率が減少していることを示している。uの値に影響を与えるものは今同調査した項目など総て考えられうるが、uの値を大きく低下させる因子がそのその時点においては対象集団にとって極めて重要な危険因子であることが示唆される。その危険因子を求めそれを排除することが重要であるとしている。この考え方を用いることによりさらに有効な性感染症の予防対策が得られる可能性を示した。

 以上、本論は在日日系ブラジル人女性と日本人女性の行動の違いを通し在日日系ブラジル人女性のクラミジア抗原陽性率が低い理由を検討した。本研究はクラミジア感染症を含む性感染症予防対策に重要な貢献を成すと考えられる。よって、学位の授与に値すると考えられる。

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