学位論文要旨



No 116594
著者(漢字) 玄,鎭徳
著者(英字)
著者(カナ) ヒョン,ジンドク
標題(和) ブレトンウッズ体制と戦後日本の国際収支政策.1945〜1973 : 日本の国際資本移動政策に焦点をあてて
標題(洋)
報告番号 116594
報告番号 甲16594
学位授与日 2001.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第161号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,明彦
 東京大学 教授 猪口,孝
 東京大学 教授 北岡,伸一
 東京大学 助教授 城山,英明
 東京大学(大学院総合文化研究科) 教授 古城,佳子
内容要旨 要旨を表示する

 この論文はブレトンウッズ体制の下での日本の国際収支政策を考察することを目的とした。固定相場制における日本の国際収支政策の特徴は次の二つの点で要約できる。

 第一は、固定平価堅持とマクロ経済政策自律性の両立という特徴である。戦後から1960年代末までは日本が周期的赤字を乗り越えて、高度経済成長を達成した時期であった。通説的立場によるとこの時期における日本の国際収支政策の特徴は、固定平価維持のためにマクロ経済政策が制約されたという意味で古典的金本位制に最も即した政策運営であったということである。固定平価維持のためにはある程度の外貨準備が必要であるが、その外貨準備が少なくなると緊縮的なマクロ経済政策を動員せざるをえなかった。そのため日本は赤字の時期に固定平価維持という国際均衡を維持し、マクロ経済政策の自律性確保という国内均衡を犠牲にしたというのが通説的立場であった。しかしこの通説は論理的に固定平価堅持と高度経済成長という現象を説明できない。本当に日本が国際収支の天井に制約されその都度直ちに金融引締めなどの緊縮的マクロ経済政策を動員したならば、マクロ経済政策の自律性が制約(戦後日本では低金利政策の一時的放棄)され、経済政策が金本位制の「ゲームのルール」通り運営されたことになる。つまり経済政策の裁量の余地はあまりなかったということになる。しかしこの通説的立場であまり考慮されてないのが、国際資本移動が日本の国際収支政策にどのような役割を果たしたのかという点である。もし赤字の際にも経済成長を重視し、マクロ経済政策の自律性を維持しようとするならば、資本導入などでその赤字を一時的にまかなうことも充分考えられる。資本の導入は、国際収支赤字の補填という消極的役割だけでなく、マクロ経済政策の自律性放棄のタイミングを遅らせ、制限された範囲内で固定平価を堅持しながらもマクロ経済政策の自律性を維持する積極的役割をも果たしうる。このような政策運営が実際高度経済政策期に行われたが、これは金本位制に即した政策運営とは捉えがたいものであると考える。なぜなら政府の裁量で固定平価の堅持の上でもマクロ経済政策の自律性が部分的に維持されたことになるからである。従来この資本移動の観点から日本の国際収支政策をアプローチした研究があまりなかったのは、通常戦後日本が外為法・外資法で国際資本移動を厳しく遮断したという漠然としたイメーがあったこと、実際国際資本移動の実証には資料の公開がないと実状が分からないという事情、そして国際資本移動の要因は国際収支不均衡の短期的是正という面で平価変更、マクロ経済政策という二つの選択肢よりはあまり重要視されなかったことなどいくつかの理由があったからであると思われる。本論文ではこのような通説に対する批判的立場から国際資本移動が上記したように日本の国際収支政策に重要な役割を果たしたことを実証した。この論点が本論文の第一の主張である。

 第二は、国際収支黒字国になった時の日本の円切上げ拒否政策である。日本が高度経済成長を達成した後国際収支黒字国になった時に、アメリカの国際収支赤字とあいまって国際収支不均衡是正問題が国際政治的問題となった。ニクソン新経済政策を前後して、日本は円切上げを拒否しつづけた。特にニクソン政府の金ドル交換性停止政策直後日本はただ一国だけ外国為替市場を開いて低下しつづけていたアメリカ・ドルを買い支えることによって大きな国損をまねいたとして批判されると共にこの決定は戦後経済史最大のナゾとして認識された。しかも日本のこのような円切上げ拒否政策はアメリカをして金ドル交換性停止を決定する一つの大きな要因となった。なぜなら当時両国の貿易不均衡がまず大きな政治的問題であって、次には日米がお互いブレトンウッズ体制の下で平価変更をしてない例外のケースであったことから日本の円切上げ拒否政策はもっと問題視されたのである。アメリカはアメリカの赤字をブレトンウッズ体制における必然的な結果として認識し、それを黒字国が是正するように要求したのである。しかしこの問題を議論する際に通説的立場ではそれほど強調されてないのは、国際収支黒字国であるからといって必ず平価切上げをせよというのではないことの認識が必要であることである。IMF協定文にもこのような解釈を立証できる条項がある。したがって問題は平価変更以外に他の選択肢があれば、それを選択してもよいということになる。この時、日本が選択したのは、固定平価堅持と国際資本移動を赤字国の時とは正反対に規制することであった。日本政府は赤字の時には資本の海外流出を規制し資本流入を促進するという政策をとった。しかし黒字の時にはこれと正反対に資本流入を規制し、資本の海外流出を促進するという政策へ旋回したのである。そして国際収支不均衡の是正は黒字国と赤字国が共に責任を分担し国際通貨の多角的調整によって行なうべきであるという姿勢を示した。実はこの黒字国と赤字国の責任分担論という立場がブレトンウッズ体制の国際収支是正メカニズムのエセンスであった。しかし従来の通説からは、ブレトンウッズ体制は赤字国に調整の責任を課した体制であったという立場をとっている。本論文ではケインズの国際通貨思想を重視し、それが通常IMF条文のなかで国際資本移動の国際的管理という条項を通して残るようになったという論点を強調し、このような立場から黒字国の時に日本が円切上げを拒否し、協力的な国際資本移動規制によって固定平価を維持しようとした日本の政策に対する再評価を行なった。つまり平価調整の問題は黒字国と赤字国が国際的に協力して対称的に調整すべきであるという国際管理通貨体制としてのブレトンウッズ体制の側面をこの第二の論点でも確認した。

 以上の二つの論点をブレトンウッズ体制との関連性に注目して一つの命題で提示すれば、「ブレトンウッズ体制に最も即した日本の国際収支政策がむしろブレトンウッズ体制の崩壊の促進的要因となった。」ということである。これは次のいくつかの論点と関連している。

第一に、ブレトンウッズ体制は金本位制ではなく、固定平価維持とマクロ経済自律性維持のために国際資本移動規制を容認した国際管理通貨体制であった。

第二に、日本は、国際収支赤字の時期に固定平価堅持と高度経済成長を両立できたという点から通説とは逆に金本位制ではない国際管理通貨体制としてのブレトンウッズ体制に最も即した国際収支政策を運営した。この時期によき債権国の役割を果たしたのがアメリカであってアメリカの国際資本は日本の国際収支改善にも大きな役割を果たした。

第三に、そのブレトンウッズ体制の意図しなかった結果が日本とアメリカの国際収支不均衡の調整問題であった。

第四に、ブレトンウッズ体制の動揺期にアメリカは従来の立場から旋回して資本移動規制を通しての赤字解消ではなく、資本自由化政策(ドルの垂れ流し政策)をとった。これに対して日本は固定平価堅持の上、資本の海外流出促進という国際資本移動政策をつづけた。しかし国際協力的な資本移動規制を規定していたブレトンウッズ体制のこの原則はアメリカの政策路線変更で維持できなくなり、結局、固定相場制は崩壊し変動相場制へ移行した。それが今の金融グローバルリズムの戦後における最初の転換点となったのである。

 このようにこの論文はブレトンウッズ体制の下で日本がどのような国際収支政策をとって、そのような政策がブレトンウッズ体制の変化にいかなる影響をもたらしたかという観点を重視し、それを通説であまり注目しなかった国際資本移動を中心にブレトンウッズ体制と日本の国際収支政策との関連性を再検討してみようとしたのが主な分析の狙いであった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文「ブレトンウッズ体制と戦後日本の国際収支政策、1945-1973−日本の国際資本移動政策に焦点をあてて−」は、戦後日本の経済政策の形成・実行過程を国際的経済体制自体の展開との関連で再評価・再解釈しなおそうとした試みである。特に戦後日本の高度経済成長を支えた経済政策として、これまでそれほど焦点のあてられることの少なかった国際収支政策に分析の光をあて、国際資本移動政策の果たした積極的側面に着目したところに本論文の特色が存在する。しかも、日本の国際収支政策の形成・実行過程を分析する前提として、単に国内的政策過程を分析するのではなく、戦後の国際金融体制としてのブレトンウッズ体制の理論的背景ならびにその展開過程について徹底的にその意義を整理・分析し、これとの日本の政策形成の関連をあとづけている。著者によれば、戦後日本の国際金融政策は、国際管理通貨体制としてのブレトンウッズ体制に極めて整合的に形成・実行されたものであり、戦後日本の高度経済成長を支えた大きな柱の一つであった。しかも、そのブレトンウッズ体制を最終的に崩壊させた一つの大きな要因が、ブレトンウッズ体制に最も即した日本の国際収支政策であったというのである。

 序章「国際資本移動と資本自由化の問題」は、問題提起と本論文の主張をまとめた章である。著者によれば、ブレトンウッズ体制のもとでの日本の国際収支政策に関しては二つの問題があった。第一は、固定平価という「国際均衡」のための目標とマクロ経済政策の自律性という「国内均衡」のための目標をどのようにして両立させたかという問題である。通説的にいえば、この時代の日本の国際収支政策は固定平価の維持のためにマクロ経済政策の自律性が犠牲になっていた。国際収支の「天井」にマクロ経済政策が制約されていたという見解である。しかし、この時期こそ日本の高度経済成長の時代であった。つまり実際は、日本のマクロ経済政策はそれほど制約されていなかったのではないか、というのが著者の疑問である。そして、この問題を解く鍵は、資本移動政策だったのではないか、というのである。

 第二の問題は、国際収支黒字国になってからの日本の円切り上げ拒否政策である。日本の国際収支が黒字になり、国際収支不均衡問題が国際政治的問題になった1960年代末から1970年代にかけて、日本は円切り上げを拒否し続けた。1971年のニクソン政権による金ドル交換性停止政策直後、日本はただ一国だけ外国為替市場を閉鎖せずアメリカ・ドルを買い支えた。この政策は、通常、大きな国損を招いた政策であったとして批判されてきたし、この決定は戦後経済史最大のナゾとして認識されてきた。著者は、これまでの先行研究にあるように、この決定をもたらした要因として国内要因があったことは否定しないが、それと同時に、日本の政策の背後にあった国際金融制度としてのブレトンウッズ体制との整合性という観点から見直すことが必要であると論じている。

 著者は、この二つの問題をめぐるこれまでの先行研究を整理した上で、十分な解答が与えられていないと指摘し、その理由として、戦後日本の国際金融政策の背景となった国際的金融体制としてのブレトンウッズ体制の性格規定が不十分だからであると論じる。著者によれば、これまでの研究は明示的あるいは暗黙のうちにブレトンウッズ体制を金本位制と変わらない国際金融制度だと捉える傾向があり、その結果、国際収支の天井が自動的に経済成長を減速へむかう政策をとらせたと結論しがちであった。しかし、著者によれば、ブレトンウッズ体制は、金本位制とは異なり、資本移動規制を広く容認する体制であった。そして、このような観点からすれば、資本移動規制を弾力的に変化させることによって、日本が固定平価を維持しながら高度経済成長を達成することが可能であったと論ずることが可能になり、そこにこれまで見過ごされてきた日本の資本移動政策についての実証的研究の可能性が生まれてくる。このように著者は論を進める。

 また、第2の問題である日本の国際収支黒字化以後の円切り上げ拒否政策についても、これを批判的にみる見解の多くは、著者によれば、やはりブレトンウッズ体制の性格を過度に単純化している。ブレトンウッズ体制を国際管理通貨体制として捉えれば、基礎的不均衡はただちに黒字国の通貨切り上げにつながるわけではなく、国際協力的な資本移動規制政策をとることでこの問題を解決することは可能であったと著者は論じ、まさに日本の政策担当者たちの考えていたことが、そのような国際協力的な資本移動規制であったと論じるのである。その意味で、1971年の日本の政策は国内均衡を犠牲にした「非合理的な政策」であったという批判は、日本の政策の国際秩序維持への側面を見過ごしていると著者は論じる。日本の国際収支政策は、ブレトンウッズ体制に最も即した政策であったというのが著者の主張である。

 このような主張を提示した序章に行き続き、第1章では「ブレトンウッズ体制の形成と国際資本移動問題」が議論される。これは、序章における議論でも予想されるごとく、著者の主張を裏付けるためのブレトンウッズ体制論である。著者によれば、戦後日本の国際収支政策の意義を正当に評価するためには、その国際的背景となったブレトンウッズ体制の性格規定が不可欠である。著者は、近年になって整理されたケインズのさまざまな文書を分析しなおすことによって、ブレトンウッズ体制についての見解を整理して、著者なりの性格規定を提示している。まず、第1節では、ブレトンウッズ体制の概念としてこれまで提示されてきた「金為替本位制」、「ドル本位制」、「金ドル本位制」、「国際管理通貨体制」の4つの概念を検討しなおし、「金為替本位制」や「金ドル本位制」などの「金本位制」的理解を批判し、「国際管理通貨体制」と捉えるのが最も適切であると論じる。第二節では、以上の著者の判断を実証するため、ブレトンウッズ体制成立の歴史的経緯を「ケインズ案」、「ホワイト案」および両者の調整プロセスを詳細に分析する。この過程で、ケインズの国際管理通貨思想がブレトンウッズ協定に大きく影響をあたえたことを論証する。そして第三節として、ブレトンウッズ体制の概念規定にとって最重要であると著者のいう同体制のもとでの国際資本移動規制の規定が論じられる。

 第二章「戦後日本の金融システムの形成(1945-1952)」は、戦後日本の金融政策の起源を歴史的に分析する。この章では、戦後日本の金融制度の形成を、国内的な観点からだけではなく、国際的な観点から実証している。特に1ドル360円の単一為替レートの形成におけるアメリカの影響、外国為替及び外国貿易管理法(外為法)と外資に関する法律(外資法)の成立における国際通貨基金(IMF)から派遣されたスタッフ(ムラデック、ウィチンら)の影響が仔細に分析され、戦後日本の国際金融政策が、「実はIMF製である」(柏木雄介)ことが実証される。

 第三章「ドル危機の発生過程と日本の国際収支政策(1952-1969)」は、日本が国際収支赤字の際に金融引締めなどの手段でマクロ経済政策の自律性を本当に放棄したのかを実証的に検討する章である。著者は、まずこの時期の国際的情勢すなわちヨーロッパにおける漸進的交換性の達成とドルの流出過程を分析し、1960年代の「ドル危機」が発生する背景を分析する。ついで、国際収支赤字期における日本の金融引締めの実態を検討し、第一に、1954年および1957年においては、たしかに「国際収支の天井」に突き当たると直ちに金融引締めがおこなわれたという通説的理解の正しいことが示されるが、第二に、1959年以降は「積極的外資導入政策」の結果、一定の範囲内で裁量の余地が生まれ、金融引締めの先送りが可能になったことが示される。高度成長期において、日本は資本移動政策を有効に活用することによって、マクロ政策に一定の自律性をもたせることを可能にしたのである。さらに、1960年代後半になって、日本の国際収支が黒字に転換し、さらに日本が債務国から債権国へと転換すると、これまでの政策からは180度の転換をとげ日本は外貨準備抑制策をとるようになったことが示される。

 第四章「固定平価制の崩壊過程と日本の国際収支政策的対応(1969-1973)」は、本論文第二のテーマである国際収支黒字化以後の日本の円切り上げ拒否政策の背景の実証的分析である。本章では、まず国際収支不均衡が国際的問題となったプロセスとして、ニクソン政権の国際収支政策が検討され、次いで日本における外貨準備の増大への対応策が分析される。大蔵省や日銀において、当時の国際収支黒字は、日本経済の根本的体質強化によってもたらされたのではなく、それまでの厳格な対外管理と規制の結果であると考えられていたことが示される。したがって、円切り上げではなく、自由化こそが日本の課題であると認識されていたと著者は論ずるのである。このような認識を日本政府が保持している中に起きたのが、ニクソン・ショックであり、本章の後半は、ニクソン・ショック以後の日本の政策と国際的交渉過程にあてられる。ここで著者は、日本がニクソンの金ドル交換性停止の後外為市場を継続して開いていた背景として、国内的要因や米国の意図への認識不足に加えて、国際金融秩序維持のために日本が協調的対応をとろうとしていたことを見過ごしてはいけないと主張している。固定平価を維持しつつ、資本移動規制において協調的対応をとるという日本の政策は、著者のいうところのブレトンウッズ体制に最も即した対応であったというわけである。しかし、この日本の協調的対応にみあう協調的対応が各国、とりわけアメリカによってとられることはなく、国際通貨体制は変動相場制へと向かう。本章の最終部分はこの過程の分析にあてられる。

 最後に終章で、著者は、本論文の全体の主張である日本の経済政策における国際収支政策の重要性および日本の国際収支政策とブレトンウッズ体制の整合性を振り返り、最もブレトンウッズ体制に即した日本の国際収支政策が成功したことが、アメリカをしてブレトンウッズ体制からの離脱を促進させたという逆説に簡単に触れている。最後に著者は、本論文で行ったようなブレトンウッズ体制と日本の国際収支政策の分析が、現代の国際金融体制を考える場合にも有用性がありうることを指摘して論文を終わられている。為替レートの安定、マクロ経済政策の自律性、資本移動の自由の間の矛盾をどのように解決するかは、ブレトンウッズ体制のもとでの日本の課題でもあったとともに、現代の資本取引が圧倒的に自由になった時代の開発途上国にとっても死活的な問題であるからである。

 以上が本論文の要旨である。

 本論文の長所としては以下の三点をあげることができる。

 第1に、戦後日本の政治経済学的分析としてみると、これまでの研究の多くが産業政策や貿易政策に重点をおく傾向を持っていたのに対し、資本移動に関する国際収支政策の重要性を指摘したところに本論文の特徴かあり、それが長所となっている。国際収支の「天井」論によってこれまでやや単純にとらえられてきた政策過程を、実証的にたどり、特に1960年代前半における外資導入促進策の意味を指摘したことは重要な貢献である。

 また、この外資導入促進策の重要性に関する分析は、丹念な資料収集にもとづく実証分析と自らの見解に基づく理論的立場の結合の試みとしても評価できる。つまり、為替レートの安定、マクロ経済政策の自律性、資本取引の自由の三つを同時に達成することは不可能であるというマンデル・フレミングの定理をもとにして、そこから、問題設定を始めた上で、実際の政策過程へと向かい、さまざまな資料を組み合わせていく努力は、政策過程分析として単なる実証研究を超えるものであって評価に値する。

 第2は、ブレトンウッズ体制の規定に関する議論である。これまでのブレトンウッズ体制に関する分析を包括的に検討しなおした上で、これを「国際管理通貨体制」であったと整理しなおした部分、さらに最近整理されて明らかになったケインズの主張を積極的に読み直すことによって、従来の「ホワイト案」優位のブレトンウッズ協定成立という通説に挑戦している部分も新鮮で面白い。国際政治経済の研究においては、時に通俗的見解として、戦後国際秩序をアメリカの覇権のもとでの自由な経済体制と単純化することがあるが、その戦後国際秩序の大きな柱であるブレトンウッズ体制における「管理的」側面が無視されることがある。本論文のブレトンウッズ体制論は、そのような一面的理解への理論的かつ実証的反論となっている。

 第3は、国際的制度の形成とその意義が国内制度の形成にはたした役割に焦点をあてて分析を行っていることである。国際政治学におけるシステム・レベルによる国内レベルの規定の研究の一つの好例とみることができるであろう。実証的にいっても、日本の国際金融政策形成期におけるIMFの役割を明らかにし、またブレトンウッズ体制崩壊時における日本の政策担当者の認識を国際秩序との関連で明らかにしたことは、日本の対外経済政策形成の研究として貴重なものである。特にニクソン・ショック時の日本の対応についてのこれまでの政治学的研究の多くが、その国内経済的観点からの「非合理性」に着目するあまり、国際通貨体制維持という観点を無視している傾向があることを考慮するとき、本論文において、当時の日本の政策担当者の国際経済体制についての認識を解明し、それがそれなりの合理性をもっていたことを指摘したことは評価できる。

 このような長所にもかかわらず、本論文にもいくつか短所があることは指摘せざるをえない。

 第1に、日本における経済政策としてみると、産業政策や貿易政策と異なる側面に光をあてたことは上述のごとく評価できる点であるが、果たして日本の高度経済成長の全体にとって国際収支政策がどれほどの影響を持ったのかは十分には解明されていない。計量経済学的な推計までは求めないにしても、定性的にでもその意義付けをより積極的に行うべきであった。

 第2に、論争において自らの見解の独自性を強調しようとするあまりか、時に先行研究をやや単純化して提示するきらいがある。ブレトンウッズ体制についての認識についても、著者が指摘するほど先行研究が単純な見方をしていたわけでは必ずしもない。

 第3に、ブレトンウッズ体制についての著者の分析は、それなりに説得的であるが、このような認識を本当に日本の政策担当者たちがどの程度共有していたのかどうかは、いまひとつ実証分析によって証明されたとは言いがたい面がある。ある大蔵官僚の文献を丹念に読み込んでいる点は評価できるが、その大蔵官僚の認識がとれだけ共有されたものであったのかは十分には明らかにされていない。

 しかしながら、以上の短所は、本論文の価値を大きく損なうものではない。戦後日本の経済政策形成・実行過程に関する研究の中で、これまであまり光の当たらなかった国際収支政策に分析の焦点をあて、とりわけ国際的枠組みの中でのその意義付けを行い、その展開過程を実証的に分析した論文として、学界に対する貴重な貢献であると認められる。したがって本論文は博士(法学)の学位を授与するに相応しいものと評価できる。

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