学位論文要旨



No 116539
著者(漢字) 佐藤,義輝
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヨシテル
標題(和) 28Si標的に対する270MeV重陽子非弾性散乱におけるスピン一重並びに二重反転確率の測定
標題(洋) Measurement of Single and Double Spin-Flip-Probabilities in Inelastic Deuteron Scattering on 28Si at 270MeV
報告番号 116539
報告番号 甲16539
学位授与日 2001.05.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4045号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下浦,享
 東京大学 教授 大塚,孝治
 東京大学 助教授 久保野,茂
 東京大学 助教授 櫻井,博儀
 東京大学 客員教授 後藤,彰
内容要旨 要旨を表示する

1.序

 本論文は、重陽子偏極移行測定を用いた原子核の荷電スカラー型スピン励起状態の分光学研究を目的としたものである。原子核のスピン励起はスピン移行を伴う磁気的遷移で、その実験情報からはスピン依存チャンネルにおける核物質の性質に関する情報が得られる。例えば、励起エネルギーの系統性からは、核内核力のスピン依存部分の強度についての知見が得られる。また、磁気的遷移は核内の様々な相関効果に敏感なので、種々の核構造模型をテストする良い手段でもある。さらに、スピン励起は少数の核内核子の配置替えのみを伴う微視的性格の強い励起なので、微視的核反応模型や入射粒子−核内核子間有効相互作用をテストする良い機会を与える。原子核のスピン励起状態としてはこれまで主に、陽子非弾性散乱や陽子荷電交換反応を用いて励起される磁気双極子共鳴やガモフ・テラー共鳴が詳しく調べられてきたが、これらの反応が荷電スカラー遷移に対して選択性もしくは感受性を持たないため、荷電スカラー型スピン励起状態についての情報は今日に至るまで限られている。

 重陽子非弾性散乱における偏極移行測定は、荷電スカラー型のスピン励起状態の良い探索手段となる事が期待される。重陽子は荷電スピン量子数T=0を持つので、強い相互作用における荷電スピンの保存より、残留核の荷電スピンは標的基底状態のそれに等しい。すなわち反応は荷電スカラー遷移に対して選択的である。一方、重陽子はスピン量子数S=1を持つので標的へのスピン移行が可能である。重陽子スピン反転確率(S1)の測定が、スピン遷移と非スピン遷移を分離する良い手立てを与えると期待される。さらに、重陽子非弾性散乱は、標的中の二核子のスピン反転を伴う二段階過程を通じて、二単位のスピン移行を伴う全く新しいタイプのスピン状態を励起可能である。スピン二重反転確率(S2)がそのような励起に対する高い感受性を持つと期待される。

 本研究では、実験手法の確立と荷電スカラースピン励起強度の探索を目的として、重陽子偏極移行測定を28Si標的に対して実施し、重陽子スピン一重並びに二重反転確率を、励起エネルギー範囲4-21 MeV、散乱角度範囲2.5°-7.5°において決定した。これらのスピン反転確率は、偏極観測量を用いて次で与えられる、

スピン一重反転確率:〓,

スピン二重反転確率:〓.

ここで、A、P及びKは偏極分解能、偏極能及び偏極移行係数で、y(yy)はベクトル(テンソル)偏極を、上付(下付)添字は入射(出射)粒子の偏極を表す。S1の測定には散乱重陽子のテンソル偏極度の測定に関わるPy'y'やKy'y'yyといった観測量の決定が必要である。さらにS2の測定には散乱重陽子のベクトル偏極度の測定が必要である。

 これらのスピン反転確率は、しかしながら、入射粒子のスピン反転に関するもので、必ずしも標的のスピン反転を表さない。観測量を、入射粒子−核子間有効相互作用や標的核の構造の観点から定量的に理解するためには適当な核反応モデルに基づく解析が必要である。中間エネルギー領域での重陽子−原子核散乱の研究は、これまで適当な実験施設が無かったため、核子−原子核散乱の研究と比べて非常に遅れている。そこで、そのような核反応モデルをテストできる基礎データを得るため、本研究ではさらに、12Cと28Siの低励起離散準位(弾性散乱を含む)の断面積と偏極分解能の角度分布を取得した。実験値を歪曲波インパルス近似(DWIA)計算値と比較しモデル計算の妥当性を検討した。

2.実験

 実験は、理化学研究所リングサイクロトロン加速器施設において270 MeV偏極重陽子ビームを用いて行った。実験に先立ち、スペクトログラフの焦点面において散乱重陽子の偏極度を測定するための焦点面偏極度計DPOLを開発、整備した。重陽子スピン一重並びに二重反転確率を標的の励起エネルギーの関数として、かつ系統誤差を低く抑えて測定できるよう、DPOLはスペクトログラフの焦点面の大きな領域を覆うとともに、d+12C弾性散乱と1H(d,2p)荷電交換反応を併用することで散乱重陽子の全偏極成分を同時に測定する工夫がなされた。これらの反応の非偏極断面積並びに有効偏極分解能は較正実験により求められた。

3.実験結果及び理論計算との比較

 得られた28Siの(a)二重微分散乱断面積、(b)S1及び(c)S2の励起エネルギースペクトルを図1に示す。荷電スカラーのスピン反転遷移としては既知の1+2(9.50 MeV)に対して0.2程度の最も大きなS1値が得られた。一方、3-1(6.88 MeV)等のスピン非反転遷移に対しては0.05程度の小さなS1値が得られた。この結果は、S1が(d,d')反応におけるスピン移行と密接に結び付いた量であり、荷電スカラーのスピン反転遷移の良い指標となることを示すものである。比較的大きな0.1程度のS1値が、励起エネルギーが9.6から20 MeVの範囲において得られ、この範囲における荷電スカラー型スピン励起強度の存在が示唆された。標的の励起エネルギーが21 MeV以下の範囲について行われた今回の測定において、得られたS2は零に近い値であり、二重ガモフ−テラー共鳴状態等のスピン二重反転遷移の励起を示唆する結果は得られなかった。

 12Cと28Si標的の低励起離散準位について得た、微分散乱断面積と偏極分解能の角度分布を微視的DWIA計算の結果と比較した。計算では、現実的な核遷移密度とともに、三核子ファデーエフ計算により得られる重陽子−核子散乱振幅の厳密解を入射粒子−核子間有効相互作用として用いた。スピン移行を伴わない自然パリティ準位について、電磁気値に規格化した遷移密度を用いた計算断面積は、実験値を約2倍過大評価した。一方、スピン移行を伴う非自然パリティ準位については、計算は1に近い規格化因子で実験を再現した。偏極分解能に関しては、非自然パリティ準位に対して、より良い計算と実験との一致が得られた。単純なフォールディング模型に基づく有効相互作用を用いた計算結果と上記結果との比較からは、入射重陽子−核子間に含まれる三核子の相関効果が断面積の極大近辺の値をスピン、非スピン遷移に関わらず20-35%程度押し下げる効果を持つことが明らかとなった。

 上記DWIAの枠組を、スピン反転確率の角度分布の解釈に適用した。図2において、28Siの3-1と1+2準位のS1とS2の実験値が計算値と比べられている。3-1準位に対して得られた小さな有限のS1の値は光学ポテンシャルの歪曲効果として良く説明された。1+準位の前方におけるS1の値は、主に重陽子−核子有効相互作用の各部の相対強度によって決まることが計算から示唆された。実線で示されたDWIA計算は実験値を概ね良く再現するが、最前方のデータ点において計算値は実験値を過大評価する。前方でのS1は歪曲効果や核構造に余り依らず、この結果は、最前方点での重陽子−核子有効相互作用の各部の相対強度に修正が必要なことを示唆する。S2に関して、今回の計算は15°以下においてこの観測量が歪曲効果の影響をほとんど受けず零として矛盾のない値を持つと予想するが、実験結果と良く一致する。

4.結論

 重陽子非弾性散乱における断面積、偏極分解能並びにスピン反転確率を測定した今回の測定より、現実的な入射粒子−核子間有効相互作用を用いた歪曲波インパルス近似の枠組が、測定観測量の良い評価法となることが示唆された。併せて、重陽子スピン反転確率が標的原子核の荷電スカラー型スピン反転遷移を検出する良い指標であり、重陽子偏極移行測定が新しい核分光手段として有用なことが確認された。今後、この方法を用いた種々の標的核やその高励起側での測定により、荷電スカラー型スピン励起状態の研究や、スピン二重反転遷移の探索が系統的に進められることが期待される。

図1:Ed=270 MeVにおける28Si(〓)反応の励起エネルギースペクトル。

(a)二重微分散乱断面積、(b)スピン一重反転確率(S1)、及び(c)スピン二重反転確率(S2)。

図2:Ed=270 MeVでの(〓)反応における、28Siの3-1(6.88 MeV)準位と1+2(9.5 MeV)準位のスピン反転確率。

実線(破線)は、DWIA (PWIA)計算の結果を示す。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、重陽子非弾性散乱における偏極移行測定法を用いた、原子核の荷電スカラー型スピン励起状態の分光学研究手段の開発、28Si核への適用を論じたものである。原子核のスピン励起状態は従来、陽子非弾性散乱や荷電交換反応を用いて精力的に研究されてきたが、これらの反応が荷電ベクトル型遷移に対して強い選択性や感受性を示すため、荷電スカラー型のものについては実験情報が限られている。荷電スカラー遷移のみを選択的に励起する重陽子非弾性散乱は、そのような状態の研究に最適である。重陽子はスピン1を持つため、多数のテンソル偏極に関する偏極観測量を定義可能である。このテンソル偏極観測量は特に測定が難しく、これが、核子散乱では一般的とも言える偏極移行測定法の重陽子非弾性散乱への適用を阻む大きな要因であった。本論文では、散乱重陽子のテンソル偏極測定手法の確立に力点が置かれた。さらに、豊富に存在する偏極観測量を駆使し、2単位のスピン移行を伴う全く新しいタイプのスピン遷移を探索する試みがなされた。

 測定は、中間エネルギーの偏極重陽子ビームの利用可能な理化学研究所において、散乱重陽子の偏極測定に用いる焦点面重陽子偏極度DPOLを作製して行われた。重陽子スピン一重並びに二重反転確率を標的の励起エネルギーの関数として、かつ系統誤差を低く抑えて測定できるよう、DPOLはスペクトログラフの焦点面の大きな領域を覆うとともに、d+12C弾性散乱と1H(d,2p)荷電交換反応を併用することで散乱重陽子のベクトル並びにテンソル偏極成分を同時に測定する工夫がなされた。

 得られたスピン一重反転確率S1の励起エネルギースペクトルは、既知の荷電スカラースピン反転1+準位(9.50 MeV)に対し最も大きな値を、スピン非反転遷移に対しては零に近い値を示した。このことから、S1が標的へのスピン移行に密接に関連した量であり、標的のスピン遷移を検出する良い指標であることが確認された。励起エネルギーが9.6から20 MeVの範囲において、比較的大きな0.1程度のS1値が得られ、この範囲における荷電スカラー型スピン励起強度の存在が示唆された。スピン二重反転確率S2は今回測定が行われた21 MeV以下の励起エネルギー範囲において零として矛盾なく、スピン二重反転状態の励起を示唆する結果は得られなかった。

 本研究ではさらに、核構造情報が利用可能な低励起離散準位について得られた断面積や偏極観測量の角分布データを歪曲波インパルス近似に基づく計算値と比較することにより、核反応機構の考察がなされた。中間エネルギーでの重陽子の非弾性散乱を計算できるコードはほとんど無く、これを新しく作成することにより解析手段が整備された。三核子ファデーエフ計算により得られる重陽子−核子散乱t行列を有効相互作用として用いることにより、従来よりも高い精度の計算が行われた点はユニークである。実験値と計算値の一致は、似たエネルギー領域での陽子非弾性散乱の同様の解析に匹敵する程度に良く、とりわけ、スピン移行を伴う非自然パリティ準位についてより満足のいく結果が得られた。スピン強度のクエンチングの問題との関連においては、12Cと28Siの荷電スカラー型スピン遷移について、現実的な殻模型波動関数を用いた場合、クエンチングは見られないとの知見が得られた。

 重陽子非弾性散乱における断面積、偏極分解能並びにスピン反転確率を測定した本論文における研究により、現実的な入射粒子−核子間有効相互作用を用いた歪曲波インパルス近似の枠組が測定観測量の良い評価法となること、併せて、重陽子スピン反転確率が標的原子核の荷電スカラー型スピン反転遷移を検出する良い指標であり、重陽子偏極移行測定が新しい核分光手段として有用なことが実証された。本論文において開発された方法を用い、今後、種々の標的核やその高励起側での測定により、荷電スカラー型スピン励起状態の研究や、スピン二重反転遷移の探索が系統的に進められることが期待される。新たな核分光手段として重陽子偏極移行測定法を開発しその有効性を実証した点、また,歪曲波近似に基づく有効な解析方法を提示した点において、本論文は新規性を有するものである。

 なお、本論文は共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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