学位論文要旨



No 116476
著者(漢字) 永井,有紀
著者(英字)
著者(カナ) ナガイ,ユキ
標題(和) ホスファチジルセリン特異的ホスホリパーゼA1の生体内分布と発現誘導
標題(洋)
報告番号 116476
報告番号 甲16476
学位授与日 2001.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第950号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 仁科,博史
 東京大学 助教授 青木,淳賢
 東京大学 講師 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

 生体膜を構成するリン脂質のうち、極性頭部にセリン残基を持つセリンリン脂質には、ホスファチジルセリン(PS)とリゾホスファチジルセリン(LysoPS)がある。細胞膜上のpsの分布には非対称性があり、通常そのほとんどが形質膜脂質二重層の内側に局在している。細胞内のPSの機能は明らかではないが、いくつかの細胞内酵素、例えばプロテインキナーゼC、ジアシルグリセロールキナーゼなどはPSの存在下において活性が増強することが報告されている。一方、アポトーシスや血小板の活性化に伴って細胞表面にPSが露出することが知られているが、このPSは死細胞が貧食される際のマーカーや血液凝固カスケードの足場として機能する。また、PSのアシル基が1つ加水分解されて生じるLysoPSは、ラット腹腔肥満細胞の活性化に必須であること、ヒト末梢T細胞の増殖を抑制すること、神経細胞の突起伸展を増強することなどから、生理活性を持つ機能性リン脂質として位置づけ得る。しかしその産生機構はこれまでほとんど明らかになっていない。

 当教室ではこれまでにホスファチジルセリン特異的ホスホリパーゼA1(PS-PLA1)の生化学的解析を行ってきた。本酵素はリン脂質の中でもPSの1位脂肪酸鎖を特異的に加水分解することより、上記のようなセリンリン脂質の機能発現に何らかの形で関与していると予想される。私は修士課程において、本酵素のクローニング、発現解析を行った。博士課程では、本酵素の発現が生体内の様々な部位で誘導されることを見出し、詳細な検討を行った。また、本酵素の生理的意義を明らかにするため、ノックアウトマウスおよび過剰発現マウスを作製した。

1.リポ多糖(LPS)投与による発現誘導

 まずノーザンブロットにより正常個体におけるPS-PLA1の臓器分布を調べた。ラットでは血小板に多く発現していたが、その他の臓器では肺、心臓を除き少なかった。これに対し、ヒト、マウスの血小板は本酵素を全く発現しておらず、肝臓など種々の臓器に発現が見られ、種によってPS-PLA1の発現パターンが異なることがわかった。一方ラットにLPSによりエンドトキシンショックを誘発した場合、本酵素の発現量はほとんどの臓器で大きく上昇しており、血漿中にもPS-PLA1タンパクが検出された。また、組織中にもPS-PLA1タンパクが検出され、本来分泌性である本酵素が細胞内にも留まっていることが分かった。腎臓、肝臓などにおける誘導の経時変化を調べると、mRNAは投与後約6時間、タンパクは約16時間で最大に達しており、比較的早いが即時的ではない誘導であると考えられた。免疫組織染色により、ラットでは近位尿細管、肺胞で強い発現誘導が見られ、特定の細胞が本酵素を発現していることがわかった。

2.胸膜炎、腹膜炎モデルラット

 LPSのような全身性の炎症刺激以外でのPS-PLA1の発現を、局所的な炎症モデル動物を用いて調べた。ラットの胸腔内にカラゲナンを投与して胸膜炎を惹起し、胸腔滲出液と滲出細胞をウエスタンブロットで解析すると、エンドトキシンショックの場合とほぼ同様の経時変化を示す酵素誘導が観察された。同様の現象は腹腔内にカゼインを投与したラットでも観察された。発現の経時変化は単球・マクロファージ系細胞の滲出パターンにほぼ一致することから、これらの細胞の関与が予想された。そこで培養マクロファージ系細胞RAW264.7を用いて検討したところ、本酵素の発現は定常状態では低いものの、LPS刺激に応じて大きく増加することがわかった。このことから、生体内のマクロファージも様々な炎症性刺激に応じてPS-PLA1を発現することが予想された。

3.脳虚血-再灌流モデルラット

 ラットに中大脳動脈閉塞一再灌流の処置を施し、右大脳を巣状脳虚血の状態とした。処置後6時間、24時間、3日、7日に左右の大脳を摘出してウエスタンブロットを行うと、右大脳(虚血側)でPS-PLA1タンパクの発現誘導が見られ、発現は3日で最大になり、7日目まで持続していた。また、両大脳について免疫組織染色を行った。虚血側では血管周皮細胞に発現が見られたが、血管周皮細胞はマクロファージ様の貧食機能を持つことが知られており、周辺の傷害を受けた細胞の処理にPS-PLA1が関わる可能性が想定された。、一方、非虚血側でもオリゴデンドロサイトに発現が見られ、実際にラット胎仔から単離した培養オリゴデンドロサイトにもPS-PLA1が発現していた。組織修復、あるいは非虚血部位による虚血部位の代償のための再ミエリン化などに本酵素が関与するのかもしれない。

4.PS-PLA1ノックアウト、過剰発現マウスの作製

 PS-PLA1の発現量が種々の刺激に応じて変動することを見出したが、この現象の意義や生体への影響を調べるツールとして、本酵素のノックアウトおよび過剰発現マウスを作製した。ノックアウトマウスについてはまずマウスPS-PLA1ゲノムDNAをクローニングし、活性セリン残基を含むエキソンをネオマイシン耐性遺伝子で置換する形のターゲティングベクターを構築した。過剰発現マウスについては全身での発現レベルを上げることを目的として、β-アクチンプロモーター下にラットPS-PLA1翻訳領域を挿入したベクターを構築した。両者とも常法通りに作製し、ノックアウト1系統、過剰発現3系統を樹立した。いずれの系統のマウスも正常に発生し、外見上の異常は認められなかったが、ノーザンブロットおよび活性測定により、全身での発現量は確かに変化していることがわかった。

【まとめと考察】

 PS-PLA1の発現が各種の炎症刺激で誘導されることを見出した。この誘導には刺激数時間後より見られる‘早い反応’と、数日〜数週間にわたって見られる‘遅い反応’があった。本酵素はin vitroにおいて肥満細胞の活性化を促進したり、血液凝固系を阻害したりすることが明らかになっているが、通常の炎症惹起物質により‘早い反応’として誘導された本酵素が、実際に生体内の炎症局所において肥満細胞活性化をはじめとする何らかの効果を発揮している可能性がある。一方、虚血により遅発的かつ持続的に誘導されるタンパクには組織修復に関与するものが多いと考えられているが、脳虚血による‘遅い反応’で誘導されたPS-PLA1も、組織修復に関わる分子の一種であるのかもしれない。いずれにせよ本酵素の誘導は即時的な反応ではなかったことから、炎症の起始ではなく終結、修復、あるいは増悪化に関与するものと予想される。

 ヒトPS-PLA1はメラノーマ細胞のうち低転移性の株のみに強く発現している遺伝子の1つ(nmd遺伝子)と同一であった。本酵素がどのようなメカニズムで転移性と関連しているのかは明らかではないが、癌細胞でPSが細胞外に露出しているという報告は多数あり、また癌細胞が転移する際には腫瘍血栓(癌細胞の周囲で血小板が活性化し、癌細胞とフィブリン塊が凝集したもの)を形成することが標的組織への定着、浸潤に重要な役割を果たすと考えられていることから、低転移性の細胞では自分自身が放出したPS-PLA1が血液凝固の足場となるPSを消去してしまうために、転移に必要な凝集塊を形成することが困難になる、という仮説が考えられる。

 今回作製したノックアウトマウスおよび過剰発現マウスについて、PS-PLA1の誘導がかかる条件下での表現型(炎症の増悪化、組織修復など)を、特に本酵素の発現細胞およびその周辺に注目して詳細に調べ、さらにin vitroで認められているPS-PLA1の機能(血液凝固系の阻害、肥満細胞の活性化、癌転移への影響など)についてもマウス個体レベルで解析、証明していくことが今後の検討課題であると思われる。

審査要旨 要旨を表示する

 生体膜の構成成分の1つであるホスファチジルセリン(PS)は、通常そのほとんどが形質膜脂質二重層の内側に局在している。PSはPKC、DG キナーゼなどの活性化因子であるとともに、アポトーシスや血小板の活性化に伴って細胞表面に露出し、細胞が貧食される際のマーカーや血液凝固反応の足場として機能する。また、PSのアシル基が1つ加水分解されて生じるLysoPSについても、ラット腹腔マスト細胞の活性化に必須であること、ヒト末梢T細胞の増殖を抑制することなどから、生理活性を持つ機能性リン脂質として位置づけ得る。しかしこれらセリンリン脂質の産生・消去機構には不明の点が多い。

 「ホスファチジルセリン特異的ホスホリパーゼA1(以下PS-PLA1)の生体内分布と発現誘導」と題する本論文においては、セリンリン脂質の産生・消去の鍵酵素であると考えられるPS-PLA1の発現を詳細に解析して、本酵素が炎症刺激によって誘導されることを示し、その誘導パターンからセリンリン脂質の機能についても考察を加えている。さらにPS.PLA1の発現量変化が生体に及ぼす影響を調べるツールとして、過剰発現マウスとノックアウトマウスを作製している。

1.炎症刺激によるPS-PLA1の発現誘導

 ラットにLPSを投与してエンドトキシンショックを惹起すると、ほとんどの臓器でPS-PLA1の発現量が大きく上昇し、血漿および組織中に本酵素タンパクが検出された。誘導の経時変化を調べると、比較的早いが即時的ではない誘導であると考えられた。また、腹膜炎、胸膜炎モデル動物等の局所炎症部位でのPS-PLA1タンパクの発現を検討したところ、エンドトキシンショックの場合とほぼ同様の経時変化を示す酵素誘導が観察された。発現の経時変化は単球・マクロファージ系細胞の滲出パターンにほぼ一致することから、これらの細胞の関与が予想された。そこで培養マクロファージ系細胞をLPSで刺激したところ本酵素の誘導が見られ、生体内のマクロファージも様々な炎症性刺激に応じてPS-PLA1を発現することが予想された。

 PS-PLA1の発現誘導は脳虚血モデルラットの大脳でも観察され、梗塞部位を中心に、オリゴデンドロサイトや貧食系の血管周囲細胞においてPS-PLA1タンパクが誘導されていた。またこの誘導は2週間以上にわたって持続する、極めて遅発性の反応であった。

 これら種々のモデル動物を用いた解析から、PS-PLA1タンパクは炎症反応の比較的後期に誘導され、誘導された本酵素は傷害を受けた組織の近傍に存在し、死細胞表面に露出したPSを基質としてLysoPSを産生し、このLysoPSが組織修復的に作用するという図式が共通に想定された。

2.PS-PLA1過剰発現マウスおよびノックアウトマウスの作製

 PS-PLA1の発現量が種々の刺激に応じて変動するという結果を受け、本酵素のノックアウトマウス1系統、および過剰発現マウス3系統を作出した。これらを用いることで、今後PS-PLA1発現誘導の生理的意義や生体への影響を個体レベルで解析することが可能になると期待される。

 以上を要するに、本研究は、ホスファチジルセリン特異的ホスホリパーゼA1が様々な炎症刺激で急激に発現誘導されること、発現細胞はマクロファージを主体としていることなどを見出し、本酵素が炎症反応に関与していることを強く示唆した。また、本酵素の動物レベルでの機能を解析する目的で、過剰発現マウスおよびノックアウトマウスの作製にも成功している。以上の結果は、本酵素の生理的機能を解明する上で意義深いものであり、博士(薬学)の学位として十分な価値があるものと認められる。

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