学位論文要旨



No 116575
著者(漢字) 李,元雨
著者(英字)
著者(カナ) イ,ウォンウ
標題(和) 王政復古と公家社会
標題(洋)
報告番号 116575
報告番号 甲16575
学位授与日 2001.07.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第325号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 義江,彰夫
 東京大学 教授 宮地,正人
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 教授 黒住,真
内容要旨 要旨を表示する

 この論文では、朝廷・公家集団は官位任叙・年号制定・各種の儀礼などといったより制度化された権力的行為の行使ができた、留保的ないし制限的な「権力集団」であるという観点に立って、朝廷・公家社会の内部に視線をおき、彼らはどのような存在であり、また、幕末・維新変革期には何をきっかけに政治的に活性化し、大政奉還や王政復古に至るまでの激変する政局にどのように対応し且つ自分を変容してきたかを分析することにした。

 江戸期の朝廷・公家社会のなかには、堂上公家として攝家5家・清華9家・大臣家3家、そして平堂上と呼ばれた諸家120家(羽林家66家・名家29家・半家25家)があった。公家の各家はその家格により昇進しうる官位の限度が慣例で固定していた。たとえば、攝家は摂政・関白を先途とする家柄であった。

 朝廷には以上の堂上公家以外に、地下官人・口向諸役人・女官などがいた。地下官人は各種の朝儀に際して動員される必要不可欠な存在であった。地下官人の大部分は外記方・官方・蔵人方という三人の催(モヨオシ)によって支配されていた。口向諸役人とは朝廷の3万石余の経済を一切とりしきる、いわば朝廷の勝手口掛かりで、外廷と内廷の両方にまたがる裏方役とも言うべき存在であった。彼らは幕府の派遣官吏である附武家によって支配されていた。ほかに、天皇の身廻りの世話をする奥向きの人々、すなわち女官がいた。そのなかには、典侍・内侍・命婦・御末・女嬬・御服所などがあって、各々司る職掌が異なっていた。(I.朝廷・公家社会の内部構造)

 ところで、慶応3年12月9日の王政復古により最初に廃止された攝家は、朝廷の内外で公家社会を支配してきた。その攝家の権力(権威)基盤は、1.摂政・関白を専有するという官位の先途と昇進への特典、2.天皇の配偶者を供給する家柄で、天皇家の外戚として重み、3.朝廷の四大事の「節会・官奏・叙位・除目」と、天皇が即位するまでの通過儀礼に関わる儀式を家業として専有したこと、4.公儀の強力な攝家支持策などに支えられていた。しかし、このような攝家の権力(権威)も権力構造上、天皇の信任なしにはあり得なかったことは注目すべき点である。(II.公家社会と攝家)

 一方、近世期の「公卿」たちはその存在意義が比較的に軽く評価されてきた。「儀式用」の公卿というイメージがある彼らの役割や価値を、孝明天皇の即位儀礼(弘化4<1847>年9月23日)と元日の節会を通じて分析した。そこでわかったのは、「儀礼」のときに特に重要な存在は、内弁と外弁公卿であった。普通、内弁は儀礼を取り仕切る大臣であり、外弁公卿は儀式における「君主」である天皇に対し、その「臣下」たちを演ずる存在である。そして、内弁と外弁は必ず現任の公卿でなければならない。位より官が、前官より現官が尊ばれた朝廷・公家社会において、両役には前官の公家が就任できたが、外弁は現任の公卿しかなれなかった。したがって、諸儀礼は一般公家たちに現官と官位昇進の重要性を自覚させるモメントにもなったと思われる。(IV.儀礼と公卿)

 また、朝廷・公家社会のなかで絶対多数を占めた平公家の毎日は、小番を中心に営まれていた。それを東久世通禧を材料として検討したら、普通、近習小番制の運用は6番制で年2回の6月末と12月末に詰改があった。しかし、安政元(1854)年4月6日の御所炎上により、従来の6人組6番制が3番制に変更され、ついでに6番制2番詰めに、さらには5番制に変わった。近習小番制は事態に応じ伸縮的に運営されいた。また、近習の構成メンバーは内々・外様の公家、官位の高下、年齢の老若の者たちが入り交じっていて、その中には、父子同時参勤が比較的に多かった。(III.平公家と小番)

 以上のような朝廷・公家社会は、安政4年末と翌年2月の幕府の通商条約勅許奏請を機に政治的活性化する。孝明天皇こそその朝廷・公家社会を政治的活性化させた人物であった。孝明天皇が決死の覚悟で断固として通商条約勅許を拒否し続けたことが、幕末動乱期の端緒を提供したからである。孝明天皇には皇祖・皇霊・伊勢神宮と日本国家・国民とを一体視する帝位観があった。このような孝明天皇の認識の背景には大嘗祭や四方拝などを通じて構築される天皇の「世界観」と、天皇位に纏わる「言説」−たとえば、天皇は、天照皇大神の子孫が相嗣いで日本国を統治するという「掟」の通りに、大八嶋國(日本)を統治すべきだと説く〔即位宣命〕のような言説−とが一つのセットとなって存在していた。ゆえに、孝明天皇は伊勢神宮・伝国之神器や天位を外夷の侵略にさらすと、直ちに国家が滅亡し、たとえ、これらを守りえても、絶対に穢れさせてはいけないと思ったので、強固な攘夷を主張したのであった。安政5年1・2月の開港・開市に対する勅問に、公家たちが口を揃えて、「畿内・近国」は不可としたことも、この脈絡で理解できる。(V.孝明天皇の攘夷論と朝廷・公家社会の政治的活性化)

 ところで、近世期における公家と大名の関係は極めて制限されたものであった。政治面においては、大名は京都に立ち入ることを禁止されており、婚姻関係を結ぶ場合でもすべて徳川公儀の認可が必要とされていた。また、表向きの法度による公武間の隔離とは別に、公家と武家との間には朝廷・公家社会の強い官位秩序意識による公武間の距離もあった。このような制約があったにも拘わらず、武家が朝廷内に組み込まれて行ったのは、大名側からの朝廷への働き掛けと朝廷による諸大名の取込みがあったからであった。しかし、大名の京都手入れはあくまでも家来を介して通信を行わざるをえなかった点など、自ずから限界があった。このような諸制約を外し、武家の朝廷内への編入を実現させたのが、孝明天皇の密勅(内勅)政治による朝廷の諸大名取込み政策であった。朝廷の諸大名取込み工作の最も象徴的な出来事は、安政5年8月8日の水戸藩への密勅降下事件である。武家の朝廷内編入を考えるとき重要なのは、水戸藩への密勅降下に際し、公家と縁故がある13の藩に同文の写しを渡して、密勅降下事実を知らせたことである。ここに至って朝廷の諸大名取込みの範囲は一気に拡大したのである。ただし、朝廷のこの密勅写回達に対し、安政5(1858)年8月の時点では召命された諸藩の反応はおおむね至って消極的であった。

 しかし、孝明天皇の諸大名取込みは、攘夷論の盛行を始めとする時局の変化と共に、徐々に功を奏し始めた。文久2年4月、島津久光が率兵上京し、5月には勅使大原重徳に従って江戸へ下り、幕府を改革させたこの前代未聞の大事件が知られるや、諸大名はもはや幕府や他の諸大名の出方を窺う必要はなくなった。同じ年の10月、勅使三條実美・姉小路公知が江戸下向した後、朝廷が14の諸大名を京都に召集したとき、その知らせを受けた諸大名が、我遅れまじと矢継ぎ早に上京・参内したのである。これは君臣関係における「復古」の始まりであったと言えよう。(VI.「武家」の朝廷内編入)

 慶応3年10月14日、将軍徳川慶喜は大政を朝廷に奉還するが、この大政奉還を討幕派公卿の一人である正親町三條実愛は、王政復古の機会であるとの認識を示していた。また、「七卿落ち」の一人の東久世通禧も大政奉還により武力による王政復古の機会は失ったが、却て王政復古の「大期会」を得たとの認識をしていた。当時の公家のほとんどは政権が朝廷に帰りさえすれば、徳川家を存置しても構わないと思う、いわば「朝権家」が多かった。

 しかし、朝廷は10月29日に武伝の日野資宗を勅使として孝明天皇の山陵に遣わして、政権が朝廷に帰し、王政復古したことを正式に報告したにもかかわらず、それを成し遂げることができなかった。朝廷(以下、復古朝廷と呼ぶ)が11月12日に提示した朝廷の基本を立てるための「建白書」は、大名が朝議の議決機構のなかに全く位置づけられていなかっただけでなく、再興しようとする各機関と現実の適合性も全く考慮されていないなど、旧態依然たる、時代遅れの建白案であった。攝家を中心とした朝廷首脳部は王政復古の「復古」を、まさに、「王制旧復」や「往古復制」として認識していたのである。この復古朝廷もその後の12月9日の王政復古の大号令により真っ先に否定された。そして、当然のことではあるが、復古朝廷により宣言された10月29日の「王政復古」も、12月9日の王政復古によって塗り替えられたのである。

 ところで、従来の朝廷は王政復古の大号令により一新されつつあった。その象徴的な出来事が明治天皇の即位礼の改革であった。明治天皇の即位式は「旧弊御一洗」の理念に従い、即位御用掛の福羽美静(津和野藩士)らが中心となって、唐制の礼服・大旌・火爐を廃止するなど、いくつかの新式(新儀)を取り入れた。これらの新儀は当時おおむね肯定的に評価されたが、公家のなかでは、儀礼の早急な改革を「末代亂世」の暴挙に過ぎないと受け止めた人もいた。(VII.王政復古と諸儀礼の変容)

 以上、幕末・維新変革前後の朝廷・公家社会について略述したが、幕末・維新期をへながら、天皇と公家との関係は悪化一路をたどり、公家社会も荒んだ。また、天皇の権威は表向きでは急上昇したが、実際の孝明天皇の権威は日一日と薄くなっていった。幕末期の天皇権威の相反する二重構造ができてしまったのである。このような状況は孝明天皇の二重の言動と無責任さによってもたらされた側面が多々あった。「安政5年の政変」以来、孝明天皇は政務の機密を非役の近衛左大臣らに絶え間なくリークし、正規の政務機構を形骸化させた。関白の前での話と側近におくる宸翰のなかでの話が食い違い、朝議は方向性を失い勝ちであったのである。それにより諸臣は困惑しきっていたのである。偽勅や政令二途問題、廷臣の度重なる列參−勅勘事件は孝明天皇の「密勅<内勅>政治」や二重の言動によるところが大きかった。孝明天皇がみせた君主像は、大久保や岩倉らにとっては克服されなければならない課題、すなわち、「否定的継承」されるべき課題・反面教師として扱われるべき課題であったと言わざるを得ない。のちの明治憲法第一章(天皇)第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という条項は、失敗を重ねる「人間天皇」に懲りた伊藤ら憲法制定者の魂胆−人間天皇を「神性」で覆い隠す−が盛り込まれた条文であったかも知れない。(結びにかえて−幕末・維新期の天皇・公家に関するいくつかのイッシュー)

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、明治維新とくに幕末期における朝廷・公家社会の構造と変化について、公家社会の内部に視点を置きながら、詳細に解明したものである。近代日本で天皇制がはたした役割を考えると、これは極めて重要な研究課題であるが、従来は系統的な研究が存在しなかった。また、朝廷を研究する場合でも、徳川公儀や大名の側から見るものが多く、朝廷の内部から観察する研究は少なかった。この論文はその点で開拓者的な役割を果たすものである。

 本論文は、近世における朝廷・公家社会の内部構造を扱った第1部と、幕末・維新期におけるその変容を扱った第2部と、二つの部分からなる。第1部は、近世後期における朝廷・公家社会の制度・慣行を記述している。まず、公家社会の中の諸身分を、堂上公家・地下官人そして後宮の女官に分けて、詳細に記述するが、そこでは、公家において家格と官位昇進がきわめて重い意味を持っていたことが指摘される。著者はそれを象徴する制度として摂家の権威を取り上げ、その由来を分析しているが、他方では平公卿の日常勤務、さらに地下官人による財政運営にも目を配って、公家社会の全体像を描き出そうとしている。また、従来、公家の重要な役割として理解されながら、ほとんど具体像の知られなかった、公卿の儀礼との関わりも取り上げている。例えば、難解な一次史料を解読して孝明天皇の即位儀を分析し、儀礼執行における大臣・職事と令外の官の役割分担を指摘した。第1部には、付録として詳細な表が9点添えられているが、この事実に端的に示されるように、本論文は幕末の公家社会の構造について、初めて詳細な基礎知識を学界に提供することとなった。

 第2部は、幕末から王政復古直後の時代について、朝廷と公家社会の変容を取り扱う。徳川公儀による条約勅許奏請が、幕末日本と公家社会の変容の画期をなしたことは周知の事実であるが、著者は、安政5年政変における孝明天皇のリーダーシップの役割を特に強調した。攘夷をめぐって従来の決定中枢であった関白と対立したとき、内勅を非役の公家にまで下して公式の決定を覆す政治手法をとり、それが公家社会の政治的活性化を誘発し、さらに諸大名の京都誘引にまで拡張されて用いられたとする。従来は大名による「京都手入れ」がもっぱら注目されたが、朝廷の側の大名への働きかけを強調するのも本論文の特色である。王政復古に関しては、大政奉還を復古の成就として喜び迎えたものの、朝廷主導の改革には踏み切れず、薩長など外部からの働きかけによって摂関など従来の制度を一掃されたとする。公家は中国風の装束などを排除した明治天皇の即位儀の改革について、多くが不満を記した。公家たちにとって、王政復古は「短い春」であったというのが、著者の見解である。

 この論文は、従来研究の手薄だった領域に初めて鍬を入れた画期的なものであるが、欠陥もなくはない。まず、第1部の構造の記述と第2部の変容の分析との関係が明らかでない。この点は、近年研究の進んでいる19世紀前半における朝廷の変化を考慮すれば解決できたはずである。また、王政復古において、孝明天皇から疎外された公卿たちが果たした役割は極めて重要であったが、これが無視されている。孝明帝の宮廷から明治政府が何を否定的に継承したかを示せば、公家社会の変容はより大きな歴史的コンテクストの中に位置づけることができたであろう。さらに、公家を「権力集団」と規定して、その権力の作動メカニズムを解明したことは、本論文の大きな特徴であるが、統治の対象と機構をほとんどもたぬ組織を全き「権力集団」と呼ぶのは、通常の用語法とは大きな乖離がある。

 しかしながら、幕末日本の宮廷について系統的な研究を行ったのはこの論文が最初である。とくに、概説書や先行研究に安易に依存せず、『孝明天皇紀』全5巻という膨大かつ難解な一次史料集に取り組み、これを読破した上で論を組み立てた点は偉業というほかはない。本論文は、これからの徳川後期や明治維新の研究において、常に参照される基礎的な研究となるものと思われる。本審査委員会は、したがって、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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