学位論文要旨



No 116585
著者(漢字) 鈴木,美和
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ミワ
標題(和) 鯨類の副腎皮質ホルモンに関する生理学的研究
標題(洋)
報告番号 116585
報告番号 甲16585
学位授与日 2001.09.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第2334号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 会田,勝美
 東京大学 教授 宮崎,信之
 日本大学生物資源科学部 助教授 朝比奈,潔
 三重大学生物資源学部 助教授 吉岡,基
 東京大学 助教授 小林,牧人
内容要旨 要旨を表示する

 副腎は円口類から哺乳類まで幅広く脊椎動物に見られる内分泌器官であり,ステロイド産生組識である皮質とカテコールアミン産生組識である髄質とからなる.副腎皮質からは視床下部(副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモン)−下垂体(副腎皮質刺激ホルモン)を介して副腎皮質ホルモン(コルチコイド)が分泌される.コルチコイドはタンパク質と脂質の分解促進,糖新生,免疫抑制等の作用を有するコルチゾル(F)やコルチコステロン(B),コルチゾン等の糖質コルチコイドと,腎臓でのNa+吸収,K+排出,水の再吸収等を促すアルドステロン等の鉱質コルチコイドに分けられる.陸上動物において,糖質コルチコイドはストレスに応じて分泌されるため,個体のストレス状態を把握する有効な指標として使用されてきた.

 鯨類の副腎に関しては18世紀から報告があるが,初期の研究の大部分は肉眼解剖学的研究であった.1940年以降,動物の各器官の相対的な重量がその器官の生物学的な重要性を示すという視点に基づき,副腎重量が測定され,体の大きい鯨類ほど副腎の体重比が小さい等の報告がなされた.1960年代以降に鯨類の副腎ホルモンに関する研究が行なわれ,副腎中のホルモンの大まかな構成は陸上哺乳類と同じであり,また血中コルチコイド濃度は陸上哺乳類の数分の1であることが判明した.1980年代後半以降,鯨類においてもストレスの指標としてコルチコイドを測定する研究が開始された.しかし,鯨類という大型海生哺乳類を実験動物とすることの困難さから基本的な知見が不足しており,各研究で得られた値を客観的に評価する基準がない状況が続いてきた.そこで本研究では,鯨類の副腎皮質ホルモンに関する基礎的知見を集積することを目的として,代謝実験により合成されるコルチコイドの種類を特定し,次にコルチコイドの代表としてFに着目し,その平均濃度,日周・年周変動,水族館への搬入後の濃度変化等を調べた.さらにFの前駆体である21−デオキシコルチゾル(21-DOF)の動態についての研究を行った.

1.副腎皮質ホルモンの代謝経路

 初めに,鯨類における副腎皮質ホルモンの代謝経路を調べるため,(財)日本鯨類研究所の「1999/2000年南半球産ミンククジラ調査及び南極海生態系に関する予備調査」において捕獲したクロミンククジラ11頭の新鮮な副腎を用いて代謝実験を行なった.14C−プレグネノロンを基質とした場合,NAD+およびNADPH+の存在下でプロゲステロン(P)が迅速に合成され,17−ヒドロキシプロゲステロン(17-OHP)→11−デオキシコルチゾル(11-DOF)→Fの合成とデオキシコルチコステロン(DOC)→Bの合成も確認された.また,副腎アンドロゲンであるアンドロステンジオン(A)の合成も確認され,21-DOFの合成も示唆された.14C-Pや14C-17-OHPを基質とした場合も上記の結果を支持する結果となった.従って,クロミンククジラの副腎皮質では3β-hydroxysteroid dehydrogenase/isomelase, P45017α,lyase, P450c21, P45011β等の酵素活性が強く,様々な副腎皮質ホルモンが合成されることが確認された.また本実験において初めて鯨類におけるin vitroでのF合成が証明された.

2.血中F濃度およびその変動

 次に,15鯨種(1351検体)の平均血中F濃度をRIA法により調べた.その結果,15鯨種の平均濃度はシャチの2.9±2.9ng/ml(平均±標準誤差)からスジイルカの39.9±14.3ng/mlまで広範囲にわたり,かつ各鯨種の平均濃度は従来の報告に比べて低いことが判明した.濃度の低い鯨種にはシャチやクロミンククジラ(3.5±3.2ng/ml),シロイルカ(6.8±5.4ng/ml)等大型鯨種が多く,また濃度の高い鯨種にはスジイルカ,イロワケイルカ(34.7±17.1ng/ml),カマイルカ(28.9±20.7ng/ml)等小型鯨類が多く認められた.そこで,これらの鯨類のF濃度と体サイズとの相関を調べたところ,両者の間に有意な逆相関が認められた(p<0.05).このうち,飼育個体である13鯨種において同様にF濃度と体サイズとの相関関係を調べたところ,より強い逆相関が認められた(p<0.01).しかし,上記実験に使用した試料は採血時刻や個体の成熟段階,飼育状態等に配慮しておらず,その結果が普遍的であるとは言い難い.そこで1997〜1998年に千葉県鴨川シーワールドで長期飼育している健康で成熟した6鯨種を対象として,9〜10時の尾鰭持ち採血を適当な間隔を開けて5日間実施し,F濃度と体サイズとの相関を調べた結果,弱い逆相関が認められた(p<0.05).

 次に,血中F濃度の日周変動を調べるため,1997年1月に鴨川シーワールド飼育下のシャチ(♂♀各1頭)より尾鰭持ち採血で9, 12, 15, 18, 21, 24, 翌3, 6時の計8回の連続採血を1度行なった.さらに2000年6月,沖縄県国営沖縄記念公園水族館飼育下のミナミバンドウイルカ(♂2頭)より尾鰭持ち採血で9, 12, 15, 18, 21, 24, 翌3, 6, 9時の計9回の連続採血を2度行なった.その結果,シャチにおいてはF濃度が採血開始時の9時(3.3ng/ml)から18時(1.8ng/ml)にかけて経時的に低くなり,21時に一旦高くなった後,再度24時に低くなり,翌3時から6時にかけて高くなる変動を示した.ミナミバンドウイルカにおいては,9時(6.1ng/ml)から18時に向かって徐々にF濃度が低下し,18時に最低(2.7ng/ml)となり,翌3時〜9時に上昇する変動を示した.本実験により,鯨類の血中F濃度の日周変動は昼行性の陸上哺乳類と同様の傾向を示すことが確認された.

 続いて,血中F濃度の年周変動を調べるため,鴨川シーワールド飼育下の3頭のシャチ(♂2,♀1頭)より1996年10月〜翌年9月の間,2週間おきに9〜10時に尾鰭持ち採血を行ない,F濃度を測定した.その結果,オスでは夏期に低く冬期に高い変動を示し,メスでは約3ヶ月周期での変動を示した.これまで鯨類のF濃度の年周変動に関する報告は少なく,統一した見解もなかったが,本実験により雌雄で異なる年周変動を示す可能性が示された.

 さらに,水族館へ搬入した個体の生理状態の変化を把握するため,1998年9月に沖縄記念公園水族館に搬入された雄のシワハイルカについて,搬入後の時間経過に伴う血中F濃度の変動を18ヶ月間追跡した.採血は9〜10時の間に落水して行った.その結果,F濃度は搬入時に35.4ng/mlと最も高く,4日目以後2ヶ月間は20ng/ml前後で変動し,3ヶ月目以降は10ng/ml前後に下がり安定した.この結果より,実験個体は飼育環境に早期に馴化したことが判明し,鯨類においても血中F濃度が動物の生理状態を評価する一つの指標として有効であることが示された.

3.血中21-DOF濃度およびその変動

 次に,数鯨種の血中21-DOF濃度について調べた.21-DOFはFの前駆体であるが,陸上哺乳類ではほとんど血中に存在せず,ヒトではP450c21欠損を伴う先天性副腎過形成患者や多嚢性卵巣患者等の血中に高濃度で検出されるのみである.本研究において,RIA法による鯨類の血中F濃度測定法を確立する際,21-DOFと100%交差反応性を示すF抗体を使用したところ,鯨類の血中には21-DOFがFと匹敵する濃度で含まれている可能性が示された.そこで,数鯨種の血清を高速液体クロマトグラフィーにより分離し,標準物質の21-DOF溶出画分と同じ画分中の21-DOF濃度を測定した.その結果,シロイルカ,クロミンククジラ,バンドウイルカ,シャチにおいてFに匹敵する濃度で21-DOFが血中に含まれることが判明した.また,野生(1999年10月静岡県富戸の小型鯨類沿岸捕鯨漁にて捕殺)および飼育のバンドウイルカにおける21-DOFを調べたところ,飼育下の個体の血中には21-DOFが認められたが野生個体の血中には認められず,また野生個体の副腎を用いて14C-17-OHPを基質とした副腎皮質ホルモン代謝実験を行なっても21-DOFの産生が認められなかった.追い込み漁で捕殺され,生理状態が正常であったとは言い難い野生個体において21-DOFが認められず飼育個体では認められるということは,個体がストレスを受けて生理状態が変化した時は,21-DOFを介する経路ではなく11-DOFを介する経路でFが産生される可能性を示している.そこで,1998年9月に沖縄記念公園水族館に搬入された雄のシワハイルカを用いて,搬入後の時間経過に伴う21-DOF濃度の変化を調べたところ,時間経過に伴う21-DOF濃度の上昇が認められた.本実験により数種の鯨類における21-DOFの存在と,その動態が動物の生理状態で変化することが初めて示唆されたが,これらについては更に詳細な研究を要する.

 以上,本研究により鯨類のコルチコイド生合成経路が明らかとなり,Fを含む様々な種類のホルモン合成が初めて証明された.また,15鯨種の平均血中F濃度よりF濃度と体サイズとの逆相関が判明し,その他日周・年周変動など生理的変動についても調べられ,鯨類のコルチコイドに関する基礎知見の集積が行われた.さらに鯨類において21-DOFに着目し,その動態を調べた最初の研究となった.本研究で得られた成果は,今後,飼育下鯨類のF濃度によるストレス状態の評価や,それに基づく飼育環境の改善に役立つとともに,野生鯨類の捕獲法の改善等に役立つものと期待される.

 審査委員候補者(案)

 (主査) 会田 勝美 教授

      宮崎 信之 教授

      朝比奈 潔 日本大学生物資源科学部

      吉岡  基 三重大学生物資源学部

      小林 牧人 助教授

審査要旨 要旨を表示する

 副腎は脊椎動物に見られる内分泌器官で,ステロイド産生組識である皮質とカテコールアミン産生組識である髄質とからなる.副腎皮質から分泌されるホルモンをコルチコイドと呼び,糖質コルチコイドと,鉱質コルチコイドに分けられる.陸上動物において,糖質コルチコイドはストレスに応じて分泌されることが知られており,個体のストレス状態を把握する有効な指標として使用されてきた.

 鯨類の副腎皮質ホルモンに関する研究は1960年代以降に始まり,副腎中のホルモンの大まかな構成は陸上哺乳類と同じであるが血中コルチコイド濃度は陸上哺乳類と比べて低いこと等が報告された.さらに1980年代後半以降,鯨類においてもストレスの指標としてコルチコイドを測定する研究が開始された.しかし,鯨類という大型海生哺乳類を実験動物とすることの困難さから基本的な知見が不足しており,各研究で得られた値を客観的に評価する基準がない状況が続いてきた.そこで申請者は,鯨類の副腎皮質ホルモンに関して評価に耐えうる基礎知見の集積を目的とし,本研究を行った.

 第1章では,鯨類における副腎皮質ホルモンの代謝経路を調べるため,クロミンククジラの副腎を用いて14C−プレグネノロン(Preg),14C−プロゲステロン(P)や14C-17−ヒドロキシプロゲステロン(17-OHP)を基質とし代謝実験を行なった.その結果,Preg→P→17-OHP→11−デオキシコルチゾル→コルチゾル(F)の合成とP→デオキシコルチコステロン→コルチコステロンの合成が確認された.また,21−デオキシコルチゾル(21-DOF)の合成も確認された.鯨類においてFの合成が証明されたのは,本論文が始めてである.

 第2章では,各種鯨類の血清F濃度をRIA法により調べた.まず15鯨種について調べた結果,平均濃度はシャチの2.9ng/mlからスジイルカの39.9ng/mlまで広範囲にわたり,かつ各鯨種の平均濃度は従来の報告に比べて数倍低いことが判明した.濃度の低い鯨種には大型鯨種が多く,また濃度の高い鯨種には小型鯨類が多く認められた.これらの鯨類のF濃度と体サイズとの相関を調べたところ,両者の間に有意な逆相関が認められた.

 次に,血中F濃度の日周変動を調べるため,鴨川シーワールド飼育下の雌雄各1頭のシャチ,さらに沖縄県国営沖縄記念公園水族館飼育下の2頭の雄ミナミバンドウイルカより尾鰭持ち採血により数時間間隔で採血を行った.その結果,両種ともF濃度は9時から18時にかけて経時的に低くなり,その後上昇するという日周変動を示すことが分かった.

 続いて,鴨川シーワールド飼育下の3頭のシャチ(雄2,雌1頭)より1996年10月〜翌年9月の間,2週間おきに9〜10時に尾鰭持ち採血を行ない,F濃度を測定した.その結果,オスでは夏期に低く冬期に高い変動を示し,メスでは約4ヶ月周期での変動を示した.本実験により雌雄で異なる年周変動を示す可能性が示された.

 さらに,沖縄記念公園水族館に搬入された雄のシワハイルカについて,搬入後の時間経過に伴う血中F濃度の変動を18ヶ月間追跡した.採血は9〜10時の間に落水して行なわれた.その結果,F濃度は搬入時に35.4ng/mlと最も高く,4日目以後2ヶ月間は20ng/ml前後で変動し,3ヶ月目以降は10ng/ml前後に下がり安定した.この結果,鯨類においても血中F濃度が動物の生理状態を評価する一つの指標として有効であることが示された.

 第3章では,数鯨種の血中21-DOF濃度について調べた.21-DOFは副腎で産生されるFの前駆体であるが,陸上哺乳類では殆ど血中に存在しない.数鯨種の血清をHPLCにより分離し,21-DOF濃度を測定した.その結果,数鯨種においてFに匹敵する濃度で21-DOFが血中に含まれることが判明した.そこで,前述のシワハイルカについて,搬入後の時間経過に伴う21-DOF濃度の変化を調べたところ,F濃度とは逆に時間経過に伴う21-DOF濃度の上昇が認められた.この結果,個体がストレスを受けた時は,11-DOFを介する経路でFが産生され,ストレスが軽減すると21-DOFを介する経路も加わる可能性があると推測された.本実験により,数種の鯨類において21-DOFが血中に存在すること,その動態が動物の生理状態で変化することが始めて示された.

 以上,本論文は,鯨類においてコルチゾルが副腎皮質で合成されることを始めて証明し,さらに陸上哺乳類とは異なる21-DOFを介したコルチゾル合成の可能性を示すとともに,血清コルチゾル濃度の変動の様相を詳細に調べたものである.今後,本論文の成果は飼育下の鯨類のストレス状態の評価,飼育環境や捕殺方法の改善になど資するものと判断される.よって審査委員一同は本論文が,博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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