学位論文要旨



No 116603
著者(漢字) クルディ,ケイコ
著者(英字) COURDY,KEIKO
著者(カナ) クルディ,ケイコ
標題(和) 身体のヴィジョン : 日本の現代パフォーマンスーグループ、ダムタイプとパパ・タラフマラにおける身体の研究
標題(洋) VISIONS DU CORPS : ETUDE DU CORPS SUR LA SCENE CONTEMPORAINE JAPONAISE DE DUMB TYPE ET PAPPA TARAHUMARA
報告番号 116603
報告番号 甲16603
学位授与日 2001.09.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第328号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 助教授 ドゥ・ヴォス,パトリッツ
 放送大学 副学長 渡邊,守章
 明治大学 専任講師 根本,美作子
内容要旨 要旨を表示する

 1960年代に特徴的なのは、舞台上の身体それ自体に価値を与えるという動きが世界中で見られたことである。身体は、当時若者や学生を活気づけていた〈反乱〉の機運を表現する理想的な道具になったのである。彼ら自身のアイデンティティーの再定義へと向かう探究は、身体というプロブレマティックのまわりに結晶化したが、そのとき身体は「肉体」と呼ばれた。この言葉は、目指すべき侵犯行為を含む、生理的・性的側面を想起させる言葉だったのである。舞台上で暴力的に身体が「解放」されることによって、〈父〉の道徳的抑圧への反抗が表明された。内面を探究された身体、そして、器官や無意識を表に出し、「禁止することは禁止されている」1と言う力をおびた身体が見出されたのであり、それを挑発的に人々の前に振りかざすことでアイデンティティーが構成されたのだった。

 そのころ日本では、「小劇場」の運動が、新劇に代表される当時の硬直した演劇状況に新鮮さをもたらした。身体を中心に置きつつ、その運動は日本的な源泉の数々(民衆演劇や見せ物、さまざまな原始儀礼)と再び結びつく。「アングラ」(アンダーグラウンド)運動を象徴する人物ともいうべき土方巽は、その時代を支配した身体のイメージにおける中心的な役割を果たす。彼の「DANCE EXPERIENCEの会」は、そのラディカルさによってあらゆる分野の芸術活動に影響を与えたのである。そこで表現されたのは、生々しく原始的な身体であり、自己の内なる非理性的なものや、性や死に出会わずにはいないような身体だった。その混沌とした世界は、アントナン・アルトーの叫びと共鳴するものであった。彼は、暴力によって、儀礼がもつ第一義的な意味(悪魔祓い、浄化)に回帰しようと試みたのである。彼の「暗黒舞踏」は、身体の影の領域へと踏み込んでいく。ギリシャ的伝統から受け継がれた西洋的な身体イメージ(美しく勝ち誇った身体、道徳的身体)に対して、土方はグロテスクさと醜さの美学を対置させたのであった。クラシック・バレエのように天に向かってまっすぐに立ち、胸を前に突き出すのではなくて、舞踏の身体は大地に繋ぎ止められおり、自分自身のうちに下りてゆくことによって、内なる闇の部分を白日のもとに引きずり出すのである。皮をむかれた果物のように、身体の内面は外部へとさらけ出される。

 やがて1980年になって、あらたにもう一つの変化が見られることになるのだが、その転換は少しずつ目に見えないかたちで、断絶も大きな変革もなく生じたものである。そこでは、身体はもはや意味の源泉でも言説(ディスクール)の出発点でもない。身体は、内面からではなく外側から観察されることになるのだ。舞台上では、自己表現のための(身体という)同じ道具が用いられているにもかかわらず、二つの世代の二つのヴィジョンの間にある断絶は明らかである。ここでは、舞台上で身体を含み込んでいる〈環境〉こそが、アイデンティティーを定義する手段となるのである。身体はもはや、身体を取りまくもの、身体を作りあげ変化させるもの、身体を取り囲む枠組みから切り離すことができない。つまりその環境こそが、そして、身体が自分を構成するさまざまな要素と相互に作用しあう仕方こそが、注目される点となったのである。われわれはダムタイプとパパ・タラフマラにおいて、二種類の〈環境〉のあり方を見ることができるだろう。そしてその環境は、同時代の身体にとって、異なった意味とプロブレマティックとを与えることになるだろう。

 京都市立芸大の学生を中心に1984年に設立されたマルチ・ディシプリンのグループ、ダムタイプにおいて、われわれはテクノロジーという環境のあり方を見ることができる。そこにはもはや反乱も挑発もない。世界は情報とコミュニケーションの社会に支配されている。熊倉敬聡は、ダムタイプについての論文2の中で、こうした情報化社会、そして、身体がそこに依存して抜けだすことのできない構造の脅威を指摘している。情報とそれを伝達するテクノロジーに横切られ、あるいは「汚染され」、身体は慎ましやかなものになっている。この舞台上での身体は、台詞が発せられるわずかな部分をのぞいて、沈黙したままである。ダムタイプはその名前からして(dumb=愚か者、無言の)、その時代に特徴的な、幻滅感と一歩身を引いた態度とを連想させている。

 身体は、音響や運動する機械や壁や投影される映像などによって構成された、ひとつの空間のなかに位置し、そこを歩いたり走ったりする。その身体の美学は、プロジェクターの映像や舞台装置とともに浮遊するヴァーチュアルな身体の美学を模倣しようとする。そこでの身体は、テクノロジーが形づくるシステムの表層であり、それと一体をなすものなのであって、その境界線は不明瞭である。ダムタイプは、あるテクノロジー環境との関係のうちに身体を位置づけるのだが、その環境は、身体を従属させ強制するのと同時に、身体の新しい可能性を与えてもいる。ヴァーチュアルなもの(ここでは、「メディアを通じて現れてくる(トランスアパランス)もの」3という意味で用いる)によって、知覚のあらたな状態が提示されているのだ。それは「世界に存在し、世界を思考し、世界に働きかける新しい仕方」4である。情報社会にまつわるいくつかの神話がヴァーチュアルなイメージとテクノロジーによってもたらされる。そしてダムタイプは、まさにそうした技術を用いることによって、それらの神話(不死、透明性、自在に現れたり消えたりする可能性、全知全能性)を提示してみせるのだ。しかし〈シグナルとしての身体〉は、「ノイズ」に取りまかれてはじめて人間的なものになりうる。この「ノイズ」という概念5は、古橋悌二6によって作品のタイトル(「S/N」)にもなっているのだが、デジタル情報の円滑な流通に対する、有機的な身体の抵抗を思い起こさせる。時にぎこちない動きを見せる7パフォーマーたちは、システムに生じる亀裂を明らかにするような動きによって、システムの空回りを暴き出す。また他方で彼らは、言葉の空間をうち立て、自分たちの関心事を述べようとする−消費社会、科学の専制(《conspiracy of science/conspiracy of silence》)8、愛、セックス、エイズ、マイノリティー(聾唖、売春、ホモセクシュアル)の問題、税関も国境もない自由な世界に行きたいという欲望、等々。1960年代に見られた挑発にかわって、ここで前面に現れるのはコミュニケーションへの欲望である。ダムタイプが舞台に載せようとするのは、冷たく非人称的なテクノロジー環境の枠内で、それにもかかわらず、自己の自由と、社会における当事者としての立場を表現しようとする身体のポリティックスなのである。身体は、そこにいるという単純な事実によって、世界の新たな地平と、新たな秩序を生み出す可能性を持っているのだ(《new world order/new world border》)9。

 1982年、一橋大学と武蔵野美大の学生を中心に結成されたパパ・タラフマラは、まず演劇から出発したが、1980年代後半には台詞を放棄し、空間言語の探究に向かう10。メンバーたちは、〈静けさ〉によって特徴づけられる、何もない空間における同時代的身体の表現の可能性を追求するようになったのである。演出家の小池博史は、「空間と時間がもつ力」11を構成する知覚のあり方を探究しつつ、見えないものに注意を向ける、瞑想的な世界を作り上げたのである。

 控えめで柔らかく、まっすぐに立った身体が、時にはゆっくりと、時には素速く水平方向の運動によって舞台を横切り、出入りする。それらの身体は、あたかも常に変化し、形づくられては崩れてゆく自然風景を構成する細胞のように舞台を動き回る。沈黙と、歌と、息づかいの音によって構成されたそうした美しさの中に、時として、不安をもたらすような情景が現れるのだが(繰り返し中断される身振り、首を吊られた女)、それは破壊的な文明についての記憶を呼び起こそうとするようだ。

 パパ・タラフマラにおける身体表現は、ポスト・モダニズムの理念や、建築家・黒川紀章の提唱する「共生(サンビオーシス)」という新時代のヴィジョン12に呼応するものだろう。舞台に息づく身体、舞台上の多くのオブジェと呼応し合う身体の儀式的な側面は、モダンな美学と混じり合った原始的アニミズムの世界を指し示している。身体はひとつの共生空間として提示されるのであり、そこでは自然と文化、原始的なものと現代的なものといったすべてが結び合わされる。身体はひとつのインターフェイス、ひとつの媒介として、あたかも日本家屋における縁側のように、外部と内部を媒介し、舞台のあらゆる要素を媒介するのである。すべては照応し合っている。パパ・タラフマラにおけるポスト・モダンの身体を語るということは、一つの運動に属することということよりもむしろ、客体と主体(客観と主観)を切り離すことができるという、モダニティの理想を批判することを意味する。それはまた、ローカルで個別的で「日本的」な(ただし、それはあらゆるナショナリズムを越えているが)、別の道を探すことなのである。小池博史はとりわけ、身体のアジア的本性と、その個別性とについて問いかけるのだ。

 時間を可塑的な材料として扱うという点において、パパ・タラフマラは日本の伝統と結びついている。舞台において時間が操作されていることは、明らかに感じ取られる。彼らは、観客の知覚を膨張させることによって、舞台上を流れる時間を引き延ばす。リズムについての作業が行われているのだ。連続性(「連綿」)と絶え間なく更新される運動とが時間性を特徴づけ、それと同時に「間(ま)」が表現され、その背後に存在する「無」が知覚可能となるのである。ダンサー=演技者は、その内面の集中力と想像力(梅若万三郎が「内面の運動」13と呼ぶもの)を修練することで、それぞれの身振りの性質に適応し、その身振りに豊かさを与えることができる。このようにしてパパ・タラフマラは、観客を瞑想状態に置いて見えないものへの注意を喚起するのであり、新しい時空間、時間を越えたひとつの世界を提示するのである。

 ダムタイプとパパ・タラフマラの表現方法、そして世界について述べようとしていることは根本的に異なっている。だが、一方はテクノロジー・ネットワークの世界を、そして他方は空間と時間を彫造する見えないエネルギーのネットワークを探究しながら、両者は同じように一つの身体像を提示している。それは、表面的で、関係性のうちに存在し、器官も(プロブレマティックとしての)内面性ももたない身体である。その身体は、自分を取り囲む環境によって支配されてはいるが、自分自身のローカルな行動によって環境を変化させる力を持っている。

 二つのグループによって提示された二種類の環境のあり方を通じて、われわれは、ある新しい知覚の空間が現れてくるのを見ることができる。その知覚の空間は、生成しつつ変化する身体の新しい可能性を予見させるものだ。ダムタイプとパパ・タラフマラは、二種類の新しいヴァーチュアル・リアリティー、というよりむしろヴァーチュアルな現実−テクノロジーから生まれる〈ヴァーチュアルなもの〉の現実、「エネルギー」という〈ヴァーチュアルなもの〉の現実−と向かい合う、新たな身体のプロブレマティックを提示したのである。1990年代初めの作品を通じて、彼らは、〈現実体験〉の新たな局面についての展望を開いたのである。そしてその体験の中心には、二十一世紀に向かってゆく同時代的身体が位置しているのだ。

1 1960年代末、フランスの学生たちが叫んだ有名な言葉。

2 熊倉敬聡「ダムタイプのパフォーマンス・アート−愛=交通としての身体へ」、『インターコミュニケーション』第11号、1995年冬、pp.92-97。

3 ポール・ヴィリリオの表現。cf. La bombe informatique, Galilee, Paris, 1998.

4 Philippe Queau,《le Virtuel : Un etat du reel》, in Virtualite et realite dans les sciences, Diderot Ed., Paris, 1997, p.70.

5 オーディオ用語の、Signal/Noiseに由来する。

6 ダムタイプの中心的存在。1995年エイズにより死去。

7 厳格な身体訓練が行われないこと、そして、「自分自身」を舞台に載せようとする意志とに由来する。

8 「S/N」の舞台で投影される言葉。

9 同前。

10 小池博史の語るところによると、彼らは「環境の演劇」、ついで「空間の演劇(スペース・シアター)」について考えることから出発した。やがてそれらの定式を捨てることになるのだが、それは小池の方向性を理解する上で示唆に富んでいる。「ダンスやパントマイムや身体表現について考えるよりもむしろ、僕は空間がどう構成されるか、そしてその内部で人間がどのように存在するか、ということに興味があった」小池博史、恵子・クルディとのインタヴュー(1998年9月東京、未発表)。

11 小池博史のインタヴュー、同前。

12 黒川紀章『共生の思想』(Intercultural Architecture, The Philosophy of Symbiosis, Academy Ed., London, 1991.)

13 第十三代梅若万三郎『おならいこならい秘抄』、梅若猶彦による引用。Umewaka Naohiko, 《The influence of ritual and metaphysics on choreography in the No theater》, in Contemporary Theater Review, Vol.I, Part 2, Harwood Academic Publishers, Suisse, 1994, p.34.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、現代日本の舞台芸術において見出された身体表現の新しい傾向を調査・分析することを通じて、高度で強力なメディア・テクノロジーが文化装置として登場してきている現代の芸術創造の普遍的な徴候を見出し、それを解読しようとする、言わば「文化徴候学」とでも言うべき研究の成果である。対象となっているフィールドは、80年代から90年代にかけての日本の舞台芸術であるが、その無数の作品制作のなかから、論文提出者は、正反対とも言うべき傾向を見せる二つの制作集団、ダムタイプとパパ・タラフマラに注目し、それらのグループの制作現場に赴いて関係者にインタヴューするなどのフィールド・ワークを行い、そこで得られた資料から出発して、それぞれの芸術の現場における「身体のヴィジョン」を、身体に関わる同時代の哲学、美術、建築、批評などの多様な言説との突き合わせを通じて分析・解釈しようとした。また、80年代から90年代における身体表現の位相をより明確に提示するために、それを、50年代から60年代における−とりわけ「肉体」という言葉のもとに志向されていた−身体表現のあり方によって、逆照射することも行われている。

 すなわち、本論文は、土方巽の「暗黒舞踏」に見られるみずからのうちに根源的な原始性を見出す暴力的で、性的で、土着的な「肉体」の表現の位相を定式化した比較的長い序文からはじまり、ついで本論である、高度なテクノロジー環境のもとでの新しい身体の位相を、機械的なシステムと不器用な身体とのインターフェイスから生まれる社会性の神話として表現したダムタイプの作品創造の分析(第1部)と、反対に、身体と空間、主体と客体とがゆるやかに融合する「共生」の場を舞台上に生み出したパパ・タラフマラの作品創造の分析(第2部)、最後に、それら相反する身体の位相を結ぶ軸のうちに、現代におけるヴァーチャルな知覚と身体の新しい可能性の展望を概括する結論部から構成されている。

 審査は、本論文がまだほとんど研究がなされていない創造集団について、インタヴューなど今後の研究の基礎となるべき重要な資料から出発して分析と記述が行われた批評的労作であり、ダムタイプにおけるヴァーチャルな身体イメージと社会性についての繊細な解析やパパ・タラフマラにおける複数的で緩やかな時間構成に関するオリジナルな解釈など見るべき創見が随所に見られることなどを高く評価したが、同時に、論文提出者が方法論的な枠として設定した60年代の「肉体」の分析記述の機能がはたしてうまく機能しているかどうかが問題となり、その点に集中して議論が行われた。とりわけ、60年代的な身体がほとんど土方巽ひとりの特権的な肉体によって集約されていることは、方法論的に一定の図式化が必要であるとはいえ、少々性急な解釈に終わっていないかという留保が一部の審査員から提起された。また、論文提出者自身がフィールド・ワークを行うことができなかったこの60年代の舞台芸術の二、三の事実に関しては、審査のなかで、その時代をよく知る審査員の一部から補足的な解明がもたらされた。また、本論文はフランス語で書かれているために、インタヴューの引用などがすべてフランス語へ翻訳されているが、それについても日本語による原文資料が付加されていれば、この論文の価値はもっと高まったであろうとの意見も表明された。

 以上、審査員は、この論文が公刊される場合には、論文中の若干の記述について軽微の修整をほどこすことが望まれるとしたが、しかしそのような瑕疵はあるものの、フランス人研究者による日本の現代舞台芸術の現場でのフィールド・ワークを踏まえた本論文は、海外も含めた今後の研究者に新しい研究フィールドを開くものであり、調査・分析・解釈にわたってその業績は大きいと認めることができる。

 以上の審査により、本審査委員会は、ケイコ クルディ氏が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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