学位論文要旨



No 116571
著者(漢字) 徳山,宣
著者(英字)
著者(カナ) トクヤマ,ワタル
標題(和) サル下部側頭葉における認知記憶形成時のBDNF発現誘導
標題(洋) BDNF upregulation during declarative memory formation in the inferior temporal cortex of the monkey
報告番号 116571
報告番号 甲16571
学位授与日 2001.07.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第1858号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三品,昌美
 東京大学 教授 廣川,信隆
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 講師 辻本,哲宏
 東京大学 講師 森,寿
内容要旨 要旨を表示する

 序文

知識や経験に関する記憶(陳述的記憶)は大脳皮質に蓄えられる。記憶の形成は神経回路の構造的、機能的な再編成によって担われていると考えらているが、この過程にはタンパク質の新たな合成が必要である。陳述的記憶の検査法のひとつに、対連合課題[pair-association(PA) task]がある。サルを用いた電気生理学的研究や破壊実験から、対連合記憶が下部側頭皮質に蓄えられいることが示されている。しかし、霊長類における記憶形成の分子的基盤に関する研究はわずかにしかなされていない。神経栄養因子は神経細胞の生存維持以外にも、シナプス可塑性に関与することが示唆されている。神経栄養因子の記憶形成への寄与を検討するため、視覚性対連合記憶課題遂行中のサル大脳視覚関連領野における神経栄養因子遺伝子の発現誘導を定量的に解析した。

 遺伝子の発現量には個体差があり、異なる個体間での比較は困難である。今回の実験では、この問題を克服するために日本ザルの大脳交連線維を外科的に切断することにより分離脳動物を作成し、同一個体の左右の半球間で遺伝子の発現量を比較する方法を用いた。また、コントロール課題として異なる視覚記憶課題を用いることにより、遺伝子発現に影響しうる視覚入力、注意、運動などに伴う神経活動を左右半球間でコントロールした。

 方法と結果

 ニホンザル7頭を用い、大脳半球間の交連線維である前交連および脳梁の全長を外科的に切断し分離脳ザルを作成した。前交連および脳梁が離断されていることは、手術後のMRIおよび脳摘出後の組織切片をGallyas法で染色することにより確認した(Gallyas法では神経線維が染色される)。分離脳ザルは視覚性対連合課題とコントロール課題である視覚弁別課題[visual discrimination(VD) task]の二つの課題を行った。サルの眼位は電磁誘導式の測定装置を用いて測定した。サルが画面中央の固視点を注視している間に視覚刺激を片側の視野に提示した。この条件では視覚入力は一側の半球に限局し、対側の半球に伝わらないことが示されている。従って、各分離脳ザルに対連合課題を一方の半球(PA半球)で、コントロール課題をもう一方の半球(VD半球)で学習させることが出来る。対側の半球に視覚刺激が入らないようにするため、サルの眼位が固視点よりも0.75度以上動いた場合には課題が中止するようにした。視覚刺激には2度×2度の大きさのフーリエ図形を用いた。分離脳ザルは対連合課題およびコントロール課題を8対からなる刺激図形セットを順に3セット学習していった。第1,第2セットを用いた学習により、各記憶課題の要求およびそれらを解くためのルールを理解させ、サルに両方の課題に十分に習熟させる。その後に新たな刺激図形セット(第3セット)を学習させ、さらにサルが第3セットの学習途上、つまり成績が十分にチャンスレベル(正答率50%)よりも高く、かつ成績が上限に達する前に脳を摘出することにより、純粋な対連合記憶の形成に伴う遺伝子の発現を評価することが可能となる。

 課題終了の直後にサルをペントバルビツールで麻酔し、4℃に冷やしたPBSを経心的に灌流し、脳を摘出した。摘出した脳は直ちにドライアイスで凍結させた後、約5mm厚の切片にした。第一次視覚野(V1)、V4、側頭連合野(TE野)、傍嗅野(36野)、海馬(Hippocampus)の5つの視覚関連領野を左右大脳半球それぞれの切片より切り出した。切り出した組織はguanidinium thiocyanate溶液中でホモジナイズし,Cesium-TFA超遠心法でtotal RNAを抽出した。各領野におけるmRNAの発現量は共増幅Reverse Transcription-Polymerase Chain Reaction(RT-PCR)法を用いて定量した。共増幅RT-PCR法では目的遺伝子と内部標準遺伝子を1本の反応チューブで同時に増幅し、目的遺伝子の量を内部標準遺伝子の量で標準化した。内部標準遺伝子の量で標準化することによりPCRの増幅に伴う誤差を排除し、正確に遺伝子の発現を定量することが出来る。ラットのtotal RNAを用いたNorthern blot analysisとribonuclease protection assay法の結果との比較実験より、この方法の定量性は確かめられている(Appendix参照)。

 神経栄養因子の遺伝子発現量をRT-PCR法で定量するため、まず日本ザルの脳由来神経栄養因子(BDNF),神経栄養因子(NGF),NT-3およびBDNFの特異的受容体であるTrkB遺伝子を単離し、その塩基配列を決定した。特異的プライマーはそれらの塩基配列を基にして設計した。本実験では内部標準遺伝子に、脳内に広く、均等に発現していることが知られているグルコース−6−リン酸脱水素酵素(G6PD)を用いた。G6PDにおいても、ニホンザルの遺伝子を単離し、塩基配列決定後、特異的プライマーを設計した。2種類の遺伝子をPCR法で共増幅する際にプライマー同士による相互作用を引き起こす可能性があるため、プライマーの特異性を確認する必要がある。RNA逆転写産物を用い、目的遺伝子および内部標準遺伝子がともに特異的に増幅されていることを確認した。また、共増幅した際に目的遺伝子と内部標準遺伝子が同じ増幅率で増幅されていること、その増幅率がPCRの理論的増幅率である2になっていることも確認した(BDNF, 1.998±0.015; G6PD,1.994±0.012)。さらに、一定量のG6PDに段階的に希釈したBDNFを加えたサンプルを用意した。これらをPCRで共増幅することにより、内部標準で標準化したBDNFの値がサンプルに加えたBDNFの量と比例していること(r=0.99,p<0.0001)、すなわちわずかなBDNFの量の差でも見いだすことが可能であることを確認した。

 このRT-PCR法を用い、PAおよびVD半球の視覚関連領野におけるBDNF及びtrkB mRNAの発現量を定量し、発現量の差を各動物の左右半球間で比較した。下部側頭皮質の傍嗅皮質36野において対連合課題学習中の半球間に有意なBDNF mRNAの発現誘導が見られた(paired t-test,p<0.05)。側頭葉連合野TE野や海馬では半球間での発現量には差が認められなかった。視覚情報処理の早期段階にあるV1やV4での発現量には差が認められなかった(V1,p>0.60; V4, p>0.87)。この結果は、BDNFの36野における発現誘導が視覚入力の差によるものではないことを示す。また、その受容体であるtrkB mRNAも傍嗅皮質36野においてPA半球における発現がVD半球に比し高かったが、統計的有意差は認められなかった(p=0.26)。残りの領野においてもtrkB mRNAの発現誘導は見られなかった(p values,0.23-0.69)。他の神経栄養因子NGFおよびNT-3は発現量が低いため傍嗅皮質36野および海馬のみしか定量できなかったが、いずれにおいても発現誘導は見られなかった(p values,0.19-0.84)。内部標準遺伝子であるG6PD自身の発現に変動がないことを確かめるために、発現量が神経活動により変化しないと考えられるアクチン遺伝子の発現量も調べた。アクチン遺伝子の発現量はいずれの視覚領野においても左右半球間での差を認めなかった(p values,0.47-0.95)。

 さらに、in situ hybridization法を用いてBDNFおよびtrkB mRNAを発現している細胞の分布を調べた。PA半球の傍嗅皮質36野では強くBDNF mRNAを発現している細胞がパッチ状に集積していた。この集積はV/VI層に顕著だが、II/III層にも見られた。一方のVD半球の傍嗅皮質36野ではBDNFを発現している細胞は広く均一に見られた。傍嗅皮質36野におけるBDNFの発現の差をgrain counting法により確かめたところ、PA半球では一定レベル以上のBDNF mRNAを発現している細胞の割合がVD半球に比べて約2.5倍高いことが示された(χ2test,p<0.001)。また、trkB mRNAは下部側頭皮質のII層からVI層にかけて広く発現が見られ、両半球間での発現分布に差は見られなかった。V1におけるBDNF mRNAの分布を調べたが、視覚刺激を提示している範囲に受容野を持つと考えられる皮質領域においても両半球間での発現の違いは認められなっかた。海馬においても、両半球間にBDNF mRNAの分布に違いは認められなっかた。

 考察とまとめ

 本研究では分離脳ザルを用い、動物間での遺伝子の発現量の差を克服することにより、対連合学習によりBDNFの発現が傍嗅野において誘導されることを示した。電気生理学および行動学的研究から、傍嗅皮質36野は認知記憶の形成・保持に重要な役割を果たすことが示されている。一方でBDNFはシナプスの伝達効率を修飾する、軸索終末の形態変化を引き起こすなど神経の可塑的変化に関与することが示唆されている。以上のことから、対連合学習により発現誘導されたBDNFが霊長類の神経回路の機能的、構造的な再構築を引き起こし、陳述的記憶の形成へ関与していることが示唆される。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は霊長類の陳述的記憶形成の分子機構を明らかにするため、分離脳ザルを用い同一個体の左右の大脳半球間で遺伝子の発現量を比較することにより、陳述的記憶の一つである視覚性対連合記憶の形成時に発現誘導される遺伝子の同定を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1.遺伝子の発現量の個体差を克服するため、左右の大脳半球をつなぐ交連線維を外科的に切断し分離脳ザルを作成し、一側の大脳半球に視覚性対連合記憶課題を、反対側の大脳半球にコントロール課題である視覚弁別課題を行わせることにより、同一個体の左右半球間で遺伝子の発現量を比較した。この解析により、下部側頭葉皮質の一部である傍嗅野において、脳由来神経栄養因子BDNF遺伝子の発現量がコントロール側の大脳半球に比して対連合記憶課題学習中の大脳半球において有意に高いことが示された。しかし、視覚情報処理の初期段階にある第一次視覚野や第四次視覚野におけるBDNF遺伝子の発現量には大脳半球間に差がないことが示された。また、海馬や下部側頭皮質のTE野においても両半球間でのBDNF遺伝子の発現量に差がないことが示された。

2.BDNFの特異的受容体であるTrkB受容体遺伝子の発現は、傍嗅野において対連合課題学習中の大脳半球で高い傾向を示したが統計的な差はなく、調べた他のいずれの領域においても両半球間に遺伝子発現量の差がないことが示された。

3.神経栄養因子ファミリーに属する神経成長因子(NGF)やニューロトロフィン−3(NT-3)遺伝子の発現は、傍嗅野において大脳半球間で差がないことが示された。

4.視覚性対連合記憶形成中に発現誘導されるBDNF遺伝子の発現分布をin situ hybridization法により解析した結果、傍嗅野の中でもパッチ状に強くBDNF遺伝子を発現している領域があることが示された。また、これらのBDNF遺伝子を発現している細胞がニューロンであることが示された。一方、このようなパッチ状のBDNF遺伝子の発現パターンは視覚弁別課題学習中の大脳半球の傍嗅野では認められないことが示された。

5.In situ hybridization法の結果をgrain countingにより定量的に解析した結果、視覚対連合課題遂行中の大脳半球ではBDNF遺伝子を発現している細胞の割合が、視覚弁別課題遂行中の大脳半球に比べて約2.5倍高いことが示された。

以上、本論文は分離脳ザルを用いて同一の個体の左右大脳半球間で遺伝子の発現量を比較することにより、視覚性対連合記憶形成時に脳由来神経栄養因子BDNFが発現誘導されることを明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった霊長類における認知記憶形成の分子機構の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

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