学位論文要旨



No 116454
著者(漢字) 秋原,志穂
著者(英字)
著者(カナ) アキハラ,シホ
標題(和) 保育施設におけるウイルス性胃腸炎の前向き研究とアストロウイルスおよびノーウォークウイルスの分子疫学
標題(洋) A Prospective Study of Viral Gastroenteritis and Molecular Epidemiology of Astrovirus and Norwalk-like Viruses in a Day Care Center
報告番号 116454
報告番号 甲16454
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1849号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大塚,柳太郎
 東京大学 教授 高橋,泰子
 東京大学 助教授 土屋,尚之
 東京大学 講師 榊原,洋一
 東京大学 講師 國井,修
内容要旨 要旨を表示する

緒言

 急性胃腸炎は世界中の小児が罹患する最も重要な病気のひとつであり、発展途上国では死亡原因の1位あるいは2位にあたる。日本を含む先進国では下痢による死亡率は低いが、ほとんどの小児が罹患する病気であることから問題視されている.急性胃腸炎の原因は大きく細菌性と、ウイルス性に分かれるが、我が国のような先進国ではウイルスが原因となる場合が多い。下痢症ウイルスが初めて発見されたのはわずか28年前の1972年であり、ノーウォーク様ウイルス(NLVs)が米国において検出されたのが最初であるが、それ以降次々と新しいウイルスが発見されている。下痢を起こすウイルスとして最も知られているのはロタウイルスであり、その他には、NLVs、アストロウイルス、腸管アデノウイルスなどがある。特にNLVsは分離培養が未だに成功していないことから、RT-PCR法が普及する以前は確立された検査法がなかったため、研究に限界があった。近年RT-PCR法の晋及とともに研究が進み、我が国でもロタウイルスに次いで急性胃腸炎発生の原因となっいることが明らかとなった。

 これらのウイルスはしばしば保育施設、学校、病院、老人ホームなどめ施設でおきる急性胃腸炎の集団発生の原因となっている。特に保育園では呼吸器素の病気についで乳幼児の罹患率が高いことから問題となっている。乳児を預かる保育園では園内に看護婦が必ず常勤することや、嘱託医の訪問が義務づけられているなどの保健管理がなされているが、保育園内では毎年急性胃腸炎を含む様々な感染症が流行する。Bar tlettらは集団生活をしている乳幼児は家庭で保育されている乳幼児に比べて下痢の罹患率が2倍であると報告している。

 これまでもウイルス性下痢症の前向きのコホート研究や、保育園を対象にした研究はいくつかあるが、それらのほとんどは下痢が発生した時にのみ検体を採取し、起因ウィルスを研究しているものである。ウイルス性下痢症は無症候性に感染する児がいたり、ウイルスが下痢症状のでる前に糞便中に排せつされている場合もあり、急性胃腸炎の集団発生が起きてからの観察ではウイルスの排せつ期間や伝播様式についての観察が十分できない。今まで、NLVs、アストロウイルス、ロタウイルス、アデノウイルス全てについての前向き研究はなされていない。さらに日本では保育園を対象とした無症候の時期を含むウイルス性下痢症の前向き研究の報告は今までにない。今回の研究は乳幼児を預かる保育園でのウイルス性下痢症の実際の発症について発症まえからの観察と原因ウィルスの同定、またそれらのウィルスと症状の関係、さらに検出したウイルスの遺伝子学的検討を行った数少ない研究である。

対象と方法

 東京都内の乳幼児を預かる1ケ所の保育園の園児を対象とし1999年6月1日から2000年7月31日までの14ヶ月間を観察期間とした。対象者は0歳児クラスの乳幼児で観察開始時には14人から開始し、最終的には新しく入園してきた園児を含め44人を7週間から61週間観察した。対象者の毎週の便検体を採取するため保育園を平均週3日訪問し、保育園内でおむつ内に排せつした便を採取した。

 ロタウイルス、NLVs、アストロウイルス、アデノウイルスについて毎週検出を行った。ロタウイルスはELISAで、アデノウイルスはELISAとRT-PCRの両方で、アストロウイルスとNLVsはRT-PCRにより検出を行った。アストロウイルス、NLVsのPCR陽性検体はシークエンスを行い、遺伝子解析を行った。アストロウイルスについては便中のslgA抗体検出ELISAを行い、特異的slgAの有無を調べた。

結果

 61週間の観察期間のなかで下痢のエピソードは107回起こり、一人あたり1年間で4.07回であった。下痢の集団発生は5回見られた。そのうち3回はアストロウイルスとNLVs、によるものであることが明らかとなり、1回はアデノウイルスによることが疑われ、あとの1回は病因が確定できなかった。

 今回はアストロウイルスとNLVsによる3回の集団発生について検討を行った。アストロウイルス1回目の集団発生は1999年6月4日に一人の女児からアストロウイルス検出されたことから始まり、その翌週にはNLVsも検出されアストロウイルスとNLVsとの混合感染であった。最終的に14人中13人がアストロウイルスに感染し、5人が混合感染であった。感染しなかったのは2ケ月の男児だけであった。

 NLVsの集団発生は12月13日に2人の園児からNLVsが検出されたことから始まり、16人中15人の感染が確認された。6月にNLVsに感染した5人はすべてこの時にも感染した。NLVs集団発生の期間中、NLVの感染が続いているなかで、数日以上NLVsの排出が見られなくなり、その後再びNLVsの排出をするという症例が3例に見られた。またその3例中、1例はNLVsの排出がない時期にアストロウイルスの検出が見られた2回目のアストロウイルスの集団発生は2000年6月5日から始まった。2000年4月に新入園児が加わり観察人数は約2倍になり、その集団発生時は対象者は33人であった。33人中25人の園児がアストロウイルスに感染し、そのうち2人は1回目のアストロウイルス発生の時にも感染していた。

 1999年8月2日から始まった集団発生はアデノウイルスが検出できていることから原因はアデノウイルスが疑われた。しかし、その後もアデノウイルスは散発的に発生したが、下痢との関係が明らかでないことと、血清型が決定できなかったことから原因とは断定できなかった。

 症状についてはアストロウイルス集団発生1回日(アストロウイルスのみに感染、アストロウイルスとNLVsの混合感染)、アストロウイルス集団発生2回目、NLVs集団発生の比較を行った。以下アストロウイルス1回目集団発生のうちアストロウイルスのみに感染した群をAst-I、アストロウイルスとNLVsに混合感染した群をmix、アストロウイルス集団発生2回めに感染した群をAst-II、NLVsの集団発生時にNLVsに感染した群をNLVsとする。ウイルス検出期間、期間内に起こした下痢の数、下痢の持続期間、発熱時の最高体温について比較したところ、Ast-IとAst-IIに違いは見られなかった。Ast-Iとmix、Ast-IとNLVsに下痢数に有意な差が見られた。またAst-IIとmix、Ast-IIとNLVsにも有意な差がみられた(P<0.05)。またAst-IIとNLVsの下痢の持続期間に有意な差が見られたが、その他の下痢の期間や最高熱には有意な差は見られなかった。

 アストロウイルス、NLVsの両方に無症候の感染が見られた。感染していても全く症状を起こさない児もあったが、下痢を起こす以前、または以降にウイルスを排せつする場合も観察された。集団発生中、アストロウイルス感染の約50%が無症候であったが、NLVs感染では93%が症候性であった。またウイルスの検出期間はアストロウイルス、NLVs共に今までの報告よりは長いことが確認された。特にNLVsは今まで成人ボランティアのデータしかなかったが、今回は乳幼児の自然感染の結果が得られた。

 アストロウイルスのslgAを観察期間を通しての便中から検出したところ、全員が感染後にslgAがすぐ上昇するわけではなかった。また、アストロウイルスの検出がみられなくても抗体値が上昇する場合もあった。

 アストロウイルスの血清型は1回めと2回めで同じ1型であった。RT-PCRで型を判別した後、シークエンスを行い、核酸、アミノ酸の配列を比較したが、どちらのレベルでも標準株であるHAstV Oxford1株と94.5%の高いホモロジーを示した。またサンプル間の変異はほとんどなく96.2-100%のホモロジーであった。

 NLVsはすべてgenogroup IIであったが、1回目の集団発生で混合感染していたのはToront型であり、1999年冬の集団ではCamberwell/Lor dsdale型で、どちらも標準株と高いホモロジーを示した。

考察

 今回の研究は東京都内にある1ケ所の保育園の園児を対象とし、14ヶ月、61週間に及ぶウイルス性下痢症に関する観察を行った結果、1回のアストロウイルスとNLVsの混合感染、1回のアストロウイルス、1回のNLVsの集団発生を検出した。今まで下痢症ウイルスは主に冬期に発生すると言われていたが、今回の研究ではアストロウイルスは2回とも6月に発生した。夏場にアストロウイルスが検出された例も報告されているが、今回のように同じ場所で同じ6月に集団発生が起きるのは珍しい。しかし、これについての原因ははっきりしない。新しい乳幼児が保育園に入園したときは感染の危険性は高くなると考えられるが、今回は4月の入園から2ヶ月経ってからの感染であり、それのみが原因とは言い切れない。両方の集団発生で検出された遺伝子型がまったく同じであることから、他の要因について続いて観察を行うことでアストロウイルスの発生について新しい知見が得られるかもしれない。便中のslgA抗体の検出の結果、園児により抗体の上昇の仕方は様々であった。ほとんどの園児が母乳を飲んでいたので月齢の低い乳児では母乳からの移行抗体の影響も考えられるが、母乳を飲んでいた園児であってもほぼ全員がアストロウイルスに感染した。一方、すでに離乳中の子供や、離乳が完了している子供も感染し、母乳栄養の有無とウイルス感染には関連が見られなかった。母乳からの移行抗体でアストロウイルスの感染の予防はできないことが示唆される。

 NLVsの感染は1999年の6月にアストロウイルスとの混合感染で1回、1999年の12月に再度見られた。各発生はgenogroup IIによるものであったが、サプタイプの違いはあった。NLVsの抗体は再感染を完全に予防するものでないことは報告されているとおり、実際にこの研究では8ヶ月という短い期間に2回の感染をする児が認められた。

 今まで、下痢症ウイルスについては多くの疫学的な研究は行われているが、長期的な観察と検体採取が困難なこともあり、prospective studyの数は少ない。さらにほとんどは下痢が発生したときのみの検体採取であり、下痢を起こしていない場合の検討をされている場合は少ない。特に日本ではアストロウイルス、NLVsについてのこのような研究は初めてのことであり、1つの保育園内で14ヶ月の間にこれほどの下痢の集団発生が起きていることを明らかにしたことは重要なことであり、従来の衛生管理の見直しや保育園の従事者、園児の両親に対する疾病予防について関心を高めることなどが必要となってくる。さらに、それぞれのウィルスの症状の違い、無症候の感染の割合や排せつ期間について明らかにしたことは今後保育園のような施設における下痢の集団発生を予防するための手がかりとなるにだろう。今回は1ケ所のみの研究であったが、さらにこのような研究を続けることで、ウイルス性下痢症の集団発生の頻度や重症度が明らかになればワクチンの必要性が検討されることも考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は保育施設における下痢症発生頻度とその病因ウイルスを明らかにし、その病態や遺伝子系統的解析、免疫反応について明らかにするために東京都内の保育園の乳幼児を対象とし研究を行った。14ヶ月間、定期的に検体を採取しウイルス検出を行うとともに、園児の症状を観察する前向き研究を行ったものであり、下記の結果を得ている。

1. 1999年6月から2000年7月までの14ヶ月間で下痢の集団発生は5回観察された。そのうち1回はアストロウイルスとノーウオーク様ウイルス(NLVs)の混合感染によるものであり、1回はNLVsのよるもの、1回はアストロウイルスだけによるものであった。ほかの2回は病因が確定できなかった。今までにアストロウイルス、NLVsの保育園での集団発生を経時的に報告したものはなく、他め保育園でもこれらの集団発生が多く発生している可能性がある。

2. アストロウイルスの集団発生は2回とも6月に観察された。従来アストロウイルス下痢症は冬期に多いことが報告されているが、アストロウイルスが夏期における下痢の原因になっている可能性を示唆するものである。

3. アストロウイルスとNLVs感染の症状を比較した結果、下痢を起こす回数はアストロウイルスよりNLVs感染の方が多く、ウイルスの排せつの期間もNLVsの方が長いことが明らかとなった。一方、発熱や下痢の持続期間には差がなかった。また、ウイルスに感染していても症状のでない無症候の感染はアストロウイルス感染では約50%と多く、NLVs感染では7%と少なかった。

4. 今までNLVsの排せつ期間は成人のボランティア実験での結果しか報告されていなかったが、本研究における乳幼児の自然感染の調査結果から、成人の場合より長いことが分かった。

5. アストロウイルスのシークエンスの結果、1回目と2回目の集団発生は同一のウイルスによって引き起こされていることがわかり、ローカルエリアでの流行が示唆された。一方、NLVsは1回目の1999年6月と2回目の12月のウイルス株は、同じgenogroup IIの中でも違うクラスターの株であった。6月にNLVsに感染していた児は、12月にも感染し8ヶ月の間に2回感染しており、免疫が完全に感染を阻止しないことが示唆された。

6. アストロウイルスの便中のsIgAの反応について経時的に観察した結果、個人により差があり、ウイルス感染後すぐに抗体の上昇が見られない場合もあった。

 以上、本論文は保育施設の乳幼児において、ウイルス性下痢症の集団発生が頻回に起きていることを明らかにした。今まで、我が国ではこのような前向き研究はなく、特にアストロウイルスとNLVsの集団発生の頻度と特徴を明らかにしたことは、今後の保育施設内等でのウイルス性下痢症の予防に貢献することが多く、学位の授与に値するものと考えられる。

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