学位論文要旨



No 116546
著者(漢字) 朴,薫
著者(英字)
著者(カナ) パク,フン
標題(和) 幕末水戸藩における議論政治の形成 : '公議'の発端
標題(洋)
報告番号 116546
報告番号 甲16546
学位授与日 2001.05.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第322号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 宮地,正
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 鈴木,淳
内容要旨 要旨を表示する

 幕末から明治維新にいたる政治変革の過程において、決定的対立・対決がなかったという事は不思議である。それは諸政治勢力の間で、数多くの議論・意見交換がなされることによって、日本社会の将来についてある程度のコンセンサスが予め形成されていたことを示すのではないか。そしてそれを支えた政治・社会的制度・システム、社会慣習、社会意識などの存在を想定できるのではないか。そこで私は「公議輿論」「公論」をめぐる議論に注目するようになったわけである。ただ、全国的「公議輿論」形成の実態をより明らかにするためにはまず藩政レベルで、その手がかりを探らなければならない。何と言っても幕末政治変革の最重要の担い手である武士はまず藩政を舞台として活動した。彼らはそこから種々のシステム・意識・慣習などを生みだし、結局、全国政治の場にも持ち出され、使われたからである。この時期には藩政の当局者でない武士たちも本来自分の職分でない問題に意見を申し立て、藩主や当局者、あるいは同僚と盛んに議論を繰り返す慣行が形成されてきた。それを通じ、仕来や少数の当局者による政治でなく、ある問題をめぐり、より広い範囲の人々(武士以外の者にも拡大される)が意見や異見を申し立て、それが政治に重大な影響を及ぼし、あるいは少なくともその意見や異見を無視することはできなくなる状況が生まれてきた。つまり、身分や役職に拘束されない政治議論が政治の場で慣行化され、それが政策決定において重要な機能を果たしたのである。議論政治の形成である。この議論政治の形成こそが幕末公議輿論の発端を創ったと思われる。本稿では水戸藩を素材としてこうした問題について考えたい。

 第一章一節では後期水戸学の変通論について述べた。大義名分論として語られてきた水戸学には現状破壊的側面も濃厚にあった。これは一見矛盾する現象であろう。そこで、変通論に注目した。それは制度・慣習・思想は時勢と場合により成立したもので、時勢・場合によってはいくらでも変えられるものと捉えた。これによって、幅広い制度変革、現状破壊的意識が生まれた。しかし、彼らにとって変えられないものがあった。国体と、尊王攘夷によるその護持である。水戸学の変通論は、国体の護持という目的によって正当化されたのである。国体護持を楯にすることによって、変通論は容赦なき現状破壊的発想を打ち出すことができた。このように変通論を媒介にして始めて、水戸学の大義名分論・国体護持と現状破壊的側面は整合的に理解できるのではないか。

 第一章二節で述べたのは、水戸学の君主観の問題である。従来、大義名分論の要点は主君に対する絶対的服従だと語られてきた。私は後期水戸学の担い手たちが実際の政治行動において、ことのある度に藩主や上位権力に悉く反撥し、盛んに異議申し立てを行った事実に注目した。また、言説のレベルでも、彼らにとって重要なのは主君への絶対的・盲目的服従でなく、主君を通じた正論の実現であった。その正論というのは自分たちが排他的に独占するものであった。もし多数の意見が自分たちの意見と背馳するときは、自分の方が正論であって、多数意見を俗論と見なした。その意味では彼等の言う正論は世論・衆論と一致するものではなかった。そして、それがたとえ主君の主張であっても変わりはなかった。「何程上の御力にても邪を以て正を打候ては一人も承知不仕候。先ず第一に七郎衛門承知不仕候」(『水戸藩史料』別記上、401頁)と、主君が邪で、自分たちが正である以上、主君への服従はありえなかった。

 水戸藩関係の諸史料の中で、正論の言葉は頻出するが、世論・衆論・公議という言葉は珍しい。この事実は彼らの「正論」が明治期の「公論」に直結するものではなかったことを示している。敵対関係にある両陣営は互いに自分たちが作り出した政治意見を正論と決め込み、相手を俗論・姦論と非難しあった。相手が藩主・重役であっても屈するわけにはいかなかった。これは良い意味では上位権力から自律性をもたらしたが、それが極端に走ると、どのようなコントロールもきかなくなってしまう。水戸藩の場合、その'正論'の競り合いをシステム的にルール化し、その場を与えることは終にできず、結局'正論'の暴走が起こった。水戸藩内乱の原因の一つはここにあった。

 第一章三節で取上げたのは人材登用・言路洞開論である。後期水戸学の人材登用論の中ではまず小身執政論が注目される。これは執政は家格でなく、能力によって選ぶべきことを主張したのである。小身執政論は結局最後まで実現することはなかったが、その主唱者たちは常々執政の人事に神経を尖らせ、介入して、それが藩内紛争の大きな火種になったのである。

 一方、言路洞開論は常に、言路が閉塞した場合、上下の間に隔たりが生じて、社会全体の'一心' '一和'を損なうという語り方で主張された。幕末維新期において'人心一和'は広く共有された主題であった。その'人心一和'達成のための最も重要な手段と見なされたのが言路洞開であった。公議輿論が常に'人心一和'と連繋して主張されたこともこうした文脈からよく理解できると思う。さらにいえば明治二十三年の議会開設もその延長上で把握できる。議会開設は常に、'上下隔離'の防止、'上下一和' '闔国一致'等の言葉によって正当化された。議会開設の最大の目的は'人心一和'にあったのである。これは先に見た言路洞開論の場合と同じ形で正当化されていることが興味深い。つまり、幕末維新期における言路洞開論一公議輿論一議会開設の議論は、'人心一和'を成し遂げる手段という同じ枠組で把握することができる。

 こうした言路洞開論はまず上書・封書の活性化に繋がった。上書という政治手段は単に幕末だけでなく、明治期を貫き、建白書・意見書という形で政治世論の形成、政治意思の表明に重大なる役割を果たした。第二章では水戸藩に即してこの問題について考えてみた。上書・封書問題を考えるとき、その上呈ルートとその中で取上げられる議題の範囲が問題になる。水戸藩の場合は上書・封書が確実に藩主の手元に届くための'通事ルート'が確立された。上書者一通事一藩主というルートは家老・執政・政府員の手の届かない、一般藩士と藩主を直接に結び付けられる上呈ルートであった。実際、これは'藤田派'によって盛んに利用され、彼等の異議申し立てを支えた。この封書に対し、斉昭もしきりに直書を下し、政治議論を繰り返した。

 次に上書・封書の内容の問題である。近世社会において、自分の職分以外の問題に政治的意思を表明するのはタブーであった。しかし、'藤田派'は'職外之事'にもしきりに意見を述べてやまなかった。彼らは国家全体の命運にかかわる問題についてロを閉ざしているのがむしろ不忠だという論理を立て、あらゆる領域に対して意見を表明したのである。

 第三章では、水戸藩内訌における斉昭と東湖の位置・立場を観察してみた。従来、斉昭と東湖は同じ立場にあったと語られすぎ、両者の間での意見・立場の食い違いについてはまとまった言及がほとんどなかった。斉昭についていえば、彼は襲封から弘化元年の失脚までには門閥派に対して十分な配慮をしながら、藤田派等の独走を牽制し、藩内分裂を食い止めるに勤めた。斉昭は、藤田派の小身執政論を押し潰し、また執政人事への介入を断じて拒みつづけた。このため、斉昭と藤田派との間では葛藤・確執が絶え間なく続いた。こうした斉昭の態度に決定的転換が訪れるのが弘化元年の失脚である。自分への幕府の処罰を門閥派の仕業だと断定した斉昭は以降、門閥派・三連枝への極端な対立感情に走ったのである。

 それと逆に、東湖は斉昭失脚の教訓を踏まえ、過度な改革策の推進と門閥派への敵対的行為はむしろ改革の失敗を齎すばかりでなく、さらには藩内分裂を招くことを強調して、斉昭と藩内の過激派を戒めた。しかし、東湖が安政二年の大震災でなくなるや、藩内両派は正面衝突に至ったのである。

 最後に第四章では、南上運動を取上げた。水戸藩士民は藩や藩主の命運にかかわる重大事が起こるたびに、集団で江戸に登り、政治意思を申し立てた。それは士民の間での政治議論の場、人的つながりの存在を想定しなくては理解しがたい。そこで南上運動を支えたものとして私塾・郷校等に対して分析した。

 まず、私塾では会読などの活動を通じ、盛んに政治議論が交わされた。そこでは学問的言説、それに基づく政治路線を媒介として人的関係が結ばれた。この私塾の人的つながりは、例えば、東湖の青藍舎と会沢の南街塾という城下有名私塾同士の間、城下有名私塾と郷村私塾の間、さらには郷校との間にも広がっていた。私塾という場での政治議論、城下・郷村を問わない人的つながりが水戸藩南上を下から支えたのである。同じ事は郷校についても言える。郷校には地方有力者が集まり、日ごろから勉強・討論を通じ、学問的・政治的議論が交わされた。こうした空間の存在が南上運動を支えたのである。

 さて、士と民が提携して大規模の南上運動を起こした事実を見ると、後期水戸学の民衆観を'愚民観'と片付けるには疑問がある。私は会沢安の『新論』を通じその民衆観を再検討してみた。会沢の民衆観には二つの背景があった。一つは西洋侵入の危機である。今ひとつは民衆社会の変化である。十八世紀後半頃から、地方の民衆社会は世論を形成し始め、それを上書・献策という形で表明するようになっていた。つまり、民衆の世論社会ともいうべきものが形成され、為政者もその存在や動向を意識せざるを得なくなったのである。会沢は民衆の世論社会を西洋に奪われることなく、日本国家に一体化させようとしたのである。会沢はその方法としてオープンな空間での大嘗祭の挙行とそれへの人民レベルの参加を提唱した。いま一つ、会沢はのちの国民皆兵制のような制度を認めていた。彼は西洋の強さはキリスト教による人心一和と全人民の兵士化によるものだと認識して、日本もその導入を主張したのである。

 このように、会沢は民衆社会を政治主体とまで認めてはいないものの、民衆の世論社会を一つの政治対象として認め、その説得による日本国家への一体化を図ったのである。こうした態度は愚民観とは到底いえないだろう。

 本稿では、幕末水戸藩における中下級武士や民衆の政治世論の活性化を可能にしたメディア・場について考えてみた。幕末の政治的活性化は、上書や封書の活発化、私塾や郷校での政治議論・人的連携などに支えられたものであった。私は従来の水戸藩のイメージとは異なり、むしろ水戸藩の藩政が公議輿論の発端を創ったと考える。このような見方を一層説得的にするためには、多くの他藩のケースに対する研究や明治初期まで視野に入れた研究が必要と考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、幕末日本の水戸藩を取り上げ、その内政の分析を通じて、日本における「公議」システムの形成の発端を解明したものである。各社会がいかにして「公議」の慣習や制度を獲得したかという問題は近代史の基本問題であるが、日本に関してその初発の姿を示したのは、本論文を以て嚆矢とする。

 従来、幕末の水戸藩は、何よりも尊王攘夷思想の発祥の地、ナショナリズムの形成と王政復古の淵源と見なされてきた。本論文は、その陰で見過ごされてきたもう一つの側面、すなわち「議論政治」の形成を、実証的な史料分析を通じて明らかにする。徳川期の政治体制においては、元来議論が決定に果たす役割ははなはだ小さかった。政治的決定権は身分と職務権限によって区画されており、君主と重臣および権限分担者が各ランクで談合して行うものとされていた。これに対し、幕末の後期水戸学派の中下級武士たちは、身分と権限を無視し、ひたすら理屈を述べ立てることによって、あらゆる決定に介入する慣行を創りだし、それが尊攘思想とともに幕末の日本に拡散することになったのである。

 本論文は、この新しい政治慣行の形成を解明するにあたって、それを導いた思想としての変通論、メディアとしての上書と直書、キイパースンであった徳川斉昭と藤田東湖の関係、民衆動員の実態と組織のメディアについて、順次分析している。

 第一章は「後期水戸学の変通論と政治改革論」を扱う。従来の研究においては、後期水戸学は「大義名分」の名のもとに君臣関係の絶対性を強調したと理解されてきた。著者は、これに対し、藤田東湖を初めとするその担い手が、君主たる徳川斉昭に対し、率直な論戦を挑んでいた事実を発見し、彼らの特徴は、むしろ国家のための「大義」が身分を超えた政治行動を正統化すると見なした点にあると指摘する。彼らは、西洋による世界支配に強い危機意識をいだき、これから「国体」を護持するため、「変通」の必要を唱えた。世界の事物はつねに生成・変転の中にあるゆえ、政策や制度はすべて不変でなく、「人力」によって変革すべきものであるという世界観を背景に、大胆な政治改革の必要を高唱し、具体的には、執政に門閥でなく小身を任用せよという小身執政論や、下級家臣も君主に進言できるよう上書の制度を確立せよという言路洞開論を主張したのである。

 第二章は「封書の登場と機能」と題され、家臣からの上書と君主斉昭からの直書という双方向のコミュニケーション回路が設定・制度化された様を具体的に明らかにする。水戸では、斉昭の襲封の際、これを擁立しようとする藤田東湖たちと将軍家から養子を迎えようとする門閥派が抗争し、藤田派が勝利したが、斉昭は一方で後者の主張した封書による上書を制度化する一方、人事面では門閥派も重用した。著者は1831・2年の藩政抗争を詳細に分析し、斉昭の均衡人事政策に対して藤田派が上書と辞職の脅迫を通じて抗議し、斉昭がこれに直書で答えた結果、執政の更迭が行われたこと、さらに藤田派が、中下級家臣であっても、改革が喫緊の課題である以上、「職分」外の藩政全般に介入する権利を持つと主張したことも明らかにした。

 第三章はこの新しい政治慣行を創り出した藤田東湖と徳川斉昭の二人の主人公に焦点を絞って分析する。両者は君臣水魚の関係と言うより、つねに緊張関係にあった。1844年に将軍家から彼らが処罰される以前には、藤田が斉昭の均衡人事政策につねに抗議していたが、以後には逆に斉昭が自分を押し込めた門閥派に敵愾心を燃やし、藤田がこれを諫めるという関係に変わった。著者はこの斉昭の態度転換に、藤田派が持ち込んだ議論政治という新しい政治慣行が、止めどのない藩政抗争に転化し、水戸藩を自壊に導いた一因を認めている。

 第四章は眼を周辺に転じ、三度発生した集団的なデモンストレーションとその政治議論空間の拡大に持った意味を分析する。斉昭の襲封問題を皮切りに、水戸藩では、家臣と上層の領民が集団を組んで江戸に上り、藩政府と親族の大名に働きかけるという運動が繰り返し発生し、一八五九年には約三千人が屯集するという規模に達した。著者は事実経過を詳細に記述した後、その参加者の構成と組織基盤を分析した。二度目の斉昭雪冤運動からの特徴は上層民衆、とくに神官が数多く参加した点にあるが、それは、藤田派が私塾と郷校を通じて養っていた学問的ネットワークが郡奉行の下役・村役人・神職などを巻き込んでおり、それが政治目的に転用されることによって可能となった。この運動は、無断外出や徒党や越訴の禁という基本法を公然と破るものであったが、幕府や藩の処分はかなり軽いものであった。著者はそこに、一八世紀後半から近世権力が領内からの上書を求め、それを通じてなし崩し的に異議申し立ての慣習が成長し、暗黙裏に正統性を獲得しつつあった趨勢を見いだし、後期水戸学が通説のように愚民観に立つものでなく、むしろこの民衆の世論社会の成長を積極的に認め、動員しようとするものであったことを示している。

 本論文の結論は、水戸藩に関する以上の知見を、近世・近代にわたる「公論」システムの形成という長期的な展望の下に位置づけている。まず、自由な討議慣習の形成という観点から、上書の意味を対話性・公開性・批判性・参加の開放性という基準で検討し、水戸での営為が公開性の点を除き、新しい局面をもたらしたと評価する。次いで、このような議論政治を招来し、拡大したメディアとして、上書以外に学校と集会がもった役割を指摘し、その上で討議の横断的な展開には限界があり、その発達にはマス・メディアの登場を待たねばならなかったと示唆している。

 本論文は、以上の分析を、水戸に関する一次史料と先行研究を丹念に読みこなした上で展開している。史料の読みには無理がなく、論旨も明晰である。解釈上の功績としては、第一に、日本における「公論」システムの形成という重要問題について、その発端の姿を初めて明らかにすることに成功した。とくに上書や学校などのメディアの役割を解明した点、また民衆の間に武士からのイニシャティヴに呼応するような世論社会が形成されつつあったという観察は大きな貢献である。第二に、維新の発端を創りながら、研究上は長く忘れられていた水戸について、新しい光を当て、新たな意味を見いだした。尊攘と内乱で塗りつぶされ、イメージが保守と革新とに分裂していた後期水戸学派について、統一的でダイナミックな解釈を与えることに成功している。問題設定のユニークさと史料解釈の正確さ、および叙述の明晰さ、いずれをとっても第一級の論文と評して良い。

 ただし、欠陥も皆無ではない。第一に、水戸に発生した議論政治が幕末日本の「公議」政治にどう結びついたか、明らかでない。「公議」の主張は幕末・明治に一世を風靡したが、その際に水戸はほとんどイニシャティヴを取らなかった。この事実はどう説明されるのであろうか。第二に、水戸の議論政治は果てしない内乱をもたらしたが、「公議」システムの形成が一般的にもたらす緊張が、水戸ではなぜ自己崩壊にまで行き着いたのか、その説明はいまだ十分でない。総じて、近代への連続性を意識するあまり、近世に一般的なあるいは水戸に固有の国制的な制約が軽視される傾きがある。

 しかしながら、これらの難点は、本論文の独創性や実証性を考慮すると、僅かな瑕疵でしかない。審査委員会は、したがって、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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