学位論文要旨



No 116527
著者(漢字) 金,敬姫
著者(英字)
著者(カナ) キム,キョンヒ
標題(和) 『大日本国法華経験記』の成立と特質
標題(洋)
報告番号 116527
報告番号 甲16527
学位授与日 2001.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第321号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 義江,彰夫
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 三角,洋一
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 助教授 松岡,心平
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は『大日本国法華経験記』(以下、『法華験記』と略す)の成立と特質について考察するものである。

 『法華験記』は長久年間(1040〜1044)、比叡山首楞厳院の僧鎮源によって編纂された法華経霊験譚である。その構成は上・中・下巻の三巻から成っており、全部で129話(1話は、題のみで本文は欠けているため総128話)の伝から成っている。

 『法華経』は日本文学と日本人に密接な関わりをもつ経典であり、特に平安時代の日本社会に大きな影響をあたえたことは知られている。また、『法華験記』は『今昔物語集』(以下、『今昔物語』と略す)と『日本往生極楽記』(以下、『極楽記』と略す)、およびこれ以降に編纂された平安朝の往生伝の重要な典拠ともなっている。にもかかわらず、従来の研究では、『法華経』霊験譚である『法華験記』は、正当に評価されてこなかった。

 『法華験記』に関する従来の研究成果を大別すれば、歴史的視点からのものと説話文学研究の立場からのものとに分けられる。

 歴史学研究の分野では、『法華験記』は、従来、平安時代の法華信仰史もしくは古代の仏教史を研究する上での好個の史料として尊重されてきた。特に『法華験記』は、客観的な歴史史料として多くの先学により研究の対象とされてきた。そしてこの観点から、多くの重要な研究成果があげられてきた。しかしながら、これらの研究で見すごされがちであった事柄が一つある。それは、『法華験記』が、いわゆる客観的な立場からの記述ではないということである。つまり、『法華験記』は一定の信仰の立場から書かれたものであり、またその立場を弘宣しようとする意図を持つものであるという点が、これまでは等閑視されてきたのである。

 また、説話文学研究の分野では、『法華験記』は、『今昔物語集』および諸往生伝の典拠として、これらの諸文献を研究する際の脇役として位置づけられている。『法華験記』は、それから半世紀後に著された『続本朝往生伝』や『拾遺往生伝』などのように、大江匡房や三善為康の往生伝編纂に影響を与えたが、さらにその後の往生伝、例えば『三外往生記』、『扶桑寄帰往生伝』『今昔物語集』などにもその影響は及んでいる。このことから、本来、「法華」が主題である『法華験記』自体も往生伝とみなされてきた。このため『法華験記』は、これまでは『今昔物語集』と諸往生伝を研究する際の脇役として扱われ、『法華験記』そのものの世界観に関する総合的な研究はあまり無い。

歴史学的な研究にしろ、説話文学的な研究にしろ、従来の研究では、『法華験記』の一部を論じてきた、という点では一致している。つまり、『法華験記』の中の説話を解体し、(1)ひじり、(2)持経者、(3)後続の説話集への影響関係、(4)仏教史などの史料として、部分的にそれぞれの分野にあてはめるという研究方法を採り、『法華験記』テキストそのものの意義、あるいは『法華験記』がもつ独自の世界に対する位置づけはあまりされていない。要するに、これまでは、『法華験記』は仏教史あるいは文学史の中で正当に評価されてこなかったのである。

 ここで、『法華験記』が、古代と中世の仏教思想の変わり目に編纂されたという事実は、大変興味深い。従来の仏教研究では、大きく奈良、平安、院政、鎌倉仏教という時代区分で研究され、その経過は、仏教が日本に導入され定着する、すなわち、仏教が日本化していく様子を示すものとして研究されてきた。特に、平安中期から鎌倉新仏教との転換期については多くの研究があり、仏教史を述べる際、欠かすことのできない時期である。『法華験記』は長久年間(1040〜1044)、つまり白河院政開始(1086〜 )の直前に編纂された。このため、『法華験記』の編纂は、古代から中世仏教の変わり目における当時の信仰状況の一面を知る重要なてがかりとなる。この意味からも、『法華験記』は研究に値すると言える。

 ところで、本書の成立と特質を研究するにあたっては、編者鎮源の独自の編纂意図に関する考察が不可欠である。本論文では、『法華験記』を総合的に取り扱い、その独自の世界観について追求する。その際、従来の研究方法のように、『法華験記』の部分部分の説話をもって史実の確認とそれに基づき、歴史の再構成にあたるのではなく、『法華験記』テキストそのものにつらぬかれている世界観の確認、即ち『法華験記』の全体像をさぐることに目的を置く。それによって、『法華験記』の意義を日本文学史および、日本仏教史において正しく位置づける試みの第一歩とする。

 本論文は全部で五章から成り立っている。以下に、各章ごとにそのねらいをまとめた上で、本論全体の研究意義について論じたい。

 第一章は、鎮源の編纂意図をさぐるため、編者鎮源についての考察から始まった。しかし、編者に焦点をあてる場合、色々な問題点が生じてくる。というのも、鎮源の行跡についての資料は、『法華験記』の目次に「首楞厳院沙門鎮源」とあるぐらいで、そのてがかりはほんとんど見られない。そこで、本章では、鎮源をとりまく状況について論じることにした。

 鎮源が住していた横川の首楞厳院では、日本天台宗の思想的な基盤を築くような人物が集まっており、源信を中心として講会が盛んに行われていた。すなわち、来世往生のための講会である「二十五三昧会」と「迎講」、修行による現世の悟りを目指すための講会である「釈迦講」が、首楞厳院で行われていた。つまり、横川では浄土教のみならず、現世のための講会も行われていたことを知ることができる。この「釈迦講」は源信が晩年に法華経を説法した講会であったことが観察される。

 源信が『往生要集』を著したということから、従来の研究者たちは浄土教の中心的な人物として論じてきた。しかしながら、上述した「釈迦講」の例からは、源信を中心とする首楞厳院横川は、往生一辺倒ではない、多様な仏教集会の根拠地という実相を現すことになったのである。

 当時の鎮源が自分と同じ首楞厳院の住僧である源信が主催する釈迦講に参加して、多かれ少なかれ、源信の、末法の危機にともなう「往生」の考え方と、釈迦講などに見られる現世での悟りを目指す修行姿勢などの影響を受けたことは推測してよいだろう。

 第二章では、『法華験記』がどのような状況から生まれてきたのかについて述べた。本章では、その時代状況である末法思想に着目し、『法華験記』と末法の関係を明らかにすることを目指した。10世紀から12世紀にかけて、多くの霊験譚が編纂されており、それは末法の時代状況の反映でもあるといえる。従来の研究では、『法華験記』と末法の関係について具体的に述べた論はあまりない。しかし、『法華験記』の中の二つの説話、上巻第3話「叡山建立の伝教大師」と上巻第8話「出羽国竜化寺の妙達和尚」の分析から、末法による危機意識がみとめられることが証明できた。また、この二話は他の文献からの引用ではあるが、意識的に法華経信仰を強調しようと改変された痕跡が見られる。同様に他の説話からも、『法華経』による霊験を強調し、末法時代にふさわしい『法華経』を高唱する鎮源の意図が読み取れた。このことから、そもそも『法華験記』という霊験記そのものは末法とのかかわりにおいて誕生した、と言えよう。

 第三章では、『法華験記』における持経者像と反世俗化について考察した。

 第一節では、法華持経者像について論じた。具体的には、『法華験記』の中のひじりと持経者の関係に注目して持経者の実態をつかむことによって、当時の延暦寺の状況と持経者を収録した鎮源の意図について述べた。

 従来の研究では、ひじりたちを、浄土教の担い手として、あるいは中世の鎌倉新仏教と関連付けて、論じられてきた。これに対して、本論が明らかにしたのは、『法華験記』におけるひじりたちは浄土教者ではなく(もちろん、浄土教の面貌がうかがえるひじりもあることは、否定できない)、すべてが法華経持経者に帰結される構造であった、という点である。

 第二節では、『法華験記』における法華信仰者の扱いについて、特に「良源」「増賀」「源信」に注目して考察した。ここでは、比叡山延暦寺の歴史を考える際、重要と思われる良源(912〜985)の話が語られておらず、彼の弟子の増賀(917〜1003)と源信(942〜1017)の話が法華経の持者として強調されている点に主眼をおいて分析した。

 この両節ににおける考察から、鎮源が『法華験記』において、名聞利養を離れた者たちを賞揚し、反世俗性を全面に押し出していることが明らかになった。

 第四章では、『法華験記』における説話の配列と分類の問題を考察することによって、『法華験記』における浄土教の位置づけを明らかにした。『法華験記』における説話の配列と分類に関する従来の研究では、往生伝である『極楽記』の配列である人物中心の配列に従っている点のみが指摘されてきた。しかし、この配列が意味するものについては、論じられていない。これについては、本稿の考察を通じて、『法華験記』の配列には平安時代の往生思想を取り込もうとする鎮源の編纂意図が反映されていることを、読みとることができた。

 第五章では、全体のしめくくりとして、来世往生思想と現世利益思想および当時の様々な信仰が『法華験記』において叙述されていることの意味について述べ、そこから法華信仰の再編成を目指した鎮源の意図をさぐった。この考察から、『法華験記』は往生伝ではなく、往生思想をはじめ密教、観音信仰など様々な信仰を含んだ法華経信仰の物語であり、それによって、現世と来世における末法のための救済策として提示されている様子が読み取れた。これは、末法の危機意識によって伝統的な信仰(密教)が否定される中で、浄土教が日本社会に広まった、という従来の考え方とは、異なる様相を呈している。

 以上のように、『法華験記』の成立と特質について、編者鎮源の編纂意図と結び付け、考察してきた。『法華験記』の主題は結局のところ、法華経の霊験を伝えるためのものであり、末法の時代において、法華経の威力による救済(現当二世)を物語るものとして編纂された、とまとめることができる。この研究の成果は、従来の研究と異なり、『法華験記』が提起する問題を総合的に分析した。それによって、『法華験記』テキストそのものへの意義が得られ、古代・中世の変わり目における宗教の一面をつかめることができたのである。

 以上、『法華験記』に関して、従来の研究では看過されてきた事柄について本論で論じた論点をまとめた。しかしながら、本研究によって新たに浮かび上がってきた問題もある。その一つは、鎌倉新仏教と『法華験記』の関係である。

 『法華験記』が後代の諸往生伝の典拠となり、その説話の内容が現世利益と来世往生の両面をもっていた点、また、末法の危機意識の中で誕生した点などを考えると、鎌倉新仏教の法然・親鸞と日蓮とのかかわりも考慮に入れられるべきである。古代・中世の変わり目における仏教史の中では、末法思想に関連する多くの論がある。その中で特に、黒田俊雄氏が提起し、平雅行氏が確立しつつある顕密体制論(末法意識によって伝統仏教が否定され、浄土教が広まったのではなく、むしろ顕密仏教信仰が末法を自己拡大の契機として利用した、という説)については、最近末木文美士氏との論争で、大きな反響を呼んでいる。この問題にもやはり、鎌倉新仏教をめぐる問題が大きくからんでくると見られる。

 また鎌倉新仏教の創始者たちが、それぞれ浄土教と法華経を高唱したという事実も、『法華験記』の成立と特質に密接にかかわっている。ただ、平雅行氏の主張する顕密体制論は主に、平安後期から鎌倉時代への転換期の仏教について論じており、長久年間(1040〜1044)に編纂された『法華験記』をとりまく時代状況に、そのままあてはめることには、疑問の余地がある。だからといって、従来の研究における定説、すなわち、末法意識が日本社会にひろまり、それ以前の仏教(主に密教的な側面)の否定とともに浄土教がさかんになってきた、という意見を、『法華験記』にそのままあてはめることにも、賛成しがたい。というのも、『法華験記』は往生伝ではなく、往生思想をはじめとする様々な思想を取り込んだ、法華経信仰の霊験伝とみなすべきのものであるからである。少なくとも、浄土教以外の信仰によるも末法からの救済策の一つとして、数えなければならないだろう。

 しかし、本稿では、『法華験記』の成立と特質における編者の編纂意図を論じることを中心としたため、鎌倉新仏教と『法華験記』の関連については論じなかった。もちろん、このような『法華験記』の日本仏教史上・文学史上における位置づけは、考察されなければならない事柄である。しかし、今回はあくまで、『法華験記』の編者の編纂意図に重点をおき、その成立と特質について論じることにとどめた。鎌倉新仏教と『法華験記』の関係、および、『法華験記』の日本仏教史上・文学史上の位置づけは今後の課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

 このたび提出された博士学位請求論文『『大日本国法華経験記』の成立と特質』の審査は、平成13年3月16日午後3時より14号館706室で、三谷博教授(地域)・三角洋一教授(地域)・黒住真教授(地域)・松岡心平助教授(超域)・義江彰夫教授(地域・主査)、以上5人の審査員全員出席のもとで行われた。査読に基づく審査を通して以下のことが確認された。

 従来『大日本国法華経験記』編纂の意図についての研究は、日本文学・日本史学いずれの側からも本格的には行われていない。金氏は、同書成立の環境と同書構成上の特徴を具体的に分析することを通して、この問題を全面的に解明しようとした。すなわち「第一章 鎮源とその周辺」では、同書編者鎮源とは、横川で源信の弟子として法華経を軸に、阿弥陀浄土信仰を取り込もうとする修学に励んでいた人であったことを初めて明らかにする。「第二章 法華験記における末法意識」からは、同書の内的分析に入り、まず同書諸説話に末法思想が見られ、かつ法華経の霊験がそれを克服するものとして強調されていることを明示する。「第三章 『法華源記』における持経者像と反世俗化の思想」では、同書における持経者はひじりと同義であり反俗的性格を帯び、また横川の歴代僧侶にかんしては反世俗性の強い者中心に扱われていることが、初めて究明される。「第四章 『法華験記』にとりこまれる往生思想」では、同書の配列が往生伝と同じ仏弟子順であることに着目し、同書が法華経の立場から極楽往生思想を全面的に吸収しようとする意図によって編纂されたことを、鮮やかに論証している。「第五章 末法意識の中での法華思想の再編成」は、上述四章を踏まえて、同書が、全体として末法意識の強まっていく独特な時代のなかで、往生願望を取り込みつつ、逆に法華経によって末法を乗り越えようとする強靭な鎮源の意思と念願の所産であることを包括的に解き明かしている。

 以上で明らかなように、本論文は、編者の置かれた位置・時代と作品の構造分析とを徹底的に行うことによって、『法華験記』の構成・内実・編纂意図を研究史上、初めて全面的に明らかにし、またそのことを通して、この時代の仏教信仰にかんし、極楽浄土信仰ばかりを強調する従来の研究の偏りを是正し、その対極にそれを取り込みながら、法華経信仰によって現実を生き抜こうとした大きな流れがあったことを見出した意義は限りなく深い。本論文の成果に立って前後の時代を見直すならば、平安初期いらいの法華経・密教・顕教・浄土教の複合的関係や平安末期以降の浄土宗・浄土真宗・禅宗・法華宗・南都顕密諸宗の構造的関係などにも、新しい視野が開けてくるであろう。

 もちろん、本論文にも問題点はある。「第三章」で反俗性を強調するあまり、道命などやや異なる者の扱いが棚上げになったり、議論が些か単調に流れるところも無いとは言えない。史料引用にも僅かながら誤りがある。しかし、これらの問題は、本論文の上記の評価を覆すものではなく、今後の研究のなかで発展的に解決されうる事柄である。よって、慎重審議の結果、三谷・三角・黒住・松岡・義江の五審査員は、全員一致で、金敬姫『『大日本法華経験』の成立と特質』を博士(学術)を受けるに十分相応しい論文である、との結論に到達した。

UTokyo Repositoryリンク