学位論文要旨



No 116468
著者(漢字) 井上,剛
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,ツヨシ
標題(和) ナメクジ嗅覚学習中に観察される新規コントラスト増強現象
標題(洋)
報告番号 116468
報告番号 甲16468
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第942号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 鈴木,利治
内容要旨 要旨を表示する

【はじめに】

 脳高次機能を探る研究において、現在もっとも活発に研究が行われているのは記憶、学習の分野であろう。この領域が盛んに研究が行われている背景には、記憶、学習のシナプス基盤として考えられるシナプス可塑性と呼ばれる現象が見つかったからであると考えられる。脳はたくさんの細胞、シナプスから構成されるネットワークであり、そのネットワークが情報を貯蓄するためにはその素子基盤として、シナプス可塑性のような長期伝達効率の変化が必要である。しかしこれは記憶のシナプス基盤である。それでは、生物が記憶する際、ネットワークレベルではどのような変化が起きているのであろうか?

 自然界には無数の感覚情報が存在し、生物はその中から必要な情報のみを選択的に抽出し、処理することができる。これは必要な情報(シグナル)を担う神経細胞が興奮し、不必要な情報(ノイズ)を担う神経細胞が抑制される機構が、生物の脳内に備わっているからに他ならない。これは生物が記憶する際にも必要な情報処理過程である。このような情報の抽出(シグナル・ノイズ間のコントラスト増強)が記憶獲得の際に起きないと、生物は間違った記憶を獲得してしまうであろう。このようなコントラスト増強現象は、生物が記憶する際に実際に脳内で起こっているのであろうか?もし起こっているとしたら、それではどのような脳内神経機構によって達成されているのであろうか?

 嗅覚情報処理を担う脳の領域(例えば哺乳類嗅球など)は、興奮性投射神経細胞(projection neuron;PN)と抑制性介在神経細胞(local interneuron;LN)という二種類の神経細胞によって構成されている(Fig.1A)。このような領域において、匂い認識時におけるコントラスト増強機構に関してこれまで明らかになっており、これは側抑制(Lateral Ihibition)と呼ばれている(Fig.1B)。しかし一方で、匂い学習中における脳内挙動は未だ明らかではない。その主要な原因は、生物の学習中に、中枢神経細胞からパッチクランプ法などを用いて膜電位を記録することが困難であることにある。

 そこでこのような問題点を打破するため、私は軟体動物であるナメクジの単離全脳標本を用いた学習系を修士過程において開発した。単離全脳標本の利点は、神経細胞からの電位記録が、動物個体からの記録と比べると非常に容易に行える点である。今回、この実験系を用いることによって、匂い学習中において観察される、側抑制とは異なる新規コントラスト増強現象を発見したので報告する。

【方法と結果】

(1)ナメクジ単離脳学習系における学習中の脳内膜電位変化

 ナメクジ単離全脳標本における匂いの忌避学習において、条件刺激(CS)は匂い受容体に対する誘引性の匂い刺激であり、無条件刺激(US)は求心性神経束である味覚神経束の電気刺激である。そこで学習中、すなわちCSとUSを同時に与えている際の、ナメクジ嗅覚中枢である前脳(Procerebrum;PC)における局所場電位(LFP)振動の修飾について調べた。前脳の神経細胞群(約105個)の膜電位は自発的に同期した振動活動を示すために、細胞外記録においてもLFP振動として記録することができる。その結果、このLFP振動は学習時において、その振幅は小さくなり、その振動数が上昇することが明らかになった。また同様のLFP振動の修飾はUSのみで生じることも明らかとなった。これらの結果は学習中における前脳神経細胞群の電位変化の大部分は、USによって引き起こされていることを示している。(2)US入力は前脳projection neuronを過分極させる

 そこで次に、US入力によって引き起こされる前脳神経細胞の膜電位の修飾について調べた。前脳の105個の神経細胞はPNとLNという二種類に分類され、そのシナプス構造も他種の嗅覚中枢と非常に類似している(Fig.1B)。そこで前脳神経細胞からパッチクランプ法を用いて細胞内記録を行い、USの効果を調べた。US入力である味覚神経束の電気刺激を与えると、前脳LNにおけるバースト頻度は増大した(Fig.2A;upper trace)。LNからPNへは抑制性のシナプス結合が存在するので、その結果PNへの抑制入力頻度が上昇し、結果としてPNを過分極させることが明らかとなった(Fig.2A;lower trace)。

(3)US入力は前脳projection neuronにおける膜の興奮性を増大させる

 そこで次に、PNの膜の興奮性がUS入力によってどのように修飾されるのかをしらべた。PNから細胞内記録下、一定の興奮性電流を注入すると、PNは活動電位を発射する(Fig.2B;upper trace)。そして、USを与えつつ、かつ同量の興奮性電流を注入すると、PNの活動電位の発射頻度が上昇することがわかった(Fig.2B;lower trace)。また無条件刺激時におけるこの活動電位の発射頻度の上昇は、活動電位が発射したあとの後抑制(afterhyperpolarization)が阻害されるために静止電位がすこしづつ脱分極していくためであることが明らかになった。以上をまとめると(2)および(3)における結果は、US入力はPNにおいて過分極を与えるものの、膜の興奮性は上昇させることを示している。

 以上の結果は、匂い学習中における、側抑制とは異なる神経メカニズムに基づく新規なコントラスト増強現象を示している。このコントラスト増強現象は、US入力によって達成される。US入力はPNにおいて過分極を引きおこす一方、もし匂い入力によってPNが興奮し閾値を越えると活動電位を頻回発射させる。そこで次に、味覚神経束の電気刺激(US入力)がどのような経路を介して、前脳においてコントラスト増強効果を引き起こすのかを調べることにした。

(4)US経路の同定

 味覚神経束から前脳への経路を調べるために、その二つを仲介する神経細胞を同定することを試みた。Fig.3Aには今回同定した神経細胞の形態を示している。この神経細胞は細胞体の直径が約40μmであり、ナメクジ脳において左右一対存在する、個体を越えて同定可能な神経細胞であった。その細胞体は前脳の外に存在するものの、その神経突起は高密度に前脳へ投射していることが明らかにとなった。またこの神経細胞は神経修飾物質であるセロトニン含有神経細胞であることもわかった。そこでこの神経細胞をSerotonergic Facilitator neuron(SF neuron)と名づけた。味覚神経束を電気刺激すると、SF neuronには興奮性の入力が入り、活動電位を誘発した(Fig.3B)。次にSF neuronに一定の興奮性電流を注入することによって活動電位を誘発させたところ、前脳LFP振動はUS入力によって観察される振動の修飾と同様の変化、すなわちLFP振動の振動数の上昇とその振幅の減少を示した(Fig.3C)。そしてこのようなLFP振動活動の変化は、ただ前脳にセロトニンを還流することによっても生じることが明らかになった。これらの結果はUS入力による前脳神経活動の修飾にはセロトニンが関与しているということ、そしてこのセロトニンによる変化は、主としてSF neuronを介して行われていることを示唆している。

(5)単一神経修飾物質セロトニンによるコントラスト増強現象の誘発

 そこで前脳のみを単離した標本において、セロトニンを潅流投与した際の、前脳PNおよびLNの膜電位変化について調べた。記録はパッチクランプ法による細胞内記録によって行った。セロトニンの潅流投与は、LNにおけるバースト頻度を上昇させ、PNにおける抑制性入力の頻度を上昇させた。これは結果としてPNを過分極させた。しかし一方で、セロトニン投与下における膜の興奮性の修飾に関して調べたところ、セロトニンはPNにおける活動電位発射頻度を上昇させることが明らかとなった。すなわちこれらの結果は、US入力によって誘発される前脳におけるコントラスト増強現象は、単一の神経修飾物質セロトニンによって誘発されることを示している。

【まとめと考察】

これまでの研究において、匂い(CS)入力によって誘発される側抑制と呼ばれるコントラスト増強現象およびその神経機構については明らかになっていた。そして本研究において私は、学習中における、US入力によって誘発されるコントラスト増強現象、およびその神経機構について明らかにした。学習中にはCSとUSの二つの入力が同時に入ってくる。すなわちこの二つのコントラスト増強効果によって、学習中における嗅覚中枢では、覚えるべき匂いのシグナルに対する神経可塑性がより正確に形成されていくものと考えられる。

 今回明らかになったコントラスト現象のメカニズム的に新しい点は、膜性質に関して考慮した点であろう。これまでの側抑制のメカニズムにおいては、コントラスト増強はただ単に過分極入力と脱分極入力の線形加算によって達成されていた。しかし今回明らかにしたコントラスト増強は、過分極入力と閾値以上における膜の興奮性の上昇という相反する二つの非線型加算によって達成される。膜性質を考慮することによって、構造的に固定された神経ネットワークにおいても、多くのバリエーションを持った情報処理様式を導き出すことができる。

 今後の課題としては、哺乳類嗅覚中枢におけるコントラスト増強現象の存在の有無を調べ、その神経メカニズムを明らかにすることであろう。具体的な実験法としては、動物が学習する際の嗅球神経細胞からの細胞内記録(in vivo intracellular or patch clamp recording)が必須であると考えられる。

Fig.1A 嗅覚中枢のシナプス結合様式,Fig.1B (左)嗅覚中枢における匂い認識時におけるコントラスト増強現象(側抑制)。明るい細胞の色は脱分極、暗い細胞の色は過分極を示す。匂い入力によって興奮したPNはLNを興奮させ、LNの興奮はその他のPNを過分極させる。(右)本研究の目的

Fig.2A US入力による前脳神経細胞の膜電位の変化,Fig.2B US入力によるPNの膜の興奮性の修飾。

Fig.3A SFneuronの形態。矢尻はその細胞体を示す。また丸印は前脳(PC)を示す。Fig.3 BUS入力に対するSFneuronの応答。Fig.3C SFneuron活動電位に対する前脳LFP振動の修飾。

審査要旨 要旨を表示する

 学習・記憶のメカニズムの解明において,最も重要な課題の一つは,学習中に脳内で起こっている変化をリアルタイムに観測することである.井上が修士課程において開発した,軟体動物ナメクジの単離全脳標本を用いたin vitro学習系はこれを可能にするものである.本研究は,この実験系を用いて,匂い学習中において新規コントラスト増強現象を発見し,そのメカニズムを解析したものである.

 コントラスト増強は,生物が自然界に存在する無数の感覚情報の中から必要な情報のみを選択的に抽出し,処理するために備わっている情報処理メカニズムの一つである.必要な情報(シグナル)を担う神経細胞が興奮し,不必要な情報(ノイズ)を担う神経細胞が抑制される.嗅覚情報処理を担う脳の領域(例えば哺乳類嗅球など)は,興奮性投射神経細胞(projection neuron;PN)と抑制性介在神経細胞(local interneuron;LN)という二種類の神経細胞によって構成されている.このような領域において,匂い認識時におけるコントラスト増強機構として,側抑制(Lateral Inhibition)が知られていた.しかしながら,匂い学習中における脳内挙動に関しては,どのようなコントラスト増強機構が存在するのか,これまでに明らかになっていなかった.

 本研究の概要は,以下の(1)一(5)の通りである.

(1)ナメクジ単離脳学習系における学習中の脳内膜電位変化

 ナメクジ単離全脳標本における匂いの忌避学習において,条件刺激(CS)は匂い受容体に対する誘引性の匂い刺激であり,無条件刺激(US)は求心性神経束である味覚神経束の電気刺激である・学習中,すなわちCSとUSを同時に与えている際の,ナメクジ嗅覚中枢である前脳(Procerebrum;PC)における局所場電位(LFP)振動の修飾について調べたところ,学習時において,その振幅は小さくなり,その振動数が上昇することが明らかになった.同様のLFP振動の変化はUSのみで生じることから,学習中における前脳神経細胞群の電位変化の大部分は,USによって引き起こされものと考えられた.

(2)US入力は前脳projection neuronを過分極させる

 US入力によって引き起こされる前脳神経細胞の膜電位の修飾について調べた.前脳の105個の神経細胞はnonbursting neuron(PNに相当)とbursting neuron(LNに相当)という二種類に分類され,そのシナプス構造も他種の嗅覚中枢と非常に類似している.そこで前脳神経細胞からパッチクランプ法を用いて細胞内記録を行い,USの効果を調べた.US入力である味覚神経束の電気刺激を与えると,前脳LNにおけるバースト頻度は増大した.LNからPNへは抑制性のシナプス結合が存在するので,その結果PNへの抑制入力頻度が上昇し,結果としてPNを過分極させることが明らかとなった.

(3)US入力は前脳projection neuronにおける膜の興奮性を増大させる

 PNの膜の興奮性がUS入力によってどのように修飾されるのかをしらべた.PNから細胞内記録下,一定の興奮性電流を注入すると,PNは活動電位を発射した.そして,USを与えつつ,かつ同量の興奮性電流を注入すると,PNの活動電位の発射頻度が上昇することがわかった.すなわち(2)および(3)における結果は,US入力はPNにおいて過分極を与えるものの,膜の興奮性は上昇させることを示している.

 以上の結果は,匂い学習中における,側抑制とは異なる神経メカニズムに基づく新規なコントラスト増強現象を示している.このコントラスト増強現象は,US入力によって達成される.US入力はPNにおいて過分極を引きおこす一方,もし匂い入力によってPNが興奮し閾値を越えると活動電位を頻回発射させる.

(4)US経路の同定

 味覚神経束から前脳への経路を調べるために,その二つを仲介する神経細胞を同定した.この神経細胞は細胞体の直径が約40μmであり,ナメクジ脳において左右一対存在する,個体を越えて同定可能な神経細胞であった.その細胞体は前脳の外に存在するものの,その神経突起は高密度に前脳へ投射していることが明らかにとなった.またこの神経細胞は神経修飾物質であるセロトニン含有神経細胞であることもわかった.そこでこの神経細胞をSerotonergic Facilitaror neuron(SFneuron)と名づけた.味覚神経束を電気刺激すると,SF neuronには興奮性の入力が入り,活動電位を誘発した.次にSF neuronに一定の興奮性電流を注入することによって活動電位を誘発させたところ,前脳LFP振動はUS入力によって観察される振動の修飾と同様の変化を示した.これらの結果はUS入力による前脳神経活動の修飾は,主としてSF neuronを介して行われていることを示唆している.

(5)単一神経修飾物質セロトニンによるコントラスト増強現象の誘発

 そこで前脳のみを単離した標本において,セロトニンを潅流投与した際の,前脳PNおよびLNの膜電位変化について調べた.記録はパッチクランプ法による細胞内記録によって行った.セロトニンの潅流投与は,LNにおけるバースト頻度を上昇させ,PNにおける抑制性入力の頻度を上昇させた.これは結果としてPNを過分極させた.しかし一方で,セロトニン投与下における膜の興奮性の修飾に関して調べたところ,セロトニンはPNにおける活動電位発射頻度を上昇させることが明らかとなった.すなわちこれらの結果は,US入力によって誘発される前脳におけるコントラスト増強現象は,単一の神経修飾物質セロトニンによって誘発されることを示した.

 以上の通り,本研究は,自身で開発したin vitro学習系を用いて,学習中にUS入力によって誘発されるコントラスト増強現象,およびその神経機構について明らかにしたものである.よって,本研究は,神経科学の分野に貢献するところ大であり,博士(薬学)の学位に値するものと認めた.

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