学位論文要旨



No 116557
著者(漢字) 王,能君
著者(英字)
著者(カナ) オウ,ノウクン
標題(和) 就業規則判例法理の研究 : その形成・発展・妥当性・改善
標題(洋)
報告番号 116557
報告番号 甲16557
学位授与日 2001.06.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第160号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,和夫
 東京大学 教授 田端,博邦
 東京大学 教授 落合,誠一
 東京大学 教授 能見,善久
 東京大学 教授 岩村,正彦
内容要旨 要旨を表示する

 一、日本においても台湾においても、労働条件や職場規律は就業規則によって定められており、また、労働関係は契約関係であるとされながら、就業規則の制定・改正は使用者が一方的に行うことを前提とした法制度がとられている。そこで、就業規則が使用者によって労働者に不利益に制定されたり変更された場合に、その法的効力を如何に解するかがいずれの国でも労働法上の基本的かつ重要な問題となる。

 これについては、日本では法規説と契約説の対立に発する「四派一三流」と称される学説の多彩な対立がすでに戦前に開始され、戦後において本格化していった。最高裁は、昭和43(1968)年の秋北バス事件大法廷判決において、「労働条件を定型的に定めた就業規則は、一種の社会的規範としての性質を有するだけでなく、それが合理的な労働条件を定めているものであるかぎり、経営主体と労働者との間の労働条件は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、その法的規範性が認められるに至つている(民法九二条参照)」、「新たな就業規則の作成又は変更によつて、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは、原則として、許されない‥‥が、労働条件の集合的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいつて、当該規則条項が合理的なものであるかぎり、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されない。」と判示した。これらの判旨は、学説のいずれとも異なる独自の法理として、学説の厳しい批判を受けたが、その後、数多くの最高裁・下級審判決において踏襲されて確立し、日本の労働法の中核的法理となっている。また、こうした日本の判例法理は、台湾においても、就業規則をめぐる法的諸問題に関する学説・裁判例に大きな影響を与えている。

 本稿は、秋北バス事件大法廷判決の定立した就業規則判例法理について、その形成・発展過程を学説の展開過程と関連させて考察し、判例法理の論理・判断基準・運用を包括的に解明するとともに、学説との対比においてその妥当性を検証することを目的とした。この結果、労働条件変更法理として、判例法理が相対的に最も妥当な解決を可能とするものであるとの結論に至ったので、次にはその法的構成と判断基準の改善を目指した。また、台湾における就業規則の法制・法理の形成・発展の過程、そこにおける日本の学説・判例の影響を考察し、日本の判例法理を参考にしつつ、台湾の労働関係に妥当する就業規則法理を構築することを目的とした。

 二、秋北バス事件判決の法理は独創的なものと言われているが、その萌芽は、それ以前の下級審裁判例および学説において生じていた。大法廷判決以前の下級審裁判例は、就業規則の法的性質論について法規説とりわけ経営権説が主流であったが、就業規則の変更問題については、法規説による割り切りはしておらず、妥当な解決を図るための種々の模索を行っていた。その中には、「公序良俗」、「既得権」、「信義則」、「合理的理由」などの秋北バス事件大法廷判決に通じる考え方をとる裁判例がいくつか見られ、これら裁判例は、学説からも何らかの影響を受けていたと推測できる。

 三、秋北バス事件大法廷判決は、学説の厳しい批判を受けた。まず、就業規則の法的性質については、法規説としては論旨が首尾一貫しないとされたし、そもそも法規説に立つのか、契約説に立つのかも、必ずしも明確ではなかった。しかしながら、同判決の判旨を法規説と解する大方の理解は適切なものであった。同判決は、就業規則の法的性質としては法規説の立場を採り、就業規則の不利益変更については、労働者の既得の権利を保護するために同説中の既得権理論を採ったうえで、長期的雇用慣行のもとでの集団的(統一的)な労働条件管理と労働条件変更の必要性を考慮し、既得権理論を貫徹した場合の不都合を避けるために、変更された就業規則条項が合理的なものであれば反対の労働者をも例外的に拘束する、との理論を作り出した、と解釈できる。要するに、多数意見は、下級審の裁判例においてすでに現れていた「合理性」の考え方に通じる概念を参考にし、労働者の利益保護と経営上の必要性とを斟酌して、上記の法理を作り上げたものと推測できる。

 当初は下級審裁判例は必ずしも大法廷判決に従わなかったが、最高裁は、その後のいくつかの判決において、秋北バス判決の法理を反覆表明し、また合理性判断の基準の明確化に努めた。その結果、下級審も、最高裁の判断枠組みを前提とする判断をするようになり、就業規則の合理的変更法理が判例法理として定着していった。学説においても、秋北バス判決の法理を約款理論の一種としての定型契約説と理解した上で、合理的変更法理をも支持する有力な主張が行われた。

 四、その後の判例法理は、理論上も実際上も首尾一貫していたのではなく、むしろ3回にわたって重要な変容と質的発展を遂げたと見られる。すなわち、最高裁は、就業規則の法的性質論について、秋北バス事件において法規説の立場をとったが、上記学説の定型契約説的理解と合理的変更法理の支持を背景にして、その後の電電公社帯広局事件および日立製作所武蔵工場事件において、「法規説をベースにしたもの」から「契約説をベースにしたもの」へとの転換を行った。これが判例法理の1回目の変容である。

 次いで、第1次石油危機後の経済調整の時期に入ると、長期雇用慣行を環境変化に適合させるための労働条件の変更が様々な形で必要となったが、このような実際的必要性を背景に、最高裁と下級審は、合理的変更法理の運用において、「変更された条項が合理的なものであれば、変更に対して反対する労働者をも拘束する」という「例外」を拡大していき、就業規則による労働条件の変更を正面から認める法理が確立した。これが判例法理の2回目の変容である。

 さらに、判例法理の次の発展として、労働条件の変更に関する就業規則法理が労働条件の変更に関する労使関係法理と結合するに至っている。すなわち、就業規則変更の合理性判断において、労働条件変更のために展開される労使交渉の現実を判断基準に取り込み、労使交渉の法理との整合性を図っていった。また、労働協約の不利益変更の拘束力の問題においては、就業規則の合理的変更法理と同様の判断枠組みが用いられるようになっている。

 五、他方、就業規則に関する上記の判例法理の確立・発展は、学説に大きなインパクトを与え、継続的労働関係における就業規則変更の実際的必要性を認識させた。一部の学説は、依然として判例法理に批判的な態度をとり、自らの理論を構築しているが、多くは合理的変更法理の有用性を認め、その判断基準を受け入れるようになっている。また、判例法理の判断枠組みに同調する学説は、その判断基準の定式化を試み、判例法理を補強しようとしている。結局、独自の労働条件変更法理を試みたものを除き、学説の大勢は、程度は異なるものの、判例の合理的変更法理を受け入れ、就業規則の変更法理および労働条件の変更法理を再構築しようとしている。また、独自の理論構築に向かっている学説も、判例法理を凌駕する適切な労働条件変更法理を樹立するに至っていない。こうして、判例の労働条件変更法理が相対的に最も適切な解決を与えうるものであり、現行法制のもとでは、判例法理を基本として労働条件変更法理を構築すべきものと思われる。

 このような労働条件変更法理は、労働条件の集団的形成という就業規則の機能を基盤としているので、その射程を集団的労働条件に限定すべきである。同法理は、雇用の安定を確保しつつ、経営環境の変化に対応して労働条件の柔軟な調整を行うことを可能にするものとして、基本的妥当性を有するものである。しかし、同法理の問題点としては、まず、就業規則の合理的変更に拘束力を認める法的根拠がいまだ明確ではないという点がある。これについて、学説は、使用者は長期的雇用関係において労働条件を調整する必要があるのに、その契約上の手段としての解約(解雇)が厳しく制限されていることを指摘して、同理論の実質的な妥当性を説明している。筆者は、基本的に上記学説の説明に賛成するが、就業規則の法的性質を定型契約と捉えたうえで、労基法89条の定める使用者の就業規則作成・変更権限のなかに、就業規則による労働条件の合理的な変更権限が含まれていると主張した。また、この使用者の労働条件変更権は、一種の形成権と理解できるのではないか、とも主張した。すなわち、判例の就業規則変更法理は、労使双方が新たな労働条件形成の合意を達成できない場合に、使用者による就業規則の変更による労働条件の変更権限を認めたうえで、使用者の変更権限の濫用を防止し労働者の利益を守るために変更の合理性判断という歯止めをかける法理と理解することができよう。

 また、同法理の問題点として、就業規則変更の合理性判断は、変更の必要性と変更による不利益の比較考量を中心とした総合判断によって行われるので、その結論の予測が困難であるという点が指摘され、判断基準の明確化が必要とされる。これについては、多数労働者の意見の重視が学説・判例において一つの流れとなってきており、また、労働者の多数を代表する組合との交渉を重視し、同組合との合意が存在する場合には改訂された就業規則の合理性は推定されるべきとする、との主張が有力な学説となっている。就業規則の不利益変更問題の本質は集団的労働条件の変更をめぐる労使間の集団的な利益紛争であって、本来は労使の合意によって決められるべき性格のものであるから、筆者は、上記の学説に賛成する。また、同学説は、判例法理の予測困難性という難点を大きく改善するものでもある。ただし、労使の合意に基づく就業規則の改訂の場合には、企業別組合による労働者間の利益調整が公正に行われているかどうかに関する、改訂プロセスの審査が必要となる。要するに、多数組合・労働者との合意が存在する際に、変更のプロセスを中心に、合理性審査が行われるべきである。これに対して、多数組合・労働者の同意が存在しなければ、裁判所は改定就業規則の内容を正面から審査する必要がある。これについては、合理性判断の判断要素は事案に応じて増やしていくのが適切である。これは、合理性の総合判断は、労使双方がいろいろな要素を総合的に考慮したうえでぎりぎりのラインを画して最終の合意を達成する、という団体交渉の場面に類似しているからである。たとえば、「世間相場」は、新旧就業規則の内容を比較する客観的な基準として、重要な意義を有している。

 六、他方、台湾では、就業規則法制は、使用者の一方的な作成・変更権限を前提として、その行政的な監督を図るという点で、日本の就業規則法制に類似している。この就業規則の法的効力については、日本と同様に、法規説・契約説を典型とした学説の形成が見られたが、やがて日本で確立した合理的変更法理が台湾においても導入されて発展している。筆者は、労働市場や労使関係の前提条件に違いがあるものの、就業規則法制の基本的類似性などに鑑み、「契約説をベースにした」合理的変更法理は台湾においても原則として妥当する、と主張した。しかし、総合判断としての合理性判断の定式は、台湾の労働関係の実情に即して修正される必要がある。

 日本に比して台湾の組合はその勢力が遙かに弱いという現状にあり、組合との合意に基づいて就業規則を改定する場合はごく僅かであるので、日本の合理性判断の定式における多数組合との合意による就業規則の改訂という場合は、そもそも想定できない。したがって、多数組合との合意があれば改定就業規則の合理性が推測されるといった基準は機能せず、就業規則改訂のプロセスの審査よりも、改定の内容の全面的審査が必要不可欠となる。

 また、日本では、就業規則の不利益変更については、これに反対する労働者に拘束し得ないのが原則であり、合理的な変更であれば反対労働者を例外的に拘束する、という理論において、「例外」が拡大されて、「原則」と「例外」との関係が不明確となり、合理的変更法理は労働条件の変更理論と化している。しかしながら、台湾においては、就業規則法制における労働者の意見聴取の不要性および労働市場における長期雇用システムの限定性に鑑みれば、「反対の意思を表明する労働者を拘束することはできない」という「原則」を文字通りに守りつつ、例外としての合理性判断を行うべきである。ただし、このような判断も、一種の総合判断であって、基本的に「変更の必要性」と「労働者の被る不利益」との比較考量が行われ、「代償措置の有無・程度」「同業他社の状況」「組合や従業員との交渉経過・反応」などの諸般の事情を考慮すべきである。

審査要旨 要旨を表示する

1.わが国では、労働関係は労働者と使用者間の契約関係であるとされながら、労働条件や職場規律は実際上は使用者の作成する就業規則によって定められており、また就業規則の制定・改正は使用者が一方的に行うことを前提とした法制度がとられている。そこで、使用者が就業規則を労働者に不利益に制定・変更した場合に、その法的効力をいかに解するかが労働法上の重要な問題となる。これについては、「法規説」と「契約説」の対立を基軸として多彩な学説が存在する中で、裁判所が昭和43年の秋北バス事件大法廷判決以来独自の判例法理を樹立し、これが日本の労働法の中核的法理となると共に、労働関係の実務を支配してきた。本論文は、この就業規則判例法理について、その形成・発展過程を学説の展開過程と関連させて考察し、判例法理の論理・判断基準を解明するとともに、学説との対比においてその妥当性を検証することを主要な目的とする。本論文は、このような検討の結果、判例法理が労働条件変更法理として相対的に最も妥当な解決を可能とするものであるとの立場に立ち、次にはその法的構成と判断基準の改善を目指している。また、就業規則の法制と機能が基本的に類似している台湾について、就業規則の法制・法理の形成・発展の過程を、日本の学説・判例の影響を明らかにしつつ考察し、日本の判例法理を参考としながら台湾の労働関係に妥当する就業規則法理を構築することに努めている。

 本論文は、以上のような論文の課題を述べる「はじめに−−本稿の目的」、日本の判例法理の形成過程を、戦前の学説の対立、戦後初期の学説・裁判例の展開などとの関連で考察する「第1章 就業規則法理の形成」、判例法理が学説の批判を乗り越えて定着し、発展していく過程を詳述する「第2章 就業規則判例法理の発展」、判例法理に対抗して発展する学説との対比において判例法理の妥当性を検証し、その補強を図る「第3章 就業規則判例法理の評価」、台湾において就業規則法理が日本の判例法理の影響を受けつつ形成された過程を明らかにし、日本法理の妥当性を検証する「第4章 就業規則判例法理の台湾の判例への影響」、全体の論旨を要約し今後の課題を探る「終わりに」の各章からなっている。

2.「第1章 就業規則法理の形成」は、次のように論じる。

 日本では、就業規則の法的性質と効力について、これを、それ自体で法規と同様の法規範と見る「法規説」と基本的に労働契約のひな形とみる「契約説」の対立が既に戦前に形成されていたが、戦後の就業規則法制の成立後は、これらに「根拠二分説」、「集団的契約説」などが加わり、「四派一三流」と称される多彩な学説の対立が本格化していった。最高裁は、昭和43年の上記秋北バス判決において、「労働条件を定型的に定めた就業規則は、一種の社会的規範としての性質を有するだけでなく、それが合理的な労働条件を定めているものであるかぎり、経営主体と労働者との間の労働条件は、その就業規則によるという事実たる慣習が成立しているものとして、その法的規範性が認められるに至つている(民法九二条参照)」、「新たな就業規則の作成又は変更によつて、既得の権利を奪い、労働者に不利益な労働条件を一方的に課することは、原則として、許されない‥‥が、労働条件の集合的処理、特にその統一的かつ画一的な決定を建前とする就業規則の性質からいって、当該規則条項が合理的なものであるかぎり、個々の労働者において、これに同意しないことを理由として、その適用を拒否することは許されない。」と判示した。

 上記秋北バス判決は、就業規則の法的性質については法規説をとるものと理解されたが、就業規則の不利益変更問題に関する解釈は法規説と論理が首尾一貫しないとして学説の厳しい批判を受け、後には同判決の法理を契約説と理解する学説も現れた。このように、同判決については、そもそも基本的立場が明らかでなかったが、それまでの学説・裁判例との関係を仔細に考察すれば、法規説と解する大方の理解は適切なものであったといえる。すなわち、同判決は、就業規則の法的性質については法規説に立ちつつ、就業規則の不利益変更においは労働者の既得の権利を保護する立場を採ったうえで、労働条件の集団的(統一的)な管理と変更の必要性を考慮し、変更された就業規則条項が合理的なものであればそれに反対の労働者をも例外的に拘束するとの理論を作り出した、と解釈できる。このような同判決の法理は独創的なものといわれているが、丹念に検討すれば、その萌芽はそれまでの下級審裁判例と学説において生じていた。すなわち、同判決以前の下級審裁判例は、就業規則の法的性質論について法規説とりわけ経営権説をとるものが主流であったが、就業規則の変更問題については、法規説による割切りはしておらず、妥当な解決を図るための種々の模索を行っていた。その中には、「公序良俗」、「既得権」、「信義則」、「合理的理由」など、秋北バス判決に通じる道具概念を用いた裁判例がいくつか見られ、また、それら概念は当時の法規説・契約説双方の学説に淵源を求めることができる。

3.「第2章 就業規則判例法理の発展」は次のように論じる。秋北バス判決が出された当初は、学説の批判もあって、下級審裁判例は必ずしも同判決の法理に従わなかったが、最高裁は、その後のいくつかの判決において、同判決の法理を反覆表明し、また合理性判断の基準の明確化に努めた。その結果、下級審も、最高裁の判断枠組みを前提とする判断をするようになり、就業規則の合理的変更法理が判例法理として定着していった。学説においても、秋北バス判決の法理を約款理論の一種としての定型契約説と理解した上で、合理的変更法理をも支持する有力な主張が行われた。

 その後の判例法理は、理論上も実際上も首尾一貫していたのではなく、むしろ3回にわたって重要な変容と質的発展を遂げたと見られる。すなわち、最高裁は、就業規則の法的性質論について、上記学説による定型契約説的理解と合理的変更法理の支持とを背景にして、その後の電電公社帯広局事件判決(昭和61年)などにおいて、「法規説をベースにしたもの」から「契約説をベースにしたもの」への転換を行った。これが判例法理の1回目の変容である。次いで、第1次石油危機後の経済調整の時期に入ると、長期雇用慣行を環境変化に適合させるための労働条件の変更が様々な形で必要となったが、このような実際的必要性を背景に、最高裁と下級審は、合理的変更法理の運用において、「変更された条項が合理的なものであれば、変更に対して反対する労働者をも拘束する」という「例外」を拡大していき、大曲市農協事件判決(昭和63年)などによって、就業規則による労働条件の変更を正面から認める法理を確立した。これが判例法理の2回目の変容である。さらに、判例法理の次の発展として、労働条件の変更に関する就業規則法理が労働条件の変更に関する労使関係法理と結合するに至っている。すなわち、就業規則変更の合理性判断において、労働条件変更のために展開される労使交渉の現実を判断基準に取り込み、労使交渉の法理との整合性を図っていった。また、労働協約の不利益変更の拘束力の問題においては、就業規則の合理的変更法理と同様の判断枠組みが用いられるようになっている。

4.「第3章 就業規則法理の評価」は、次のように論じる。就業規則に関する判例法理の確立・発展は、学説に大きなインパクトを与え、継続的労働関係における就業規則変更の実際的必要性を認識させた。学説は、法規説・契約説などの立場から判例法理の論理的不整合性を批判し続けているが、次第に、判例による就業規則の合理的変更法理の有用性を認め、それを自説の枠組みに取込んで、自説を再構築しつつある。例えば、法規説の中では、裁判所の合理性審査を条件とした説が、契約説の中では、就業規則の合理的変更への同意をなんらかの手法で肯定する説が、生まれている。これに対して、判例法理を正面から支持する少数の学説は、その判断基準を定式化し、同法理を補強しようとしている。さらには、労働条件変更について、就業規則の変更以外の変更手段の構築を試みる「労働契約内容変更請求権説」や「集団的変更解約告知説」なども唱えられている。これら学説の状況を全体的に見れば、独自の労働条件変更手段の構築を試みるものを除き、学説の大勢は、判例の合理的変更法理を受け入れ、就業規則の変更法理を再構築しようとしているといえる。

 継続的な労働関係においては就業規則による労働条件の一定限度の変更は不可避であるので、伝統的な法規説・契約説等に基づき、その可能性を正面から認めようとしない学説は妥当でない。また、法規説・契約説の枠組みのなかで就業規則変更による労働条件変更を一定限度で肯定しようとする学説は、いずれも、論理的整合性ないし実際的妥当性において欠陥を有している。さらに、独自の労働条件変更手段の構築に向かっている学説も、法的根拠や判断手法において、判例法理を凌駕する適切な法理を樹立するに至っていない。こうして、判例の労働条件変更法理が相対的に最も適切な解決を与えるものであり、現行法制のもとでは、判例法理を基本として労働条件変更法理を構築すべきである。

 判例の就業規則変更法理は、雇用の安定を確保しつつ、経営環境の変化に対応して労働条件の柔軟な調整を行うことを可能にするものとして、基本的妥当性を有するものである。しかし、同法理は、まず、就業規則の合理的変更に拘束力を認める法的根拠がいまだ明確ではないという問題点がある。これについて、学説のなかには、使用者は長期的雇用関係において労働条件を調整する必要があるのに、その契約上の手段としての解約(解雇)が厳しく制限されていることを指摘して、同理論の実質的な妥当性を説明するものがある。この説明には基本的に賛成できるが、理論的により突き詰めて、労基法89条の定める使用者の就業規則作成・変更権限のなかに、定型契約としての就業規則の合理的な変更権限が含まれていると考えるべきである。そして、この使用者の就業規則変更権は、一種の形成権と理解できる。すなわち、判例の就業規則変更法理は、労使双方が新たな労働条件形成の合意を達成できない場合に、就業規則の変更による使用者の労働条件変更権限を認めたうえで、その変更権限の濫用を防止し労働者の利益を守るために変更の合理性判断という歯止めをかける法理と理解することができる。

 また、判例法理のもう一つの問題点として、就業規則変更の合理性判断は、変更の必要性と変更による不利益の比較衡量を中心とした総合判断によって行われるので、その結論の予測が困難であるという点があり、判断基準の明確化が必要である。これについては、労働者の多数を代表する組合との交渉を重視し、同組合との合意が存在する場合には改訂された就業規則の合理性は推定されるべきとの主張が有力な学説となっている。就業規則の不利益変更問題の本質は集団的労働条件の変更をめぐる労使間の集団的な利益紛争であって、本来は労使の合意によって決められるべき性格のものであるので、この学説は妥当なものである。またそれは、判例法理の予測困難性という難点を大きく改善するものでもある。ただし、労使の合意に基づく就業規則の改訂の場合には、企業別組合による労働者間の利益調整が公正に行われているかどうかに関する、改訂プロセスの審査が必要となる。要するに、労働者の過半数を代表する組合との合意が存在する場合には、変更のプロセスを中心に、合理性審査が行われるべきである。これに対して、労働者の過半数を代表する組合の同意が存在しない場合には、裁判所は改定就業規則の内容を幅広い判断要素に照らして正面から審査する必要がある。これは、合理性の総合判断は、労使双方がいろいろな要素を総合的に考慮したうえでぎりぎりのラインを画して最終の合意を達成する、という団体交渉の場面に類似しているからである。たとえば、「世間相場」は、新旧就業規則の内容を比較する客観的な基準として、重要な意義を有している。

5.「第4章 就業規則法理の台湾への影響」は、次のように論じる。台湾では、就業規則法制は、使用者の一方的な作成・変更権限を前提として、その行政的な監督を図るという点で、日本の就業規則法制に類似している。この就業規則の法的効力については、日本と同様に、法規説・契約説を典型とした学説の形成が見られたが、やがて日本で確立した就業規則の合理的変更法理が台湾においても導入されて発展している。これについては、台湾では、労働市場や労使関係の前提条件に違いがあるものの、就業規則法制の基本的類似性などにかんがみ、「契約説をベースにした」合理的変更法理が原則として妥当する、と考えられる。しかし、総合判断としての合理性判断の定式は、台湾の労働関係の実情に即して修正される必要がある。すなわち、台湾では日本に比して組合の勢力がはるかに弱いという現状にあり、組合との合意に基づいて就業規則を改定する場合はごく僅かであるので、日本の合理性判断の定式における多数組合との合意による就業規則の改訂という場合は、そもそも想定できない。したがって、多数組合との合意があれば改定就業規則の合理性が推測されるといった基準は機能せず、就業規則改訂のプロセスの審査よりも、改定の内容の全面的審査が必要不可欠となる。

 また、日本の判例法理では、就業規則の不利益変更はこれに反対の労働者を拘束し得ないのを「原則」としつつ、合理的な変更であれば反対労働者を「例外」的に拘束する、という理論であったのに、前記のように、「例外」が次第に拡大されていって、就業規則の変更は必要性・不利益性等から判断して合理性があれば労働者を拘束するとの、労働条件変更法理と化している。しかしながら、台湾においては、就業規則法制において労働者の意見聴取が要件とされていないこと、および、労働市場において長期雇用システムがごく限定的にしか存在していないことにかんがみれば、「反対の意思を表明する労働者を拘束することはできない」という「原則」を文字通りに守りつつ、「例外」としての合理性判断を行うべきである。ただし、このような判断も、一種の総合判断であって、基本的に「変更の必要性」と「労働者の被る不利益」との比較衡量が行われ、「代償措置の有無・程度」「同業他社の状況」「組合や従業員との交渉経過」などの諸般の事情を考慮すべきである。

6.以上のような本論文には、次のような長所を指摘できる。

 第1に、就業規則の法的性質と効力は、労働法理論の根幹をなす難問であり、また企業の雇用人事管理・労使関係にとって実際的に重要な問題である。そして、この問題に関する判例法理は、企業や行政の法的実務を支配しつつ、複雑に発展しており、その分析と評価は労働法学の最重要課題の一つとなっている。本論文は、このような就業規則判例法理について、戦前から今日までの膨大な文献・下級審裁判例・最高裁判例を渉猟し、その形成・発展を綿密に跡づけ、分析している。要するに、本論文は、就業規則判例法理に関し、従来の研究を集大成して、最も包括的で徹底した検討を加えた研究といえる。しかも、その分析においては、これまで独自の理論と理解されてきた判例法理の形成・発展を学説の形成・発展と関連させて分析し、両者の間の興味深い相互作用を析出している。また、判例の複雑な発展過程を、法規説ベースから契約説ベースへの変容、例外の拡大による労働条件変更法理への変容、労使関係法理との結合、という三段階の変容として整理し、判例法理の理解を格段に容易ならしめている。これらの点で、本論文は、判例法理の形成・発展について独自の分析を成し遂げ、その解明に寄与している。

 第2に、本論文は、就業規則の不利益変更問題について、判例法理の相対的妥当性を検証し弱点を補強するという理論的試みを行い、これに相当程度成功している。学説は、一般に、上記問題に関する判例法理に批判的で、それとは異なる独自の解決方法の構築に努めてきたが、本論文は、それら学説が提唱する方法の一つ一つを検討して、それぞれの問題点を指摘し、結局、判例の判断枠組みが上記問題について最も妥当な解決手法を提供するものであることを筋道立てて説いている。そのうえで、判例法理の法的構成を補強すべく、使用者は労基法89条によって就業規則による労働条件変更権限を取得するのであり、判例の説く「合理性判断」の法理はその濫用の成否を判断する枠組みとして理解すべきである、との理論を提示している。また、合理性の判断基準についても、集団的利益紛争としての労働条件変更紛争においては、多数組合との間の合意を重視し、世間相場を参考にすべきであるなど、その明確化のための理論を提示している。これら理論は、判例法理に沿って、同法理を発展させるものであるだけに、実務的にも有用なものである。

 第3に、本論文は、台湾における就業規則に関し、日本に類似した法制度が形成された後、日本の学説・判例の影響のもとに学説・判例が形成されてきた過程を克明に明らかにし、その上で、台湾の労働市場・労使関係・労働法制などの特色を考慮しつつ、日本の判例法理を参考にして、体系的な法理を提唱している。これは、日本・台湾の学界を通じ、台湾の就業規則法理に関する初の本格的研究であり、今後の台湾における同法理の発展に大いに寄与する業績である。また、労働法の領域における法の継受の具体的事例を描き出したものとして、比較法的にも価値がある。

 第4に、本論文は、全体として論旨が一貫しており、文章も明快である。

 しかしながら、本論文にも問題点がないわけではない。

 すなわち、本論文は、判例法理の相対的妥当性を筋道立てて論証しているが、それは実際的妥当性に重きを置いた消去法とも見られかねないものであり、自己の理論の積極的な展開という点ではなお練り上げる余地がある。また、労基法89条から形成権としての就業規則変更権を導き出している点は、本論文が批判する法規説の一部学説とややまぎらわしい論理であり、その基本的立場である定型契約説との整合性について更なる精錬を要する。

 しかしながら、就業規則の法的性質・効力に関しては、これまでの膨大な学説・判例の蓄積にもかかわらず、論理的な一貫性・法的構成の精密性・実際的な妥当性などのすべてを兼ね備えた法理は未だ構築されておらず、それは、日本の就業規則をめぐる法制の不完全さにも由来していると考えられる。本論文は、このような難解な重要問題について、判例法理の包括的な分析・評価・補強を中心として、学界・実務界に大きく寄与する業績を成就したものであり、上記のような問題点もその価値をそれ程損なうものではない。したがって、本論文は、博士(法学)の学位を授与するに値する。

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