学位論文要旨



No 116567
著者(漢字) 西村,正男
著者(英字)
著者(カナ) ニシムラ,マサオ
標題(和) 中華民国期の王西彦
標題(洋)
報告番号 116567
報告番号 甲16567
学位授与日 2001.07.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第329号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東京大学 教授 大橋,洋一
 東京大学 教授 尾崎,文昭
 東京大学 助教授 伊藤,徳也
 日本大学 教授 山口,守
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、王西彦(1914-1999)という作家を取り上げ、彼と「近代」との関わりを幾つかの角度から分析しようとする試みである。1914年生まれの彼は、教育制度と出版メディアが発展する中で成長した、近代の申し子であると言える。第一章では、まず、彼の受けた教育と読書体験について検討し、さらに彼の初期小説における近代の問題を考察した。

 第二章では、民衆への視座に注目しながら、王西彦の三十年代から四十年代のテクストを概観した。彼は民間を強く意識し、農民たちの姿を小説に描くことにより、彼らの代弁/表象を行っている。四十年代になると、彼は「民族形式論争」に参加し、旧い民間の芸術形式の採用に対し反対する立場を採っている。当時の彼の小説には、しばしば都会人と農村というテーマが現れるが、これらの小説の主人公たちの農村幻想が、画一的イメージとしか表れず、現実の前に敗れ去らざるを得なかったことは、「民族形式論争」における彼の主張と共通の認識に基づいているのではないだろうか。

 第三章では1941年の彼の小説「家鴿」とそれが引き起こした論争を取り上げる。「家鴿」は、抗戦への情熱にとりつかれ、慰労隊に参加しようとするものの恐れをなして逃げ帰る女性を風刺的に描いたものである。孔羅・は批判し、王西彦が女性をかごの中の鳥に喩えていると決めつける。これに対し、王が孔羅・と違って見出すのが「母性」と「国家への貢献」の対立である。彼はこの対立中の様々な女性のバリエーションを多くの小説中に繰り返し描いていて興味深い。だが「母性」対「国家への貢献」という問題は国民国家を疑わない限り解決できなかった問題なのかも知れない。

 第四章ではツルゲーネフの講演「ハムレットとドン・キホーテ」の王西彦による受容について整理し考察を加えた。四十年代において王西彦はこの講演に対し独特の理解をしており、まず長篇小説『古屋』ではツルゲーネフの提示したハムレット型とドン・キホーテ型の対立は無化される。またツルゲーネフの描いたルージンと王の小説『神的失落』の主人公・馬立剛との類似も見出すことができる。抗戦期における知識人の苦境は、王西彦をしてルージンを想起させ。そしてその形象の理解を、ハムレットからドン・キホーテヘと変えていったのだ。すなわち、苦しみの原因は行動力の欠如にあるのではなく、行動しても如何ともしがたい「時代の悲劇」にあったとされるのである。

 終章では、「小結」として「解放」後の王西彦について概観した。王西彦の死後も解決されずに残っている近代という問題に対し、今後も研究を重ねたい。

審査要旨 要旨を表示する

 中華民国期(1912-1949)の中国では、西欧式教育制度により養成された若い知識人が口語文学運動を展開した文学革命が1917年に生じ、文化界の頂点に立つ北京大学を拠点とし、全国に徐々に普及しつつあった小学・中学など近代学制と新聞・雑誌メディアを足がかりとして、文学による国語の確立普及が進行していった。1920年代半ばには国民党が北伐戦争により中国統一に成功(国民革命)、同党は30年代を訓政期(軍政から憲政への移行期)と称して一党独裁体制を固め、教育・経済の建設に乗り出す。小学校から大学までの教育、鉄道・自動車道路など交通、電信・郵便などの諸制度は飛躍的に発展し、幣制改革(35年11月)後には近代的統一幣制も確立され、国民市場が成立しつつあった。しかし繁栄の夢は1937年日本の全面侵略により打ち砕かれ、文学者は抗日戦争に参加するいっぽう、近代文学の再検討を行った。やがて日本敗戦(1945)、国共内戦を経て1949年に中国共産党が大陸を統一して中華民国は大陸から消え去り、中華人民共和国が建国されたのである。

 本論文はこの中華民国期に生まれ文学者へと成長していった王西彦(ワン・シーイエン、おうせいげん、1914-1999)という、近代の申し子とも言うべき作家を取り上げ、王西彦文学と「近代」との関わりを分析したものである。

 第一章では王西彦の受けた教育と読書体験について検討したうえで、王の初期小説における近代の問題を考察し、第二章では民衆への視座に注目しながら、王の30年代から40年代のテクストを概観し、第三章では1941年の王の小説「家鴿」とそれが引き起こした論争を取り上げ、第四章ではツルゲーネフの講演「ハムレットとドン・キホーテ」の王による受容について整理し考察を加え、終章では、「小結」として人民共和国建国後の王西彦について概観した。

 本論文の主な成果は次の通りである。

(1)王西彦が故郷→県城→省城→北平という教育制度の階段を上っていく「巡礼」(アンダーソン『想像の共同体』)により国民意識を身につけていく過程が、中国における教育制度および図書館・出版メディアの発展と同時進行していた点を明らかにした。

(2)貧しい農村出身の王が農民たちの姿を小説で描くことにより彼らの代弁/表象を行っており、40年代の「民族形式論争」で旧来の民間芸術形式の採用に反対し、中国の現実を理解することこそ民族形式の創造となると主張していく過程を明らかにした。

(3)抗戦と女性性との対立を描いた小説「家鴿」(1941)およびこれをめぐる論争に注目し、国民国家を疑うことが困難であった中国知識人一般の問題認識の限界性を、王がこの作品や論争の中で指摘している点を明らかにした。

(4)ツルゲーネフによる理想のための行動賛美の講演「ハムレットとドン・キホーテ」は中国でも大きな影響力を持っており、40年代において王西彦が長篇小説『古屋』などによりこの講演に対し独特の理解を示した点を明らかにした。

 本論文の国民国家と近代文学をめぐる議論は、主にアンダーソン、上野千鶴子、酒井直樹らの中国論をほとんど含まぬマクロ的理論に依拠しており、これらの理論を王西彦という個性に適応して十分に展開したか否かという点に、一部不安が残されている。王西彦は人民共和国=毛沢東体制下で近代あるいは国民国家という制度の危機を再び体験しているにもかかわらず、これに対する考察が行われていない。また中国現代思想史の流れの中に王西彦を位置づける議論が不十分であり、「母性」「民間」等術語の概念規定が不足している。

 だが上記(1)〜(4)を中心に顕著な成果をあげており、その内容は博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

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