学位論文要旨



No 116576
著者(漢字) 韓,東育
著者(英字)
著者(カナ) カン,トウイク
標題(和) 徂徠派経世学の研究 : 「日本近世新法家」の展開
標題(洋)
報告番号 116576
報告番号 甲16576
学位授与日 2001.07.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第326号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 助教授 小島,毅
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では、徂徠・春台・青陵ら「徂徠派経世学」について、彼ら自身の言説的資源と歴史的経験に立ち戻って、その展開を跡づけた。その検討を通じて、彼らの経世学が、従来の正統的儒教を批判しつつ諸子学とくに荀子・韓非子・老子等を取り入れていく「脱儒入法」の傾向を持っており、その意味で、「日本近世新法家」の展開としてとらえることができることを述べた。具体的には、各思想をめぐって次のような知見を得た。

1、徂徠について

 徂徠の理論は、朱子学の「合理主義」に反対する「非合理主義」であった。徂徠は、南総の流謫体験を通じて、民間の「人情」の重要性を認識し、また武士政治への接近を通じて、政治的領域の独自性を認識して「公私分離」への志向をもった。そうした徂徠に言説上で大きな影響を与えたのは荀子であった。また荀子高弟の韓非子も一定の影響を与えている(第1章)。

 徂徠の理論上の貢献は、(1)「人性論」から「人情論」への転換(性情分離と気質不変化)、(2)「仁論」から「礼論」への転換(政教分離論と政治優位論)、(3)「天論」から「人論」への転換(天人分離論と人間優位論)である。これらを徂徠は、朱子学の「道理」の専横に対する批判として行い、また「聖人」の強調によってこれを正当化した。方法論的には、現実と古典とを対比しつつ実用的な理論を構築する古文辞学・歴史学の「古今照合」法に拠っている。

 以上の(1)(2)(3)は、言い換えれば、「心」的標準から「物」的基準へ、形而上学から形而下学へ、価値的判断から事実的判断へ、倫理学的標準から政治学的標準へ、道徳的原則から利益的原則への転換を意味している。これらの転換に、荀子の顕著な影響が見られ、とくに人情論・政治立て替え論・治術論には韓非子の影響が見られる。また、聖人論についても、「聖人は学びて到るべからず」というテーゼを初めて明確に提出した人物は韓非子であり(『韓非子』「説林上」)、それに先立って荀子が、「性」と「情」を分離させ、また「道の極」である「聖人たる事を学ぶ」「聖人に為る」のは容易ではないとしている。荀子・韓非子の理論的な媒介は大きい。

 徂徠は、朱子学の「道理」中心の「連続的な思惟」を切断するために非合理主義の立場を取り、結局、「物理の理」を見過ごしてしまった。人の性情を始めとする自然について、ただ質的にとらえるのみで、これを理論的に踏み込んでとらえることはしなかった。それは、ある程度、荀子の「天人論」によるものでもある。徂徠には、自然や天地についての理論的真空ができており、如何にすれば「天理」の中の「物理の理」を回復できるかということは、徂徠後学の課題となった(以上、第2章)。

 一方で現実中心の志向をもちながら他方で「古」の制度を求める徂徠の議論は、静的な世界においては有効だが、商品経済の広がる当時の動的な世においては、矛盾がある。徂徠はその矛盾を抱えながら、新制度を模索した(第3章)。

2、春台について

 春台は、表立っては「聖人の道」の立場に立ちながら、「時・理・勢・人情」という四つの命題を通じて法家的な社会観・哲学観・歴史観などの導入をはかった。「人情不変」「制度不変」の立場に立った徂徠と異なり、春台では、「人情」の求める内容は変化し、また人々の生活様式も変わり調整すべきものとなった。彼は「礼に定まれる体無し」としている。すなわち、自然経済に立脚した「古」の「礼楽」制度は、「今」の「衰世」においては通用せず、商品経済に立脚した「法制」を導入しなければならない。春台は、「礼楽」を形骸化したものと感じており、そうした変化の根拠を求めて、『易』を手がかりに「理」−「物理」「自然の理」を探求した。その点で、春台は、「天人分断」から「天人合一」を復原している。また春台の「理」は、徂徠の「非合理主義」に見られる情緒的判断ではなく、理性的判断であった(第4章)。

 春台は、究極的には、礼楽」を標榜し、「法制」は一時的なものと考え、法家理論は「衰世」にだけ適用すべきものであるとした。春台は、法家を彼の「理」の形而下的な素材としては導入したが、形而上的な理論は十分展開していない。ただし、彼の存在論における根拠である『易経』をめぐる議論は、形而上学化の試みとも言え、またそこには韓非子思想の成分があったと思われる(第5章)。

3、青陵について

 法家の理論を「衰世の論」とした春台と異なり、青陵は明瞭に「法家治世論」の立場をとった。青陵は、春台が拘泥していた儒教的な道こそ治世には妥当しない「衰世の論」だとし、法家的道こそが現在の治世に行うべきものだとする。この視点に立つことで、青陵において、法家の理論は「先王の道」「礼楽」を越えて完全に支配的地位を占め、さらに形而上学を含む完璧な理論システムとして世間万物に君臨することとなった。それを青陵は徹底した「理」によって行った。その根拠は韓非子にあった。

 青陵の徹底した「合理主義」は、主に彼の『老子国字解』に集中してあらわれている。それが基づいたものは、じつは『韓非子』「解老」「喩老」であった。「理」「覇」など青陵の「合理主義」の核心的概念のすべてが、元来『老子』にはないもので「解老」「喩老」にあり、そして、彼の『老子』「前識」などについての重要な解釈が「解老」「喩老」とほとんど一致している。言い換えれば、青陵は、老子思想を法家理論に読み替えた「道法家」的言説を受け継いでおり、それを韓非子よりもさらに大胆に拡大していった。その結果、青陵は種々の思想をすべて法家的に読み替えることになった。青陵は、天地万物に通じる「天理」「物理」を展開し、それによって「法」を基礎づける。つまり、青陵は「物理の理」に基づいてその「道理の理」を演繹した。彼の「合理主義」は徹底したものとなった。

 こうした意味で、青陵の議論は「日本近世新法家」の徹底した形だと捉えることができる。しかし、認識論と実践論が自家撞着していた原始法家より、「利」を中心とする青陵の法制主義は、より徹底性をもっていた。青陵の段階の「徂徠派経世学」は「完全入法」しているだけではなく、さらに「超法」していたと言ってもよい(第6章)。

5、「日本近世新法家」の独自性

 徂徠派経世学は、日本近世における新しい法家流派、すなわち言説上、主として中国の先秦時代、荀子・韓非子への流れを主たる思想資源として発展した思想と捉えることができる。しかし、彼ら自身の経験による、韓非子等との違い・独自の展開がある。

 徂徠派経世学は、十七世紀末に始まり、海保青陵まで約一世紀余りを経ながら形成された。社会形態から見れば、当時の日本は封建制度から中央集権体制へ移り変わる段階及び両体制が並存する段階と見てよい。そこに法家形成の時代との平行が見られるが、しかし中国のそれに比べると、約二千年の時間差があった。

 そこから、(1)思想的には、次のような差異がある。(1)原始法家も「徂徠派経世学」も「政治」の重要さを唱えているが、原始法家が「君主独裁」と「政治絶対主義」を強く強調するのと異なり、「徂徠派経世学」は「政治優位」である。「優位」ということは、「絶対」ではなく「相対」ということである。人情における人人の共同性を説く傾向が強く、人間を天理人情に基礎づける青陵の「人人同格」論は、ある意味で、原始法家の保障のない「平等」論を越えていた面もあった。(2)「君臣市道」とは言うものの、原始法家は認識論においてしかそれを認めず、実践論では、かえって「抑商」論を提唱する。それに対して、とくに海保青陵では、「商売」原則が徹底して展開している。(3)原始法家と異なり、「徂徠派経世学」では、儒教の合理的思想を法家理論に合わせて再編成しただけでなく、他の諸学説をも包容している。その意味で学問的・方法的に寛容性がある。

 (2)政治的機能としては、「君臣市道」論を唱導する原始法家は、「利益原則」に反対する儒家によって否定された結果、新しい社会への道を切り開く可能性を失い、ただ支配層の権力闘争の道具として密かに使われるだけとなり、公共的な言説ではなくなってしまった。それに対し、「徂徠派経世学」では、商品経済がすさまじく発展する中で、「商売関係」を直視し、江戸時代の町人など中層の民衆に流れていた「利」意識の勃興を武士層の側から受け止め理論化したものと言える。そのため、当時の世に開かれた「公論」(青陵)の一端となることができた。

 西洋の近代文明が日本に押し寄せるとき、近代化原理と非常に類似性があり江戸時代の社会的現実を反映していた「徂徠派経世学」は、新しい時代に対応する可能性を蓄積していた。その意味で「徂徠派経世学」は、明治以後、日本の社会転換が迅速に完成できた原因の一つを思想的レベルに表現していると言えよう(終章)。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「徂徠派経世学の研究−「日本近世新法家」の展開」は、徳川中期の思想家・荻生徂徠およびその後学(太宰春台・海保青陵)について、その経世理論の展開過程を思想史的に跡づけた研究である。従来、徂徠学は徳川思想史において従来の学問の地平をつき動かすきわめて革命的な哲学・政治論を構築したものとして、丸山真男氏らによって注目されてきた。が、その位置づけは、西洋思想をモデルにして、近代意識が見られる、あるいは朱子学を日本化している、といった視点にとらわれていた。これに対して本論文は、近代化論でも日本化論でもない、徂徠学派に即した把握を提唱する。すなわち、徂徠たち自身の歴史的社会的文脈および彼らの思想的リソースとなった中国思想の諸言説を洗い出す。そして、徂徠らの革新的な理論に、じつは荀子から韓非子、老荘思想が大きな影響を与えていることをテクストに遡って指摘、徂徠派の経世学が一種の「法家理論」として展開していることを論証した。

 第一章では、徂徠の学問生活が、少年時には南総の農山漁村、中年期にかけては幕府政治に近い環境で営まれたことから、その思想が従来の正統的儒学の観念論を乗り越え、民衆の生活世界的現実に底礎したこと、そして孟子系の心学よりは荀子系の制度論が選ばれていったことを述べる。第二章・第三章では、徂徠の理論に立ち入り、人間論として感性的な「人情」論が展開されたこと、礼を中心とする制度論や政治優位論があらわれたこと、過去の歴史を参照しつつ現実を意味づける学問方法論が生まれたこと、などを述べ、これらに荀子・韓非子・呂氏春秋などが影響を与えていることを指摘した。また、徂徠が当時の商品経済・都市化を正面から問題化しつつも、これを抑制する制度論を説いて矛盾に逢着していることを述べる。第四・五章では、徂徠の高弟太宰春台において、徂徠の出会った困難をさらに打開すべく、一方で自然理論が探求され、また制度論の柔軟化がはかられ、そこに法家・老荘などの導入がはかられていることを述べる。第六章では、徂徠の孫弟子海保青陵において、徹底した功利的・合理主義的な理論が展開し、そこに老子を取り込んだ法家、すなわち道法家の言説が影響を与えていることを論証している。また終章にかけて、徂徠学派に韓非子らとは違った、包括的な学問論があり、また商業の問題に正面から取り組んだ政治論、自然を基礎にした公論の探求がみられることなどを指摘している。

 本論文の最大の達成は、近世後半期から近代に至る日本政治思想の展開において、従来、無視されがちであった中国古代思想の影響を説得的に論証した点、しかもその影響の内実が、中国では異端視された法家理論の武士政権下における展開で、それが日本近代に向かう政治思想に重要な選択肢を与えていることを論証した点である。これは、従来の日本人の近世日本思想史研究の欠落を埋めたものであるのみならず、東アジア政治思想史の全体にとっても、制度学派・法家理論の伝統の展開可能性を歴史的に明るみに出したものとして高く評価することができる。他方、中国古代とくに法家への引照に焦点を注ぐあまり、徂徠学派に見られる、共同体論、また明清学・洋学・屈折的に受容された朱子学、当時の歴史状況などの多角的な文脈がやや看過された嫌いがある。が、これらは、本論文をより複合的に位置づけるため今後探求されるべきものではあるが、本論文の主旨自体を損なうものではない。本論文は徂徠学派および日中の法家思想研究に画期的な地平を開くものであり、本審査委員会は博士(学術)を授与するにふさわしいものであると認める。

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