学位論文要旨



No 116554
著者(漢字) 藤井,実
著者(英字)
著者(カナ) フジイ,ミノル
標題(和) 海洋生態系を利用したCO2固定に関する研究
標題(洋)
報告番号 116554
報告番号 甲16554
学位授与日 2001.06.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第5020号
研究科 工学系研究科
専攻 化学システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小宮山,宏
 東京大学 教授 定方,正毅
 東京大学 教授 柳沢,幸雄
 東京大学 教授 迫田,章義
 東京大学 助教授 佐藤,徹
 静岡大学 教授 鈴木,款
内容要旨 要旨を表示する

 地球温暖化防止の為に,CO2排出量の削減や大気中CO2の固定化技術が求められている.海洋生態系を利用したCO2固定は,同じ様に生態系を利用したCO2固定である陸上の植林と比べ,土地の制約がなく淡水供給の必要もないという大きな利点がある.塩害や火事になる心配もない.反面問題点は,「木が生えた分だけ炭素の固定である」という分かり易さが無いこと,樹木に比べ,固定する炭素あたりに多量の栄養塩を消費し非効率的であること等である.本研究の目的は海洋生態系利用の評価を植林と同じくらい分かり易いものにし,様々なプロセスの設計と評価を可能にすること,そして海洋生態系の炭素固定に対し,非効率的な部分の改善を図る指針を得ることである.

 本研究で得られた成果は,1)海全体の物質収支を考慮した長期の固定量予測を可能とする為の評価基準を作成したこと,2)長期の固定量予測や対策の選定に必要となる各種速度データを得る為の室内実験系を作成し,その結果は実海洋にもスケールアップ可能であることを確認したこと,3)海洋表層から深層への炭素の主要な輸送担体である,準難分解性粒子状有機物(Semi-refractory organic matter : SR-POM)の生成過程を示したこと,4)海洋生態系の炭素固定(輸送)効率を決める因子である,有機物分解過程の炭素/窒素比の経時変化を,かなり普遍的に説明可能なモデルを作成したことである.

 海洋生態系を利用したCO2固定の主要な課題は,炭素循環の流れをよりCO2固定が増加する側に一時的にずらすことである.炭素固定の出発点となるのは植物による光合成であるが,海洋においてはCO2固定量は光合成=炭素固定と単純には判断できない.では,何が指標になるのか.植物に利用可能な窒素が光合成の場である海洋表層へ供給される量は限られており,必要な窒素を海洋全体の植物が競争で利用している状態にある.重要なのは,限られた量の窒素で如何に多くの炭素を固定するかである.最も簡潔な言い方をすれば有機物が堆積物へ,あるいは表層から深層へ移行し,ある程度長期の循環に組み込まれる際,有機物中の窒素あたりの炭素量がどれだけあるかによって,固定量が決まることになる.従ってPOMの炭素/窒素比は炭素固定の効率を決める重要なパラメーターとなる.本研究で作成した鉛直1次元の炭素固定量予測モデルによっても,数十〜数百年の炭素固定に高感度であることを確認した.

有機物分解実験

 次に,POMの沈降過程を実験や海洋観測を通して明らかにする必要がある.本研究では詳細な分解速度データの収集とPOM分解の機構解明の為に実験室内での有機物分解実験を行った.

 POMの沈降と,海水の非常にゆっくりとした鉛直混合とでは,その速度におよそ千倍の開きがある.この時間差を利用して,数カ月間のPOM分解過程を把握することで100年間のCO2固定量の予測に必要なデータが揃うことになる.

 分解過程の速度論的な解析には初期条件が明確な室内培養実験系を用いた.無菌的に培養した植物プランクトンに天然の分解・捕食者を加え,暗所に置き数カ月間の有機物の変化を測定する.図1は初期有機物濃度(珪藻濃度)を変化させた場合の粒子状有機炭素(POC)の経時変化を示したものである.既往の研究例と同様に分解過程は前半の速い分解過程と,それに続く遅い分解過程に分かれるが,これらが初期有機物濃度によらずほぼ等しい分解曲線を描くことがこの研究で明らかになった.その結果から分解過程は2次反応ではなく,分解速度定数の異なる二つの1次反応の和の形で表されることが分かる.後半の分解の遅いものは表層下へ沈降可能な分解の時定数を持ち,特に準難分解性粒子状有機物(Semi-refractory POM : SR-POM)と定義する.

室内実験の海洋へのスケールアップ

 実験室での有機物分解実験は速度データの収集や反応機構解析に有効である.しかし得られた結果が海洋を代表するものでなければ意味がない.図2は実験結果と海洋での沈降粒子の観測結果を比較したものである.図中の曲線は有機物分解実験の分解速度データと,共同研究者(村重慎一郎,1999年度東京大学修士論文)による粒子サイズ分布の測定結果及び密度差の文献値からストークスの式より得られる沈降速度を用いて,フィッティングパラメーターを使用することなく求めたものである.この曲線が観測結果と非常によく一致をすることから,実験系で観察される経時変化はまさにPOMが海洋で分解・沈降してゆく過程に対応していると考えられる.

 これまでセディメントトラップのデータだけでは分解と沈降を区別することが出来ない為,POM沈降過程における分解と沈降速度の正確な把握は出来ておらず,また,POMの分解は濃度に2次であるといった認識が一般にもたれていた経緯もあるが,本研究により,POMの分解は濃度に1次,凝集(沈降速度)は濃度に0次がPOM沈降過程の主要なメカニズムであることが明らかにされた.

準難分解性粒子状有機物の生成過程

 分解速度と沈降速度との比較から,混合層下へ到達可能なPOMの大部分は準難分解性粒子状有機物(SR-POM)であり,この生成過程の把握が重要である.近年DOMをバクテリアが取り込みPOM化したものが食物連鎖に組み込まれる,マイクロバイアルループの重要性が指摘されているが,定量的にははっきりしていない.本研究における実験結果は植物プランクトン(固体成分)もいったん溶存化し,有機物のほとんどはバクテリアを経由してSR-POMに変化していくとを示唆している.

有機物分解と炭素/窒素比変化過程のモデル化

 POMの炭素/窒素比は海洋生態系によるCO2固定量を決める最重要因子である.光合成生産された有機物が混合層下へ沈降する過程での炭素/窒素比を様々な条件下で予測することが出来れば,対策評価の為の有力なツールになる.

 炭素/窒素比の高い間はPOC(粒子状有機炭素)の分解量がPON(粒子状有機窒素)の量によって決定される0次反応となっており,この間PONは見かけ上リサイクルされて減少しない.これが初期に炭素/窒素比を減少させる反応メカニズムである.

 これまで,海洋の生態系モデルは幾つも提案されているが,これらは現存量3Gt-Cに過ぎない生物部分の変動を評価するか,水質変化を予測する為のものであり.直接POMの物質収支をとるのと比べて炭素固定量の予測ツールとしては感度が低い.本研究では実験結果をふまえ,POMの分解と炭素/窒素比の変化過程をモデル化した(図3).POMの経時変化を説明する為に最小限必要な,植物プランクトン,バクテリア・捕食者,SR-POMを考慮し,これらの存在比が経時的に変化することによってPOM全体の炭素/窒素比が決まるものとした.作成したモデルはシンプルな構造であるが,植物プランクトン種や有機物組成によらず,かなり普遍的にPOMの分解過程を説明可能なものである.

有機物分解過程の温度依存性

 海洋では緯度や深度,季節の違いによって水温がかなり異なってくる.それぞれの場合ごとに速度定数を知る為に,POM分解の水温依存性を検討した.また,水温に対する分解速度定数の変化は,反応機構を知るための一助にもなる.

 POM分解の各律速過程は50kJ/mol前後の活性化エネルギーであった.この値は室温付近の温度領域では10度の上昇で速度定数が2倍になることを意味する.

対策への提言・まとめ

 図4に,POM沈降過程における炭素/窒素比の深度変化の表層水温依存性を示す.この結果は温暖化に伴う将来予測にも利用可能である.混合層下へ沈降するPOMの高C/N比化には基本的に分解の進行がより進む水温の高い海域・季節の方が有利である.このことは結果的に栄養塩類の回帰によって光合成生産量が増加することを意味する.高い炭素/窒素比を目指したCO2対策は,同時に食糧問題の積極的な解決策の一つとなる可能性も示唆している.一方,濃度依存性の検討から分解・沈降過程の有機物濃度によらない相似性が示されている.このことは,富栄養化した海域では,湾内海水の外洋との交換を促進することで水質浄化を行っても,海洋全体の炭素固定量には影響しないことを示す.むしろ貧酸素状態の解消によって温暖化ガスであるメタンの発生や,炭素固定量の減少に繋がる脱窒を抑制して温暖化防止の為に有利である可能性は高い.もちろん生態系の維持の為には限度があり,その把握も今後の工学的な課題であると思われる.

 以上のように,海洋生態系を利用したCO2固定に対し,海洋全体の収支と長期的な効果,実験−フィールド間の整合性を考慮に入れた対策評価法の基盤を作成した.更に多くの実験データや炭素/窒素比を高める条件の検討によって,より精度の高い議論と効果的な対策の選定が可能になると考える.

図1 粒子状有機炭素経時変化

図2 実験結果と海洋観測結果の比較

図3 有機物分解モデル図

図4 POM沈降過程における炭素/窒素比の深度変化の温度依存性

審査要旨 要旨を表示する

 地球温暖化防止の為に、CO2排出量の削減や大気中CO2の固定化技術が求められている。海洋生態系を利用したCO2固定は、同じ様に生態系を利用したCO2固定である植林と比べ、土地の制約が無く淡水供給の必要もないという大きな利点がある。反面、観測の困難さからCO2固定量の評価が非常に難しという欠点が存在する。海洋はひとつに繋がっておりかつ流動していることから、一部の海域の変化は他の海域に変化をもたらすことになる。一部の海域へ対策を施すのであっても、正味のCO2固定量を評価するには海洋全体の収支を考える必要があるが、従来の研究例ではこの議論が欠けている。本論文では、海洋全体の物質収支を考え、かつCO2対策として必要な今後100年間程度の炭素固定に感度の高いパラメータについて検討し、有機物の炭素/窒素比が評価基準として有効であることを示した。また、その結果重要であると考えられる有機物の分解・沈降過程について、主に光合成の大部分を占める植物プランクトンを基質として実験的に検討し、モデル化に成功している。これらにより他の海域への影響も考慮して、海洋全体の炭素固定量を評価する基盤が作成されている。論文は全部で8章からなる。

 第1章では海洋生態系を利用したCO2固定による利点・問題点をまとめている。

 第2章では、海洋生態系によるCO2固定の評価基準について述べている。海洋でのCO2固定量は単純に光合成量には比例しないこと、分解過程の粒子状有機物の炭素/窒素比は、100年程度の長期の炭素固定に対して非常に感度が高いこと等を、鉛直1次元の炭素循環モデルを作成して示した。また、関連するパラメータを重要度の高い順に整理して構造を明確化した。

 第3章では室内実験で得られる結果を、海洋観測結果に適用することを試みている。バッチ式の分解実験における有機物の濃度・サイズの経時変化が、海洋において有機物粒子が沈降する間の変化に対応すると仮定すると、実験結果から有機物粒子のフラックスと組成(炭素/窒素比)両方の鉛直分布をフィッティングパラメータを用いることなく再現出来ることが示された。また、有機物の分解パターンは植物プランクトン種、分解・捕食者の季節・海域・深度によらず同じであることから、実験結果は普遍性の高いものであると考えられる。

 第4章では、海洋深層へ炭素を輸送する役割を果たすと考えられる準難分解性粒子状有機物(SR-POM)について、その生成過程を実験的に検討した。初期の有機物形態が溶存態、粒子態に関わらず一定割合のSR-POMが生成することから、溶存態有機物を取り込んで利用する細菌を経由してSR-POMが生成されると考えることが妥当であることを示した。

 第5章では第4章の結果と、基質の炭素/窒素比を変化させた分解実験の結果を併せて、植物プランクトンの分解過程をモデル化している。モデルは様々な基質を用いた分解実験の結果を共通の速度定数で再現することができた。これにより、炭素固定量を決める重要な要素である有機物の炭素/窒素比の推定を精度よく行える可能性が高い。従来の生態系モデルは生物量変化の予測が主目的であり、デトライタスのような非生物の炭素/窒素比は一定値に固定さわている。経時変化を予測出来る本モデルは新規性の高いものである。

 第6章では5章のモデルにおける各速度定数の水温依存性について実験的に求めている。海域や深度による水温の違いに対応するとともに、反応のみかけの活性化エネルギーから、4章で求めたSR-POMの生成過程の妥当性を示した。

 第7章では得られた研究結果から、海洋生態系を利用したCO2固定に対して幾つかの重要な提言を行っている。

 第8章は研究成果のまとめである。

 以上、本論文は海洋生態系を利用したCO2固定に対し、モデル・実験の両面から重要な知見を得ており、化学システム工学の発展に大いに寄与するものである。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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